歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > アタチュルクあるいは灰色の狼 > 終 章 嵐の中の祖国
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アタチュルク亡き後の、トルコ共和国の歴史について簡単に語る。
ケマルの死によって、イスメット・イノニュの権威が復活した。
彼は、第二代大統領兼終身党首になると、政敵バヤルを終身副党首に実質格下げし、政見を同じにするレフィク・サイダムを首相兼党書記長に任命した。また、政治の舞台から干されていたカラベキルやアリー・フアト、さらにはレフェトやフェトヒと和解して彼らを政治の表舞台で活躍させたのである。
1939年3月、ナチスドイツは、ついに牙を剥き出してチェコスロバキアを解体し占領した。やがて9月に入ると、ドイツ軍のポーランド攻撃によって第二次世界大戦が勃発。
トルコは、英仏との接近を図って10月に「アンカラ条約」を結んだ。この交渉の過程で、シリア国境のハタイ地区は、正式にトルコに編入されることになった。
やがて英仏は、トルコに参戦を迫ったのだが、イスメット大統領はこれを拒絶した。しかも、1941年6月にはドイツとの間に不可侵条約を締結。これに先立つ同年3月には、ソ連とも不可侵条約を結んだ。そのため、トルコは世界から「八方美人」の汚名を受けた。
しかし、トルコのような微妙な地政学的位置に置かれた国が、あくまでも中立を守り抜くためには、これ以外に方法が立たなかったのである。
1941年6月に独ソ戦争が始めると、今度はドイツがトルコに参戦を迫った。ドイツは、1939年から副首相パーペンを大使としてアンカラに送り込んでいた。ヒトラーが、いかにトルコを重視したのかが分かる。もしもトルコが味方に付けば、ソ連領コーカサスを南方から衝く戦略が可能となるし、イギリス植民地の中東を席巻して油田を手に入れることが出来るのだ。ヒトラーは、トルコ人の歓心を買うために、勝利の暁には中央アジアのトルコ語圏をトルコ共和国に編入させてあげると甘言を弄した。
しかし、イスメットは首を横に振り続けた。彼は、あくまでも亡きアタチュルクの遺言を守る覚悟なのだった。
その間、ギリシャはイタリアとドイツに占領され、いわゆる枢軸国の勢力は、トルコと国境を接することとなっていた。
平和の代償は大きかった。大多数の日本人が誤解しているのだが、平和を守るためには強大な軍事力が必要とされる。トルコの軍事予算は2倍となり、常備兵力は従来の10万人から100万人にまで増員された。なにしろ、相手はヒトラー、ムソリーニ、そしてスターリンである。戦争に巻き込まれないためには、強さを誇示しなければならなかった。
しかし、1943年に入ると、戦局の行方は明らかになった。ドイツはスターリングラードの戦いで敗北し、日本はガダルカナルの戦いで敗れ去った。12月、アメリカ大統領ルーズヴェルトとイギリス首相チャーチルにカイロ会談に招かれたイスメットは、連合軍としての参戦を強く要請されたのである。
明敏なイスメット大統領は、戦後世界がアメリカ中心となることを予見した。そこで、少しずつ連合国陣営へとスタンスを変化させて行ったのである。1944年5月、ドイツとその同盟国向けのクロム鉱の輸出を停止したのを皮切りに、8月にはドイツとの国交断絶、翌1月には日本とも国交を絶った。正式な参戦は、1945年2月。しかし、トルコ軍は戦闘をまったく行わなかったのである。
それでも、連合国側での参戦が高く評価されたトルコは、終戦間際に国際連合の一員になり、1951年には 北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。この過程で、ソ連との仲が決定的に悪化したため、トルコはアメリカとのコミットを深め、そして日本や西ドイツと同様に、冷戦の西側最前線として位置づけられることになった。
こうして、トルコ共和国は平和を守りぬいた。しかし、その代償は大きかった。無理な動員を4年にわたって強いたため、経済が無残なまでに弱ってしまったのである。なにしろ1939年時点での国内総生産を回復するために、1950年までかかったと言われる。
これが、政争の原因となる。
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1945年12月、ジェラール・バヤルは「民主党」を結成した。アメリカ中心の自由主義陣営に所属するのに、一党独裁では格好がつかないからだ。ともあれ、いよいよ複数政党制が本格稼働したのである。
民主党は、主に農村部に支持層を集め、ついに1950年5月の選挙でイスメットの共和人民党を破った。イスメットは、アタチュルクが遣り残した農地解放を果断に進めようとしたために、地主層の支持を大幅に失ってしまったのだった。
こうして、バヤルが第三代大統領となる。首相は、アドナン・メンデルスだ。
民主党は、バヤル大統領の年来の抱負に基づき、自由主義経済を強化しようとした。その政策を実現するため、アメリカから巨額の融資を受け入れたのである。しかし、政党の支持層である大土地所有農民に偏った政策は、社会全体に大きな経済格差を生み、負け組の怨嗟を強めた。また、イスラム教を優遇したため、再び宗教原理主義者が国政に介入を始めた。何よりも、外資導入による巨額の財政赤字は、脆弱なトルコ経済を大きく圧迫したのであった。
バヤルの政策は、宗教勢力の擁護や外資導入など、アタチュルクの方針を大きく修正するものであった。しかし、彼は1951年に「アタチュルク擁護法」を制定し、初代大統領を非難する者を厳罰に処した。バヤル政権は、初代大統領を神格化することで、自らを権威付けようとしたのである。そして、擁護法は今日まで続き、自由な討論を妨げている。
しかし、こんなことで経済失政を糊塗することは出来ない。
1960年5月、学生運動から始まった動乱は、軍部の介入によって新たな展開を見せた。アタチュルクの遺命に背いて国政に介入したジェマル・ギュルセル将軍は、しかし皮肉なことに「アタチュルク精神の復活」をスローガンに掲げた。彼は、バヤルとメンデルスを逮捕し、高等裁判所で裁いた上でバヤルを終身刑、メンデルスを死刑にしたのであった。
いわゆる「アタチュルク主義(ケマリズム)」は、もともと夢想を伴わない、あくまでも現実的な枠組みだったため、幾通りもの解釈が可能な概念だった。そのため、様々な政治勢力が、己の都合の良いように解釈して利用出来るという危うさを持っていたのである。そのため、アタチュルクの「個人崇拝」も進められることになる。
おそらく、冥土のアタチュルクにとっては不本意なことだろう。彼自身の思い出こそが、祖国を狂わせる「夢想」と化したのだから。
ともあれ、1961年、再び共和人民党が立った。第四代大統領はギュルセル、首相は老イスメットだ。しかし、公正党などの諸政党が乱立し、議席の過半数を取れない共和人民党にとっては、もはや構造改革どころではなかった。
しかも、軍部の介入は悪しき前例となり70年代と80年代にも軍の介入による政変が起きた。また、キプロス紛争を通じてギリシャとの仲は破局を迎え、そしてクルド人への弾圧も進んだ。
アタチュルクが遣り残した改革が、次第に祖国を苦しめる。特に、農地解放が先送りになったことは、トルコ経済の大きな足かせになった。少数民族問題も同じことだ。
イスメットは1973年に亡くなるが、アタチュルクの改革を先に進めることが出来ず、さぞかし無念だっただろう。
イスメット・イノニュは、決して無能な人物ではなかった。第二次世界大戦で、あのような困難な状況下で祖国に中立を守らせたことは、特筆すべき偉業に他ならない。しかし、彼はアタチュルクに比べて優しすぎたのだろうか。徹底的に議会内の抵抗勢力と争う勇気が持てなかったのだ。
アタチュルクのような規格外の英雄は、「民族存亡」のような特殊な環境でなければ生まれ得ないのだろうか。政治的にも経済的にも低迷を続けるトルコ共和国の未来は、まだまだ楽観を許さない。
しかし、少しずつ前進はしている。EUへの加盟の夢も、いずれは叶う日が来ることだろう。
そう信じて、この小説の筆をひとまず置きたい。
完 結