元弘二年六月下旬。ついに紀伊で大塔宮が活動を開始した。十津川の竹原一族を味方につけて、伊勢へ出兵したのである。
大塔宮護良親王は、後醍醐天皇の第三皇子である。もとは比叡山の座主であったが、父の挙兵に応じて比叡山の僧兵を率いて起ったのである。
彼は皇子でありながら武芸の達人であり、しかも不撓不屈の闘志をもっていた。父の遠島行きの後も畿内に潜伏し、同志楠木正成とともに各地の豪族を調略し、同時に後醍醐天皇の救出を計画していたのであった。
竹原一族の伊勢侵入は、実は陽動作戦であった。大塔宮の真の狙いは、河内の金剛山を基点とした恒久陣地を築き、幕府の大軍に持久戦を挑むことにあったのだ。ゆえに宮はすぐに紀伊を抜け出すと、大峰山を経て吉野へ向かった。
菊池兄弟が、なかなか宮や楠木正成の所在をつかめなかったのは、宮が意識的に情報操作して偽りの居場所をふれ回ったためである。しかし、宮と幕府軍の交戦が始まると、もはや情報操作の余地はなかった。六郎、七郎の兄弟と城隆顕の一行は山伏に変装し、ただちに摂津を出発したのである。
「やれやれ、商人やら山伏やら、なんでこんな格好しなきゃいかんのじゃ。鎧兜がなんだか懐かしいわい」と、愚痴るのは七郎武吉である。
「仕方ないだろう。宮や楠木は、山伏や修験者を使って各地と連絡してるらしいからな。早く彼らに会うためにはこの姿に限るよ」と、なだめるのは、いつも六郎武澄である。六郎は武士を離れていることに、さほど抵抗は感じていないようであった。
「さあ、急ぎましょう。菊池ではお屋形様が首を長くして首尾を待っておりますぞ」と、城隆顕はいつでもまとめ役である。
菊池一行は、金剛山を経由して紀伊に出ようとしたのだが、石川の散所 部落 で、まず楠木正成の消息を知ることができた。散所というのは一種の交易所であり、百姓でも武士でもない散所民が集うところである。鎌倉幕府の陳腐化の原因は、このような既存の秩序を逸脱する人々の利害を無視したことにもある。これからの政治社会は土地の所有関係だけでなく、交易や金融関係をも考慮する必要があるのに、幕府はそれを怠ったのである。そのため、散所民たちは皆、楠木正成による世直しに好意的であった。
「楠木さまは河内におられますよ。今頃は築城でもなさっているでしょう」散所の長者は、案外簡単に正成の居所を教えてくれた。
北条一門以外の武士には広く門戸を開くようにとの、正成の指示によるものらしい。 この時代、多くの武士たちが幕府の執権、北条一門の専横に憤っており、しかも幕府の衰退を肌身に感じていた。そのため密かに宮方に連絡をつける者が多いからであろう。
例えば、播磨 の豪族赤松氏などは、惣領の則村 が幕府のために戦いながら、その子の則祐 は大塔宮の従者として活躍していた。これは、どちらが勝っても負けても、一族全体は安全であるとの計算によるものである。
さて、菊池氏一行は、正成が居るという河内の千早村へ向かった。 河内はもともと山がちな国だが、千早の険しさは特にすごかった。人一人が辛うじて通れるような小道を歩き、道がないところは谷川を歩いた。しかし山伏姿の一行は、だれにも怪しまれずに通行できたのである。
千早では、散所の長者が言ったとおり、築城の真っ最中であった。金剛山の中腹に人夫たちが大勢群がっている。 城隆顕は、木材置き場で工事監督らしい男を見つけ、声をかけた。
「楠木正成どのにお会いしたいのだが」
「あんたら、何者や」と、工事監督。
「我らは肥後菊池の地頭、菊池武時の使者ですばい」
「ほう、やっと来ましたな。首を長くして待っていたのや」工事監督は、にこりと微笑むと、胸を反らして言った。「わいが正成や」
「ええっ、あなたが」六郎は驚いた。正成と名乗る人物は、反っ歯でチビ、痩せっぽちで、とても宮方の急先鋒には見えなかったからである。
「ははは、ごっつい色男とでも期待していたんかいな。楠木正成は、ご覧のとおりの男やで」相手の失望したような反応には慣れているらしく、正成はあっけらかんとしたものである。
「兄の無礼な態度をお許しください。これからよろしく」と、丁寧に頭を下げたのは七郎武吉である。観察眼に優れる彼は、一見貧相な正成の中に眠る驚くべき才能に気づいたのである。
自己紹介のあと、質素な宿舎に案内された一行は、やがて押しかけて来た楠木一族の質問攻めにあった。
問「菊池どのの動員可能兵力数は、いかほど」
答「なんとか一千程度」 問「鎮西探題の動向はいかに」
答「神経をとがらせています」
問「阿蘇大宮司の態度は」
答「我らの最も頼れる同志です」
問「少弐、大友、島津の御三家はどう出るつもりであろうか」
答「未知数です」
質問に要領よく答えたのは、主に六郎武澄であった。彼は、観察眼は七郎に及ばないものの、論理的な思索力と情報処理力に優れている人物であった。とは言え、もちろん彼にも答えられない質問が多かった。
「今度はこちらがお尋ねしたいのですが」 ひとしきり相手の質問に答えた後で、隆顕が切り出した。
「どうぞ」遅れてやって来た正成がうなずいた。
「河内には幕府の代官が入って来ていると聞きました。どうしてここが発見されないのですか」
「ああ、赤坂城に湯浅一族が入っているが、奴らは情報はおろか、食料すら調達できませぬ。なぜなら、ここ河内の人々は皆、この正成の味方だからですのや。まあ、この千早城が完成した暁には、赤坂も取り返す予定ですけんどな」
「その千早城ですが、あんな嶮岨なところに築いて何の意味があるのですか。交通の要衝にあるわけでもないし・・・・・」
「さすが城どの、よい所に気づかれた。よい質問や・・なあに難しいことあらへん。わいらの努力で、幕府の連中にここを重要拠点と思わせればよいことや」
「どういうことですか」
「城どの、これからの戦は宣伝と情報やで。幕府の奴らに、千早こそ勤王軍の本拠地と思わせればよいのや。そうすれば、幕府の何万という大軍がここに攻めてくる。しかしご覧のとおり嶮岨やから、幕府軍は大軍ゆえ逆に難渋し、攻め切れない。その間に菊池どのをはじめ、各地の勤王軍が蜂起してくれれば、幕府を倒すことができる寸法や」
貧相なこの男、楠木正成の遠大な抱負に、隆顕は舌を巻いた。自ら囮となって幕府の大軍を引き付けようというのだ。並の神経ではない。
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楠木一族の出自と地位については、実はよく分かっていない。一説には荘園荒らしを業とする悪党であったとか、幕府の御家人であったとか、朝廷に仕える北面の武士であったとも言われているが、いずれも確証がない。
分かっていることは、正成のころには河内の水分を本拠とする有力な豪族となっており、幕府にすら一目置かれる存在となっていたことである。
楠木氏の強力な武力と経済力の源泉についても、古来さまざまな解釈がなされているが、どうやら新しい社会の仕組みを受け入れることに成功し、運送業者や商人や金融業者と、密接な経済的関係を樹立したことにあると考えられる。それゆえに、楠木一族は畿内のあらゆる情報を素早く入手するだけでなく、逆に偽りの情報を送り込むことができたのである。
大塔宮と正成の畿内における長期潜伏は、これを前提として、初めて可能となったといえるのだ。
ところで楠木氏は、なぜ後醍醐天皇のために挙兵したのであろうか。 これについてもさまざまな説があるが、おそらく幕府の圧政から商工業者や金融業者を解放することが自分の利益になると考えたからであろう。国学者の言うような大義名分論や精神論だけでは、人は動かないものである。
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菊池武澄が大塔宮に面会できたのは、七月の初日であった。
大塔宮はそのころ、畿内の神社仏閣、例えば熊野、高野、吉野に対する調略を積極的に行っていた。しかしいずれも難行し、新規まき直しを図るべく金剛山に帰って来たのである。
「菊池はいつ起つのだ」大塔宮の第一声である。
顔を合わせたとたんに核心に触れられて、ただ一人面会を許された六郎は、目を白黒させた。ただでさえ緊張しているのというのに。
「宮様、まずは令旨を賜ることが先でござりましょう」と、付き添いの正成が助け舟を出して、六郎に目配せした。
「うむ、そうだな・・・。すまぬ、最近苛ついておってな」宮は、かすかに目を伏せた。
「そうじゃ、正成、千早の築城はどうなっておるか」
「本年度中には、ほぼ完成する予定でおります。そのころには、この正成も兵を挙げ、大暴れして見せる所存です」
「おお、頼むぞ、正成。お前が頼みの綱ぞ」
そのころには、やっと六郎武澄も大塔宮を観察する心の余裕ができてきた。 大塔宮護良親王は、年の頃二十五、六であろうか。宮人とは思えない活力が全身に感じられ、瑞々しい覇気に満ちていた。しかし、あまりに血気盛んであるがゆえ、少し軽率なところがあるようにも見受けられた。
「六郎武澄と申したな。歳はいくつだ」宮はさっきとは打って変わって、優しく語りかけた。
「はっ、数えで十九に相成ります」と、言葉遣いに神経を使いながら、六郎は答えた。
「そうか、まだ若いのう・・・。菊池への令旨が遅れたのは、なにも他意あってのことではない。まずは神社や寺院から味方にしておきたかったのだ。なぜなら、武士の力に頼り過ぎると、鎌倉が滅んだ後に第二の幕府を造られる恐れがあるからな」
「はっ」六郎は、宮が意外に随分先のことまで考えているのに感服した。
「しかし、神社や寺院も石頭が多くて苦労させられるわ。どいつもこいつも恩賞だの地位だのと目先のことしか見えておらぬ・・・・。菊池も同じであるか」
「はあ、しかし菊池が迷っているのは、恩賞のことではござりません。筑紫での味方があまりにも少ないので、起ち上がれないのです」六郎は答えた。
「ふうむ、菊池と阿蘇だけでは、鎮西探題は攻撃できないのか」宮は思案顔である。
「おそれながら、少弐、大友、島津が幕府側であるうちは」
「聞いたか、正成」宮は、さっきからおとなしい正成に目を移した。
「お前が日ごろ言っておる情報戦の腕の見せ所ぞ」
「はっ、あと半年のうちには少弐、大友らの心を変えてご覧に入れます」正成の、自信たっぷりに答えたその目が輝いていた。
「武澄、聞いたとおりだ。令旨は別の者にもって行かせるつもりだから、お前たちはしばらく正成のところで情勢を検討するが良いぞ」と、宮が優しく語りかけた。
「ありがとうござります」六郎武澄は、興奮に全身が打ち震える思いだった。
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大塔宮と楠木正成は、深い信頼関係で結ばれている。
二人が始めて会ったのは、元弘の変勃発直後の笠置山であった。宮は最初、笠置に立てこもる父後醍醐を援護するために、比叡山で延暦寺の僧兵を率いて挙兵し、攻めて来た幕府軍を苦しめた。しかし僧徒の心変わりによって比叡山を脱出せざるを得なくなり、笠置の父に合流したのだが、ちょうどその時、楠木正成が河内から笠置に参内して来たのであった。
その時正成が提唱した情報戦略は、若い大塔宮の心を打った。それ以来、笠置落城や天皇の流罪、正成の最初の城である赤坂城の陥落にもめげず、二人は力を合わせて頑張って来たのであった。
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「六郎どの、見事な受け答えでしたぞ」
宮のいた金剛寺の伽藍から千早に戻る途中で、楠木正成は菊池武澄の肩を優しくたたいた。貧相な正成も、宮の前で話すときは威風堂々と見えるから不思議である。
「楠木どの、戦になるときは、是非おいも参加させてくだされ。決して足手まといにはなりませぬぞ」感動の余韻に震える武澄は、思わず口走った。
「ははは、わいはそれほど人手には困っておらんからの。その覇気は筑紫の戦場で発揮してくだされや」
正成はそう言いながらも、内心では六郎の誠意がとても嬉しかった。