歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > アタチュルクあるいは灰色の狼 > 第23章 革命のはじまり
1
カリフ制廃止に対する全世界3億のイスラム教徒の反響は、意外と微々たるものだった。なぜなら、全世界のスンニ派イスラム信者は、この事態に呆然し狼狽し憤ってはみたものの、そのほとんどが白人列強の植民地に住んでいたからである。植民地の被支配者の立場では、効果的な非難も攻撃も仕掛けようがないだろう。
この当時、イスラム信者の独立国家は、トルコを除けばアフガニスタンとペルシャの2国しかなかった。アフガニスタンは、トルコとの俗世の外交関係を重視していたので、あまり宗教のことで話をこじらせたくなかった。ペルシャは、もともとシーア派だから、スンニ派カリフがどうなろうと知ったことではなかった。
こうして、地ならしは終わった。
ケマル大統領が考える抜本的構造改革の大前提、「単一民族国家の創設」と「政教分離の実現」は、成功裡に完了したのである。
まずは、世俗の法令を整備しなければならない。これまでのトルコは、イスラムの律法を憲法などの基本六法の上に重ねて用いていたのだが、イスラム法を完全に廃止した以上、それに代わる世俗の法を可及的速やかに整備しなければならなかった。
1924年4月20日、ヨーロッパ諸国の憲法に範を取った「トルコ共和国憲法」が発布された。これは、行政、立法、司法の三権分立を謳う近代的な憲法である。議会は一院制で、大統領と国会議員の任期は4年と定められた。議会を緊急招集する権限は、大統領と議会に等しくある。議会は、内閣の信任投票権を持つ。
この憲法では、宗教問題は総理府内の「宗務局」が統括することにされた。
保守派議員たちの提案によって、憲法第2条で「トルコの国教はイスラム教である」と謳わざるを得なかったとはいえ、イスラム教は憲法の枠内でのみその存在を許されることとなった。国家の法とイスラムの法が対立する場合、常に前者が優先される。すなわち、聖職者が「法的見解(フェトワー)」などで国政に口を挟むことは一切許されなくなったのである。
ここにトルコ国家は、宗教に対して完全なフリーハンドを手に入れた。もはや、いちいちウレマーにお伺いを立てる必要はないのだ。いちいちコーランを紐解く必要はないのだ。
それにしても、イスラム世界で政教分離が完全に実現されているのは、21世紀の今日でもトルコ一国だけである。ケマル大統領の手腕と勇気は、まさに超人的であったと言えよう。
憲法発布から2年以内に、スイスを見習った民法、イタリアから学んだ刑法、ドイツを参考にした商法が施行された。これに基づき、一夫多妻制は廃止され、民法上の「結婚」についての明確な法令が設けられた。
「教育」についても、大きな改革が行われた。これまでの初等教育は、イスラムの宗教機関が子供にコーランを丸暗記させるような、極めて宗教に偏った内容であった。そこで共和国は、宗教学校を閉鎖し、新たに「国家の学校」を全国展開したのである。この学校で教えるのは、もちろん、国語、算数、理科、社会といった、近代国家の建設に不可欠な学問である。
特筆されるべきなのは、教育の分野で男女の差別がなかった点である。つまり、女子も男子と机を並べて完全に対等な教育を受けられたのである。これが、後に「アジア最初の婦人参政権の確立」という形で結実するであろう。
こうして、トルコ共和国は次第に近代国家としての姿を整えていった。
2
多忙を極めるケマルは、自分の家庭を顧みることが出来なかった。
そしてラティフェは、自分が何のために結婚したのか分からなくなった。なにしろ、夫と二人きりの時間を持つことがないのだ。
執務室で難しい顔で沈思しているかと思えば、あっという間に遊説に飛び出してしまう。たまに家にいるかと思えば、親しい友人や衛兵たちを部屋に招き、朝までポーカーに興じながら浴びるほど酒を飲む。彼女の夫は、そのような男だった。
「なんて忙しい人なのかしら」
彼女は、もっと家庭のことを話し合いたかった。二人で食事をしたり、ダンスをしたり、旅行に行ったり。子供だって欲しい。
伝え聞く噂も不愉快だった。彼女の夫には、あちこちに愛人がいるらしい。結婚しても、そういう女たちとの関係を絶つ気がないらしい。
彼女は、所在なげに家を眺め回した。ここは、いちおう大統領官邸である。アンカラ市を見下ろす小高い丘の上にあるから、眺めは良い。しかし、とにかく狭いし安普請なのである。これなら、スミルナの彼女の家のほうが何十倍もマシだ。
この国の大統領は、沿道で人々に声をかけながら、国会議事堂まで自分で馬に乗って通う。どうして、運転手つきのベンツを使わないのだろう。ラティフェは、自分が大統領夫人になったという実感を持つことができずにいる。
アンカラ自体が、何もない田舎町だ。ようやく人口6万人になったというが、気の利いたレストランもホテルもない。庶民の家屋には、南京虫や虱が普通に出るらしい。内陸の盆地だから、冬の寒さは尋常ではない。
「どうして、こんな町を首都にしたの?」ラティフェは、機会を見つけて夫に文句をつけたことがある。すると夫は、「女は政治に口を出すな」と冷たく言い返した。
ラティフェは、孤独だった。精神的にも肉体的にも、これほどまでに孤独を感じたのは生まれて初めてだった。そして、この孤独感は死ぬまで続くことだろう。
彼女はしばしば、あのスミルナの大火災を冷ややかに見つめていた夫の姿を思い出す。ムスタファ・ケマルは、スルタンもカリフもギリシャ人も、容赦なく外国に追い払った。彼女の夫は、実は残虐非道な冷血漢なのではあるまいか。彼女も、いつか同じ目に遭わされるのではないだろうか?
そう考えたラティフェは、悲鳴をあげたくなった。
3
アンカラ議会内部の政争は、カリフの追放後も続いていた。
1924年11月17日、ケマルにライバル心を抱くカラベキルは、人民党を離反して「進歩主義者共和党」を立ち上げたのである。副党首はヒュセイン・ラウフとアドナン博士、書記長はアリー・フアトである。しかも、どうやらアリフとレフェトもこの党のシンパになっているらしい。
彼らの綱領は、基本的には人民党の路線を逸脱するものではなかった。しかし、政策の進め方が大きく違った。カラベキルは、ケマルのやり方を、あまりにも独裁的で急進的だと非難したのである。彼は、疲弊しきった国民を休めるため、「自由経済主義」、「地方分権主義」、「段階的構造改革」を謳ったのだ。
「進歩主義者共和党」は、多くの国民に支持された。このころのトルコ国民は、あまりにも忙しいケマルの仕事ぶりに付いていけなくなっていたからだ。スルタンとカリフが無くなったことでさえ、彼らにとっては衝撃的だったのである。しかし大統領は、どこ吹く風で「商業を振興しよう」とか「農業を頑張ろう」とか「工場を作ろう」とか「子供たちに勉強させよう」とか大声で叫んで回る。多くの国民は、「しばらく休みたい」と心から思っていた。チャンカヤの邸宅で涙にくれるラティフェの気持ちは、かなりの部分、国民と共通していたのである。
こうした国民感情を的確に見抜いたカラベキルは、やはり端倪すべからざる人物だった。
力をつけたこの野党は、ついに議員総会でイスメット首相を辞任に追いやった。イスメットに恨みを持つヒュセインは、小躍りして喜ぶ。
新たに首相に選ばれたのは、フェトヒだった。ケマルの幼馴染でもある彼は、リベラルで闊達な性格の持ち主だったので、カラベキルやヒュセインとも親しかったからである。
窮した人民党は、その名を「共和人民党」と変えてイメージアップを図った。
それにしても、ケマルという人物の不思議なところは、独裁権力を持ちながら「粛清」を用いない点である。もしこれがムソリーニやヒトラーやスターリンなら、カラベキルもヒュセインもとっくに「消されて」いるはずだ。
ケマルの本質について、トルコでは「独裁者だったのか否か」が未だに議論の対象になるという。なるほど、それも無理からぬ話だ。あえて定義するなら、「独裁的な民主主義者」と言うべきだろうか。座りの悪い変な言葉であるが。
ケマルの活動は、エルズルム会議からその死に至るまで、常に議会に重きを置いてなされて来たことに留意するべきである。「救国戦争」のときは、軍事問題についてまで議会に諮って決定している。それで対応しきれなくなったから、わざわざ議会に「非常大権」を求めたのだ。
独裁者でありながら民主主義者である。一見すると矛盾に見えるけれど、しかしこれがケマル・パシャの本質であり、歴史の面白さなのだと筆者は思う。
4
カラベキルの野党は、次第に、予期せぬ姿を見せ始めた。
結党の本来の趣旨を逸脱し、スルタンカリフ制の復活を目指す保守主義者の巣窟と化してしまったのだ。その理由は、綱領の中で「イスラム教の擁護」をはっきりと謳ってしまったことにある。「進歩主義者共和党」の地方幹部は、しばしばイスラム原理主義者たちと連絡を取り合い、不穏な動きを見せていた。
これは、党首カラベキルにとっても意外な成り行きであった。彼は単に、ライバル視するケマルに対抗したかっただけなのである。宗教問題よりも、経済政策で能力を競い合いたかったのである。それなのに、党は一人歩きを始めてしまった。
このままでは、過去の亡霊が復活してしまう。
しかし、忍耐心に富むケマル大統領は、チャンスの到来を辛抱強く待った。
状況を大きく変えたのは、「クルドの反乱」である。
クルド人については、以前に触れたので、多くは繰り返さない。彼らは、国家権力に従おうとしない自由の民である。彼らの多くは、敬虔なスンニ派イスラム教徒であったから、ケマルによるカリフ制の廃止を大いに憤っていた。
そんな彼らに、イギリスの軍需産業が接近した。イラク経由で武器弾薬を搬送し、彼らの戦意を煽ったのである。イギリスは、イスラム世界の大英雄であるケマルの存在が、イギリス植民地下のイスラム教徒に与える影響力を大いに恐れていた。そのため、以前と同様、クルド人を利用してトルコを弱めてやろうと画策したのであった。
しかし、山岳民族であるクルド人は、部族ごとに分散していて団結心を持っていない。1924年9月の蜂起は、部族同士が勝手に争って自滅に終わり、指導者たちはトルコに対して何も出来ないままイラクに亡命したのである。しかし、そこに登場したのがナクシュバンディー教団の長老シェイフ・サイトであった。彼は、敗残兵たちを纏め上げると、1925年2月からトルコに対して全面戦争を挑んだのである。彼の要求は、「クルド人の完全独立」と「カリフ制の復活」である。
ナクシュバンディー教団は、非常に有力な「イスラム原理主義者」集団であった。この教団は、しばしばオスマン帝国の国政に介入し、国策を誤らせることも多かった。そういう意味では、この蜂起はクルド人の反乱というよりは、イスラム原理主義者の反乱と見るほうが正解かもしれない。
ケマルは、これを好機と捉えた。
いつものことだが、ケマルという人物は、逆境を己のチャンスに転化する才能に優れている。救国戦争の勝利も、スルタン制とカリフ制の廃絶も、すべて相手の動きを逆用した結果であった。彼は、柔道や相撲の名選手になれたかもしれない。
2月21日、ケマルは東方諸州に戒厳令を敷き、25日、宗教を政治目的に悪用する行為を「祖国反逆罪法」の対象に加えることをアンカラ議会に決議させた。こうして、イスラム原理主義者を撲滅するための大義名分が出来たというわけだ。
さらにケマルは、「進歩主義者共和党」が綱領の中で「イスラム教擁護」を謳っている事実を激しく非難した。その過程でフェトヒ首相は失脚し、再びイスメットが立ったのである。3月4日、イスメット内閣は、カラベキルらの猛反対を押しのけて「治安維持法」を成立させた。この法の成立により、「秩序と平穏を乱す原因を作ったあらゆる政党が、政府の判断のみで禁圧できる」ことになった。
さて、肝心の「クルドの反乱」だが、これはあっという間に制圧された。軍事の天才ケマルに正面から挑んだことが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
3月26日には、キャーズム将軍指揮下のトルコ軍による包囲網が完成し、翌日から総攻撃が開始された。守勢に立たされたクルド内部では、お家芸の内部分裂が始まり、4月14日には首謀者シェイフ・サイトが、味方に裏切られて捕縛されたのである。
独立法廷は迅速に機能し、シェイフ・サイトは、ディヤルバキル市で他の首謀者46名とともに絞首刑となった。
6月、反乱に加わった族長と聖職者とその家族たち2万名がアナトリア西部に追放され、その後、残留組と追放組の両方に対して「教化」が図られた。共和国政府は、クルド人地域に学校や図書館を設立し、彼らを「良きトルコ人」に改造しようと試みたのである。
このことからも分かるように、ケマルは必ずしもクルド人を憎んだり蔑視していたわけではない。彼らが「トルコ人」になってくれるなら、その人権を尊重するつもりだったのだ。ケマルのクルド人に対する行為が、しばしばナチスのユダヤ人狩りに比定されることがあるので、彼の名誉のために一言いっておく。
さて、6月3日、反乱処理のどさくさに紛れて、「治安維持法」が諸政党に対して適用された。カラベキルの「進歩主義者共和党」は、その東部支部の幹部数名が反乱軍に加担したという理由で解散を命じられたのである。その他の政党も、難癖を付けられて解散させられるか共和人民党に吸収されてしまった。
「治安維持法」は、なし崩し的に1929年まで生き残り、野党の結成を不可能にさせた。トルコは、ここに一党独裁の時代に突入したのであった。
「シェイフ・サイトの乱」は、ケマルの権力強化の道具に使われて終わったのである。
5
政治には勝利した。しかし、私生活は破綻した。
ケマルの結婚生活は、突然、終わりを告げたのである。
1925年8月、ラティフェは、両親が待つスイスの山荘に移り住んだのだった。
彼女は離婚の原因について多くは語らず、「ムスタファの生活のテンポの速さについていけなかった」と言うのみであった。
ケマルも、この件については何も語っていない。
「最初から、無理だったのだ」ケマルは、ラク酒を片手に、ラティフェと出会ったころの想い出と遊んだ。「俺は、結婚に向いた人間じゃない。妻の話し相手になって、子供をあやして、家族で団欒するような、そんな人間には生まれついていない。最初から、そんなことは分かっていた。それなのに、どうして結婚なんてしたんだろう。母の死に目が関係したこともあるけど、魔が差したのだろうな」
筆者が思うに、あまりにも心が強すぎる人物は結婚に向かないのだと思う。強い男は、女性から安らぎや癒しを求める必要がないし、孤独が苦にならない。心と心で異性と契る必要がない。だから結局、女性の肉体だけを求めるのである。しかし、そのような不毛な関係性は、女性を不幸にするだけである。
トルコ政府が秘匿しているために、状況が良く分からないのだが、ケマルの愛人の何人かは、不毛な関係に疲れ果てて自殺を遂げたと言われている。ケマルが冷血な悪人だったというよりは、彼がもともと、女性と心で契りを交わせるような人間ではなかったからだろう。だったら割り切ってしまえば良いのに、女性のほうはケマルの魅力に参りきっているから、最後は死を選ぶしかなくなるのだ。
そういう点では、ケマルの個性はヒトラーに近いかもしれない。ヒトラーも、死ぬ間際まで結婚しようとしなかったし、彼の愛人の何人かは自殺を試みている。
しかし、ケマルは現在でも「成功した独裁者」として祖国で英雄扱いされているのに、ヒトラーは「最悪の独裁者」として全世界から悪魔のように嫌われている。
この両者の違いはどこにあるのか?これから読み進めていくうちに明らかになるだろう。
6
離婚を経験したケマルは、人生の中で2度と結婚や家庭の幸せを考えなかった。残りの人生すべてをかけて、祖国のために仕事をするのみである。
1925年9月、共和国議会は、イスラム神秘教団の修行場と聖者廟をすべて閉鎖した。
カリフやウレマーが追放された後も、地方では、ナクシュバンディー教団に代表される宗教原理主義者たちがイスラムのドグマを民衆に伝え続けていた。彼らを野放しにしていたら、いつまで経っても全国レベルでの政教分離は実現できないし、「シェイフ・サイトの乱」のような騒乱が頻発するであろう。この閉鎖法令によって、トルコ国内のイスラム政治勢力は、ようやく止めを刺された形だ。
誤解なきよう念のために言うが、ケマルはイスラム教そのものを否定したわけではない。彼は、個々の国民がイスラム教を信じようがキリスト教を信じようが、まったく興味がなかった。彼は、宗教と政治を切り離したかっただけなのである。これは、我が国でいえば、織田信長の政治姿勢に似ているかもしれない。
続いて 11月、共和国議会はフェズ(トルコ帽)の廃止を決定した。男性は、すべからく鍔つきの西洋帽(中折れ帽)を着用するよう義務付けられたのだ。実は、これも宗教と関係する。イスラムの聖職者たちは、「鍔つきの帽子をかぶるのは、アラーに対して顔を隠すようなやましいことをしている証拠だ」と訳の分からない主張をしてきた。だからトルコ人は、鍔のないターバンかフェズを数百年にわたって愛用していたのである。しかしケマルは、こういった封建世界の遺習を根絶したかったのだ。なお、チャルシャフなどの女性の服装については特に法制化されず、ただ「素顔で行動するほうが望ましい」こととされた。ちょっと、フェミニストが入っている気がする。
神秘教団の根絶とフェズの廃止は、長年の習慣を否定された国民を大いに動揺させた。しかし、ケマルは治安維持法と独立法廷をフル活用して厳しく取締りを行ったのである。
1925年に独立法廷によって逮捕された者は、クルド人の反乱者も合わせて7446名、処刑された者は660名であったという。処刑者の中には、神秘教団の原理主義者の姿が多く見られたが、さすがに西洋帽の着用を拒否した者は一人もいなかったようだ。
さらに、12月には暦法の改正を行った。トルコ共和国は、1926年1月1日をもってイスラム暦を廃止し、西欧式の太陽暦を用いることになったのである。
離婚による心理的影響もあったのだろうか。ケマルの構造改革は、この年から異常とも思える速度で推進されていくのだった。
7
トルコ国民は、あまりにも急ピッチな改革に途方に暮れた。何しろ、数ヶ月ごとに従来の常識をくつがえす法令が発布され、従わない者は投獄されるのである。軍人の中には、たまりかねて外国に亡命する者が続出した。スミルナ攻略の殊勲者ヌルディン将軍も、エジプトに亡命した。
ケマルのやり方は、何もかも前例を無視した型破りなものだったので、閣僚も議員もとまどうばかりであった。
ケマルの改革(トルコ革命)は、しばしば明治維新と比較される。しかし、トルコ革命に比べれば、明治維新など児戯に等しい。
明治維新は、江戸幕府の仕組みを西欧風に改める試みであった。江戸時代の日本は、鎖国によって産業革命こそ経験していなかったが、もともと世界的に見て高水準の文明を持っていた。農村では手工業が発達し、都市では金融経済や商業が充実し、しかも国民の識字率と教育程度は世界一であった。おまけに、ここが肝心な点だが、宗教勢力による妨害が少しもなかった。明治政府の元勲たちは、こうした有利な条件を踏み台にして、国の有り方を西洋風に改良したのに過ぎない。
しかし、ケマルのトルコはこれとは全く違っていた。戦争によって農地と産業は荒廃し、商工業の担い手であったギリシャ人とアルメニア人は国土を去り、残された国民は識字率10%と言われる無学の徒だ。しかも、近代化を阻害するイスラム文化が、国中のあらゆるところに根付いている。ケマルは、文字通りの廃墟の中から、西欧に負けない近代国家を築き上げようとしたのである。
ケマルの改革が、明治維新に比べて遥かに苛烈なものとなったのは、仕方のないことであった。
しかし、「抵抗勢力」は、彼の改革を憎んだ。いつの時代でもどこの国でも同じだが、苛烈な改革は苛烈な反対者を生み出す。
「あの暴君は、放っておいたら何をやらかすか分からない。気品溢れるカリフ一族を、無情にも外国に放り捨てた。その上、治安維持法と特別法廷を持ち出し、フェズを禁止し暦まで変えた。財政が厳しいのに、学校や鉄道や道路を作りまくっている。しかも、大勢の学生や議員をヨーロッパ各地に派遣し、異教徒たちの文化や諸制度を学ばせている。あいつは、このトルコをヨーロッパに変えてしまおうとしているのではないか?トルコ民族の文化と伝統を、根こそぎ破壊しようとしているのではないか?何としてでも、あいつの狂った暴挙を止めさせなければならない!」
「抵抗勢力」は、独裁権力を手にしたケマルを議場で倒す能力を完全に失っていた。となれば、行使できる手段は一つしかない。
「大統領暗殺計画」は、薄暗い闇の中で日増しに具体化していくのだった。