「七郎どの、朗報や」
部署から呼び出され、本丸に駆けつけた菊池七郎武吉は、楠木正成から耳寄りな知らせを聞かされた。
前述のように、ここ千早城は、背後の金剛山の嶮を通じて外界と自由に連絡できるのである。なお、あの大塔宮は、今では武装農民のゲリラ隊を率いて、千早の背後で連絡線を守るため大活躍していた。
「あの足利高氏が、船上山に連絡して来たそうな。いよいよ諸国の源氏が立ち上がるんや。勝機が見えてきたでい」正成は大はしゃぎである。
足利高氏は、鎌倉幕府の御家人中、外様としては屈指の大勢力である足利家の惣領である。彼の妻が現執権の北条守時の妹であることからも、その勢威の大きさがよく分かる。
しかも足利氏は、源氏の嫡流として広く認知されており、全国の武士の中でも人気抜群であった。おまけに全国に同族がおり、高氏の一声で一万数千の軍勢がたちまち馳せ参じると言われていた。
その足利高氏は、幕府最後の予備軍として鎌倉に待機しているのだが、その足利から密かに伯耆の帝に連絡があるというのだ。もしも足利が宮方として挙兵すれば、それにつられて諸国の豪族の蜂起も期待できるというもの。まさに戦局を左右する存在であった。
「正成どの」武吉は膝を進めた。「この朗報を、筑紫の父にも知らせたいのですが」
「ふむ、気持ちは良く分かるんやが」と、正成。「これは戦局を左右する秘中の秘。万が一幕府に知られるようなことになると・・・」
「もちろん、おいが直接、単身筑紫に赴くつもりです。万が一のときは、秘密は死をもって守り抜きます」
「うん・・・武吉どのなら大丈夫。肥後の武時どのを、勇気付けてくだされ」
「かたじけない、正成どの」
その翌日、修験者に変装した七郎武吉は、密かに千早を離れて行った。しかし、苦しいはずの千早の将兵の中で、非難がましい態度で彼を見送った者は一人もいなかった。それほど正成を信じ、最後の勝利を信じていたのである。
その楠木正成が、菊池武時からの書状を受け取ったのは、武吉が去って行った二日後のことであった。その書状には、北条英時からの招集令のことと、すでに挙兵準備が整ったので、これを機会に探題を攻撃することとが記されてあった。その予定日は三月十四日。
「ううむ、今日はもう三月九日。武吉どのは、父御の挙兵には間に合わないかも知れぬ」正成は髭をひねって考え込んだ。
※ ※
そのころ、肥後菊池では出発の支度に大忙しであった。
鎮西探題の招集に応じて博多に向かうのは、惣領の武時、その弟の覚勝、長男の武重、次男の頼隆を中心とする、軽装の百五十騎四百名の人数である。その中には、猛将の城隆顕の姿は見えず、代わりに虎若丸以下の子供達の幼い姿が多く見られた。
兵の人数といい、子供達といい、全て探題を油断させるための処置である。
しかし、武時の準備は既に万全であった。
少弐、大友、島津など、有力な豪族は皆味方である。博多に招集を命じられなかった同志も、十四日の全体挙兵には必ず参加する手筈であった。
「なあ入道、尊良の宮は、無事に肥前に着いたのか」と、弟の覚勝入道に声をかけたのは、やる気まんまんの武時である。
「先程、江串 どのから連絡がありました。ばっちりですばい」と、覚勝武正。
肥前彼杵 の江串三郎は、武時の同志の中で、最も信頼できる一人である。武時は、万一に備えて、海に近い彼杵に尊良親王を避難させたのである。
いずれにしても、来たる十四日の挙兵には親王の声望が大きな威力を発揮することが期待されていた。
「なあ、息子の様子はどうじゃ」と、武時は声をひそめた。
「おいの一人息子の二郎三郎は、今出陣の支度中でごわす。あいつめ、勝つまでは二度と菊池には帰らぬと、すごい意気込みですぞ」 覚勝は、鼻をほじりながら答えた。
「ふうん、そうか、それは心強いな。それで、このおいの息子たちはどうしとる」
「ああ、五郎以下の残留組が、置いて行かれるのが不満で騒いでましたな。特に九郎などは、ものすごい剣幕でしたよ」
「やっぱりな、・・・困ったものだ」
「連れて行ってやればいいではありませんか。どうして置いて行くんです」
「ううん・・・、これはあまりにも危険な賭けだからな。一族全体を危険にさらしたくはないのだ」
「がははは、兄上らしくもない。妙に弱気ですなあ」
「・・・ちょっと席を外すぞ。北の方に行ってくる」
「ははは、また早苗ですか」
馬鹿にしたような弟の視線を避けながら、武時は居室を出た。
戸外では、初夏の日差しの中で、若党たちが忙しく働いている。 覚勝の想像どおり、武時の目当ては早苗に違いなかった。
「父様はな、これから都まで攻め上がるつもりじゃ。そしたらな、お前にきれいなお人形をいっぱい買って来てやるからなあ。待ってろよ」 愛する娘を両腕で抱いて、武時は一所懸命語りかけた。
「まあ、都まで行くというのは本当ですか」そばで微笑んでいた智子が目を丸くした。
「おうとも、鎮西探題を滅ぼして、一気に上洛し、もたもたしている赤松や千種に、はっぱをかけてやるんじゃ。・・・都を陥としたら、お前にも綺麗な着物を買って来てやるからな。がははは、都のおなごは美人ぞろいとか。おいは楽しみで楽しみで」
「まあ、いやなお前様。うちはその方が心配ですよ」
「がははは、なあに都といえども、早苗より別嬪がおるはずはないわい。なあ早苗」 武時の腕に抱かれた赤ん坊は、少し窮屈そうに身もだえしたが、その大きな瞳は父の顔をじっと見つめたままである。 「なあ、父様と言っておくれよ。と・と・さ・ま」
「まあ、まだ無理ですわよ」智子は口に手を当てて笑ったが、さすがに夫の必死の顔付きに気づいた。今度の戦は相当いけないのかしら。 武時は妻の前では強がっていたが、持ち前の武将の勘で、自分の運命を予見していたのだろうか・・・・・。
「後でまたな」 手を振りながら部屋を出た武時の前に、一個の影が飛び出した。
「なんだ、九郎ではないか」
驚く武時の足元に座り込んだのは、彼の八男の九郎武敏であった。 九郎武敏は、武時と智子の間に生まれた子だが、どちらに似たのか、兄弟の中では一番頑固で気が強かった。父に似て大きな丸顔だが、少し垂れ気味の両眼はとても大きく、一見すると愛嬌のある顔立ちである。
「何の用だ、九郎」 「父上、是非とも九郎も博多にお連れください。それが言いたくて、ずっとここで待っていたのです」九郎は両膝をついて深く頭を下げた。
「菊池に置いていかれるのは、お前だけではないぞ。」
「なぜ、虎若以下の子供達は連れて行くのに、五郎兄さんやおいは残して行くのです。おいたちはもう十分に戦えますぞ」
「そんなことは分かっておる。お前の剣の腕は知っておるつもりじゃ。しかし、家族総出となると、敵に要らぬ警戒を与えることになる。やはり、おまえたちは連れて行く訳には行かぬ。虎若たちだって、戦になる前に菊池に帰すつもりじゃ」
「・・・しかし、しかし父上っ」九郎は、負けじと必死に食らいつく。
「くどいぞ九郎。父の言うことが聞けぬのか。幾つになっても甘ったれだな」 そう叱咤して足早に去って行く武時の背後で、九郎武敏は、いつまでもうつむいたままであった。
やがて出発の日の朝。 三郎頼隆は、自室で若妻との別れを惜しんでいた。
「妙子、留守中よろしく頼むぞ。なるべく早く帰るつもりだが」
「あら、都まで行かれるのに、早くお帰りになれますか」
「都まで・・・誰がそんなことを」
「まあ、うちはお母様から聞いたのよ」
「ははあ、さては父上の大法螺が出たな。いくらなんでも都まで行けるはずはあるまい」
「でも、あのお父様ならやりかねないわ」
「ううむ、有り得るな・・・でも安心しろ。おいは父上にはついて行かん。可愛いお前を残して都まで行きたいとは思わん」
「まあ、あなたったら・・・嬉しい」 頼隆は妻を思いっきり強く抱きしめると、身を翻し、出発の隊列を指揮するため、出て行こうとした。
「まって、あなた」妙子があわてて呼び止めた。
「どうした」 「忘れるところだったわ、これを」 妙子が懐から取り出したのは、錦の袋に包まれたお守りであった。 「阿蘇大社のお守りよ。袋は昨日、うちが編んだの。うちだと思って大事にしてね」
「・・・ありがとう」 頼隆は、愛する妻のためにも必勝を誓うのだった。
三月十日、武時率いる四百名の軍勢は、大勢の家族たちに見送られながら、菊池を後にした。途中で阿蘇大宮司の率いる約百名の軍勢とも合流したが、かねての手筈どおり大宮司勢も軽装であった。鎮西探題を油断させるためである。
菊池、阿蘇の両軍が、博多近郊の息浜 宿営地に到着したのは、十一日の夜である。しばらくすると探題の使者がやって来て、翌日の正午に探題館の奉行所に出頭するようにと伝言して去った。
「さあ皆、今夜はぐっすり休むがええ」武時は、若党たちに命じ、自分も早く床についた。阿蘇惟直も同様で、怪しい動きは一切見せなかった。
菊池、阿蘇両陣が寝静まったころ、探題館に北条英時を訪れる影があった。他ならぬ探題の放った密偵である。
「菊池、阿蘇の両軍は皆軽装です。武器や鎧のかわりに酒樽を山ほど運んで来ております。その上、陣中には小さな子供も多く混じっているようです。今夜は怪しい動きは全くありませんでした。火の用心をして眠るだけです」密偵は、低い声で報告した。
「そうか、ご苦労だった」寝間着姿の英時は、しかし却って難しい顔で考え込んだ。簡単に油断するようなタマでは無いのである。
実のところ、現在、英時が自由に動かせる兵力は、それほど多くは無いのだ。なにしろ瀬戸内海の海賊を警戒するために、豊前や豊後に派遣している兵力も馬鹿にならないのである。
「長門の時直は今頃、土居、得能征伐に伊予に再出兵していることだろう。時直め、今度は勝てよ。そうなれば、長門探題の兵力をこの筑紫にも導入できるからな」 密偵が去った後も、英時はあれこれと考え、なかなか寝付かれなかった。