歴史ぱびりよん

第26章 共和国の先生第一号

 

1928年に入ると、トルコの商工業は深刻なボトルネックに陥った。その理由は明白であった。「教育の不足」が原因である。

工場や商社は、高度技術者や高学歴の人材の慢性的な不足にさらされており、それは経済水準が向上するにつれますます深刻な問題となっていた。なにしろ、国民の識字率はいまだに20%にもならないのだ。字が読めないのでは、どうしようもない。

「学校の数を増やすだけでは意味がない」ケマル大統領は、閣議で述べた。「問題の所在は、ハコ物の数とは関係ない。抜本的な改革が必要だ」

「抜本的な改革と言いますと?」レジェップ内相が首をかしげた。

「文字を変えるのだ。現在のアラビア文字は、あまりにも難しすぎる。無学な人々が喜んで学ぶ気になるような、簡単で便利な文字を発明するべきなのだ」

閣僚は、驚きのあまり静まり返った。国家権力で、いきなり文字を変えるなんて、聞いた事がない。

しかし、落ち着いて考えてみたら前例が無いわけでもなかった。ソ連は、エンヴェルを倒して支配下に収めた中央アジア諸国に、ロシア文字(キリル文字)を習わせている。ソ連治下のトルコ人たちは、かえって文字を学びやすくなって喜んでいるらしい。そういうわけで、中央アジア諸国とモンゴルは、今日でもキリル文字を用いている。

「覚えやすいのは、何と言ってもラテン文字(ローマ字)だ」大統領は、戦時中にボヘミアの温泉で看護婦と交わした会話を懐かしく思い起こした。「アラビア文字を廃止し、ラテン文字を導入する。ただし、トルコ語独特のアクセントについては、ウムラウトでこれを補う」

その日から、イスタンブール大学などで知識人たちの討論会が始まった。トルコ語をラテン文字に乗せるためにはどうしたら良いのか?

しかし、学者たちは、枝葉末節の各論にこだわってなかなか結論を出さない。見かねたケマルは、自ら会議に出席して厳しく意見を言った。彼は、いつものように、夢想よりも現実を重視したのだ。

「言葉というものは、しょせんはコミュニケーションの道具である。伝統や様式など関係ない。使い勝手が良ければそれで良いのだ!」

大統領の叱咤激励の末、ついに新しいトルコ文字が姿を現した。

 

 

当然ながら、「新トルコ文字」に最も詳しいのはケマル大統領その人であった。

彼は、全国の都市を訪れ、学校教育者たちに新トルコ文字の構造や書き方などを熱心にレクチャーしたのである。まずは、先生から教育する必要があったからだ。

しかし、大きな問題となったのは、教員の数が足りないことだ。大統領は、老若男女を問わず、全ての国民を新トルコ文字教育の対象としたので、一気に1300万人の国民を学校に入れなければならなくなったからである。これは、たいへんなことだ。

そこで、大統領は、自らが学校の先生になることを決めた。すでに明らかなように、この人は、何事も徹底的に自分の力でやらないと気が済まない性質なのだ。

彼は、メルセデス(自動車)に持ち運び式の黒板とチョークを積ませると、そのまま全国行脚の旅に出た。手近な街や村に付くと、共和人民党の後援会の力を借りて野外教室を作る。そこに黒板を立てかけて、住民たちを車座に座らせた。

「これがA、これがB、これがC。さあ、私に続いて声を出してください。A、B、C」

アルファベットの教習の次は、人々に自分の名前を書かせる講座だ。

この国で最も偉い国語の先生は、手近な人を黒板の前に呼び出すと、名前を聞きだして、その名前を新トルコ文字で黒板に書いて見せた。何度かそれをやって見せてから、本人にチョークを渡して書かせてみる。書けるようになるまで、何度も何度も練習させて、うまく書けるようになったら「おめでとう」と言って抱擁した。

「やった、わしは文字が書けるようになったぞ!名前を書けるようになった!」

年老いた生徒は、小躍りして黒板の前で叫んだ。

「へえ、あいつが出来るなんて信じられないな」「大統領に教えてもらって、おまけに抱擁してもらえるなんて羨ましいわ」「あれなら、ちょっと練習すれば出来そうだ」「ミミズがのたくったようなアラビア文字に比べれば、ずいぶんと簡単だもんね」「ようし、あたしも頑張ろう!」

興奮した人々は、競い合うようにして文字を学び、そして互いに教えあった。

人間は、もともと知識欲が強い生き物である。物事に知的興味を持てない人がいるとすれば、それは興味を阻害するような別の要因があるからに過ぎない。だったら、その要因を取り除いてやれば、人は皆、勉強に勤しむのである。それが人間である。

21世紀のどこかの東洋の島国が学力の低下に悩んでいるとすれば、それは子供たちの知識欲を阻害する不健全な要因があるからに違いない。

ケマル大統領は、文字を簡潔にすることで、これまで文盲の立場に甘んじてきた人々の向学心に火を点けたのである。

やがて共和国議会は、次のような動議を出し、満場一致で可決した。

「共和国の先生第一号は、大統領ムスタファ・ケマルである」

ケマルはそれを聞いて、心からの笑顔を見せた。やっぱり、戦場の英雄と呼ばれて恐れられるより、先生と呼ばれて敬愛されることのほうが万倍も心地よい。

1928年11月3日、「ラテン文字を全国民の必修とする」法令が発布された。年末には、正式にアラビア文字の使用が禁止された。法令化されたことから、真面目にラテン文字を勉強しない者は、職場で降格になったり、罰金を取られたり逮捕されるようになったため、怠け者も必死になって勉強するようになったのである。

ケマルは、ある晩餐会で演説した。

「みなさん、豊かで調和の取れた我々の言語は、これからは新しいトルコ文字で書かれることになりました。何百年も我々を閉じ込めてきた狭量なアラビア文字から、自分自身を解放しましょう。今すぐトルコ文字を習いましょう。そして、この文字を仲間たちに教えましょう。男にも女にも荷役夫にも船乗りにも。それは愛国者としての義務なのです。国民の中に、文盲が80%も90%もいるのは恥ずかしいと思うことを忘れないでください。今までアラビア文字を使っていたのは誤りでした。しかし、その責任は我々には無く、トルコ語の個性を理解しなかった人の罪なのです。我々は、その罪を償いましょう。我々は、新しいトルコ文字とその精神によって、文明世界に仲間入りすることが出来るのです」

大統領の熱意は各地に伝わった。

このころイスタンブールに駐在していた外務省一等書記官の芦田均は、ラテン語教育の様子を次のように記している。

「全国の倶楽部、お寺(モスク)、学校、あらゆる大建物を夜学校に使用して、約4ヶ月間の講習期間で全国の18歳以上40歳以下の人間を夜学に入れまして、第一期に40万人に講習をし、落第した者はもう一度4ヶ月勉強させる。理由なく夜学に出て来ない者は、警察に引っ張られて牢に打ち込まれる。いやしくもラテン文字の分かる人は、新聞記者でも弁護士でも画家でも、みな徴集されて夜学校の先生になる・・・」

1927年の識字率は10.6%。これが今日では、男性のほとんど、女性の75%が文字を読み書き可能である。

日本などに比べれば、まだまだ貧弱ではあるが、それでもたいへんな成果が上がったことが分かるのだ。

戦場の英雄であり政治の名手である人物が、同時に教育の天才であった例は、世界でも珍しい。

 

 

次にケマルが取り組んだのは、トルコ語の語彙や文法を整理する国家事業であった。

これまでのトルコ人は、トルコ語とアラビア語とペルシャ語のてんこ盛りを、「オスマン語」と称して出鱈目に用いていた。これは、単語も文法も無茶苦茶な代物で、その中にトルコ語の語彙が占める割合は、全体の三分の一しかない。そこで、民族主義に燃える大統領は、アラビア語とペルシャ語をなるべく排除する形で、純粋な「トルコ語」を作ろうと試みたのである。

その一環として、地名も大幅に改められた。たとえば、正式にはコンスタンチィアという名だった都市は、これまでの愛称であるイスタンブール変更された。アドリアノープルはエディルネになった。スミルナはイズミルに変わった。

「言語浄化作業」は、さすがに長期間を要する困難なものであったが、次第に姿を現し始めた「新トルコ語」は、モンゴル語などの中央アジアの言語に近いものとなった。文法がそっくりであるのみならず、なぜか日本語と良く似た単語もある。日本語の「良い」はトルコ語では「イイ」だし、日本語の「山頂」はトルコ語の「テッペン」である。

「やはり、トルコ民族の先祖は、中央アジアから来たんだな。日本民族の先祖も、きっと中央アジアから来たんだろうな」ケマルと言語学者たちは、深い感慨に捕われ、そして悠久の歴史に思いを馳せたのである。

そして、「歴史」の編纂事業が始まった(1929年)。ケマルは、トルコ国民の愛国心を鼓舞するためには、歴史教育こそが必要だと気づいたのである。

国会議員を兼務する9名の歴史学者が粉骨砕身した結果、完成した「新しい歴史教科書」は、トルコ共和国が、初代大統領のもとに悪しきオスマン体制をいかに打破したかをヒロイックに叙述すると同時に、中央アジアのトルコ人文化が、いかに中国やロシアや中東の文化に深い影響を与えたのかを、誇張気味に表現するものとなった。

やがてケマルは、「地球上のすべての言語がトルコ起源である」とする「太陽言語説」の信奉者となった。彼のような人物でも、「夢想」に嵌ることがあるとは驚きだが。

ケマルは、亡きライバルのことを想った。

「エンヴェル、喜んでくれ。君の理想であった『汎トルコ』は、歴史教育の中で実現されたんだぜ」

しかし、極端な歴史教育に基づく「民族意識」の強化は、この国家にマイナスの影響ももたらした。「偉大なトルコ民族」を過剰に意識する若い世代のトルコ人は、アルメニア人やクルド人といった少数民族を、あからさまに差別し虐待するようになったからである。

最近のトルコ政府は、クルド人を「山岳トルコ人」と呼び、彼らに虐待を加えながら、「我が国には少数民族問題は存在しない!」などと平気で公言する始末だ。これが、トルコのEU加盟を妨げる最大のマイナス要因となっている。

ケマル大統領自身は、少数民族に対する差別意識は持っておらず、むしろ彼らを「トルコ人」とみなして同化政策を進めた人だ。しかし、「民族意識」というものは、むしろ少数民族を強く意識し、これを差別することで獲得されるものである。つまり、「民族意識の強化」と「少数民族の同化」は、互いに矛盾した両立不可能な政策なのだが、ケマルはどうやらその事には気づかなかったようだ。これは、この人物の数少ない失敗の一つであろう。

トルコ共和国が、この失敗を未だに克服できない事情については、ケマルの超絶的な個性と力量を思い見るべきなのだろう。ケマルに出来なかったことは、誰にも出来ないのであろうか。もしもこの文章を読むトルコ人がいるのなら、発奮してもらいたいところだ。

 

 

1928年は、トルコ共和国で完全な政教分離が実現された年でもある。

4月に憲法の改正が行われ、第2条「トルコ共和国の国教はイスラム教である」が、削除されたのだ。こうして、この国では信仰の自由が完全に保証されることになった。

これは、イスラム世界では、他に例がないことである。エジプトは、ナセル大統領がこれをやろうとして中途半端に終わった。ペルシャ(イラン)は、これを進めたために、ホメイニ師の「イスラム革命」を招いてしまった。

ケマルの力量が、いかに物凄かったかが良く分かる。

市井を見回すと、西欧風の服を着て素顔をさらして街を歩く女性が多くなった。1932年の世界美人コンテストで優勝したのは、トルコ人女性だった。礼拝の時間を無視して仕事に勤しみ、断食月でも平気でレストランに入って豚肉料理を食べる人も出てきた。もちろん、従来どおりの敬虔なイスラム教徒もいる。

信仰は、今や社会の問題ではなく、個人の問題になったのである。

人々は笑顔で学び、遊び、働き、恋をして、そして子供を生み育て、やがて老いて死んでいった。これが、人間として当たり前の生活だ。だけど、当たり前こそが尊い。当たり前こそが本当の幸せなのだ。

これを実現させたのは、トルコ共和国のユニークな外交政策である。

トルコは、「完全平和主義」を謳い、西欧列強やソ連などの周辺諸国と、片端から「不戦同盟」を結んだのである。また、バルカン諸国や中東諸国と、それぞれ相互不可侵を前提とした協商ブロックを形成した。アフガニスタンとペルシャが国境紛争を起こしたときは、すかさず介入して双方が納得する形で鉾を収めさせた。この時代としては、非常に珍しい外交政策である。

ケマル大統領は、彼自身が天才的な軍略家でありながら、軍を縮小して戦争を放棄した。いや、彼は天才的な軍略家であるがゆえ、戦争の恐ろしさと虚しさを骨身に染みて知ってしまったのだ。いっさいの「夢想」を捨てて冷静に現実を見た場合、戦争ほど恐ろしく、戦争ほど無駄なことはない。平和ほど尊いものはない。

ケマルの口癖は、「祖国に平和、世界に平和」であった。

かつての宿敵、ギリシャのヴェニゼロスは、1930年にケマルを「ノーベル平和賞」の候補に推薦した。惜しくも受賞は逃したが、かつての敵対国がこのような態度を取ったことは、トルコの善隣政策がいかに進んでいたかを示す証拠となるだろう。

そしてトルコ共和国は、平和外交政策をより一層推進するべく、1932年に国際連盟に加盟した。

しかし、20世紀前半は「夢想」がますます激しく燃え盛る時代であった。イタリアではムソリーニが「ローマ帝国の復興」を叫び、ソ連ではスターリンが「万国のプロレタリアート」に呼びかけを続けている。ドイツの片隅では、ファシズムという名の壮絶な「夢想」が産声をあげていた。日本人も、軍国主義の夢に狂い始めていた。

それでもトルコ共和国は、不毛な「夢想」が世界を覆う中、嵐の中で折れずに立ち続ける一本の強靭な柳となるだろう。

・・・国民の本当の幸せのために。そして、世界の平和のために。