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第四章 みんなのクリスマス

 

降誕祭(クリスマス)の季節になると、プラハの街は様変わりする。

新市街のいたるところに生け簀が並び、商人たちの胴間声が寒風を震わせるのだ。生け簀の中には、ズングリと太った黒い鯉が、口をパクパクさせている。

当時のキリスト教は、降誕祭から新年までの間の肉食を禁じていた。もっとも、鳥肉は構わなかったのだが、チェコ人は「幸せが飛んでいってしまうかも」という独特の発想で、鳥肉すら口にしなかった。そのため、この時期の蛋白源は、魚肉しかなかったのである。

魚肉といっても、内陸国のチェコでは、海の魚はまず食べられない。かといって、川沿いに住んでいる人はそれほど多くないので、川魚だって行き渡らない。この状況を改善したのが、12世紀にボヘミア南部に移住してきたドイツ人たちだった。彼らは、この辺りの沼沢地帯を、巨大な鯉の養殖場に変えたのである。かくして、クリスマスが近くなると、国中の都市で鯉の生け簀が大盛況となったわけ。この慣習は、なぜか今日まで続いている。

もちろん、鯉の刺身なんて食うわけがない。ぶつ切りを煮たり焼いたり揚げたりするのである。ただ、味は日本の鯉より劣るらしい。

これは結果論であるが、キリスト教のこの慣習は、年がら年中、獣肉ばかり食っている西欧人の健康状態を大いに改善させたらしい。宗教も、健康に役立つことがあるという好例であろう。

というわけで、マリエの居酒屋も、家族そろって家畜市広場まで買出しに出てきた。

その年の鯉を選ぶのは、幼いヤンの役目と決まっていた。そうしとかないと、後で駄々をこねてうるさいからである。

「うーんとね、この髭が長いのがいいな」7歳の少年は、無邪気に大きな生け簀の中を指差す。

「え、こいつ、ちょっと小さくないか」太鼓腹の父親は、自分の腹の大きさと魚の大きさを比べざるを得ない。「髭が長くても、髭は食べられないよ」

「えー、食べるのいやだ。家で育てるんだ」

「また、ヤンってば」マリエは、鈴のような声で笑った。「去年も、同じこと言ってたじゃない」

「今年のは飼うんだい」小さな弟は、姉に膨れ面を向けた。

「飼うのなら、もっと小さいのを選ぼうね。でも、小さいのはいないなあ。これじゃあ飼えないわねえ」小柄な母親は、優しく言い聞かす。

「やだよ、絶対に飼うんだい」

「そんなこと言ったら、家でお留守番しているダーシャが悲しむわ」母親は、穏やかに話し掛ける。「わんわん、ヤン坊ちゃんは、わしよりも髭デブが好きなのか、わん」

「ダーシャも、お髭さんとお友達になればいいんだよ」

「それは駄目なの。神様が決めたことなんだから」

マリエは、母親の言葉に鼻白んだ。神様が、そんなことを決めるわけがない。神様は、忙しくて人間のことにさえ構っていられないのだから。

彼女は、遠い南ボヘミアの地に住むフス先生を思った。彼女と仲良しの学生、イジーとぺトルは、大学の休暇を利用して、先生に会いに行っている。ぺトルの実家は南ボヘミアなので、彼は里帰りも兼ねているのだろうけど。

フスがプラハを追放されてから、この街は活気を無くしたように見える。

結局、贖罪状の販売は予定通りに行なわれ、不安に駆られたマリエの父も、なけなしの貯蓄をはたいてこれを買わざるを得なかった。でも、マリエの家は、まだましなほうだ。多くの家が、この臨時出費でクリスマスを祝う資力を無くしていたのである。

フス先生の言うことが本当なら(本当に決まっているけど)、そのお金は、見も知らぬ異国で人殺しをするために使われるのだ。こんなバカな話は無い。

とにかく、そのような理不尽をほったらかしにする神様は、相当に忙しいのに違いないから、犬や鯉のことを、あれこれ言えるはずがないのである。

白けた気分で市場の喧騒を見やった彼女の眼に、意外な情景が映った。

長い栗色の髪を振り乱し、裾の破れた白く薄いドレスを纏った女性が歩いている。女性の周りには、悪臭に鼻をつまむ人々でぽっかりと大きな空間が出来る。そんな中をゆるゆる歩む女性の両目は、何かに憑り付かれたように遠くを見つめ、焦点を結んでいない。

「ヴィクトルカよ、お父さん」マリエは、ついつい声高に叫んでしまう。

「珍しいね。いつもは春になるまでプラハには来ないのに」

「ヴィクトルカも、鯉が食べたくなったのかしらね」母親は、幼子との議論(?)に疲れたのか、これ幸いと話を合わせる。

最愛の夫に先立たれて狂女となったヴィクトルカは、春のプラハの名物だった。冬の間は、どこで暖をとっているのか誰も知らぬが、春になると郊外や市中にさ迷い出る。少々臭うほかは悪さをするでもないので、城門や市中の衛兵も、特にとがめだてはしなかった。

彼女の周りに輪を作る人々も、臭いを避けるために便宜的にそうしているだけで、その目に浮かぶ光は、なぜか優しさを湛えているのだった。訝しげな目を向ける人も、「どうして冬なのに出てきたのだろう。あんな格好で寒くはないのだろうか」というくらいの気持ちで見ているのであった。

「もしかすると」マリエは思った。「夜な夜な高い城に出没するお化けって、ヴィクトルカだったのかもしれない。あたしだって、暗闇の中で彼女を見かけたら、きっとお化けだと思うもん、きっとそうだ」

「これは良くないことの前兆かもなあ」父親は、太鼓腹をさすりながら言った。「春に出るものが冬に出る。これは、世の中が引っくり返る前触れかもしれんぞ」

「出る、出るって、・・・お父さん、ヴィクトルカは人間なんだよ。いつプラハに来たって、そんなの本人の勝手じゃない」

「・・・まあ、そりゃあそうだ」父親は、所在なげに苦笑した。

その傍らでは、幼いヤンが、生け簀の中を泳ぎまわる髭長を、飽きもせずに眺めているのだった。

ヴィクトルカは、やがて市の反対側に去り、マリエの家は、髭の長い小さいのを一匹買うことに決めた。ヤンの興味は数日で消え、髭長は、結局、家族の胃袋に収まる始末に相成ったのである。

この家族は、こうして、それなりに幸せなクリスマスを過ごしたのであった。

 

ボヘミア地方は、豊かな森と草原に覆われた、なだらかな丘陵が続く土地柄だ。その合間にぽつりぽつりと広がる畑や牧草地のそれぞれに地主がいて、大勢の小作人を働かせて生活を営んでいるのであった。そして、これらの地主は、自らのことを「貴族」と呼んでいた。

ぺトルの実家も、このような「貴族」の一つであった。

お呼ばれされたイジーは、豪勢な宴席を期待していたものだから、農村の慣習どおりにパンと塩とでもてなされ、拍子抜けした風体だった。

「アヒルの丸焼きを期待していたんだぜ」と、友人の耳に小声でささやく。

「だからさあ、うちは君の考えているような家じゃないんだって」ぺトルは微笑んだ。

「だったら、なあ、早くフス先生の城に行こうぜ」

「バカだなあ、焦ってどうするよ。物事には段取りってものがあるんだ。少しは落ち着いてくつろぎたまえよ」

話題のフスは、贖罪状問題がこじれてプラハを追放された後、南ボヘミアの貴族たちの館を転々としていた。そして今、2人の元気者の学生は、コジー・フラデックの古城に滞在する先生を元気付けてあげようと心組んだのである。

ぺトルは、5人兄弟の末っ子だった。ヘルチツェの父親の所領は、長兄が引き継ぐだろうから、ぺトルは、両親からプラハで聖職者になることを期待されていた。そういう意味では、ベロウンの商家の末っ子であるイジーと、たいして変わらぬ境遇だったわけである。

2人は何をするでもなく、ぺトル家の暖炉の前で、ぼうっとくつろいで首尾を待った。やがて、二人の腹が空腹の音を立て始めたころ、外出先からペトルの父オンドジェイ卿が帰ってきた。

「父さん」息子は、暖炉の隅から声をかけた。

脱いだマントを出迎えの従僕に預けた卿は、大またに暖炉に歩み寄ると、手袋をはめた両手を火に照らしながら、息子の顔を覗き込んだ。

「明日の夕方、会いに行きなさい」

「話をつけてくれたんだね」

「ああ。・・・腹が減ったな。さあ、飯にしよう」

大きな樫の食卓には、ぺトルの両親と長兄、そして2人の学生が座った。みんな一斉に聖書の一節を唱え、神の恩恵に感謝してから食器に目を移す。

「兄さんや姉さんたちは、元気にやっているかな」キノコスープをかっこみながら、ぺトルは母に尋ねた。長兄を除く彼の兄姉たちは、みんな、他家に嫁ぐか、他家に奉公に出ているのだった。

「クリスマスには、みんな帰ってくるよ」母イトカは、スプーンをゆっくりと口に運びながら応えた。「お前も、そのころまで、ここに残るだろ」

「今のところ、そのつもりだけど」ぺトルは、隣に座ってパンを頬張る友人を見やった。「イジーも一緒でいいかな」

「イジー君は、実家に帰らないのかい」長兄フョードルが、首をかしげた。

「もぐもぐ、僕は、親父と喧嘩中です」

「だったら、むしろ早く帰って仲直りした方がいいよ」イトカは、手を休めて心配そうに言った。

「僕の親父は、金にしか興味の無い俗人なんですよ」イジーは、吐き捨てるように言った。「僕をプラハにやったのも、僕の聖職禄(教会からもらえるサラリー)を当てにしているだけなんです」

「それは、父君なりの愛し方じゃないのかな」オンドジェイ卿が、フォークをもてあそびながら口を挟んだ。「聖職禄にさえ就ければ、一生、経済的に安定するのだろう」

「貧しい人々から法外な地代を取り立てて、そうして稼いだ金で高利貸しを働けば、裕福になれるでしょうね」イジーは、強い口調で応えた。「だいたい、金持ちのドイツ人がそれをやるのです。ひどいものですよ。ユダヤ人の方がまだマシだ」

信心深いイトカは、胸の前で十字を切った。ユダヤ人を賛美するとは、この息子の友人はどうかしているのじゃなかろうか。

ぺトルは、複雑な表情で会話を聞いていた。彼の両親だって、末の息子を裕福にするためにプラハに留学させているのである。ただし、プラハでの聖職禄獲得は、チェコ人には厳しかった。特に大学の置かれた旧市街では、ドイツ系の貴族や商人が強い政治力を持ち、優先的に聖職禄を確保していたのである。そのため、チェコ人の中には、肩書きだけの聖職者も大勢いた。彼らは、何歳になっても貧しい書生生活を余儀なくされており、そしてイジーの辛口の聖職禄批判は、このような情勢を背景にしていたのである。

もっともイジー自身は、とっくの昔に聖職者への道を諦めていた。勉強を積んで、自分で新たな商店を興そうと考えていたのだ。だから、彼のプラハの現状への不満は、純粋な義憤であった。イジーは、いささか激情的な青年だったが、彼の良いところは、他人の心の痛みが良く分かるところである。ぺトルは、こんな友人を誇りに思った。

ぺトルの家族は、そのような背景を知らないから、イジーが単なる変わり者に見えた。もちろん、この学生の奇矯な言動の源には、見当がついていたのだが。

「ごほん」オンドジェイ卿が、咳払いをしてから重々しく口を開いた。「イジー君、それはフス先生の教えなのかね」

イジーは、少し考えてから応えた。「いいえ、僕の考えです」

「・・・そうか」卿は、食卓に目を落とすと、再びナイフとフォークでウズラの皿に取り組んだ。「ぺトル、明日、先生によろしくな」

「うん」末息子は、剣呑な会話が途切れたことにほっとしながらうなずいた。

 

この翌日、2人の学生は、寒風にさらされながら川沿いの小道を南に歩いた。目指すは、コジー・フラデックの城である。

民族啓蒙者としてのフスは、国内の貴族たちから絶大な支持を得ており、チェコ最大の貴族ロジュンベルク家も支持者の一人であった。そしてコジー・フラデックは、この家の家宰(執事)の所領だったのである。

チェコは、内陸に位置する盆地ゆえ、冬の寒さはかなりのものである。体力には自信のある二人の若者も、マントの前をしっかりと合わせ、一歩一歩を生への希望を込めて懸命に送り出していた。やがて、小高い丘にある古城が見えたとき、紫色になった2人の唇から安堵のため息が漏れた。

ここの城主・ヴァンテンベルクのチュニック卿は、あいにく留守だったが、城代が委細を受けて、よろしく計らってくれた。2人の学生は、薄暗い大広間の暖炉の炎にあたって生色を取り戻すと、真っ赤な頬をさらに紅潮させて先生の部屋へ向かった。

フスは、この古びた城の一室を借り切って、そこで日がな一日、著作に没頭していた。僧衣に身を包んだその四囲には、厚手の古文書が山積みになっている。懐かしい2人の姿に、先生の細い目は慈愛の光とともに注がれた。

一瞥以来の挨拶の後、3人は部屋の隅に片付けられていたテーブルを引き出して、そこに向き合う形で四方山を語った。

「プラハの人に会うのは久しぶりだ」フスが、少しやつれた頬で言う。

「イエロニーム先生やヤコウベク先生は、こちらに来られないのですか」イジーが問う。

「彼らは、プラハを留守には出来ないよ。私の代わりに働いてもらわなければならないから。そのイエロニームは、もう東欧諸国から帰ってきたのだろうか」

「だと思います」二人は応えた。

国際派のイエロニーム師は、ウイクリフ教説をポーランドやロシアにも伝えるべく奔走しているのだった。

「ところで、ジシュカ君は元気かね」

2人は、顔を見交わした。フス師の口から出るには意外な名だったから。

「ジシュカ隊長は、今はプラハで王宮の警護の仕事をしているようです」「もう、先生とは関係ないのでは」と、口々に応えた。

「もともと彼は、私が国王に頼んでプラハに来てもらったのだ。彼も、喜んでくれた」

「へえ」「それは意外です」

「彼は、顔は怖いかもしれないが、本当は心の優しい男なのだ。信仰心も強い」

「でも、傭兵は罪深い仕事だと思います」口を尖らせたペトルは、居酒屋で冷たくあしらわれた事を根に持っているのだ。「金のために人殺しをするなんて」

「仕事そのものには、罪はないのだよ」フスの両目は、慈愛の光を強めた。「人間はみな、原罪を抱えて生きている。人生は、それ自体が罪に満ちているのだ。大切なのは、それをいかに癒すかだ。もちろん、原罪を癒すのは信仰の力だ。そして、人々に癒しの方法を教え、癒す力を与えるのは聖書であって、これを助けるのは聖職者、そして教会でなければならないのだ。私は、そう考えてこの本を書いている」

師が指差した書き物机の上には、文章が書きかけの羊皮紙が置かれていた。

「これは『教会論』だ。理想の教会の姿だ」

2人の学生は、席を立って羊皮紙の周りに集まった。

「ああ、この文字は」「チェコ語、チェコの文字ですね」

「そのとおり」先生はうなずいた。「私なりに工夫して、簡単なチェコ語の書き文字を使って書いている。ラテン語やギリシャ語が分からない庶民でも読めるようにね」

「ああ、読める。読めます、先生」

「うむ、ローマ字をベースにしているからね。特別な事情がないかぎり、一音一文字の原則を守っている。特別な事情とは、わが国特有の濁音や伸ばす音だ。これは、文字の上に傍線を引いて表記する。たとえばこのように」

「ああ、縦の点が伸ばす音ですね」「そして、レ点が母音の後で訛る音ですか」

「理解が早いね」フスは、白い歯を見せた。「チェコの人々が、みんな君たちくらいに聡明なら安心なのだが」

「大丈夫ですよ、すごく分かりやすいですもの」「すごいや、これなら国中の人々が本を読めるようになる。大学に行かなくても、修道院の図書館で勉強が出来るようになるぞ」

「早くそうなるといいね」フスは、大きくうなずいた。「国民一人一人が、それぞれの感性で聖書を読むことができれば、もう教会の横暴は通らなくなる。みんな、十分の一税も払いたがらなくなるし、贖罪状も買わなくなるだろう。そうなれば、教会自体が変わらざるを得なくなる。教会は、特権階級の蓄財の道具から、庶民の幸せを適える組織へと、その姿を変えることだろう」

ぺトルとイジーは、教会の搾取や横暴に顔を曇らせる人々を思い、ラテン語が読めないばかりに大学に通えない石工たちの不満を思った。そして、チェコ語の聖書を読み解いた人々が、真実について路地や井戸端で活発な議論を戦わす姿を想像してみた。どんなに素晴らしいことだろう。どんなに美しい世界になるだろう。

「先生」感動で胸をいっぱいにした2人は、一斉に叫んだ。「僕たちにも手伝わせてください。僕たちをここに置いてください。水汲みでも何でもしますから」

「ありがとう」フスも、感動に打たれてうなずいた。「でも、その気持ちだけで十分だ。君たちはまだ学生なのだから、君たちの勉強を続けなさい」

「先生のいない大学なんて」「そうです、プラハだって、ただの石の塊です」

「・・・このような狭い世界に篭るのは、私のように40過ぎてからで十分だ。若いうちは広い世界を見て、自分の頭で考えるのが何よりも大切なんだよ」

「・・・」二人はうつむいた。

「そうだ」そんな二人を見て、フスは言った。「イジー君は、ベロウンの出身だったね」

「はい」イジーは、喜びの目を輝かせた。僕の故郷を覚えていてくれたのですか。

「あそこにはプレモントレ派の修道院があるよね。最近あそこの修道僧になった男に、面白いのがいる。私とは随分違う考えの持ち主だから、余裕があるなら会って見るといい。きっと勉強になるよ」

「はあ」二人は、顔を見合わせた。

「ジェリフ村のヤンだ。本人は、格好つけてヤン・ジェリフスキーと自称しているがね。彼は、ある意味でジシュカよりも・・・まあ良い。会えば分かる」

2人は、いつまでも師と話していたかった。しかし、それは師の執筆の妨げになる。

日が落ちる前に、2人は古城を辞去した。

ぺトルは、ジェリフのヤンに会ってみたかったのだが、イジーが故郷に帰るのを頑なに拒んだので、話はそれっきりになった。

その後、仲良し2人組は、ペトルの家で鯉料理に舌鼓を打ち、やがて穏やかに新年を迎えたのであった。

 

医学生のトマーシュは、プラハでクリスマスと新年を迎えた。彼は、プラハ新市街に開業医を営む生家があったので、帰省を口実に市を離れることは出来なかったのだ。

そんな彼は、授業が無い日も、講堂で勉強することが多かった。なぜなら、最近の医学が面白くてしょうがなかったからである。

オスマントルコの進出は、必ずしも悪いことばかりではなかった。進んだイスラムの医学が、どんどんと輸入されてきたからである。

当時の欧州の医学は、話にならないほどお粗末なものだった。病人の患部をナイフで切って血を出させる、いわゆる瀉血が、もっとも合理的な医療とされてきたのである。そんなやり方では、助かるものも助けられない。また、驚くべきことに、ローマ教会は、薬物による治療を禁止していた。薬剤師に「魔女」の烙印を押して、これを弾圧することもしばしば行われたのである。

これに対して、イスラムの医療は科学的だった。何よりも素晴らしいのは、宗教によるタブーがほとんど無かった点である。

「教会の存在は、我が国の医療を百年は遅らせている」トマーシュも、同僚の学生たちも、一様にそう考えるようになっていた。しかし、大っぴらにこれを言うわけにはいかない。プラハは、フスの追放以来、カトリック教会勢力が支配する街となっていたからである。

「宗教って、何なのだろう」トマーシュは、思索にふけりながら、しばしばユダヤ人街の壁の前を歩いた。

プラハのユダヤ人地区は、市の真ん中に置かれていた。正確には、旧市街北側のヴルタヴァ川沿い一帯がユダヤ人居留区に定められていたのである。もちろん、強制収容所のようなものではない。川と低い壁によって旧市街と隔てられてはいたものの、住民の通行は自由だし、暮らし向きも新市街のチェコ人たちより随分と良かった。

現代でも残っているこの地区は、18世紀、啓蒙専制君主のヨゼフ2世が壁を壊して道を広げるなどの改装を行ったため、彼にちなんでヨゼホフと呼ばれるようになった。

ところで、かつて欧州各地にあったユダヤ人地区は、ナチスドイツが荒れ狂った20世紀中頃にほとんど破壊されてしまったのだが、プラハのヨゼホフは、唯一の例外となった。その理由は、プラハを占領したヒトラーが、ヨゼホフを「絶滅したユダヤ人の記念博物館」として残そうという野望を持っていたからである。そのお陰で、貴重なシナゴーグやユダヤ墓地が、そのままの姿で残されているのである。これは、世の中、何が幸いするのか良くわからないという好例であろう。

ともあれ、15世紀のユダヤ人地区は、低い壁に囲われた独特の雰囲気を持つ地域であった。トマーシュのような内向的な青年にとって、この地域の雰囲気は、不思議な魅力に溢れている。彼は、壁沿いに並ぶ菩提樹にもたれて、しばしば思索にふけるのであった。

思索といっても、もちろんトマーシュとて年頃の若者であるから、難しい医術のことばかり考えているわけではない。わざわざ壁際に立つのも、それなりの目的があってのことである。この菩提樹に体をもたせると、壁の隙間からシナゴーグ(ユダヤ寺院)の裏庭が覗き込めるのだ。

今まさに集会が終わり、寺院の建物の中から大勢の人々が姿を現したところだ。その中に、杖をつく老婆を労わる一人の少女の姿があった。白いスカーフを首に巻いた、黒髪の美少女は、いつでも優しい笑顔を浮かべている。

トマーシュは、その娘の笑顔を見つめるのが大好きだった。それさえあれば、浮世のどんな嫌なことでも忘れられたから。ただ、これが恋だとは気づいていない。彼女が異教徒であることが、心理的な歯止めになっていた。

「宗教って、何だろう」

トマーシュの思索は、再びそこに帰り着いてしまう。シナゴーグの人々は、みんな心の綺麗な立派な人々のように見える。

「キリスト教会では、3人の教皇が並び立ち、いくつもの派閥があって互いに殺しあう。プラハでも、正しいことしか言わない立派なフス先生が迫害されている。だけど、ユダヤ教では、そんな話は全然聞かないもんな。やっぱりおかしいよ。何かが狂っているんだ」

トマーシュは、絶望的な気持ちになった。自分が信じる宗教が間違っていると思うのは、たいへんな不幸だ。

ユダヤの美少女に惹かれ、イスラムの医学書に惹かれる彼は、己のアイデンティティに自信を持てないことがある。

「イジーやぺトルには、僕のこんな気持ちは分かるまい」

トマーシュは、黒髪の美少女に自己紹介する自分を思い描いてみた。

そうしたら、少しだけ幸せな気持ちになれた。