歴史ぱびりよん

19.新政始まる

「おい、聞いたか。豊前におった規矩高政の一党も、ついに降伏したそうな」

「ああ、これで逃げ回る生活ともおさらばできるな」

「なんにしても、目出度かことよ」

肥後菊池は、鎌倉幕府滅亡の知らせに沸き立っていた。若党たちは、肩をたたき合って喜びを顕した。しかし、彼らの表情がどこか寂しげなのは、探題討伐戦に参加できなかったからであろうか。

「そういえば、尊良の宮が大宰府に入られたそうだな」

「うん、都の帝の代わりに、筑紫を治めなさるのだと」

「でも、大宰府と言えば少弐の本拠だろう。つまり宮様はお飾りで、その裏は少弐の天下というこっちゃ」

「ちぇ、時代は変わっても、おいたちは少弐の下に這いつくばるのかよ。面白くなかとよ」

城下で、このような若党たちの立ち話を聞きながら、菊池六郎武澄は暗い思いでいた。

恩賞沙汰は、どうやら大宰府で行われることになりそうだ。その場合、少弐の博多攻めに協力しなかった自分たちは恩賞を期待できるのだろうか。下手をすると、父や兄の死は全くの無駄になるのではないか。

この時代の武士の目的は、一族のために、より多くの土地を恩賞として獲得し、子孫を安んじ家を守ることにある。菊池一族も例外ではなかった。

しかし九州の覇権を少弐氏が握っている今、さほどの恩賞は期待できないのである。

「これは都まで行って、帝やその側近に事情を説明するべきだな」 武澄は意を決すると、本丸へ向かった。

この時代の城は、戦国時代のように壮麗な天守閣をもった大掛かりなものではない。ここ菊池深川城も、土塀をめぐらせた屋形に、小さな堀割を設けたものに過ぎない。ゆえに本丸と言っても、城主が住んでいる一画を漠然と指しているのに過ぎなかった。

菊池武重は、居室で書状を読んでいるところであった。

「兄上、お邪魔かの」六郎は障子の外から声をかけた。

「おお、その声は六郎か。入るがよい」 障子を開けて入って来た六郎は、沈んだ兄の顔を見て驚いた。

「兄上、それは誰からの手紙ですか」

「・・・伊予の土居道増どのからの書状よ。宮崎太郎兵衛が死んだそうだ」

「なんですって」

菊池若党の宮崎太郎兵衛は、博多合戦終了後も四国の海賊衆に混じり、宮方のために諜報活動に当たっていた。しかしこの土居道増からの書状によれば、宮崎は二カ月ほど前に長門探題の巡視船に発見され、壮烈な切り合いの末、討ち死にしたとのことである。

「そうですか。あの宮崎が」

六郎は目を伏せて彼の死を悼んだ。六郎と七郎の畿内行きについて何かと便宜を図ってくれたのも、尊良親王の救出に尽力したのも宮崎であったのだ。それが幕府の滅亡を見ることなく逝ってしまったとは・・・・・・。

「土居どのは、得能道綱どのと共に都におるそうな。それで、都の情勢についてもいろいろと書いてくれておる。六郎、読んでみるが良い」

六郎は武重から書状を受け取ると、目を凝らして読み始めた・・・。

※                ※

後醍醐天皇は、頭脳明晰である上に、既存の常識にしばられない柔軟な思考力を兼ね備え、しかも自分の考え方に絶対的な自信をもっている人物であった。

「朕の新儀は、未来の先例なり」

これは、この天皇の有名な言葉である。その自負の程が図り知れる。

後醍醐天皇は宋学に深く傾倒しており、日本においても中国のように中央集権の帝国の樹立が可能であると考えていた。つまり後醍醐天皇は、自らが皇帝となり、日本を独裁国家として支配しようとしたのである。日本の歴史の中で、このような考えを抱いた天皇は後醍醐帝ただ一人といっても過言ではない。そして後醍醐帝は、その理想を実現させるために自らが先頭に立って倒幕に乗り出し、ついに勝利を収めたのであった。天皇の心は踊ったことであろう。

しかし、後醍醐天皇の新政権は必ずしも順風満帆で始まった訳ではなかった。

まず、政治的な問題として、足利高氏と大塔宮護良親王の対立がある。

言うまでもなく、二人とも倒幕の殊勲者である。本来なら、手に手を取って勝利を喜び会う仲となるべきはずであったが、高氏の専断的行動、例えば六波羅攻めの時の御教書の発布、六波羅占領直後の勝手な治安維持行為が、親王の怒りを誘ったのである。なぜなら、御教書の発行などは征夷大将軍の特権であり、天皇独裁の政治体制にとっては明らかに越権行為であるからである。要するに、親王は高氏の中に幕府再興の野心を嗅ぎ付け、彼を早期に排除することが父(後醍醐天皇)のためになると考えたのである。

そこで親王は、大和信貴山しぎさん に兵を集めて立て籠もり、都の高氏に対して示威行動をとったのであった。

しかし長かった戦争が終わって早々のこの騒ぎは、天皇の政治にとって決して有意義ではなかった。そこで都に帰った天皇は、さっそく親王をなだめようと手を尽くしたのだが・・・ 。

「主上は、高氏の恐ろしさが分からないのかっ。彼奴が人望を集める前に排除しなければならぬ。奴が牙を剥いてからでは手遅れぞっ」 気丈な皇子は、説得に来た天皇の使者に向かってこう怒鳴ったのである。

天皇とて、高氏の実力を認識していない訳ではなかった。しかし新政権の安定のためには、今はむしろ宥和政策をとり、高氏をおだてあげて飼い慣らす方が得策であると考えたのである。

そこで天皇は、護良親王を征夷大将軍に任命することで解決を図ろうとした。つまり親王が将軍になってしまえば、高氏の幕府再興の野心も未然に封じてしまえるわけである。その代わり、高氏と直義の兄弟には高い官職を与え、宥めることにした。

さすがの親王も、将軍に任命されてまでも父に逆らう訳には行かない。そこで上洛することに決めたのであるが、一件落着とは行かなかった。親王は、示威のつもりで大軍を率いて上洛して来たのだが、その軍勢を構成するのは正規の武士ではなく、凡下ぼんげ や非人ひにん といわれる下層階級の出身者がほとんどであった。そのため、親王の入京によって都の治安は急激に悪化したのである。

しかも、このころ都の治安を担当していたのは、足利高氏の開いた奉行所であった。彼は治安を脅かすものを容赦なく処罰しており、親王の部下とて例外ではなかった。

こうして、高氏と大塔宮の争いは更に深刻になって行くのである。

だが、二人の角逐以上に微妙な問題として、経済的、法的問題があった。

天皇は、従来の武士中心の封建体制を打破し、朝廷を中心に据えた集権体制を構築しようとしている。すなわち、封建領主を無くし、天皇と官僚と庶民のみから構成される国家を創設しようとしている。だが、そのためには国中の私有地を圧縮し、国有地(国衙領こくがりょう と呼ばれる)を増加させることが不可欠である。

しかし、平安時代以来の荘園制度の発達によって、私有地制は既にこの国にすっかり定着してしまっている。封建領主の代表は武士であるが、貴族も寺社もみんな自分の土地をもっており、その総面積は国衙領を圧倒的に上回る。この現状を覆すことが、果たして可能であろうか。

天皇は、自分の理想を実現するために、これらの大きな障害を打破して行かねばならないのだ。

※                ※

都の近況についての長い手紙を読み終えた六郎武澄は、肩をすくめて兄の顔色を窺った。

兄の顔色が悪いのは、宮崎を失った心の痛みだけではあるまい。これからの天下の行く末が心配になっているのであろう。

「兄上、でも必ずしも悪いことばかりではありませんぞ。土居どのの申すには、足利高氏が京都で勝手に執り行った恩賞沙汰は無効になりそうですし」

「うむ、帝が出された『個別安堵の法』のことであろう。帝は、既存の法令を撤廃し、天下の土地をすべていったん朝廷の物と見なし、それを改めて再分配なされる形をとるおつもりじゃ・・・これによって確かに、高氏が戦後勝手に行った、少弐や大友たちに対する本領安堵は無効となろう。ばってん、大塔宮の令旨による恩賞も、同様に無効になってしまう。令旨を信じて旗揚げした豪族たちは、果たしてどう思うかな」

「それでも、帝が正しくお裁きなされば問題はありますまい」

「うむ、・・・そうだな」

武重は腕を組んで考え込んだ。後醍醐帝は、どうやら鎌倉幕府とはまったく違った政治を執り行いたいようだ。そのためには、幕府が定めた守護・地頭制度はもちろん、御家人制度の撤廃も必要になるだろう。しかし、自分たちのように幕府に軽く扱われていた氏族はともかく、旧秩序で生活してきた武士たちが素直に納得するであろうか・・・。

「兄上、『個別安堵の法』の前には、全ての武士が平等です。もう少弐や大友もでかい顔は出来ませんぞ。そこで我らも急いで上京し、帝の綸旨をもらいましょう。恩賞は思いのままかもしれませんぞ」

「・・・六郎、そうあわてることはない。帝は、摂関藤原氏の末裔である我々をお忘れではあるまい。壇の浦で安徳天皇を守って最後まで奮戦し、承久の乱の折には後鳥羽上皇のために血汗を流し、元寇の際にも蒙古の大軍の前に一歩も退かずに頑張り抜いた。それに、今度の博多合戦での父の無念の最期とて、叡慮に達しているに違いない・・・だから気長に待とうよ六郎」

「・・・分かりました。兄上」武澄は静かにうなずいた。

※                 ※

恩賞沙汰が始まったのは六月十五日のことであった。

全国の武士は固唾を呑んで成り行きを見守った。苦労して幕府と戦った成果が、どれほど報いられるのであろうかと。

この時代の恩賞とは、具体的には土地と官位である。安土桃山時代になると、茶器をもって恩賞とする風習も広まったが、このころは恩賞の目的物は特に土地以外になかった。

狭い日本のこと、土地は有限である。元寇の時は祖国防衛戦であったため、敵の土地は寸借も入手できなかったので、鎌倉幕府の恩賞沙汰は極めて不公平となり、御家人の不信感を煽った。そして、このことが幕府滅亡の要因の一つとなったのだ。

しかし、今回は滅亡した北条一族の広大な領土をそっくり恩賞に当てられるのである。武士たちの間に期待が高まったのは当然のことであった。

ところが・・・。

旧北条領は、そのほとんどが皇室や公家や寺社に分配された。そして残った僅かな領土が、武士に当てられることになった。その理由は簡単である。恩賞沙汰を執り行ったのが天皇とその取り巻きであったからなのだ。特に公家たちは、今度の戦乱で自分たちが大変な苦労をしたと思っている。ゆえにその見返りとして、自分たちには多少の贅沢が許されても当然だと考えたのである。

しかし実際に倒幕に尽力したのは武士たちだったのだから、この考え方が公正ではないことは言うまでもない。

後醍醐天皇は、ひとまず朝廷の権威を高めるために、この段階から武士階級の勢力を弱めにかかったのである。

それでもし、天皇のもとで目立つ活躍をした武士たちへの恩賞は厚かった。

足利高氏は武蔵、相模、伊豆の国司に任命され、位階も従四位下、続いて従三位にとんとん拍子に昇進、おまけに後醍醐天皇の実名の尊治から一字をたまわり、尊氏と名を改めた。また、弟の直義は三河国司に任命された。これらは足利氏の力を恐れる天皇の宥和政策の結果であったが、育ちのいい尊氏は単純に喜び、征夷大将軍になれなかった恨みも和らいだように見えた。

しかし天皇は、尊氏の勢力伸長に対応し、そのライバルを昇進させて牽制することも忘れはしなかった。まず、同じ源氏の嫡流を自認する新田義貞を越後(新潟県)国司とし、正四位下を授けた。その弟の脇屋わきや 義助よしすけ は駿河(静岡県)の守護に任じられた。彼らは、鎌倉時代には無位無官であったので、これは異例の大出世と言えた。彼らに対する行賞は、鎌倉攻略の恩賞として相当のものであったろう。

天皇はさらに、公家の北畠きたばたけ 顕家あきいえ を尊氏と同じ従三位とし、陸奥国司として奥州に送り込むこととした。この顕家はまだ十七、八であったが、文武両道の天才であり、その父・親房ちかふさ は天皇の思想的支柱として活躍していた。その後、天皇の思惑どおり、義貞と顕家の二人は、足利尊氏の最大の敵として成長して行くことになる。

また、楠木正成は河内の国司兼守護と和泉の守護に任命され、名和長年は伯耆国司と因幡守護、千種忠顕は丹波国司となった。

得能道綱は、河野通盛に代わって河野一族の家督と認められ、その相棒の土居道増にも相当の荘園が与えられた。やはり、戦局に決定的影響を与えた者たちへの恩賞は厚かったのである。

しかし、あれほど活躍した赤松則村入道円心には、本領が安堵されたのみで、全く恩賞が与えられなかった。その原因には複雑な政争も絡むのだが、これについては後に説明する。だが、これを不満とする赤松入道は早々と新政を見限り、本拠に帰って牙を研ぐ。後醍醐天皇の新政府は、こうして早くも有力な同志を失ったのだ・・・・。

話のついでに、ここで国司と守護の関係について説明しよう。

本来、鎌倉幕府ができる前は一国の行政権は朝廷によって任命された国司が握っていた。国司の任務は、今でいう県知事に近い。そして例えば菊池一族は、歴代の肥後国司であった。

しかし、荘園制度の進展と武士の権力伸長に伴って国司制度が形骸化してきたため(つまり、国有地が少なくなったために、国司の行政範囲が小さくなった)、鎌倉幕府を創設した源頼朝は、新たに国ごとに守護を定めることにした。これは、私有地たる荘園を取り締まる警察長官である。

ところが、守護の任務はもともと荘園の管理に過ぎなかったのだが、長い幕府の安定と発展に伴ない、その権力は行政にも及ぶようになった。つまり、守護が国司にとって代わった形である。

しかし、今や守護の拠り所たる幕府は滅びた。 後醍醐天皇は、守護の制度を廃止したかったのであるが、あまりの急激な改革が社会に及ぼす悪影響を勘案し、しばらくは守護と国司の併置を認めた。しかし、新政権において、国司は荘園に対しても一定の一般行政権を行使できるのに対し、守護は軍事指揮権しか行使できないことになったので、国司と守護の関係は鎌倉時代とは逆転したことになる。

これは、歴代肥後国司であった菊池氏に、前途への大きな期待を与えるには十分過ぎる改革であった。