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25.三木一草枯れ果てる

湊川の敗戦の知らせは、花の都に恐慌を巻き起こした。帰って来た新田軍の、憔悴しきった惨めな姿は、京童を恐怖させた。

五月二十七日、後醍醐天皇は公家百官もろとも、阿蘇惟時や新田義貞らに護られて、三種の神器とともに比叡山に退去した。もちろん、その中には菊池勢の姿もあった。

ところが、比叡山に向かう行列の中から密かに逃げ出す影があった。外ならぬ光厳院と、持明院統の公家たちである。彼らを逃がしたことは、いかに慌てていたとはいえ、後醍醐帝の大きな手落ちであった。光厳院の一行は、数日後、京に入って来た足利軍に暖かく迎え入れられたのである。これが、事実上の南北朝時代の幕開けであった。

足利尊氏は、東寺に本陣と仮の皇居を置き、六月までには京の治安を回復した。既に彼の軍勢は五万を越え、その意気は天を衝き、その喚声は比叡山にまで轟いた。

菊池武重は、楠木正成と七郎武吉の死を東坂本の陣屋で知った。武吉は、その服装で身元が確認されたが、酷く面相が崩れていたため、さらし首は免れたという。

「ぼっけもんがっ」武重は、脱いだばかりの兜を地面に叩きつけた。「七郎のぼっけもん、おいは、河内どのをお救いせよと言ったんだ。一緒に死ねとは言っとらんがっ」

その傍らで、六郎武澄、八郎武豊も呆然と立ち尽くしていた。恩人と兄弟の相次いでの死は、彼らの心を悲しみで埋め尽くしていたのだった。

悲しみは、しかし阿蘇惟時にとっても大きかった。彼は、長男と次男を初めとする一族郎党の討ち死にと、阿蘇大社が坂梨家に奪われたことを詳しく知って、強い衝撃を受けてから、なんとなく覇気を失い、呆然と考え込むことが多くなっていたのである。

新田義貞は、意気が沈みがちの軍勢を必死に叱咤し、西坂本と東坂本に陣地を築いて敵の大軍を待ち受けた。しかしその総勢は、山門の僧兵や、和泉の港から駆けつけた土居、得能勢を合わせても二万程度。北畠軍を東国に帰したことが何と言っても悔やまれた。

六月五日、西坂本に攻め寄せた足利直義軍との交戦で、千種忠顕勢が玉砕した。

しかし義貞も泣き寝入りはしていない。六月二十日に、同じ西坂本で足利軍に逆襲を食らわせ、 高師 ( こうもろ ) ( ひで ) とその一族数十人を討ち取ったのであった。

その間、楠木正行を中心とする南畿の宮方は、淀川を封鎖して足利勢の糧道を断ったため、兵糧に苦しむ足利軍の比叡山攻撃は捗々しく進まなかった。結局、亡き正成の作戦が実施されたわけだが、最初から正成の策を採用しておれば、正成も武吉も死なずに済んだだろうし、戦局はもっと有利に出来ただろうに。

菊池勢は、脇屋義助を総大将とする東坂本に配備されていた。菊池兄弟とその千本槍隊は必死に奮闘し、波状攻撃を仕掛ける足利軍を寄せ付けなかったのである。

「味方は優勢ぞ」

「今こそ、総攻撃の時でおじゃる」

例によって、公家たちが軍議に口を挟んだ。彼らは、いつでも武士の上に君臨していなければ気が済まないらしい。

「お待ちください、総攻撃には時期尚早でございます。あと一月もすれば、敵の糧食は底をつき、脱落者も増えることでしょう。その時まで自重するのが肝要と考えます」

新田義貞や名和長年が反論したが、公家たちは聞く耳を持たなかった。

「義貞っ、そちがそのように臆病やから負けてばかりいるのだっ」

「長年っ、そちは三木一草で一番年長のくせに、一人だけ最後まで生き残っておろう。恥とは思わぬのかっ。そんなに生が恋しいのかっ」

ここまで言われては仕方ない。公家たちが、懐かしい京に早く帰りたい一心で理性が曇っていることを知りながら、義貞と長年は出陣の準備に取り掛かった。特に長年は、公家たちの言葉に死を決意した。

「こんな世の中に、長く生き過ぎたようじゃ。結城判官や千種卿、それに河内どのが、あの世からわしを手招きしよるわい」

六月三十日早朝、比叡山を駆け下った官軍は、一斉に京都市街に突入した。その顔触れは、新田義貞を先頭に、名和長年、菊池武重、宇都宮公綱、千葉貞胤、松浦定、土居道増、得能道綱ら、ほぼ比叡山の全軍であった。

油断していた足利軍の防備は十分では無く、大軍ゆえにその展開は遅れた。官軍は各地で敵を突破。壮烈な市街戦が繰り広げられた。家は焼かれ、無辜の民は当てども無く逃げ惑う。新田義貞は、脇屋義助や菊池武重と共に敵の防衛戦を突破し、足利本陣のある東寺を包囲した。しかし東寺は既に頑強な城塞と化しており、突入は困難であった。

「兄上、我らは深入りしすぎましたぞ。敵が態勢を整えたなら、たちまち逆包囲されてしまうでしょう」馬を寄り添わせ、脇屋義助が進言した。

「義助、あそこに尊氏がいるのだぞっ」義貞は、東寺の大手門を指さした。「このままおめおめと引き下がれるものかよ」

義貞は、ただ一騎大手門の前に進み出ると、門内に向けて咆哮した。

「尊氏っ、尊氏っ、俺だ、義貞だっ。世間の者は、今度の戦を皇統の争いと呼んでいるらしいが、元はといえば、俺とお前の宿縁が元凶にある。どうじゃ、尊氏っ。これ以上万民を苦しめるよりは、いっそのこと俺とお前の一騎打ちで、全ての決着をつけようではないかっ。勝負だっ、出て来い尊氏っ」

義貞の絶叫を聞いて、菊池武重は義貞の覚悟を知った。義貞は、ここで尊氏を倒せるなら、自分の命と引き換えてもよい程の決意なのだ。しかし、義貞の怒号は空しく門内に吸い込まれ、返ってくるのは無限の静寂のみであった。

「尊氏っ、貴様、それでも武士かあっ」

足利尊氏は、東寺の境内の床几の上で宿敵の罵声を聞いていた。彼の周囲には高師直や弟の直義が立ち塞がり、将軍の軽挙妄動を押さえていた。

「兄上、あなたの体は、新田などとは比べものにならないほど貴いのです。あのような雑言に耳を貸す必要はございませんぞ」

「だが、直義。義貞の言い分にも一理あるぞ。これ以上万民を苦しめるくらいなら、一騎打ちで勝負をつけたほうが・・・」尊氏は憮然と言った。

「それは違いますぞ、将軍。ここで義貞を討ち取っても決着はつきません。我らの敵は義貞ではなく、彼を操る帝なのです。ここで一騎打ちしたところで、万民の不幸には変わりありませんぞ」高師直の冷静な発言は、尊氏の興奮を冷ました。

「うむ。・・・許せ、義貞」尊氏はうつむいた。

この間、態勢を立て直した足利方の大軍は、一斉に反撃を開始した。そのため、東寺の新田軍は一転して窮地に陥ったのである。

「尊氏っ、これでも、これでもくらえっ」義貞は、東寺の塀ごしに矢を放つと、騎首を東へ反した。その矢は、唸りをあげて境内の松の梢に突き立った。

菊池武重は、千本槍隊を率いて主力の撤退を支援した。攻めかかる仁木、桃井、斯波勢を何度となく撃退したが、味方の死傷も大きかった。

激戦の最中、逃げ惑う群衆の中に小夕梨の姿もあった。湊川での官軍勝利を疑わなかった彼女には疎開の暇がなく、やむなく京に残っていたのである。彼女は、武重の敵に抱かれる気はなくいつも暗い顔をしていたので、遊女としての人気は今一つであったが、そんなことはもはやどうでも良かった。さりとて、遊女の身で比叡山を訪れる勇気もない彼女は今、武重の姿を一目見ようと、髪を切って男装し、戦場に飛び出して来たのである。

群衆に揉まれながら七条大路にたどり着いた彼女は、そこに並び鷹羽を見た。傷だらけの将兵たちが、それでも旗だけは大事に抱えて足早に東に向かって動いて行く。

やがて、隊列の中に騎馬武者の姿が増え、その中に武重の姿を見たように思った小夕梨は、懸命に声を嗄らした。

「肥後守さまっ、武重さまっ」

しかしその声は、雑踏の中に無残にかき消された。

この日の夕刻、名和長年が三条猪熊で討ち死にした。義貞の撤退命令を無視して遮二無二突撃し、ついに敵中に孤立し、一族郎党数十人とともに玉砕したのである。死に臨んでのその心境は、湊川の楠木正成と同様であったろう。

三木一草は、かくして枯れ果てた。宮方の意気は再び沈滞し、大勢は次第に足利方有利に傾いて行った。

※                  ※

八月十五日、飢えが進む京の中で、足利尊氏は新しい天皇の践祚の儀式を執り行った。

光厳上皇の皇子、 豊仁 ( とよひと ) 親王が新たに即位したのである。これが、 光明 ( こうみょう ) 天皇である。元号は、後醍醐帝が捨てた「建武」を復活させた。「武」を「建」てるのは縁起がいいからである。 尊氏としては、自己の正当性を強調し、味方の士気を高めるつもりであったろうが、天皇が同時に二人、元号が二つ存在するという異常事態が現出されたのだ。この状態がこの後半世紀も続くとは、当の尊氏自身、夢想だにしていなかったのであろうが。

新天皇の即位は、戦況を大きく好転させた。日和見の豪族は次々に足利側に付き、宮方の中からも寝返りが続出した。特に、近江守護、佐々木道誉の寝返りの影響は大きく、比叡山は穀倉地帯である近江との連絡を遮断され、逆に兵糧攻めを受ける情勢となったのである。そればかりではなく、延暦寺の僧兵の中からも寝返り者が現れ、さすがの義貞も以前のように頻繁に市街を攻撃できなくなったのだ。

ひとたび戦況が有利になると、元来人が良い足利尊氏の胸は、良心の仮借に押し潰されそうになった。自分の野心のために犠牲になった多くの人々や、山門の後醍醐帝の苦難を思いやると、夜も眠れぬ日々が続いた。彼はやがて一切の政務を直義に委任し、自身は写経に明け暮れる生活を送るようになっていった。

そんなある日、彼が清水寺に収めた願文が残っている。その文面は、

『この世は夢のごとくに候 尊氏に道心与えたまいて 後生たすけさせたまい候べく候とくと 遁世いたしたく候 今生の 果報にかえて 後生たすけさせたもうべく候 今生の果報をば 直義にたばせ候て 直義を安穏に まもらせたまい候べく候 』

尊氏はもはや、現世での栄華は望まなかった。現世での全ての幸せは、愛する弟にのみ注がれればよいと考えていたのだ。しかし、彼のこの投げやりな姿勢が、結局この兄弟に悲劇をもたらすことになろうとは・・・・。