歴史ぱびりよん

著者挨拶

(1)  はじめに

 

『黒南風のうた~蜷川道標と長宗我部元親』は、実をいうと、約2年前の2012年8月に脱稿した作品である。

出版まで時間がかかった理由は、文芸社に振られ、学研に振られ、とにかく出版社の引き受け手が無かったからである。

ともあれ、こうやって電子書籍で出版できて一安心である。私は、自分の著作を実の子のように思っているのだが、「出来の悪い子ほど可愛い」というのは至言である。

もっとも、「出来が悪い」というのは、「詰まらない」という意味ではない。『黒南風のうた』は、エンターテインメント作品としては『アタチュルクあるいは灰色の狼』や『カリブ海のドン・キホーテ』より面白いだろうと思う。しかし、私の持ち前の説教臭さというか屁理屈の多さが軽減されたという点で、「出来が悪い」ように感じられるというわけ。

 

今作がそのようになった最大の理由は、なんと言っても「3・11(東日本大震災)」の影響であろう。この事件に衝撃を受けた私の中に、日本人に説教を垂れるよりもまず、励ましたいという思いが込み上げたのだ。

それと同時に、震災復興の無様なゴタゴタを見ているうちに、「このダメな日本民族には、どうせ、どんな説教も効きはしないだろう」という諦念が込み上げたのである。

そういうわけで、『黒南風のうた』は、自分が楽しむこと、そして読者が楽しむことを前提にして執筆された小説である。

テーマが日本史で、しかも戦国時代というだけで、その意図が表れている。言うまでもなく、日本の戦国時代がテーマだと、著者にとっても読者にとっても親しみやすいのである。

 

この物語の中心が、四国の長宗我部家になった理由は単純である。著者が、「長宗我部好き」だからである。少年時代、友人たちとPCゲームの「信長の野望」を遊ぶ時も、ほとんど常に長宗我部家を受け持っていたほどだ。著者自身は、四国にも土佐(高知県)にも地縁は無いのだが。

また、「長宗我部マニア」として、この戦国大名をテーマにした関連書籍のほとんどを読み込んで来たのだが、「解釈がおかしい」とか「書き方が根本的に間違っている」と思わせるものばかりだったので、それで、自分で長宗我部ものを書いてみたくなったわけ。

特に、長宗我部元親と「本能寺の変」の関係については、最近の学説に基づく新解釈を盛り込んでいるので、歴史好きの真面目な読者にも大いに楽しんでいただけるはずである。

 

それでは、物語の重要な構成要素について、いくつか解説してみよう。

 

(2)  本能寺の変について

 

物語前半のクライマックスは、何と言っても「本能寺の変」である。

天正10年(1582年)のこの事件は、その時点での天下人であった織田信長が、京都・本能寺において、有力部将だった明智(惟任)光秀に裏切られて殺された出来事である。この事件は、邪馬台国の所在地の謎などと並んで、日本史の一大ミステリーになっている。

どうしてこの事件がミステリーなのかと言えば、事件の主犯である明智光秀が犯行後わずか11日に死んでしまったので、犯行動機についての本人の証言が得られなかったからである。つまり、どうして彼が謀反を起こしたのか謎なので、多くの論者や作家が事件の原因や動機について忖度しているというわけ。

それでも昔は、「怨恨説」と「野望説」の2種類しか無かった。すなわち、明智光秀は、信長に恨みを持っていた、あるいは自分が彼に取って代わって天下人に成りたかった、もしくはその両方の理由で、主君を殺害したというのである。これらはいずれも、明智光秀による「単独犯行説」という点で共通である。

これに対して、なぜか近年になって、「黒幕説」というのがたくさん出て来た。つまり、光秀は傀儡に過ぎないのであって、彼を操る存在が他にあったはずだというのである。その黒幕の正体は、正親町天皇だったり足利義昭だったり羽柴秀吉だったり徳川家康だったりイエズス会だったりする。他にも様々な異説や珍説があるので、全部で100以上の黒幕説があるのではないだろうか?

詳しく知りたい方は、鈴木眞哉・藤本正行氏の共著『信長は謀略で殺されたのか?』を参照してください。

私も、一通りこういった諸説を検討してみたのだが、どれも非常識だったり不自然だったりするものばかりだ。「逆算の論理」で、結果から帰納して辻褄合わせをしたものばかりだ。

ただし、その中で最も説得力を感じたのが、「明智・長宗我部共謀説」である。実は、毒舌と辛口で有名な鈴木眞哉・藤本正行両氏も、この説に対する反駁はほとんどしていない。この説には、肯定材料となる物的証拠が存在しない代わりに、否定し去る要素もまた少ないからである。

私は、この説に「物的証拠が存在しない」ことから非常に興味を惹かれた。逆説的な言い方だが、「本来あるべき資料が無い」部分に、ある種の作為を感じたのである。

明智と長宗我部は、古くから盟友の関係にあり、間接的な形ではあるが縁戚関係まである。それなのに、両者の間に交わされた手紙などの交信記録がまったく現存していないのだ。これは、おかしい。事変後すぐに滅亡した明智家はともかく、長宗我部家は「関ヶ原」まで生き残ったし、その後も土佐は大規模な戦災を受けていないのに、どうして両者の間に交わされたはずの通信記録が一つも残っていないのだろうか?

「誰かが意図的に焼却した」と考える方が自然だろうと思う。この事実こそ、何らかの謀略の存在を感じさせるのだ。

学者などの専門家は、その立場上、仕方ないのかもしれないが、「物的証拠が無い=事実が無い」と見なす傾向がある。しかし、現実の人間社会においては、本来あるべき物証が無いことの方が怪しい場合が多いのである。そのことを勘考すべきだと思う。

また、比較的最近になって確認されたことだが、明智家の遺臣やその家族が、主家滅亡後に、かなり大勢、長宗我部家に亡命している。春日局(明智重臣・斉藤利三の娘)が、若いころに土佐に住んでいた可能性も指摘されている。

これこそは、「本能寺の変」の前後に、明智家と長宗我部家の間に密接な連絡があったことの何よりの証拠ではないだろうか?

しかしながら、私が酒席などで「明智・長宗我部共謀説」をぶち上げると、冷笑ないし失笑を返されることが多い。その理由は単純で、話し相手の心の中に、無意識のうちに「逆算の論理」が働くからである。

どういうことかというと、「長宗我部家は、関ヶ原や大坂の陣で敗者となって、惨めな滅亡を遂げた負け犬である。そんな負け犬が、偉大なる織田信長や明智光秀に絡んでいたはずがない。本能寺の変という、日本史最大のミステリーに関係していたはずがない」。そういう風に、結果から逆算して物事を考える人が多いのである。つまり、長宗我部家は、実像以上に後世から過小評価されているのだ。

逆に、「羽柴秀吉黒幕説」や「徳川家康黒幕説」を唱える人たちは、秀吉や家康が後に天下人になったことから、やっぱり結果から逆算して、「事変の最大受益者である偉大な英雄の彼らが、本能寺に絡んでいないはずがない」と、過大評価したがるのである。

しかし、結果から逆算していけば、どんな事でも言えてしまうわけだが、それは人間社会や人間を見る上で正しい姿勢ではない。なぜなら、どんな優れた人間でも、不確実性や偶然に翻弄されて生きているからである。特に、戦国時代のような大激動を生きている人間たちは、数年先どころか明日の運命さえ分からずにもがいている。仮に徳川家康が超絶的な大天才だったとしても、数十年後の自らの天下統一を想定して、織田信長をあのタイミングで殺そうなどとは考えないだろう。そんな心と頭の余裕は、無かったことだろう。

それでは、「本能寺の変」をリアルタイムで考えるなら、あの事件の最大受益者は誰だっただろうか?答えは、長宗我部元親である。なぜならあの事件の勃発によって、織田家の長宗我部討伐軍が出陣する前日に、その指揮命令系統が崩壊したからである。元親は、戦わずして大勝利を収めたのだ。

なるほど、長宗我部家は、後に結果的に滅亡したかもしれない。だが、あの時点でのリアルタイムの最大受益者は、誰が何と言おうと元親なのである。

逆に、羽柴秀吉や徳川家康は、「本能寺の変」でたいへんな不利益を蒙って、一歩間違えば滅亡するところだった。彼らが最終的に生き延びて勝ち上がったのは、「本能寺の変」が巻き起こした動乱を何とか生き延びた後に、別の努力をしたからだ。彼らが天下人になれたのは、それこそ結果論なのである。

だいたい優秀な戦国武将が、自らの死亡リスクを極限にまで高めるような無茶な投機を行うはずが無いのだ。「その程度のリスクは織り込めたはずだ」などと強弁する論者は、平成日本の死の危険の無い安全な環境の中でヌクヌクしていて、想像力が麻痺しているのに違いない。常に死の危険に囲まれて生活している戦国武将は、平和な現代人が想像する以上にリスク管理に慎重だったはずである。何しろ失敗したら最後、自分だけでなく妻子や一族郎党までもが皆殺しになるのだ。こんな怖い話はない。会社をクビになる程度の話ではないのだ。だから「本能寺の変」が、「この事件のせいで大ピンチに陥って死にかけた」秀吉や家康による謀略だという解釈は成り立たない。

でも、そのように考えていくと、明智光秀の唐突な謀反はやっぱり謎である。彼は、周辺が全て敵に回ると予想される中で、なぜ、あのようなリスクの高い冒険に踏み切ったのだろうか?

光秀が、「近くに強力な同盟国がある」と思い込んでいたのなら、話はまったく変わってくる。太平洋戦争の時の日本も、「アメリカと戦うのは高リスクだが、ナチスドイツが味方に回ってくれる」と信じたからこそ、真珠湾攻撃に踏み切ったのだ。

実は、似たような話は戦国時代にいくらでもある。天正5年(1577年)の松永久秀の唐突な謀反は、上杉謙信の援軍を当てにしてのことだった。天正6年(1578年)の荒木村重の唐突な謀反は、毛利輝元の援軍を当てにしてのことだった。いずれも、織田信長に対する謀反である点で共通する。そうならば、明智光秀の唐突な謀反(本能寺の変)も、これら一連の造反劇と同じ文脈で理解するべきではないだろうか?明智光秀も、やはり誰かの援軍を当てにしていたはずなのだ。その援軍は、天正10年のあの時点では、長宗我部元親以外に有り得なかった。

以上のように考えていくなら、「明智・長宗我部共謀説」に、かなりの説得力があることがお分かりになるだろう。

『黒南風のうた』は、それを最も説得力豊かに描いた小説である。

蜷川道標や石谷頼辰(=明智家と長宗我部家を結ぶ蝶番となる人々)が冒頭から出て来るのは、実は「本能寺の変~明智・長宗我部共謀説」を補強するための伏線なのである。

そうなのだ。実は私は、「本能寺の変」の真実を描きたくて、この小説の執筆に入ったのだった。

 

(3)  いろはの会について

 

劇中に「いろはの会」というのが出て来るが、実はこれは、著者が考案した架空の組織である。

ただ、そのような集まりないし会合は、実際に存在しただろうと考えている。さもないと、あの激動の戦国時代の中で、日本の伝統文化や芸術が豊かに輝き続け、それどころか、さらなる発展を遂げた理由の説明が付かないのである。

この小説の中では、豊臣秀吉が晩年にいきなり残虐になった理由を、この架空の組織に絡めて描いてみたのだが、どうだろう?個人的には、「本能寺の変」よりも、秀吉の晩年の残虐化の方がよっぽど深刻な歴史上の謎だと思うのだが。

 

(4) スパイの実態について

 

この物語の主人公の一人である蜷川道標(新右衛門親長)は、長宗我部家の内政や文化の発展に大活躍する。しかし、彼の最も重要な活躍は何かと言うと、「高級スパイ」の仕事なのである。

スパイというと、世間では007(ジェームズ・ボンド)やイーサン・ハントやジャック・バウアーのような、イケメンのアクションヒーローが真っ先に想起されるようである。しかし、スパイというのは本来、情報収集や情報操作を目的として密かに活動する人なのだから、あんな風に派手に目立つのはおかしいのである。っていうか、「世界的に有名なスパイ」って、概念からして間違っている(笑)。

時代劇やアメコミによく出て来る「忍者」も、なんだかおかしい。あんな恰好して手裏剣や煙幕玉を投げたりしたら、目立っちゃってしょうがないだろう(苦笑)。実際には、あんな忍者はいなかったのではなかろうか?

だいたい、我々が知っている歴史上のスパイというのは、マタ・ハリにしろゾルゲにしろ、「ドジを踏んで正体がバレたスパイ」である。逆に言えば、本当に優秀なスパイは、死ぬまで正体がバレていないのだから、我々に素性を知られていないのである。

意外なところでは、誰でも知っているような有名な俳優や学者が、実は祖国のためにスパイをしているのかもしれない。あるいは、平凡で目立たない小市民一家が、実は家族ぐるみで親子代々でスパイをしているのかもしれない。

優秀なスパイは、とにかく正体不明であるため、我々の耳目に触れることはないのだ。だから未来永劫、正体不明のまま人生を終わる者も数多いことだろう。

今回、私は「本当のスパイ」の姿を描いてみたくなって、それで蜷川道標を高級スパイとして活躍させてみたのである。たぶん実際のスパイって、道標みたいな人だよ。

また、最近になって「インテリジェンス」という言葉が出回るようになった。手嶋龍一氏らが著作で使っているけど、今一つピンと来ない人が多いだろう。そんな人は、『黒南風のうた』を読んで、蜷川道標の京都での活動などを見ると、「高級スパイ」や「インテリジェンス」が具体的にどんなものなのか理解できることだろう。

ただし、これはまんざら著者の作り話でもなくて、史実の長宗我部家は、実際にそういう高級スパイを数多く使っていたはずである。蜷川道標も、間違いなくその一人だったことだろう。そう考えないと、全盛期の長宗我部元親の情報感度の異常な鋭さが理解できないのである。

 

(5)  縁戚関係について

 

長宗我部家の情報感度の鋭さといえば、この家の縁戚関係について触れなければならないだろう。

故・司馬遼太郎さんは、いくつかの著作の中で、長宗我部元親の外交センスを非常に高く評価していて、「奇跡的」とまで述べている。ただし、その根拠は、彼の存命時に出回っていた「間違った史料」から演繹されたものだ。

司馬さんが元親を褒める根拠は、彼の結婚相手が、岐阜在住の織田信長の部将・斉藤利三の妹だったことにある。つまり、「長宗我部元親は、岐阜城を攻め取ったばかりの織田信長が、いずれは天下人になるだろうと鋭く予見して、政略結婚を仕組んだ」という解釈だ。なるほど、それなら元親の予知能力は奇跡的レベルである。司馬さんの小説『夏草の賦』は、この解釈に立って描かれている。

ところが、近年の研究で、元親の結婚相手は幕臣・石谷光政の娘であることが明らかになった。京在住の貴族の日記の中に、その旨が明記されている箇所が見つかったのである。

ただし、司馬遼太郎氏の知識が完全に間違っていたというわけではなく、その娘の義兄(=斉藤家から石谷家に養子入りした石谷頼辰)の弟が斉藤利三であるため、元親の妻が、利三の義妹にあたることは間違いない。でも、それはたまたまの偶然であって、長宗我部元親が、そんな遠い縁戚関係まで視野に入れていたとは考えにくい。

つまり、元親の政略結婚は、あくまでも足利幕府との関係を強めることが目的であって、さすがに岐阜時代の織田信長を「先物買い」したわけではないのだ。元親は、そこまでの「奇跡的」な天才ではなかったのである。

しかし、この縁戚関係に、明智光秀や蜷川道標がリアルに関係してくるのだから、この複雑な人間関係が、「本能寺の変」の重要な導火線になったことは、ほぼ間違いないだろう。

あくまでも結果論だが、長宗我部元親の縁談は、歴史を大きく変える結末をもたらしたのである。

 

(6)女性の名前

 

さて、長宗我部元親の妻の名は、司馬遼太郎氏の小説では「菜々」、岡村賢二氏の漫画では「由宇」、私の小説では「小夜」である。本名が文献資料で伝わっていないので、みんな適当に名付けているのである(笑)。

よく誤解されているのだが、日本史上の女性の名前が不明であることが多いのは、「女性蔑視」とかそういう話ではない。本文の中でも説明したことだが、昔の日本人は「言霊信仰」ゆえ、名前をみだりに周囲に教えると悪霊に憑かれやすくなるという考え方をした。だから、なるべく本名を隠したがったのである。

北条政子や日野富子、あるいは羽柴寧々の名が知られているのは、彼女たち自身、あるいはその夫が筆まめであったので、本名が載った書状がたまたま現存したからである。つまり、ここまでメジャーな女性でないと、本名は隠されたまま二度と出てこないのだ。まるで、優秀なスパイのように(笑)。

そういうわけで、日本史小説を書くときは、女性の名前を創作しなければならない。

『黄花太平記』の時は、実在する菊池姓の芸能人の名前を片端から流用したのだが、あれはあれで楽しかった。ところが『黒南風のうた』の場合、長宗我部とか蜷川とか石谷とか、マイナーな苗字の人たち(失礼!)が中心人物なので、「芸能人から流用作戦」は使えなかったのである。

「小夜」という名は、インスピレーションで突然思いついた。思いついた根拠は、自分でもよく分からず謎である。

「由依」はAKBの横山由依である。個人的に推しメンというのもあるが、「京都弁を喋る若い娘」という連想で思いついたのだった。熱心なファンの人、気を悪くするような描写があったら、ごめんなさいね(笑)。

「咲子」はAKBの松井さんからではなくて、「薄幸な女性=幸子」、でも「幸子はベタすぎるから咲子」という単純な思いつきである(苦笑)。

意外なことに、考案するのに最も苦労したのが、蜷川道標の妻の名である。最終的に「久子」になるまで二転三転した。なにしろ地味な役回りの女性ゆえ、「地味なモンタージュ技法の名前」というのが逆に難しかったのだ。

ともあれ、こうやって「歴史に埋没してしまった名前を考える」のも、歴史小説を書くことの楽しみの一つである。

 

(7)  内政や管理について

 

さて、蜷川道標の妻の名がなかなか決まらなかったのは、内政担当官である道標の、基本イメージにかかわる重大要素だったからだ。別に「言霊思想」というわけではないが、名前が発散するイメージというのは(当人の妻であっても)、物語の登場人物の造形において非常に重要なのである。

私が、今回の小説で蜷川道標という内政担当官を中心人物に据えた理由は、管理業務の重要性が、従来の戦国時代ものの中で無視されがちな要素だからである。

私は、戦国大名の領国経営や領土拡張を、現代企業の経営と似通ったものとして理解している。国人や土豪と呼ばれる存在が、戦国大名にまで成り上がるためには、戦争が強いだけでは駄目である。管理部門が充実し、そこに優秀な人材が揃わなければならない。それは、現代企業も全く同じである。個人事業が大法人に成り上がるためには、管理部門こそ充実させなければならぬ。

私は、会計士や税理士といった仕事を日常にしているので、その辺りの事情がよく分かるのだ。

ただし、内政担当官は地味な仕事ゆえ、魅力的に描くのが非常に難しい。今回の小説がその意図に成功しているかどうか、読者諸氏の判断に任せたいところだ。

もちろん、蜷川道標は連歌の師匠であるため、彼を物語の中心人物にすれば、戦国の文化についても豊かに描写できるのであった。この意図が成功しているかどうかも、読者諸氏の判断に任せたいところだ。

 

(8)  長宗我部親子はバカ殿だったか?

 

長宗我部元親と盛親の親子についての通説的な解釈は、下記のようである。

「元親は、もともと名将だったのだが、溺愛していた長男の信親が戦死してから腑抜けになり、周囲の反対を押し切って無能な末っ子(盛親)を家督に据えた上、それに逆らった家臣を虐殺するなど暗君化した。そして、その跡を継いだ盛親は、案の定な無能なバカ殿で、お家取り潰しにあった挙句、最後は大阪城で無駄な抵抗をしたため、惨めに犬死にした」。

私は、この解釈に全面的に反対である。

元親の家督継承に関するポリシーの妥当性、並びに盛親の行動の正当性については、小説の中で詳しく描いた通りである。

もちろん、長宗我部家が惨めに滅亡したのは事実であるが、それはあくまでも「結果論」なのである。後世の評論家が、無責任に「逆算の論理」で言い立てられるほど、戦国時代は甘いものではなかったはずである。

我々が、歴史というものに現代を賢く生き抜くための「温故知新」を望むのならば、すべての結果を知った上で無責任な後知恵を述べるのではなく、当事者の過酷で不安定なリアルタイムに沿った上で、しっかり物事を考えることが大切であろう。

 

(9)  戦国の三英傑について

 

この小説の中では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった三英傑が、とんでもない悪党のように描かれている。これは別に、何らかの演出的意図でそうしたわけではなく、著者が「実際にそうだったに違いない」と考えているためである。

最近のドラマや小説を見ていると、戦国時代が随分と牧歌的に描かれているようだが、実際はあんなものでは無かったと思う。殺戮や疫病による死体がゴロゴロ散乱するのが日常風景で、家庭生活や友情なども、現代人の想像を絶するくらいに荒みきっていたと思う。だからこそ、一向宗やキリスト教があれほどのブームになったのだろう。宗教に頼らないと、とてもやっていられないほど過酷な人生を、みんな送っていたのである。

そういうわけで、私はこの小説の中で、登場人物が同胞の死を悼む場面をほとんど描いていない。これは、「死が当たり前」だった当時の状況を考えて、あえて、死の悲しみを現代風に大げさに描かないようにしたのである。

さて、そんな残酷な世界の中で頭角を現した戦国大名たちは、恐ろしいマキャベリストだったに違いないし、そんな彼らを打倒して天下人になった者たちは、想像を絶するほど人格が破たんした悪魔みたいな奴らだったに違いない(苦笑)。

この小説の長宗我部元親は、かなり悪辣なマキャベリストであるが、人間としての暖かさを失っていない。それこそが、彼の限界であり敗因であったのだろう。

で、三英傑の中で、最も悪魔的なのは徳川家康である。彼は、日本人から覇気を奪って「家畜奴隷」に作り替える人物として登場する。

「そんなバカな」と笑う人は、一度、胸に手を当てて周囲の状況を見てください。今の日本が、果たして家康の思惑通りに動いていないと、自信を持って言えますか?

私は、小説を読了した読者の心に「毒」を残すことを楽しみにしている。「ああ、面白かった」で、終わって欲しくないのである。今回の『黒南風のうた』も、まさにそんな小説である。

読者諸氏の心の中に、不思議なザラザラ感が残ったとすれば、この小説は大成功である。

なお、文庫版(紙)が、9月に文芸社から刊行される予定である。電子書籍に嫌悪感を抱く人は、そちらを楽しみにしてくださいね。