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第八章 神の戦士、出動

 

「誰が泥棒一味に加担するものか」口々に叫ぶ三人の学生たち。

怪人修道士は、冷笑でそれを受ける。

「早とちりするなよ。私は、『フス先生奪回作戦』の仲間になれと言ってるんだ」

思わず顔を見交わす三人の学生。

「・・・そんなことが出来るのか」イジーは怪訝顔だ。

「拙者が、牢屋から盗み出しますがな」トチェンプロッツが、ビール樽を開けながら納戸から口を挟んだ。

「先生は殺されるぞ」ジェリフスキーは、真顔になった。

一座を緊張が走る。

「フス師は、おそらく殺されるだろう」

「そんなバカな」トマーシュが叫んだ。「フス先生は、スタニスラフ先生のように難詰されるだけだ。きっと無事に帰ってくる」

「それはどうかな」修道士は、彫りの深い顔を昂然と揺らした。「大学の愚か者たちのおかげで、状況は圧倒的に悪くなったのだぞ」

「・・・どういうことですか」ペトルは、声を恐怖に震わせた。

「分かっているはずだ、例の二重聖餐だよ。今ごろ、教皇や大司教は怒り狂っているだろう。あれは、あまりにも露骨な教会に対する反逆だ。教授たちは、この時期にあれを始めるべきではなかった。フス師は、プラハ大学に対する見せしめとして・・・」

「やめろ」イジーが叫んだ。「もう聞きたくない」

小さな農家に、重く暗い空気が立ち込めた。

怪人修道士の言うことは正論だった。二重聖餐が、幽閉中のフスの立場を悪くする可能性は、もっと早期に指摘されて然るべきだった。

「今なら間に合う」ジェリフスキーは、再び口を開いた。「フス師を救出し、プラハに迎え入れるのだ。そして、チェコ全体が団結して軍備を整え、教会権力と対決する構えを見せるのだ。案ずることはない。おそらく、戦争にはならない。オスマントルコの進出に怯える教会派諸侯は、その足並みが揃わないから、教会も、結局は我々の主張を認めることだろう」

相変わらず、途方もない構想力だ。3人の学生は、思わず呆然となってしまった。

「・・・どうやって救出するのです」イジーが、声を潜めた。

「それは検討中だ」ジェリフスキーは、大泥棒を横目で見ながら答えた。「君たちには、私に協力するか否かを、この場で答えてもらいたい」

3人の学生は、互いに顔を見交わして、やがて大きくうなずいた。

屋外に出ると、凍った空には大きな月がくっきりと浮かんでいた。

「また、丸め込まれたね」

「ああ」

不思議と、嫌な気持ちはしなかった。風変わりな男だが、ジェリフスキーは、彼なりのやり方でフス師とチェコを愛しているのだから。

3人は、ぶらぶらとなだらかな坂道を降りていった。今夜は、この近くで医院を営むトマーシュの実家に泊めてもらう予定であった。

「ジェリフスキー、お手並み拝見だな」ペトルは、月を眺めながら呟いた。

 

フスが幽閉されてから、はや4ヶ月。

さすがに、プラハ大学の教授たちは事態を憂慮した。

「私がコンスタンツに行こう」イエロニームが、決意を眦に込めた。「何とか、公会議と話をつけて、先生の身柄を預かってくる」

彼らは、まだまだ事態を甘く見ていたのだろう。イエロニームの公会議行きは、満場一致で承認されたのである。チェコ国王もこれを認め、護衛の騎士たちをつけてくれた。

1415年3月、イエロニームは、多くの市民の期待をその背に受けて旅立ったのである。

だが、この一行の後ろから、影に日向に後を追う奇妙な一団があることに、イエロニームは気づかなかった。

 

話は、数日前に遡る。

ジェリフスキーの呼び出しを受けた3人の学生は、おっとり刀で葡萄畑の農家に駆けつけた。

「イエロニーム師が動くらしいな」ジェリフスキーは、傍らに例の大泥棒を立たせたまま、粗末な椅子の上で胸をそらせた。「いよいよ、我々の出番だ」

「どういうことです?」

「これでようやく、面子が揃ったのさ」初老の修道士は、不敵な笑みを浮かべた。「それに、教会側は、一度はイエロニーム師をフス師に会わせるだろう。ここに、奪回の絶好のチャンスが到来する」

「・・・・」学生たちは、意味が掴めずに当惑気味の顔を見合わせた。

「それはつまり」イジーが切り出した。「我々が、イエロニーム先生に同行し、先生を守りつつ・・・」

「違う、違う」ジェリフスキーは、面倒くさげに右手を振った。「イエロニーム師は、ドイツに入ったが最後、教会側から厳しくマークされるだろう。それでは意味がないのだ。我々、特殊部隊『神の戦士』は、イエロニーム師の動きをマークしながら、まったく別行動を取る」

バイタリティの権化のような修道士は、いつのまにか、勝手にチーム名まで決めているらしい。

「なるほど」ペトルが言った。「教会が、イエロニーム先生に注意を奪われている隙を衝くのですね」

「そうとも、それに頼もしい味方も同行してくれるし」ジェリフスキーが、窓外に目をやると、今しも数名の男たちが、坂道を歩いてこちらに登ってくるところだった。

トマーシュは絶句した。先頭に立つ男は・・・。

「ジシュカ隊長も一味だったのですか」ペトルは、ジェリフスキーを睨んだ。

「一味とは人聞きが悪い。同志と言いたまえ」修道士は、動じない。

ドアを押し開けて屋内に入ってきたジシュカと2人の従者は、学生たちの姿を見ていぶかしんだ。「お前たちも、一味だったのか」

ジェリフスキーは、一味という言葉を聞くと、唇をへの字に曲げて頬杖を突いた。

「ジェリフのヤン、こいつらも同行させるというのか」ジシュカは、3人の学生を指差した。

「ジェリフスキーと呼べよ」

「呼び名なんぞ、どうでもいい。・・・足手まといになるじゃないか」

「バカだな。彼らが一行の中にいれば、万一のときに、『先生を慕う学生の群れ』を偽装できるだろうが」

「そんな偽装などいらぬ」

「連れて行ってください」イジーが口を挟んだ。「僕たちは、足手まといにはなりません」

「そうです」「手伝います」ペトルとトマーシュも後に続いた。

「ふうん、まあ、まんざら知らぬ顔でもないしな。お前らの志は、俺にも良く伝わるよ」ジシュカは呟いた。

「拙者も働きますぜ」大泥棒トチェンプロッツも、気勢をあげた。

「子供3人に泥棒一人か。その程度なら、俺たちで面倒見切れるよな」ジシュカが、背後の部下たちを見やると、チビとノッポの2人組は、にこにこと笑顔を向けて来た。

こうして、ジシュカとその従者2名、3人の学生、そして大泥棒から成る、総勢7名の混成部隊が、イエロニームの一行から付かず離れず、コンスタンツを目指したのである。

彼らの旅費は、全てジェリフスキー(彼自身はプラハに残った)が負担してくれたのだが、その資金は、この隊列に顔を並べる大泥棒が稼いだのに違いない。

事情を知る学生たちは、それには目をつぶることにした。

ジシュカは、かなり以前からジェリフスキーと親しい仲だったようだ。ただ、ジシュカが、ジェリフスキーらの泥棒行為を知らないのか、あるいは知っていて見逃していたのかは、学生たちには掴みきれなかった。

プルゼニを経由してヘプまでは、チェコ国内の平穏な道中だったが、こんな遠くまで歩いたことのない学生たちにとっては、何もかもが新鮮な体験で、聞くもの、見るもの全てが珍しかった。鬱蒼としたボヘミアの森を抜けると広大な牧草地が開け、そこでは牛たちが、のんびりと草を食む。

「おい、不良学生」一行の先頭を歩むジシュカが、ふいに声をかけた。「大学には、何と言ってここまで出て来たんだ」

「先生方の一大事だから、喜んで許してくれたよ」イジーが、ぶっきらぼうに答えた。「そういうあんたこそ、王宮の警護をほったらかして、どうして出て来られたのさ」

「余計なお世話だ」ジシュカは、鼻で笑った。「衛兵隊長のミクラーシュ殿は、フス師の熱烈な支持者だ。それだけ聞けば分かるだろう」

「なるほどね」うなずいたペトルは、一番後ろを歩む大泥棒を振り返った。「ところでトチェンプロッツは、どうして俺たちを助けてくれるんだ。ジェリフスキーに、命令されたからかい」

「関係あらへん」大泥棒は、大げさに両手を振った。「拙者は、拙者の生きたいように生きるのや。盗みたければ盗む。人助けがしたければする」

「留守中の子供の面倒は、誰が見ているんだい」と、トマーシュ。

「わいに、ガキなんてあらへん。天涯孤独が身上さかい」

「なんだよ、初めて会ったとき、15人の子供がいるって言ったのは嘘か」ペトルは、鼻白んだ。

「嘘も方便と言うさかいにな。だいたい、15人もガキを養う泥棒がどこにいるのや。ちっとは、頭を使いなや」と、大泥棒は舌を出した。

「ちぇ、嘘をついて威張っているとは世話がない。そんな泥棒野郎にも、『真実』を守ることの大切さが分かるのか」イジーが、呆れて肩を竦めた。

「ふふん」ジシュカが、またもや鼻で笑った。

「なんだよ」イジーは睨んだ。「言いたいことがあるなら、ドイツに入る前に言ってくれ」

ジシュカは、ちらりとイジーを睨んでから、再び顔を前に戻した。

「お前たち、二言目には『真実』と言うが、『真実』がなんなのか、本当に分かっているのか」

学生たちは黙り込んだ。たかが戦争屋に、そのような突込みをされたことが気に入らなかったのだ。

「どうした、答えがないぞ」ジシュカは、再び後列を振り向いてにやけた。

学生たちは、思いつくままに、先生たちの口から語られた言葉を集めた。

「・・・一人一人の心の中に宿る真摯な想い」

「権力者の押し付けではなく、各人が聖書の中から見つけ出すもの」

「友愛、正義と平和」

ジシュカは、哄笑した。

「お前たちが言っているのは、フス師やイエロニーム師の受け売りじゃないか。俺が聞きたいのは、お前たち一人一人が見つけた『真実』の中身なんだよ。そんな抽象論が『真実』なものか」

学生たちは、顔を見交わして沈思した。確かに、具体的な『真実』は、まだ彼らの眼には見えていない。

「分かったか」彼らの心に、傭兵隊長の言葉が重くかぶさる。「お前たちは、口先ばかりの青二才なんだよ。世の中のことなんか、何一つ分かっちゃいねえんだ。偉い先生方の話を聞いて、それで分かった気になっているだけなんだよ」

「・・・・」3人は、何も言い返せない。

「俺も、俺の2人の相棒も、ここにいる大泥棒も、人生の修羅場を嫌ってほど潜り抜けて来ているんだ。『真実』ってのは、お前たちが思っているほど生易しいものじゃあねえ。泥をすすり血の雨を潜り、心が砕け散りそうな想いをして、初めて見つけられるものなんだ」

「拙者は、隊長ほどハードな人生は生きておまへんが」大泥棒が乱食い歯を光らせた。「隊長の言うとおりですぜ、えへへへ」

「・・・お前が言うと、説得力無いなあ」ジシュカは肩を竦めた。

「だから勉強しているんだ」イジーが、何とか言い返した。「僕たちは、これからなんだ。これから『真実』を見つけていくんだ。あんたたちのように、神の教えに背く、呪われた仕事は決してしないけどな」

「ふふん」ジシュカが鼻で笑った。「お前たちは、これから、お前たちの言う呪われた仕事の力を思い知ることになるぜ。フス先生は言われたはずだ。この世には呪われた仕事なんて無い。呪われた仕事の中から得られる『真実』だってあるってことを」

「・・・」学生たちは、またもや黙り込むしか無かった。現に、彼らの旅費は泥棒が出してくれているのだし、こうして安全に旅が出来るのも、ジシュカたちのお陰なのだ。

学生たちの心中の葛藤は、こうしてドイツ国内に持ち越されることとなった。

ところで、ジシュカの従者は、痩せたのっぽと、小柄なずんぐりの2人組だった。のっぽはオチーク、ずんぐりはパヴェクと言った。二人ともチェコ人で、ジシュカとはプラハで知り合ったという。どちらも、いたって無口だったが、学生たちには優しい視線を投げてくれた。

ずんぐりのパヴェクは、大きな頭陀袋を背中に負っていたが、その中にはクロスボウ(機械式の弓)やレイピア(剣)が隠されていた。それを知った学生たちは、薄気味悪そうに袋を見やったのだが、パヴェクは、どこ吹く風でニコニコだ。

「安心しろ」その様子を見ていたジシュカは言った。「こういう仕事は、俺たちがやる。お前たちは、ただ見ていれば良い」

「でも・・・」イジーは、なんとか自己主張を試みた。

「でも、何だ?お前たちも戦いたいのか?」傭兵3人衆は、からからと笑った。「素人には、任せていられないね」

「人殺しは、暴力は良くない・・・」ペトルが低い声で言った。

「殺さないで済むなら、殺さないよ」オチークが、間延びした口調で言った。

「お前たちが、俺たちの言い付けを守って良い子にしていれば、そんな大きなトラブルには嵌らずに済むだろう」ジシュカは、からからと笑った。

またもや子供扱いされた学生たちは、しかし、この場では項垂れるしかなかった。

 

さて、先行するイエロニームの一行がコンスタンツに到着したのは、4月の初旬であった。彼は、フスが修道院に寄宿していると思っていたので、恩師が郊外のゴッドリーベン城に移されたと聞いて愕然とした。

「まるで世俗の罪人扱いではないか。情勢は、想像以上に険悪らしい」

イエロニームは、恩師との会見を公会議に訴え出たのだが、何やかやと理由をつけられて回答を保留された。彼は仕方なく、コンスタンツの教会施設に宿泊しながら、じっと会見の機会を待ち続けたのである。

一方、イエロニームから2日遅れでコンスタンツに到着したジシュカと学生たちは、郊外の裕福な農家に寄宿させてもらうことに成功し、ここで情勢を観望することにした。

「街はすごい人ごみですぜ」コンスタンツに偵察に行った大泥棒が報告した。「教会関係者だけで600人、封建諸侯とその従者が1500人。拙者たちが揃って出て行っても、怪しまれるとは思えんし、イエロニームはんに見つかるとも思えませんで」

「それで、フス先生はどこにいるんだ」イジーが性急に言った。

「どうやら、街はずれの城に幽閉されているみたいやで」

「城だと」ジシュカが隻眼を光らせた。「こいつはまずいな。救出など思いも拠らぬ」

「なんだって」ペトルが絶句した。「それじゃ、何のためにここまで来たのか分からないじゃないか」

「まあ待て、もう少し様子を見よう。フス師とて、城から出ることもあろうから、そのときがチャンスだ」ジシュカは、腕組みしながら言った。

しかしフスは、その後、約2ヶ月間城から出てこなかったので、学生たちは街の中を歩き回り、情報収集に努めながら時期を窺うしかなかった。

「皇帝は、どうやら本気で教会分裂を終わらせるつもりらしいな」イジーがつぶやいた。「3人の教皇権を全て否定するとは、随分と思い切ったことをする。どうやら皇帝は、この公会議の主導権を完全に握っているようだ」

「だったら、先生は助かるね。皇帝には、先生を罰する理由がないもの」トマーシュが喜色を浮かべた。

「いや、逆だろうな」ジシュカが会話に割って入った。

「どうして」3人は、いっせいに壮年の隻眼を注視する。

「皇帝は、教会分裂については教会側に妥協を強いた。その見返りに、異端問題については教会側に妥協する可能性が高いということだ」

「バカな、そんなの取引じゃないか」ペトルが唾を飛ばした。

「そうとも、人間社会というのはな、全てが取引で成り立っているのだ」ジシュカは唇をゆがめた。「皇帝も王も教皇も司祭も、みんな取引をしながら生きている」

「そんなの、『真実』じゃない」

「そうとも、『真実』じゃないさ。でも、それが現実世界の姿だ。・・・だからこそ、フス師の教えには意味がある。あの人は、そんな世界を、少しでも良い方向に変えようとしているのだ。神の恩寵を受けられるように、作り変えたいと願っているのだ」

「・・・助けなきゃ」3人の学生は、緊張感に体を震わせた。

「そのために俺たちがいる」ジシュカは、隻眼を鋭く光らせた。

 

5月下旬、イエロニームは、ゴットリーベン城の一室でようやくフスに会うことが出来た。

薄暗い牢獄から久しぶりに明るい場所に出てきた恩師は、眼をしばたたかせながら愛弟子と対面した。無精ひげを生やし、すっかり痩せ衰えたフスの姿は、いたましいばかりだった。

「ああ、先生」イエロニームは嘆声をあげた。「いったい何があったのです」

「うむ、礼拝堂から出てきたところを、いきなり教会の衛士に取り囲まれて拉致されたのだ。何かの間違いだと思って、当初は楽観していたのだが・・・」

イエロニームは、師の声が思ったより力強いので少し安心した。「皇帝の自由通行証は、どうなったのです!」

「良く分からぬ。皇帝の権威も、頑迷固陋な教会勢力には通用しなかったと思われる」

「・・・異端審問はもう」

イエロニームは声を潜めた。会話する彼らから少し離れたところに立ち並ぶ召使たちは、明らかに教会の密偵だったから、うかつな事は話せない。

「いいや、まだだ。自由を奪われてから6ヶ月。最近の2ヶ月はこの城に幽閉状態だが、放っておかれているよ。・・・公会議は、教会分裂の問題で大童なのだろう。この時期は、窓から見える下弦の月が唯一の慰めだ」

だがコンスタンツでは既に、教会分裂問題と平行する形で異端問題が討議されていた。

公会議の主導者である神聖ローマ皇帝ジギスムントは、「欧州に異端は存在しない」という基本姿勢でその場を纏めたかった。しかし、フスに恨みを持つ勢力が、あの手この手で要人たちに働きかけたため、結局、フスは異端のレッテルを貼られてしまったのである。その後、フスの処遇をどうするか、皇帝の中ではなかなか考えが纏まらず、そのため、幽閉中のフスは、ゆるい軟禁状態のまま過ごすこととなったわけだ。

ところが、フス問題は皇帝の影響力を離れ、いつしか教会の主宰する「ウイクリフ問題検討会」の管轄になってしまった。そして、この「検討会」は、教会を擁護するドイツ系聖職者が要職を独占している組織だったから、討議の内容は推してしかるべし。こうなると、皇帝もフスを庇う事はできない。

フスは、カトリック勢力の海の中で、完全な孤立に陥っていたのである。

「なんと労しい。先生、なんとかならないものでしょうか」

「神の慈悲にすがるしかないだろうね。・・・でも安心するが良い。私は負けない。ここは教会の本拠地ではなく公会議の場なのだから、私は恐らく、公開討論の形式で審問を受けることになるだろう。これは、チャンスだ。得意の説法で審理官たちの心に訴えかけることができる・・・」フスは、優しく愛弟子の眼を見ながら訥々と語った。しかし、恩師がその言葉ほどには状況を楽観していないことは、イエロニームには良く分かる。「イエロニーム、君の立場もここでは危険だ。下手をすれば、私と同じ運命に陥るぞ」

「・・・」

「急いでプラハに帰るのだ。そしてみんなに伝えてくれ。私が最後まで戦い抜いたのだと」

「先生、そんな不吉なことを言わないでください」

「・・・もしものときは、君がこの運動の中心になるのだ。後は頼んだぞ」

イエロニームは、あふれる涙を拭いながら城を後にした。寄宿舎に帰った彼は、ボヘミア王が付けてくれた従僕たちに命じて、直ちに帰国の準備を始めたのである。

しかし、イエロニームは、既に公会議の教会勢力にマークされていた。東を指して動き出した彼の一行の後から、教会側の傭兵隊が追尾を開始したのである。

コンスタンツから遠く離れた丘の上で、ロバに跨ったイエロニームは、霞に煙るコンスタンツの街を望見した。曳かれる想いを断ち切ると、ロバの尻に鞭を当てる。

彼らが森林地帯に入ったところで、教会側の襲撃が始まった。

左右の小高い丘から駆け下りてきた10名ほどの荒くれたちが、先頭に立つ護衛兵に飛びついて馬上から突き落としたのである。

「何者だ」残りの3人の護衛兵は、馬から降りて腰の剣を抜くと、ただちに散開してイエロニームの周りに集まった。

「公会議の命令だ」荒くれどもの先頭が、垢にまみれた髭の間から叫んだ。「直ちにコンスタンツに引き返せ」

「なんだって」イエロニームは、絶句した。それなら、どうして使者を走らせないのだ。どうして、傭兵を送り込んで手荒な真似をするのか。「これが、カトリック教会のやり口と言うわけか・・・」

「武器を捨てろ。大人しくすれば危害は加えない」荒くれが吼えた。

「本当に教会の指示だと言うなら、召喚状を見せよ」護衛兵の隊長が、恐怖を抑えつつ言った。

荒くれが、後ろを振り返って合図すると、配下の一人が大きな羊皮紙を捧げて左の丘から降りてきた。どうやら、本物の召喚状を持ってきたらしい。

「先生が、早く帰れと言ったのは、こういうことか・・・」イエロニームは唇を噛み締めた。

そのときであった。

風を切る異様な音とともに、羊皮紙を抱えた男はいきなり仰け反り、その手から召喚状を取り落とした。

「なんだと」今度は、教会側の荒くれたちが狼狽する番であった。仰向けに倒れた男の右肩に突き立っているのは、明らかにクロスボウの矢だ。

次の瞬間、前後左右から射こまれる矢の雨に、荒くれたちは大混乱に陥った。頭を抱え、背を低くして、這うように逃げ惑う。

「引き返しなはれ」左側の丘の上に立つ大樹の梢から、すっとんきょうな声が響いた。「イエロニーム師を狙う奴らは、『神の戦士』が決して許さぬ!そう枢機卿に伝えなはれ」

矢の雨は止んだ。荒くれたちは、しばし躊躇うそぶりを見せた。しかし、敵の正体も人数も分からないのでは戦いようがない。左右の木立を不安そうに眺めると、やがて負傷者を庇いながら丘の上へと去って行った。

イエロニームと護衛の騎士たちは、荒くれたちが完全に姿を消すまで警戒の手を緩めなかった。やがて、護衛隊長が、頃合を見て左の樹上に声をかけた。

「助けてくれたのは誰ですか」

左右の丘から姿を見せたのは、言うまでもなく、ジシュカとその2人の従者である。その後ろから、大泥棒と3人の学生たちが続く。

「先生」「大丈夫ですか」「お怪我はありませんか」3人の学生が走り寄って、先生のやつれた眼を覗き込む。

「君たち、いつコンスタンツへ」イエロニームが、驚きと喜びが入り混じった複雑な表情で叫んだ。

「ずっと、師の後を追っていたんでげす」答えたのは、トチェンプロッツだ。先ほどの戦いで、樹上から教会の傭兵たちに警告を発したのは彼だった。

「危ないところでしたね」ジシュカが重々しく言った。2人の仲間とともに左右の木立を走りながら、眼にも止まらぬ勢いで弓を撃ちまくった彼だが、まったく疲労の色を見せていないのはさすがだ。「さあ、先を急いでください」

「ありがとうございます。ジシュカ隊長」護衛隊長は、感動の面持ちで隻眼の武人と握手した。「隊長の活躍は、必ず王に報告します」

「しかし」イエロニームは、苦渋の表情を浮かべた。「あの羊皮紙は、紛れもなく教会の発した召喚状だった・・・」

「それが、どうしたんでげす」

「・・・いや、無視するわけには行かぬのではないかと」

「何を言うのです」イジーが叫んだ。「奴らは、イエロニーム先生まで陥れようとしてるんですよ」

「・・・いや、考えてみれば、私はフス先生を助けるためにここまで来たのだ。プラハの人々の期待は、この私の双肩にかかっていたのだ。私は、それなのに役目を捨てて逃げようと・・・」

「フス先生は、僕たちが助けますから」ペトルが胸を張った。「イエロニーム先生は、プラハで首尾を待っていてくださいよ」

「そのとおり」ジシュカがうなずいた。「ついては、フス師の幽閉場所について、手がかりになることを教えていただきたい」

「ううむ、先生とは城の謁見室でお会いしただけなので、幽閉場所までは・・・」イエロニームは、手を額に当てた。彼の視線は、泥にまみれた教会の召喚状に注がれている。

「何でも良いのです。ちょっとしたことがヒントになるのです」

「そうだ。下弦の月が牢から見えると仰っていた・・・」

「それだけ聞けば十分ですよ」ジシュカは白い歯を見せた。「おい、大泥棒、今から街に走って、下弦の月が見える牢の位置を探れ」

「へいへい、人使いが荒いでんなあ」トチェンプロッツは、それでも嬉しそうな風情で走り去った。

「さあ、イエロニーム先生は、急いでプラハへ」トマーシュが言った。

「・・・うむ」イエロニームは、何となく煮え切らない表情でロバに跨った。

去り行く恩師の一行を見送りながら、ペトルはジシュカに語りかけた。

「ジシュカさん、さっきは、どうして一人も殺さなかったんですか」

「イエロニーム師の前で、殺生はしたくなかったのさ。お前たちだって、文句を言うに決まっているからな」ジシュカは、隻眼を光らせた。

「ふへへへ」パヴェクが笑った。「本音を言えば、あの程度の敵なら脅かすだけで十分だったのさ。下手に殺すと、後が面倒になるしな」

「ふふん、そのとおりだ」ジシュカは、クロスボウを担いだずんぐり頭を、楽しげに小突いた。「戦いと一口に言っても、いろいろあるってことだ。少しは勉強になったか」

3人の学生は、複雑な表情でうなずいた。

「さて、街に戻ってもう一仕事だ。教会が、俺たちの目的に気づく前に動かねばならんぞ」