歴史ぱびりよん

22.福山城の攻防

ついに三万を越える足利の大軍が動き出したのは、延元元年四月の末のことであった。総軍を陸海に二分し、陸路の総大将は足利直義で、これは少弐、大友、島津らの九州勢を中核とした。海路の総大将は足利尊氏で、これは大内、厚東、河野ら、中国四国勢を中核とした。

足利軍は、五月一日には安芸の宮島に到達し、尊氏は厳島神社に戦勝祈願の願文を届けた。五日には尾道の浄土寺の僧侶に一万巻の観音経を読んでもらい、謝礼として諸将の詠じた和歌を献じた。やはり少弐頼尚の歌が秀逸で、その教養の深さを万座に印象づけた。

歌を詠じて余裕を見せた大軍は、その日の夕刻には備後鞆の津に入港し、軍議を重ねる。その意気は天を衝いた。

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「なんとかしなければ」

「うむ、なんとかしなければ」

宮方最前線の福山城では、大井田氏経、菊池武重、そして備前児島(岡山県)の豪族・ 児島 ( こじま ) 高徳 ( たかのり ) が車座をつくって腕を組んでいた。この児島高徳は昔からの勤王家で、官軍の福山城占領も彼の協力によるところが大きかった。

『太平記』では、この児島高徳の活躍を特筆している。特に、元弘の変で鎌倉幕府軍に囚われ隠岐の島に護送される途中の後醍醐天皇を救出しようと、単身宿営地に潜入し、果たせぬまでも木の幹に刻んだ勤王の詩、「天 ( こう ) ( せん ) を空しうする ( なか ) れ 時 范蠡 ( はんれい ) 無きにしも非ず」は有名である。この詩は中国の故事にちなんだもので、越王匂践が呉に敗れて囚われるが、やがて忠臣范蠡が現れて呉を滅ぼしたことを挙げて、帝を慰めたのである。

備前児島は、古来から修験者のメッカであるから、朝廷との繋がりは密接である。そのためか、高徳の勤王は、物質的利欲を超越した本質的な物だったのだ。

「賊軍は、海と陸から同時に進攻してくるとか。これを迎え撃てる地形は、兵庫湊川しかありません。左中将(義貞)も全軍を兵庫に集めることになりましょうが、我らはそのための時間稼ぎをしなければなりません」児島高徳が重々しく言った。

「しかし、いつまでもこの城に固執していては、水軍を擁する敵に背後を断たれてしまう」と大井田氏経。

「引き際が肝心ということですな」と菊池武重。

「そうです、帝をお護りするためには、ここで玉砕はなりませぬ」高徳は頷いた。「それで、私に策があります」

高徳の披露した策は、氏経と武重を驚かせた。

「そんなことをしては、児島どのが危ない」

「なんの、帝のためにはこの命など惜しくありませんわ」高徳は、不敵に笑った。

数日後、義貞の下から使者がやってきた。新田本隊は白旗城の囲みを解き、兵庫に集結する予定であるから、ただちに退却しろという言伝であった。

「我らはしばらく抗戦し、時間を稼いでから退がる所存。左中将には、集結を急ぐようにお伝えください」武重は使者に言った。

五月十五日、足利直義の二万の大軍は、ついに福山城に押し寄せた。守るは、わずか二千の兵力である。城は完全に包囲されてしまった。

城櫓に立ち並ぶ菊池の並び鷹羽の旗を見て、直義は苦笑した。

「またもや菊池と対戦か、腐れ縁だな。まあよい、箱根合戦の屈辱を晴らしてやるぞ」

しかし、城兵は懸命に抵抗し、足利軍は攻めあぐんだ。要害の地形が幸いし、寄せ手の大軍は数の威力を発揮できなかったからである。

「そろそろだな」

「うん、そろそろだ」

武重と氏経は城壁で目を見交わした。困難な脱出の時が来たのである。

五月十八日、備前児島で児島党の挙兵があった。児島高徳は自らの居館を焼き払い、一族二百名とともに山に立てこもったのである。ここは備中と播磨を結ぶ要路にあるから、これは尊氏の水軍と直義の陸軍の両方を牽制する効果があった。驚いた直義は、多くの将兵をあわてて児島に派遣したので、福山城の包囲網は手薄となった。

武重と氏経は、これを待っていたのである。十八日深夜、福山城東口の足利勢は、突然の馬蹄の下に蹴散らされた。城兵、一丸となっての突破である。

「氏経どの、殿軍はこの武重が引き受ける。早くお逃げください」

「かたじけない、肥後どの」

船坂峠へと続く細い山道で、千本槍隊は敵の追撃を待ち受けた。

「なんか、おいたちって、いつも殿軍やってるよなあ」

「いいじゃんか、名誉なことだ」

「ばってん、いつも殿軍ってことは、いつも負け戦てことじゃないかよ」

「ううむ、細かいことは気にするな。最後に勝てばいいのよ」

夏虫の声を聞きながら、暗夜の月の下に佇む菊池勢であった。

「おのれい、逃がすな追えっ、追えっ」直義の叱咤の下、急を知った足利の大軍は慌てて追撃を開始した。しかし、山中の隘路は千本槍の独壇場である。先鋒の上杉隊はたちまち追い散らされ、無残な屍を月光の下にさらした。

「死骸の首を取って、そこらに列を作って並べよ」武重の下知が飛ぶ。

やがて気を取り直して追って来た足利軍は、道の方々に並べられた無残な生首に恐怖し、その戦意を著しく喪失したのである。自然、追撃の足も鈍る。その隙に、大井田、菊池勢は三石で脇屋義助隊に合流することに成功したのであった。彼らを収容した脇屋勢は、三石城の包囲を解き、兵庫へと撤退を始めた。同じころ、義貞の本隊も白旗城の包囲を解き、赤松の追撃を受けながら加古川を下って兵庫の浜に達した。

しかし、敵の大軍を牽制した児島勢の損害は甚大であった。その半数以上を敵に討たれ、高徳自身乞食のような悲惨な風体で、やっと逃げて来たのである。しかし、彼らの犠牲のお陰で、官軍の兵庫集結は最小の損害で達成できたのであった。

「高徳どの、かたじけない」義貞に手を取られ、高徳は寂しく微笑んだ。

だが、義貞には勝算は乏しく思われた。京を出たときの二万の大軍は、今や一万足らずとなっている。一万の減少は戦死した訳ではなく、官軍の前途に絶望し、足利方に寝返ってしまったのである。一方、足利勢は赤松、石橋勢とも合流し、既に四万に達しているのだ。士気の差からも、味方の劣勢は決定的である。

「とりあえず、都に援軍を頼もう」義貞は、都に使者を走らせた。

義貞からの援軍要請に、朝廷は大いに驚いた。足利勢がそれほど強力とは夢にも思っていなかったからである。

「義貞め、存外無能な武将やったわ」

「赤松風情に手こずったあげく、敗残の足利に追われて兵庫まで逃げたそうな。おおかた、匂当内侍に溺れて頭の働きが鈍ったのでっしゃろ」

「さりとて、援軍を送らない訳にも行きまへんやろ」

「ほなら、楠木河内守が適任やないか」

こうして、楠木正成が御前に召し出された。

「河内守よ、朝廷の安寧は危機に瀕しておる。逆賊は、今や大軍を率いてこの京に迫っておるのだ。こうなっては、そちのみが頼りぞ。手勢を率いて、即刻、兵庫で抗戦中の新田左金吾を救援に参れ」

殿上からの声に、平服していた正成は静かに顔を上げた。

御簾の左右に公家百官が居並ぶ。声を発したのは、吉田 定房 ( さだふさ ) 卿と思われた。

「この正成、勅命とあらば、犬馬の労をも厭いません。ただ、軍略について多少の存念が御座います」

「ほう、申してみよ」定房卿は身を乗り出した。

「尊氏卿は、既に筑紫九国の勢を率いて上洛とあらば、定めし雲霞のような大軍でありましょう。味方の疲れた小勢をもって、これにまともに立ち向かっても、敗北は必定。しからば、新田殿をも京に召し返し、帝には、以前のように山門(比叡山)に臨幸を願い、この正成は河内に下向して淀の水運を封鎖いたしますれば、京に入った賊の大軍は糧食尽きて疲れ果てることでしょう。その時、新田殿は山門から、正成が搦め手から攻め上がれば、朝敵を一戦に滅ぼす事ができまする」

正成の大胆な献策に、廟議は動揺した。だが、これこそは、熟慮の末の正成必勝の作戦であった。足利の大軍を破るには、もはやこの策しかない。正成は、更に続けた。

「新田殿も、定めしこの了簡でしょうが、一戦もせずに京に引き返しては武士の面目が立たないので、兵庫で支えようとしているのです。合戦というものは、いずれにせよ最後の勝利こそが肝要です。どうか、よくお考えの上、決して下さい」

「・・・いや、さすがは河内守よ」

「うむ、見事な策である」

万座の公家たちは強く頷き、この様子に正成も胸をなでおろした。自分の苦肉の策は受け入れられそうだ。まだ運命の星は見放さなかったようだ。

ところがその時である。坊門宰相清忠卿が声を張り上げたのは。

「控えよ河内守っ。そもじは己の策略のために朝廷を道具に使おうというのかっ」

「・・・・」意外な言葉に思わず目を見張る正成を、清忠はさらに叱咤した。

「武士の分際で動座を進言するとは何たる思い上がり。武士の役目は帝を守って戦することではないか。それが、己は戦を嫌がる代わりに帝の御心を苦しめたてまつるとは、いやはや呆れた話よ。そもそも、古来朝敵となって生き延びたものなど一人としておらぬ。よって、 大御陵 ( おおみい ) ( ) に逆らう足利など、もはや恐れるにたらんっ。神罰に打たれて目がくらむであろうぞ。かくて官軍の戦には小細工は不要。堂々と決戦するのじゃ河内守」

「おそれながら・・・」

「まだ口ごたえするか河内守。さては戦が怖いのだな、笑止千万」

ここまで言われては、正成は沈黙するよりなかった。後は叡慮に望みをかけるのみ。

清忠卿の神がかった発言も、公家たちには大きな影響を与えた。

「考えて見れば、一年のうちに二度も山門に臨幸するなど、前例がないわい」

「それに、武士の一言で京を捨てるなど、朝威が傷つくしのう」

彼らの思惑は錯綜した。

天皇は御簾の後ろで沈思していたが、一戦も交えずに避難することによって独裁者としても威厳が傷つくことを恐れた。かくて、天皇は最悪の決断に踏み切るを得なかった。

「正成、兵庫に下って足利と戦え」

玉音が御簾の中から轟き、すべては決まったのである。

「さては、死ねとの勅掟か」

蒼白な顔で退出した正成は、さっそく出陣の準備にかかった。河内、和泉の領地に動員令を発したが、馳せ参じて来たのはわずか二千名であった。殆どの豪族が、守護である正成の命令を拒否したのである。畿内の目ざとい豪族にとっては、もはや帝のために戦うことは無意味であったのだ。これでは捗々しい戦ができるはずはない。

天を仰いで嘆息した正成は、後醍醐天皇に最後の書状をしたためた。

『今度こそは、君の戦は必ず破れましょう。人心を見ても、かつて元弘の初めに金剛山に籠もったときは、呼びもせぬのに国中の武士が集まってくれました。しかるに、今では守護として勅命によって軍勢を催したのに、親類一族ですら参集を渋る者がいる始末。ましてや、全国の人民に至ってはどうなりましょうや。もはや天は君を見放したのです。かくなれば、正成存命無益なり。まっさきに命を落とすつもりです』

この悲痛な上奏文を、天皇が読んだか否かは定かではない。