歴史ぱびりよん

27.破牢

鳳輦を守る一行が、京の入り口である神楽岡に差しかかったのは、十月十日の昼過ぎであった。ここからは、都の全貌が手に取るようだ。

「おおおっ、都じゃ」「麿は都に帰って来たぞお」

公家百官は大はしゃぎであった。彼らのこの郷愁が、官軍の作戦を誤らせたこともしばしばであった。だが、彼らの無邪気な喜びようを見ては、それを責める気にはなれなかった。

公家たちの狂喜は、しかし法勝寺の門前で無残に打ち砕かれた。そこで待っていたのは、和睦にふさわしい僧侶や貴族ではなく、完全武装の軍隊だったからである。その先頭に立つのは、紛れもなく足利直義。

軍勢は抜刀して一行を包囲すると、殺意のこもった目をぶつけて来た。

「やはり罠だったか」予期していた菊池武重は、それほど動揺しなかったものの、上皇の一行に平気で刀を突き付ける直義のやり方に腹が立ってならなかった。

「者ども、三種の神器と全ての武器を取り上げろっ」軍勢の中から、足利直義が叫んだ。「武士どもは全て縄にかけよっ。やつらは逆賊だ。遠慮はいらんぞ」

続く喧噪の瞬間が過ぎると、鳳輦警護の一行は巨大な囚人の群れに変貌していた。

公家百官や宮女たちは、さすがに縄は掛けられなかったものの、刀に追い立てられてどこかしこに連れ去られて行った。後醍醐上皇の輿は、足利方の武士たちに担がれて花山院に運ばれて行った。残ったのは、直義の部下が抱える神器の櫃と、後ろ手に縛られた宮方の武士たちだけであった。

「ふふん」直義は鼻で笑った。「天下を騒がした謀反人どもめ。よくも、おめおめと京に戻って来おったな」

「何を言うかっ」菊池武重は、縛られ胡座をかいたままの姿勢で絶叫した。「お前たちこそ謀反人ではないかっ。狂ったのか左馬頭っ。」

「ふんっ、正統の天子は、もともと持明院統の光厳院であらせられた。それを、後醍醐の君が算奪したのではないか。我らは、正しい帝のために大義を明らかにしたのよ。それゆえ、謀反人はお前たちだ」

「ふ、ふざけるなっ」

「よく見ると、お前は菊池肥後守だな」直義の脳裏に、箱根や福山城での屈辱が蘇った。「今までのお礼だ、受け取れっ」

武重の顔面を思い切り蹴った直義は、地面に吹っ飛んだその顔にツバを吐きかけた。

「おのれっ」唇から血を垂らしながら、武重は呻いた。「今に見ていろ、直義」

「はははは、お前は真っ先に打ち首だ。負け惜しみも大概にするんだな。はははは」

※                 ※

しかし足利尊氏は、武重を始めとする宮方武士団の処刑に難色を示した。

「神妙に降参したものを、理不尽に殺すことはあるまい」

「でも兄上、味方の中には、奴らに親子兄弟を殺された者が多くいます。奴らの血で償わせねば、収まりがつきませんぞ」

「だがな、彼らを殺したら、その親族たちは我らを仇として恨み、敵対してくるであろう。恨みは恨みを呼び、天下は収拾がつかなくなるぞ。将軍家たるもの、敵を許すことも考えねばならぬ」

「・・・しかし、見せしめのために、何名かは討ち果たすべきでは」

「直義、菊池肥後守の命は奪ってはならぬ。お主も筑紫の情勢を知っておろう。範氏(一色)では菊池一族を押さえることはできぬ。九郎武敏を押さえ付けるためには、肥後守を説得して味方につけるのが早道だと思わぬか」

「なるほど・・・わかりました」直義は肩を落とした。

「それよりも直義、義貞討伐はどうなっておるのか」

「既に斯波高経(越前守護)と小笠原貞宗(信濃守護)の軍勢を、七里半越に派遣しました。きっと吉報があることでしょう」

「そうか、待たれるな」尊氏は大きく頷いた。

※                 ※

そのころ、北陸へ向かった新田勢七千は、敵が待ち受ける七里半越えを諦め、さらに東方の木の芽峠を越えて越前に入ろうとした。しかし、この年の冬は異常気象で、季節はずれの大寒波が木の芽峠を襲った。新田軍の将兵は次々と落伍し、無残な凍死体をさらしていった。

殿軍を努めた土居道増隊は、斯波勢の猛追撃に苦戦に陥った。冬季装備が不十分な土居勢は、凍えて刀を握ることすらできず、これを腕に縛り付けて奮戦したという。

「我が最期を見よっ」

包囲されて孤立した土居勢の中で、道増は絶叫とともに喉に刀を突き入れた。部下たちも次々とこれに続き、土居勢は壮烈な玉砕を遂げたのである。

一方、千葉貞胤隊は吹雪の中を道に迷い、小笠原勢の正面に出てしまった。

「無念だが、もはやここまで」

凍えて動くことすらままならぬ千葉勢は、やむなく全員が降伏した。

かくして、無事に気比大宮司のもとにたどり着いた新田勢は、全軍の半数にも満たなかった。弱り目にたたり目とは、よく言ったものである。それでも義貞は気力を振り絞り、大宮司の持ち城である 金ヶ崎城 ( かねがさきじょう ) に入り、反攻の機会を待ったのである。

※                 ※

新田勢の悲劇を知るよしもなく、菊池武重は同志たちと引き離され、とある豪邸に設けられた座敷牢に閉じ込められていた。

あの直義の見幕からして、自分の首はもう無いものと諦めていたが、いつまでたっても沙汰が来ないのはどうしたことか。六郎や八郎は、無事に南畿に潜伏できたのだろうか。ここは一体、誰の屋敷なのか。疑問はいくつもあったが、彼は牢の中央で座禅を組み、沈黙を守り続けていた。

やがて世間が十一月に入った頃、武重はこの屋敷の持ち主である意外な人物と対面した。数名の従者を引き連れて現れた人物を一目見るや、武重は絶句した。

「お主は頼尚、少弐頼尚っ」

「久しぶりだの、次郎武重」屈託の無い笑顔を見せる頼尚は、格子越しに牢内に語りかけた。「もっと早くに訪れたかったのだが、大事な政務に追われていてな。・・今度、我らの幕府を開くに当たって、 式目 ( しきもく ) (憲法)を制定することになったのだが、この頼尚も起案者の一人だったと言うわけでな。いやあ、一苦労だったわ」

「・・・・・・」

「そんなこわい目で睨むことは無かろう。同じ筑紫の住人ではないか」

「・・・貴様は父の仇だ。のみならず、一天万乗の君に逆らい、逆賊と手を結び、つい先頃も我が弟・武敏を苦しめた。こうして話しているだけでも虫酸が走るわっ」

「九郎武敏か。あれは良い武将だ」頼尚は、父・貞経を討たれた怒りを押さえて微笑んだ。「だが、いつまでも時勢に逆らう以上は仕方ない。いずれ討ち果たされることであろう」

「何が時勢だ、この逆臣が」

「・・・そういうお主たち菊池一族も、主人である鎌倉幕府に背いた逆臣ではないか」

「それは違う。我らは、鎌倉幕府の主人であり、日本人全ての主人である後醍醐の君のために働いたのだ。そして、今でもそうだ。お前たちのような変節漢とは訳が違う」

「だが、現実を見ろ、武重。後醍醐の君は花山院に幽閉され、三種の神器を豊仁親王にお渡ししたのだぞ。今や正統の帝は、持明院統の豊仁親王であらせられるぞ。新田義貞とて兵力のあらかたを討たれ、敦賀のあたりで逼塞しておる。もはや時代は変わったのだ。お主も心を入れ替えて、新しい帝に忠勤を尽くしたらどうじゃ」

「断る」

「・・・そうか」頼尚はうつむいた。「いつまでもここに居るつもりなのか、武重。あの阿蘇惟時ですら、将軍に味方することに決めたのだぞ・・・」

「ま、まさかっ」絶句する武重。その顔面は蒼白となった。

※                 ※

このころ阿蘇惟時は、足利尊氏じきじきの説得を受け、息子の恨みを忘れることにしたのである。尊氏も、坂梨孫熊丸を勝手に大宮司にしたことを陳謝し、惟時に大宮司職を返還する意向を見せた。

それ以外でも、時勢を諭されて足利方についた武士たちも多かった。あの宇都宮公綱は、寝返ることを潔しとせず、出家することを条件に釈放してもらう始末。だが、小身の武士で反抗的な者は、見せしめのために容赦なく切られた。そのため、十一月の終わりに至っても節を固く守っているのは、菊池武重くらいのものとなった。

その間、政治社会は大きく変動した。

先立つ十一月二日、三種の神器を得た豊仁親王は正式に即位し、光明天皇となった。さらに十一月七日、足利尊氏は「建武式目」を発布、幕府の開設を宣言した。足利幕府の誕生である。ただし、尊氏はこの段階では正式に征夷大将軍を拝命したわけではない。

一方の後醍醐上皇は、名目上は光明天皇の後見人であったが、実質的には花山院で囚人同様の生活を送っていた。しかし天皇はそれほど焦っていなかった。光明帝が大事にしている神器が偽物であることが分かっていたからである。正式な天皇は、義貞につけた我が子恒良なのだから・・・。

だが、世間一般はそうは認識しなかった。当然、光明帝こそ本物の天皇と認識し、恒良帝を偽物と見なすむきが強かった。そのため、金ヶ崎城の新田義貞の活動は、大きく制約されることとなった。天皇の名前で味方を募っても、力を貸してくれる豪族は殆どなかったからである。さらに十二月半ばに入ると、高師泰と斯波高経の率いる万余の大軍が金ヶ崎を襲った。準備不足の義貞は苦戦を強いられたが、金ヶ崎城は敦賀湾に突出した岬の上にそびえる要塞である。寄せ手は、遠巻きに包囲したまま攻めあぐんだ。

※                  ※

「将軍に会わせてくれ」十二月も下旬に入るころ、菊池武重は牢番に言った。

二カ月近い牢獄生活の末、蓬髪を振り乱す武重の様子は尋常ではなかった。

「そうか、ついに武重も屈服するか」牢番から知らせを受け、少弐頼尚は思わず笑みを浮かべた。「牢から出して、湯を使わせてやれ。そして、将軍に面会の日取りを決めて貰え」次々と郎党に指示を出す頼尚は、この時を待っていたのである。

その翌日、東寺の尊氏邸に向かう行列があった。武重を護送する少弐の軍勢である。多くの野次馬が見物する中を、行列の中央で歩く武重は、縄こそかけられていなかったものの、左右の屈強の武士に厳重に見張られていた。そのすぐ前方には、騎乗の頼尚が楽しそうに揺られていた。

もう少しで到着する時分になって、武重は口を開いた。

「なあ、頼尚よ」

「んっ、どうした武重」頼尚は馬上から振り返った。

「お主は、なぜ将軍に忠誠を誓うのだ。鎮西奉行の栄光を取り戻すためにか」

「・・・・・」

「目を覚ませ、頼尚。あの尊氏が、少弐のために一色範氏を京に戻すはずがない。範氏は、きっと鎮西探題を復活させるだろう」

「だ、だまれっ」

もっとも危惧していたことを衝かれたためか、頼尚はいつもの冷静さを失なった。思わず馬首を武重の方に向け直そうとしたため、隊列は乱れ、警護の者たちの視線は頼尚の挙動に一斉に集まった。

武重が動いたのはその時であった。右横の武士を殴り倒し、路地へと走った。

「いかん、逃がすなっ。追えっ」声を涸らして叫ぶ頼尚。

しかし武重の人並はずれた膂力は、牢獄生活にも萎えていなかった。飛び掛かる兵士たちを次々に振り払い、ついに、混乱する野次馬たちの中に飛び込んだ。

「さらば、頼尚。戦場でまた会おうっ」

この声を最後に、菊池武重の姿は京の町から魔法のように消え去ったのである。