歴史ぱびりよん

第一話 乱世の花嫁

それは、運命の出会いだった。

戦国乱世が過酷さを増し、下剋上の空気が世相を重く染め尽くす永禄六年(一五六三年)の夏、室町幕府の政所代(まんどころだい)蜷川(にながわ)新右(しんう)衛門(えもん)(ちか)(なが)は、京・烏丸(からすま)の一条邸にて、奇妙な青年と対面した。

土佐(高知県)から上京してきたその青年は、長宗(ちょうそ)我部(かべ)()三郎元(さぶろうもと)(ちか)と名乗った。はるばると鳴門の渦潮を越えて、嫁を貰いに来たのだという。威風堂々の美丈夫は、正式な小笠原式礼法をもって、畳の上でゆっくりと時間をかけて挨拶をした。

亭主の一条(いちじょう)内基(ただもと)卿は、目を白黒させるばかりの蜷川新右衛門と、彼の隣に座すその義弟・石谷孫九郎頼(いしがいまごくろうより)(とき)をおかしそうに眺め回し、持ち前のかん高い声で事情を説明した。

「弥三郎どのは、我が一条家と深い縁のある国人・長宗我部家の当主で、当年二十五歳に相成るが、まだ正妻がおらぬ。そこで、我が家に挨拶に参ったついでに、良き嫁を所望しておる次第じゃ」

「まだ事情が呑み込めないのですが」新右衛門は要点をはっきりさせたいと思った。「我らがここに招かれたのは、義妹のことでしょうか?」

「さすが新右衛門どのは、察しが良いでおじゃるの」一条卿は、薄い眉を揺らして人懐こい笑顔を浮かべた。この若き名門公卿と新右衛門は、連歌の会を通じての親しい仲である。

蜷川新右衛門は、平伏したままの弥三郎青年をチラチラと眺めつつ、京でも評判の美女である義妹を思い浮かべた。疑問は山ほどある。この田舎の青年は、どこでどうやって義妹のことを知ったのだろう? また、田舎の豪族は田舎の豪族同士で婚姻を結ぶのが通例なのに、どうしてわざわざ京で嫁取りをするのだろう? そもそも、長宗我部はどのような家なのだろう? 義妹を嫁に出しても大丈夫なのだろうか?

幕府の政所で訴訟関連の執務を行う蜷川新右衛門は、計数に明るく諸芸に通じ、公方(足利将軍・(よし)(てる))のみならず主上(正親町(おおぎまち)天皇)や公家衆からも一目置かれる人物だった。その記憶力は抜群で、日本全国の大名や国人豪族について精通している。だが、その彼にして、長宗我部などという奇妙な名の国人の名は記憶になかった。後で政所に帰って調べ直してみたところ、土佐長岡郡の岡豊(おこう)を中心とする、わずか三千貫の所領を持つ小さな豪族であると、人別帳に記録されていた。

一条邸をいったん辞去した後、石谷邸で持たれた家族会議で、当然そのことが問題となった。公家屋敷の客間では借りて来た猫のように小さくなっていた義弟・石谷孫九郎は、持ち前の勇猛な気性を回復して荒れ狂った。

「そんな田舎の小さな豪族に、可愛い妹をやるもんか!」

巨漢で筋肉質の孫九郎が怒ると、かなり怖い。今年で二十三歳になるこの石谷頼辰は、室町幕府の()(ざま)(づめ)(しゅう)、すなわち足利将軍の親衛隊の一員である。彼の出身氏族・斉藤氏は美濃(岐阜県)の武門の名家で、孫九郎頼辰はその血筋と武勇を幕府に見込まれて、こうして京で精勤しているのだった。

彼は五年前に、先祖代々の所領を実弟の斉藤(さいとう)(とし)(みつ)に任せて上京し、そして室町幕府の名臣・石谷(いしがい)光政(みつまさ)の婿養子となった。このとき一緒に上京した姉の久子(ひさこ)は、幕府の政所代・蜷川親長に嫁いだ。こういう経緯で、蜷川親長と石谷頼辰は義兄弟の間柄となっている。そして噂になっている美女は、頼辰が養子入りした石谷光政の実の娘であるのだから、頼辰にとっては腹違いの妹という位置づけになるわけだ。

さて、義弟の激高ぶりを見ていた蜷川新右衛門は、かえって冷静な心境になって、ゆっくりと語り諭した。

「孫九郎、しかし見てみよ。この下剋上の乱世の有様を。もはや古い権威は役に立たず、旧い武力は没落して行く。日本の武士の棟梁であらせられる大樹(たいじゅ)さま(足利将軍)でさえ、わずかばかりの小勢を引き連れ、各地の陪臣たちと小さな所領を巡って小競り合いを繰り返す日々じゃ。しかも、その身上には三好や松永といった有力な奸臣たちが邪視を送っているのだから、いつ何が起こるとも分からない。その一方で、天下万民の父であらせられる主上(天皇)といえば、糊口をしのぐために、各地の大名に官位や書を配っている有様ではないか。長宗我部が田舎の小豪族だからと言って、それほど侮れるものでもあるまい」

「そんなん、分かっちょる!」頼辰は振り絞るような声で呻いた。「そんな無茶苦茶な世の中だから、小夜(さよ)はなかなか嫁に行けんのではないか?」

「だったら土佐の御曹司は、救いの神ではないかな? 見たところ、かなりの美丈夫じゃったぞ」

「そういう問題ではない!」頼辰は腕組みをした。「土佐は鬼の国じゃ。人外魔境やら」

なるほど、土佐は太古から流刑地として知られていた。なにしろ、可耕地となる平野がわずか十二パーセントしかないので人口は非常に少ないし、南を海に、残る三方を深い山に囲まれた独特の地勢は、流刑地にこそふさわしい。平家の落ち武者たち、そして後鳥羽天皇や後醍醐天皇の係累たち。歴史上、この地を踏んだ有名人は、政治的な敗残者か罪人が多い。なにしろ、これほど交通の発達した現代でさえ、飛行機以外の手段では高知県に入りにくいほどの険阻な地なのだ。

「逆に、安全なのではないか?」新右衛門は言った。「むしろ京よりも、戦乱や下剋上が少ない、穏やかな平和郷かもしれぬぞ。土佐に所領を持つ一条卿の、あの羽振りを見よ」

「……」孫九郎は、再び腕組みをした。もしかすると、義兄の言うことにも一理あるかもしれぬと気づいたのだ。妹思いの彼としては、可愛い妹の幸せこそが何よりも大切なのだった。

その時、黙って議論を聞いていた頼辰の養父・石谷兵部(ひょうぶ)大輔(だゆう)光政が、眠たげな眼を見開いて、上座から口を挟んだ。

「十兵衛どのが、京に帰っているはずじゃ。明智十兵衛どのは、武者修行で四国に赴いていたことがあるから、長宗我部家について何か知っているかもしれぬ。かの者に実情を聞いてみるのが確実ではあるまいか?」

「親父どの、それは妙案」新右衛門が笑顔で膝を叩いた。「そうじゃ。事情通の十兵衛なら土佐の国情に詳しいかもしれませぬ。まだ宵の口じゃ。今から酒をもって訪ねてみるとしましょうぞ」

蜷川新右衛門親長と明智(あけち)(じゅう)兵衛光(べえみつ)(ひで)は、かねてより親しい友人同士であった。

 

一条烏丸の石谷邸を出た蜷川新右衛門は、近所の酒屋でどぶろくと干し魚を買うと、愛馬に乗って四条大宮の友人の借家へと駒を進めた。

蜷川新右衛門は、今年で三十歳になる吏僚である。痩身・小柄で、いかにも真面目そうな風貌の持ち主だ。室町幕府の政所代といえば、並みいる官僚の中でもエリート中のエリートである。そのはずだ。そうあるべきだ。しかし、よく見ればその(かり)(ぎぬ)は継ぎ当てだらけ。実際には、着衣を整える資金も枯渇ぎみなのだ。年貢収入も俸給も、ここ数年はひたすら減る一方だった。

戦国乱世の恐ろしさは、既存のあらゆる常識を失わせることにある。京に住む朝廷や幕府の官僚たちは、各地の所領から集まった租税で生計を立てていた。ところが、各地で群雲のごとく現れる土豪や宗教団体や一揆が、これらの所領を横領して租税を強奪してしまうため、その生活は日を追って苦しくなる一方なのだった。

「あの土佐の御曹司、なかなか良い服を着ていたな」新右衛門は、馬上で羨望気味に呟いた。「もちろん奴だって程度の差はあれ、我らの荘園を略奪して資を得ているのだろうが、今のような乱世の中では、それこそが賢く正しい生き方なのかもしれぬ」

彼は、貧しくなる一方の生活の中で、時折途方に暮れたような不安顔を見せる妻のことが不憫でならなかった。彼自身は、大好きな連歌に打ち込めば、大好きな友人と酒を呑んで歓談すれば、それだけでこの世の憂さとおさらば出来るのだが、現実的な妻はそうではない。

気のせいか、道中で行き会う京童(きょうわらべ)の表情も、なんだか冴えないし暗い。

「どうすれば良いのだろう? この世の中は、いったい全体どうなってしまうのだろう」

今夜もおそらく、明智十兵衛とそんな暗い会話を交わすことになるのだろうと想像しながら門前で馬を下りると、茅屋の中から陽気な笑い声が聞こえて来る。

「先客かな」

馬の手綱を門柱に結わえつけてから、建て付けが悪い表戸を開けつつ声をかけると、納戸にいた大きなお腹の婦人が笑顔で出迎えてくれた。亭主の愛妻・煕子(ひろこ)である。普段は美しい黒髪が印象的な美女なのだが、臨月のせいか面やつれしている。

「新右衛門さん、お久し振りですね」

「御息災ですかな。おお、お腹のやや子も、すっかり大きくなって」

土産を渡しつつ世間話をしかけたら、障子の向こうから額の広い痩せた男が顔を覗かせた。この家の主、三十一歳の明智十兵衛光秀である。

「誰か来たのか? ああ、新右衛門どのか」満面の笑顔になる。「細川兵部(ほそかわひょうぶ)どのが一緒だ。もうすっかりご機嫌だよ。さあ、上がってくれ」

「夜分、いたみいる」

奥座敷に入ると、そこには恰幅の良い日焼けした壮年がいた。いや、日焼けというより酒焼けかもしれない。二十九歳の細川兵部(ほそかわひょうぶ)大輔(だゆう)(ふじ)(たか)は、もうすっかり出来上がっていた。

この人物は、二十三名いる室町幕府御供衆の筆頭である。剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん)に師事し武勇に秀でるのみならず、和歌や茶道に通じた当代の教養人だ。明智十兵衛は、形式上はこの人物の家来に当たる。しかし、気の合う二人は身分の差など物ともせず、こうして非番の時は一緒に遊んでいるのだった。もちろん、連歌愛好家の新右衛門とも旧知の仲である。年が近い三人は、ともに幕府の仕事に就いていることもあって、馬が合う関係であった。

酒宴の最中に、蜷川新右衛門が長宗我部家の話を持ち出すと、明智十兵衛はやっぱり知っていた。

「あの家はな、一度滅亡しているのだ」

「滅亡だって?」

「うん。長宗我部家は、もともと南北朝以来の細川家の被官だ。(きゅう)(ごう)(あん)(土佐で最も格式の高い寺)を職掌する国人として、なかなかの威勢だったのが仇となった。土佐の七雄と呼ばれる国人たちに不意を襲われ、岡豊城は落城して当主(兼序(かねつぐ))は自害。その幼い嫡子・五歳の(せん)(おう)(まる)だけが、家臣に手をひかれて夜の闇を逃げ落ちたのだ」

「それで?」聞き手二人は、身を乗り出した。

「土佐中村の一条家に逃げ落ちた千翁丸は、臥薪嘗胆の念を胸に時節を待った。そんなある時の酒宴で、当時の一条家の当主・房家(ふさいえ)卿は酔いに任せた勢いだろうが、『(酒席が置かれた)この一丈(三メートル)の高さの桟敷から、下に飛び降りた剛の者には、その望みをすべて叶えてつかわす』と放言したのだ。その言葉を聞いていたのが、幼い千翁丸。自らの命を顧みず、間髪を入れずに飛び降りてみせた幼子の健気さよ。感動した一条卿は、幼子の望みに任せて土佐の七雄に話をつけ、長宗我部家の先祖伝来の所領を取り戻してあげたのだ」

「すごい話だな」新右衛門も細川兵部も、杯を口に運ぶ手を休めて聞き入った。

「その後、元服した千翁丸は長宗我部(くに)(ちか)と名乗り、周囲の国人たちを、あるいは取り込みあるいは討ち、その勢力を強めていった。惜しくも数年前に逝去されたようだが、弥三郎元親というのは、その嫡男のはずだ。ほう、今は上京して来ているのか」

「うん、一条卿のお屋敷に逗留しているよ。さっき会って来たばかりだ。それで土佐は、やはり相当に荒れているのか?」新右衛門が、最も気になることを尋ねた。

「乱世の最中にあることは間違いない。だが、国の中央部は、ほとんど長宗我部とその与党が掌握したと聞いている。土佐七雄の筆頭であった宿敵・本山(もとやま)氏は、今では北部の山岳に押し込められて青息吐息だ。土佐はいずれ、長宗我部家に統一されるだろう。だからこそ、当主が自ら上京出来るくらい余裕があるのだろうな」

「じゃあ、長宗我部家の所領がわずか三千貫というのは?」

「それは昔の話だ。政所の人別帳が古いのではないかな?」

「ならば、今の土佐は比較的安全で、長宗我部家は安定しているのか。いやね、義妹を長宗我部に嫁がせる話が出ているのよ」

「えっ、小夜どのが? 相手は(ひめ)若子(わこ)どのか?」十兵衛もさすがに驚いた。

「姫若子って?」

「当主・弥三郎どののあだ名だよ。彼は若いころ、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいたから、そういうあだ名がついたのだ。それに、土佐人の割には色白と聞いたが?」

「なるほど、そういえば」新右衛門は、元親の容姿を思い返した。赤銅色に日焼けしている土佐人の一般的なイメージと違って、元親は確かに色が白かったように思う。

「弥三郎どのは、秦の始皇帝の子孫と名乗っているとの噂だが、どんな感じだった?」十兵衛は、好奇心いっぱいの面持ちで身を乗り出した。

「どんな感じって?」新右衛門は苦笑した。「わしは、秦の始皇帝に会ったことが無いから、比較のしようがない」

「いやいや、何かあるだろう? 日本人離れした何かを感じるとか」

「それはまあ、人品骨柄が人に秀でているという印象は強く受けたな」

「ならば、使えるのではないか?」細川兵部が、頬を引き締めた。

「『いろはの会』の仲間に入れると、そういうことか?」明智十兵衛も目を光らせた。

「ついに、そっちの話が始まったか」新右衛門は苦笑しつつ、杯を静かに干した。

 

「いろはの会」というものがある。

もともとは、洛中の教養人が集まって「戦国乱世の中で、豊かな日本文化を守り抜く」ことを趣旨とする会であった。ただしその活動内容は、みんなで定期的に集まって連歌会や茶会を開きつつ、世の乱れについて愚痴を言い合うことであった。そして蜷川新右衛門は、この会の草創期からのメンバーであった。

この文化サークルが急激に変質したのは、細川兵部大輔藤孝が参加してからである。彼は何しろ将軍家御供衆であるから、室町幕府に対して一定の影響力を持っている。軟弱な時事評論ばかりの「いろはの会」に飽き足らなくなった兵部は、時事評論の中から得られたヒントを元に、これを具体的な政略として現実化させようと動き始めた。

細川兵部の考えは、こうである。美しい日本の文化を守り抜くためには、一部の教養人が小さなサロンの中で愚痴を言い合っているだけでは無駄である。文化を守るための前提条件として、まずは、この国の政治をしっかりと固めるのが先決であろう。すなわち、下剋上や戦国乱世を終息させて、日本を昔のような美しい国へと建て直す必要がある。天皇は国民の精神的支柱として宗教世界での聖域に立ち、将軍は国民生活の支柱として政治世界に強力に君臨する。そして、この二つの軸を中心にして、すべての日本人が平和で安心で幸せな生活を送る。そんな社会を築くことこそが、細川藤孝の夢であった。

やがて、明智十兵衛光秀が会に参加してから、この動きはさらに加速した。武者修行と称して諸国を漫遊して来た十兵衛の経験と知恵は、「いろはの会」の文化活動に深みを与えただけではなく、細川兵部の政略にも大きな弾みをつけたのである。

同じ夢を抱く兵部と十兵衛は、計画を練った。

まずは、天皇と将軍に対して尊崇の念を抱く地方大名を京に招き入れる。そして、その軍事力をもって朝廷と幕府の政治基盤を安定させ、これを梃子にして乱世を一気に終息させるのだ。

この策を受けて、足利将軍・義輝は実際に、越後(新潟県)の(うえ)(すぎ)(てる)(とら)(後の謙信)や尾張(愛知県)の織田(おだ)信長(のぶなが)らに積極的に働きかけ、彼らの旺盛な武力を京に導入しようと動いているのだった。そして輝虎も信長も、側近とともに上洛して将軍に拝謁し忠誠を誓ってくれた。しかしながら、越後や尾張は京から遠すぎるから、輝虎や信長に十分な誠意があったとしても、大軍を連れて入京した上で、その軍事力を維持し続けるのは非常に難しいことだろう。

あと一手が足りない。

そんな情勢の中で、兵部と十兵衛が、京まで海路を用いれば至近の距離にある土佐に注目したのは、自然の流れであった。彼らは、長宗我部元親を、可能ならば「いろはの会」の英雄にしたいと思ったのである。朝廷と幕府を守る切り札にしたかったのである。

しかしながら、そこまでの野心家でも夢想家でもない平凡な吏僚・蜷川新右衛門親長は、友人たちの無邪気な興奮ぶりを苦笑しながら眺めているのだった。

 

この翌日、三人は長宗我部元親を訪ねることにした。

土佐の新興勢力の主は、一条邸の客間にて、屈強な士卒一人を背後に従えて出迎えた。七つ方喰(かたばみ)の家紋入りの礼装を纏った元親は別格だが、その後ろに座す士卒の綿の衣類が、色彩が淡くモサモサとして妙にみすぼらしいのが印象的であった。

互いに堅苦しい小笠原礼法で挨拶をした後は、姿勢を崩して茶を喫しながらの歓談となる。しかしながら、会話はなかなか弾まなかった。主客とも、相手に対して用心深く探りを入れるような態度を取ったことがその理由だが、この場の主である長宗我部元親が極端に無口であることも、その傾向を助長していた。

元親は、無言のまま三人の客の前に座している。高烏帽子(たかえぼし)を被った長身で彫りの深い色白の居住まいは、背筋をピンと伸ばしてそこに座っているだけで威圧感がある。その藪にらみの視線は、客たちの少し背後を射しているようであり、なんだか得体が知れない。

たまりかねた蜷川新右衛門が、「長宗我部弥三郎どの」と声をかけると、相手は驚いたような顔をして、大きな目でじっとこちらを見つめて来た。しばしの沈黙の後、元親は懐紙を袂から取り出すと、静かにそれを畳の上に広げ始めた。そこには、官職名が黒い墨で記されている。どうやら、朝廷から正式にこの官位を受任したのだと言いたいらしい。

宮内(くない)少輔(しょうゆう)ですか。ならば、長宗我部宮内少輔どの、とお呼びすればよろしいか?」明智十兵衛が問うと、相手は右手を顔の前でブンブンと振った。

三人の客が、意味が分からず顔を見かわしていると、元親は短く低い声で「ちょうきゅう」と言った。

「は?」細川兵部が身を乗り出すと、

「長宮と呼んでくだされ」

「ちょうきゅう?」

「長宗我部宮内少輔では、長すぎて舌を噛んでしまいますきに、縮めて長宮と呼んでくだされ」そう言って、長い名前の持ち主はカラカラと笑った。「あしは、自分の名前の長さが嫌いなのです。だから、書状に署名する時も、『長宗』か『秦』で済ませますきに。長宗我部とは間違っても書かぬがぜよ」

「はあ」三人の客は、顔を見合わせた。思っていたよりも、奇妙な人物だ。

「いま、(はた)とおっしゃられたが」明智十兵衛が、短く咳払いしてから切り出した。「長宮どのの姓は、秦とおっしゃるので?」

「そうです」元親は笑顔で頷いた。「はたは、秦の始皇帝の秦の字です。すでにお聞き及びかもしれませんが、我が家は始皇帝の子孫ですきに。長宗我部というのは、苗字です」

ここで解説すると、当時の日本人には、姓と苗字の二種類があった。姓はその者の出身氏族を顕すのだが、苗字はその一族の居住地を示すのが一般的であった。

たとえば、足利将軍家の姓は「源」であるが、その近い先祖が下野(しもつけ)(栃木県)の足利に所領を持って住み着いていたことから、他の源姓(源氏)と区別する目的もあって、「足利」という苗字を名乗るようになったのである。

ただし、姓は当時から随分とデタラメであり、自分の家柄に箔を付けたい者が、後から詐称することが多かった。たとえば、織田信長の姓は「平」、徳川家康の姓は「源」であるが、これらは非常に疑わしい。後から系図を捏造して、こじつけたとしか思えない。

一方、豊臣秀吉の姓は「豊臣」であるが、この珍しい姓は、彼が卑しい出自であることが早くから天下一円に知れ渡っていたことから、今さら伝統的な姓を詐称することが出来なかったので、それで仕方なく朝廷に申請して新たな姓「豊臣」を創始した結果なのであった。

これらに比べると、長宗我部家の秦姓は、まだしも信憑性が高いと言える。

長宗我部家は、もともと信濃(長野県)に住んでいた秦一族出身なのだが、ここ信濃は古代律令時代から、実際に渡来人が多い土地柄であった。やがて、鎌倉時代に土佐に移住することになったこの一族は、長岡郡の宗我部に所領を持ったことから、苗字を「()我部(かべ)」とした。ところが、隣接する香美(かみ)郡にも宗我部と名乗る豪族がいたので、それと区別するために、長岡郡の宗我部という意味で「長宗我部」を苗字にするようになったのである。なお、香美郡の宗我部家は、それに対応して「香宗(こうそ)我部(かべ)」と苗字するようになったのだが、土佐七雄の一角であったこの家は、今では長宗我部家の属国である。

これは余談だが、かつて長宗我部氏が居住していた長野県では、羽田(はた)姓の人が勢威を誇っていて、総理大臣や政治家を輩出している。羽田は秦に通ずるので、この人たちが秦氏の直系の子孫なのだろう。

ともあれ、長宮と名乗る青年は、土佐の長岡郡に住んでいる宗我部一門であり、その出身氏族は渡来人系の秦氏ということになる。もっとも、古代日本にやって来た渡来人の秦((こう)満王(まんおう))が、本当に始皇帝の子孫なのかどうかは眉唾なところではあるが、少なくともこの青年は、自分自身のことを古代中国の偉大な帝王・秦の始皇帝の子孫だと信じているのだった。

「それで、今回の上洛の目的は、官位の申請であったのでしょうか?」細川兵部が尋ねた。

「うん。実は、宮内少輔を数年前から勝手に名乗っているのですが、今回、正式に朝議に申請した次第です。すぐに受領できましたが」

元親は、おそらく朝廷にかなりの貢物をしたのだろうが、その素振りを少しも見せない。いずれにせよ、下剋上の世相で朝廷の存在を完全に無視して勝手に官位を詐称する者が多い中、わざわざ上洛して正式に官位を受領した態度は立派である。また、彼が自ら希望して受領した「宮内少輔」は、本来、天皇の身の回りの庶務を行う役職なのである。となればこの長宗我部元親は、日本の伝統を大切に考える「いろはの会」の仲間に入る資格は十分に持っていそうだ。細川兵部と明智十兵衛は、密かに目配せを交わした。

「じゃが」長宮青年は間延びした声を出した。「官位受領は実は、ついでの仕事だったのです。本当の上洛の目的は嫁取りです」そして、新右衛門の顔をじっと見た。「小夜どのには、いつ会えますかな?」

新右衛門は思わず、口にした茶菓子を喉に詰まらせてむせてしまった。

ゴホゴホとえずく新右衛門をじっと見つめながら、長宮は奇妙なことを言い始めた。

「蜷川新右衛門さんと言えば、一休禅師の高弟として著名です。あなたは、さぞかし禅にお詳しいのでしょうね?」

変なことを良く知っているな、と内心で感心しつつ、喉のつかえを水で流した新右衛門は、一休さんと交流していた蜷川新右衛門(ちか)(まさ)は自分の五代前の先祖であること、自分の得手は禅ではなく、むしろ連歌であることを説明した。

「連歌ですか」長宮は声を震わせた。「うちには、そういう文化が無い。今度ぜひ、いろいろと教えていただきたいものです」

「機会があれば、ぜひ」新右衛門は、社交辞令として事務的に応えた。一日や二日で教えられるほど、歌の世界は甘いものではない。

「それでは、いつ下向願えるか?」長宮はキラキラした瞳を向けて来る。

「は?」

「土佐には、いつ、移っていただけますかな?」

応えようがないことを聞かれて、新右衛門は黙り込んでしまった。曲がりなりにも室町幕府の政所代である彼が、職務を捨てて土佐に移り住むことなど有り得ないだろう。いくら薄給だとしても。

しばしの沈黙の後、明智十兵衛が話の穂を継いだ。

「ところで長宮どのは、いったいどこで小夜どのを見知ったのですかな?」

長宮は、顔の前で手をブンブンと振った。

「ぜんぜん知りません」

「それでは、いったいどうして?」

「血です」

「血?」

「我が家は、美濃源氏・石谷家の勇猛な武家の血が欲しいのです。そして小夜どののお噂は、土佐に出入りしている御用商人から聞きました」

「なるほど」

美濃出身の明智十兵衛は、長宮の言わんとしていることが何となく理解できた。上方志向の強いこの田舎の青年は、配偶者に源氏の貴種の血筋を入れることで、己の箔を付けたいのであろう。

すると、長宮の後ろの方から、奇妙な舌音が聞こえてきた。

「ちゃちゃちゃちゃちゃ」

彼の護衛役の小柄で屈強な武士が、茶筅髷(ちゃせんまげ)を振りつつ赤銅色の額をさらに赤く染めているのだ。

「なんじゃ、飛騨!」長宮が後ろを振り返りつつ舌打ちすると、

「お館、てんごう(冗談)はいかんぜよ。色好みで助平だからじゃと正直に言いなされ。宍喰屋(ししくいや)という商人から、小夜どのの美貌についてあれこれ聞き出して大喜びじゃったろうが」飛騨と呼ばれた武士が早口に喋った。

「ほたえな(黙れ)、こら!」長宮は怒鳴った。そして客たちの方に向き直り、「ここにいる福留(ふくどめ)飛騨(ひだ)(のかみ)は、昔から粗忽(そこつ)一辺倒でしてな。ご無礼の段、ご容赦くだされ」

三人の客は互いに顔を見合わせた。そして、細川兵部が咳払いをした。

「長宮どのの心映えは、よく承知いたしました。小夜どの本人とも相談の上、また後日伺います」

客間を辞去した彼らは、屋敷の主・一条内基卿に簡単な挨拶を済ませると、馬繋ぎの前で打ち合わせをした。辺りを遠く見渡せば、彼らの眼前には「応仁の乱」以来の惨禍による焼け跡が、まだあちこちに残っている。ここ一条邸とその周辺だけが、別格の華やかさなのだった。

「どう思う?」

「ううん……」

「変わった人物だ」

「あれで、わしらの英雄に成れるか?」

「見かけによらない人物との風評もあるぞ。長宮どのは、初陣のときもあんな感じで飄々としていたけれど、実際に戦が始まると自ら敵陣に駆け込んで、あっという間に騎馬武者数名を討ち取ったとか。その後も、知謀湧くがごとしで、次々に堅城を抜いたとか」

「本当に、見かけによらないな」

「英雄だからかもしれない」

「わしらのような凡人では、彼の器を測れないと?」

「わしは、とりあえず今日の印象を大樹さま(足利将軍)に報告してくる。十兵衛と新右衛門どのは、どうする?」

「わしは、身重の妻が心配なので、いったん家に帰る。新右衛門は?」

「石谷家に話をしに行くよ。縁談の件に限って見れば、悪い話ではなさそうだ」

こうして、三人は別れた。

 

「土佐になんか、絶対に行きまへん!」

小夜はきっぱりと言い切った。

蜷川新右衛門は、黙って可愛い義妹の顔を見つめた。こういう応えが返ってくることは、初めから分かっていた。石谷邸の客間にて、二人は正座の状態で睨み合っている。

二十一歳の石谷小夜は、大柄で骨太の女性である。だけど、顔立ちは瓜実顔で、京の街中でも人々が思わず振り返るほどの美貌の持ち主であった。ただし、背の高さと気性の激しさはいかんともしがたく、彼女の縁談がいつも難航するのは、つまりそういうことだった。ただ、考えようによっては、丈夫で健康な子をたくさん産んでくれそうな(しし)おきをしているので、「血」にこだわる長宗我部元親にとっては、確かに最も理想的な女性と言えるかもしれない。

しばし無言で睨み合っていると、邸宅の主であり小夜の実父である石谷光政が、障子を開けて入って来た。白髪頭をしきりに振りつつ、悩ましげな表情だ。

「たった今、細川兵部どののお使いが来たよ。『大樹は、この話にお喜び』。新右衛門どのに、そう伝えよと。わしには意味が分からないのだが、この話というのは、もしや小夜の件ではあるまいか?」

「親父どの、お察しのとおりです」

「やれやれ、大樹さま(足利義輝)まで出張って来たか」

「そのようですね」

「それで、新右衛門どのは、この話をどう考えているのじゃ?」

「昨夜お話ししたとおり、わしは乗り気です。今日、長宗我部どのとお会いして、その印象を強めました。その根拠は」

新右衛門は、正面に座る小夜に視線を据えながら、彼の隣にゆったりと腰を降ろした義父に向かって滔々と語りかけた。

第一に、長宗我部元親が、連歌の師匠として新右衛門を土佐に招こうとするくらいに教養人であること。

第二に、彼が朝廷から受領した官位が、国の守護(土佐守など)ではなく、宮内少輔であったこと。これは、朝廷への尊崇の念が強いからと思われる。

第三に、長宗我部家は人間関係が非常に緊密で、主従が互いに本音をぶつけ合えるような風通しの良い家柄であるらしいこと。

第四に、長宗我部家は現在成長中であり、土佐の統一平定も間もなくの勢いである。つまり、将来に大いに期待が持てる家である。だからこそ、大樹さまも注目しているのである。

第五に、元親が美濃源氏・石谷家の血統を非常に高く買っており、ほとんど憧れのような気持ちを抱いていること。小夜に対する想いも、一時の色好みとは違うのだから、きっと生涯大切にしてくれるはずである。

小夜は、それを聞いて柳眉をひくりと動かした。なかなか好反応である。

「ふうむ」光政は、まんざらでも無さそうに微笑んだ。血筋を褒められたのだから、当然であろう。「それで明智十兵衛どのは、何と言っておられたか?」

この義父は、以前から明智光秀を当代の大人物と見なしていて、常にその考えを知ろうとする。新右衛門は、これに嫉妬のような気持ちを抱くこともあるのだが、素知らぬ調子で応えた。

「はっきりとは聞いていませんが、好印象だったようです」

「なるほど。土佐の長宗我部の勢力は、奸臣・三好の本拠地である阿波(あわ)(徳島県)を、背後から突き崩す布石になる。大樹さまも十兵衛どのも、そう考えておられるのだろうな」光政は、腕組みをして難しい顔をした。

畿内の最高実力者・三好(みよし)修理(しゅり)大夫(だゆう)長慶(ながよし)は、足利将軍家と良好な関係にあると言われていた。しかし、それは表面だけの話であって、実際には苛烈な権力闘争が水面下で行われていた。三好長慶は、何度も暗殺者に襲われているのだが、その背後にいるのが足利将軍・義輝であることは、事情通の間では周知の事実である。

阿波の三好家は、もともと室町幕府の管領・細川家の配下だった。それがいつのまにか下剋上し、今では細川管領に代わって畿内の政治を総攬しているのだった。つまり、この国の政治の実権は、天皇から足利将軍に、足利将軍から細川管領に、細川管領から三好長慶へと、下へ下へと移っているのである。しかも、その三好家の実権は、今では家老の松永弾(まつながだん)正久(じょうひさ)(ひで)に握られているとの噂である。まさに、下剋上の様相は加速していくばかりなのだった。これでは、この国の混乱は深まるばかりである。

だからこそ、足利将軍も「いろはの会」も、この動きを食い止めようと動いているのだ。

「結局は、何もかもが政治なんやね」小夜が、大げさに溜め息をついた。

「土佐の御曹司は、好男子であるぞ」新右衛門は、そう言って微笑んだ。

「相手が誰であれ、土佐になんか行きたくありまへん」小夜は、せめてもの抵抗を見せて呟いた。

だが、戦国時代の婚姻は、こんな調子で決まるのである。女性の人格よりも、政治が優先されるのである。女性は、そんな中で幸福を求めなければならなかった。