歴史ぱびりよん

19.多々良浜の決戦

怒号と喚声が多々良浜を埋め尽くす。矢が飛び交い、剣戟の音が干潟に響き渡った。

怒涛のごとく香椎宮の丘を駆け下った足利勢は、すさまじい勢いで菊池方の先鋒に突っ込んだ。特に、怒りに燃える少弐勢の奮戦は目覚ましく、菊池方の秋月勢はたちまち蹴散らされた。何しろ、風上に陣取る足利方は、弓矢の威力からして菊池方とは比較にならない。足利方の矢は加速されるが、菊池方の矢は失速してしまう始末。

しかし菊池武敏には、必勝の信念があった。

「ふふん、頼尚め、猪武者のように力押ししてくるわ。だが、こちらは数の上で圧倒的に有利だ。秋月隊が敗れたとて、何ほどの事やあろう・・第二陣の龍造寺と深堀ふかぼり に使者を送れ。ただちに秋月に代わって少弐を撃てと」

しかし、武敏の送った使者は、すごすごと引き返して来た。

「龍造寺どのも深堀どのも、掃部助どのの指図は受けぬと言って、動いてくれません」

「なんだと」武敏は呆れ果てた。「おいを子供扱いにしてなめてやがるなっ、畜生。やむをえん。大宮司どの、ご苦労ですが、秋月の救援を頼みます」

「よし、心得た」阿蘇惟直はただちに本陣を発った。「ただし惟澄、お前は残れ。あとの者はおいに続けっ。少弐の息の根を止めに行くぞ」

「お待ちください、大宮司、どうしておいだけ残るのですか」惟澄が食い下がった。

「惟澄、おいは知ってるんだぞ。有智山で受けた傷のせいで、ろくに肩も上げられないことをな。いいからお前は残れ。残って掃部どのをお守りしろ」

項垂れる惟澄を残し、阿蘇惟直は弟の惟成とともに戦場へと向かった。

しかし菊池武敏は、本陣でじっとしていられる性格の持ち主ではなかったので、阿蘇勢の救援にも拘わらず戦況が好転しないのを見て業を煮やした。

やがて、左翼の赤星隊も直義の猛攻に苦戦中との知らせが届いた。なにしろ、龍造寺や深堀のみならず、その他の外様の諸将も積極的に戦闘に参加しようとしないのだ。これでは、数の利点がまったく生かされない。

外様の連中は、もともと勝ち馬に乗って菊池勢に加わっただけなので、武敏のために犠牲を払うのは真っ平だったのだ。

少弐頼尚の予言は的中した。菊池勢で戦意が高いのは、武敏と惟直の軍勢だけであった。

「不甲斐ない味方め、ようし、こうなったら自ら出撃して目に物見せてくれる」

武敏は城隆顕ら側近を集めると、本陣をがら空きにして騎首を東へ向けた。東から迂回して敵の横腹を突く作戦である。

一方、負ければ後がない足利軍は、兵士の一人一人が必死であった。形相を変えて力押しに攻め寄せる。頼尚、直義の陣頭指揮も効果的であった。しかし彼らは、もっとも恐るべき菊池武敏の主力が、側面に回り込みつつあるとは夢にも思わなかった。

この点でも、武敏の作戦は当意即妙であった。武敏は教養は無い男だが、戦機を見る直感が鋭く発達していたのだ。

「このまま押しまくれば、日和見の豪族どもは我らに寝返るに違いない。そうなったら、我らの勝利は確実であろう」陣頭の少弐頼尚は密かにほくそ笑んだ。しかしその笑顔は、左方に忽然と現れた一群の敵を見たとき、恐怖に変わった。 「いかんっ。横腹を突かれたぞ」

砂ぼこりを上げて突撃を始めた菊池の騎馬隊は、たちまち少弐の左翼を蹴散らした。少弐勢は混乱し、戦局の逆転は必至と思われた。しかし、天は頼尚に味方した。 突然の突風が菊池勢の正面から吹きつけたのである。

「うわっ」

砂ぼこりの目潰しを食らった菊池の将校たちは、一時的に攻撃不能に陥った。主将の武敏など、乗馬が暴れて逆方向に走ってしまうほどであった。そしてこの情勢が転機となった。核である菊池勢の混乱は、宮方全軍の戦意を殺いだのだ。

「いまだっ、総攻撃っ」足利直義の采配の下、足利勢の大攻勢が開始された。 たちまち崩れたった宮方の大軍は、雪崩を打って南へと逃げて行く。

「よしっ、これで勝った。筑前(少弐頼尚)の申したとおりになったわ」 香椎宮のある丘の上の本陣で、足利尊氏は歓声をあげると、近くの伝令に命じた。

「無理な追い撃ちは無用じゃと、直義や筑前に伝えよ。奴らはもはや立ち直れまい」

しかし、尊氏の判断は甘かった。武敏を始めとする菊池の諸将は、砂で真っ赤になった目を擦りながら、必死で逃げ行く味方に追いつき、大音生で全軍を制止したのである。

「まだ勝負はついておらぬぞ」

「逃げるには早すぎるわっ」

血刀を振りかざして駆け回る、菊池武敏や城隆顕、そして隈部隆久の姿に、崩れ立った大軍も、いつしか陣型を立て直していた。

「いいぞっ、勝負はこれからだ」 武敏は、博多の須崎浜の辺りで全軍の編成替えを行った。

多々良川を渡って背水の陣を敷いた足利軍の中で、少弐頼尚は我が目を疑った。一度敗走した烏合の衆を再びまとめ直すことは、この時代の軍事常識では不可能に近い難事であった。それゆえ尊氏も勝利を確信し、追撃を徹底しようとしなかったのである。しかし、今や体勢を立て直した宮方の大軍は、しゅくしゅくと反攻の馬蹄を響かせている。

「菊池武敏、見事な将器だ。父が敗れたのも無理はない。なんとしてもここで討ち取らねば、我が少弐一族にとって、将来の大敵となろう・・・」

吹きすさぶ砂塵の中を、再び両軍は激突した。

武敏は、今度は外様豪族の力を当てにせず、主に菊池、阿蘇の信頼できる兵力のみで押し出した。彼自ら陣頭に立って督戦する。しかも、その鋭鋒を敵の右翼に集中させたため、足利直義は非常な苦戦に陥った。

「くそっ、ここまでか」

左右でバタバタと討たれていく部下を見ながら、自らも数瘡の傷を負った直義は、もはや討ち死にの覚悟を固めた。乱戦の中で自らの直垂の一部を切り取り、これを郎党に手渡してこう言った。

「これを俺の形見だと言って、兄上に渡してくれ。そして、直義が討ち死にしている隙に長門か周防にお逃げくださいと伝えよ。直義の分も、なんとしても生き抜き、再起を図ってほしいとな」

後方の尊氏は、届けられた弟の血染めの直垂を見て落涙した。

「弟よ、お前だけを死なせてなんの面目があろうぞ。死ぬなら俺も一緒だ」 尊氏は、最後の突撃を決意した。

「今日は死ぬ日ぞっ、皆の者、狂えや狂えっ」

足利本陣はついに動いた。足利一門のみならず、大友、島津勢もこれに続き、雪崩のように菊池勢を襲った。

突っ込んでくる尊氏勢を見て、菊池武敏は戦局が最後の山場を迎えたことを知った。ここを踏ん張れば勝てる。

「みんな、最後のひと踏ん張りだぞっ。逆賊尊氏は、すぐそこだ。奴の首を打てば戦は終わる」愛馬を左右に乗り回して叫ぶ武敏。

しかし、さすがに勇猛な菊池勢も、ここ一週間の休みない激戦の連続に疲労の極致に達していたのである。しかも、死を決意した尊氏本隊の勢いは凄まじく、菊池の先鋒はたちまち乱れた。

さらに、この尊氏の奮戦は決定的な副作用をもたらしたのである。

「お屋形っ、左翼の松浦と神田が寝返りましたぞっ」

駆けつけて来た郎党の言葉に、陣頭の武敏の顔は蒼白となった。

「なんだとっ、そんな馬鹿な」

しかし、松浦、神田勢の裏切りは真実であった。彼らは、最初から戦況を静観し、日和見していたのだが、迷わずに奮戦する九州御三家の姿に心を動かされたのであった。

そもそも、ここで尊氏の首をとったとしても、あの後醍醐帝や公家たちに恩賞が期待できるであろうか。それよりは、気前のいい尊氏の下で手柄を立てたほうがよいのではないか。

彼らのこの考え方は全軍に伝染し、その裏切りをきっかけに菊池の大軍は呆気なく解体した。日和見していた他の豪族たちも、さっさと戦場を離脱したり、足利陣営に投降を始めたのである。

「いやだっ、おいは逃げぬぞっ」菊池武敏は絶叫した。「逃げたければ勝手にしろ。おいは一人でも戦うっ」

形勢逆転し、いまや敵に包囲されかかった戦場で、菊池武敏は尚も奮闘しようとした。しかし、阿蘇大宮司とも秋月種道とも連絡がとれず、もはや組織的な行動は不可能であった。いつしか、武敏の周囲も乱戦の渦に飲み込まれていた。

そのときである。黄金造りの兜をまとった一騎の武者が、凄まじい勢いで武敏目がけて突っ込んで来たのは。

「菊池掃部助っ、父の仇っ、覚悟しろっ」

「なにっ」

意外な言葉に驚いた武敏の反応は一瞬遅れた。次の瞬間、脇腹を斬られたその鎧姿は落馬し、砂地に激しく叩きつけられていた。

「九郎どのっ」

阿蘇惟澄や城隆顕が駆けつけて武敏を助け起こした時には、謎の黄金兜の騎馬武者はどこかへと走り去っていたのである。

「あれは、少弐頼尚か」城隆顕が唇を噛んだ。

「おそらく、そのようですな」阿蘇惟澄は、武敏の傷を手当しながら答えた。

「九郎どのは大丈夫です。惟澄どの、急いで撤退しましょう。一刻を争う」

「そうしましょう」 半ば意識不明の武敏を馬腹に横たえた惟澄は、連絡の取れない義兄たちの身を案じながら、菊池勢とともに多々良浜の戦場を後にしたのであった。

「追い討てっ、一人も逃すなっ」

尊氏の命令は、今度は苛烈であった。餓狼のように敗残兵に襲い掛かり、逃げ遅れた秋月種道とその一族を討ち果たすと、その矛先を更に南へと向けた。

そのころ阿蘇大宮司惟直は、弟の惟成や一族郎党を連れて肥前に逃げ込んでいた。先に撤退した龍造寺や深堀一族を頼ったのである。しかし彼らは、この情勢を見て足利方に寝返り、逆に阿蘇勢に襲い掛かったのである。既に肥後への道は足利勢に遮断され、疲れ切った阿蘇勢は敵中に孤立し、完全に包囲されてしまったのだ。

「惟澄は無事に逃げたかな」

「菊池掃部どのは、なんとか筑後へ逃げたとか。ならば、惟澄も無事でしょう。奴を別行動させたのは正解でしたな」大宮司の問いに、惟成が答えた。

「ふふふ、ならば阿蘇社は安心だ。心置きなく死ねるぞ」

阿蘇一族は、肥前小杵山おつきやま に立てこもって勇敢に戦った。

惟直と惟成は、最後まで敵に屈しず、一族郎党百余名もろとも自害して果てたのである・・・。

菊池勢の退却も楽ではなかった。殿軍を努めた赤星武幸と、隈部隆久が相次いで討ち死にし、やっと筑後の黒木城に逃げ込んだときは、わずか二百騎五百名となっていたのだ。しかも、総大将の武敏まで重傷を負っている状態である。

「畜生っ」武敏は、傷の痛みに呻きながら叫んだ。「父と同じ博多で敗れるとは無念だ。しかも、多くの宿老を討ち死にさせて、都の兄上に合わす顔がないわっ。畜生、おいは駄目な男だっ」

黒木城の茵の上で泣きじゃくる武敏の惨めな姿を見かねて、城隆顕が声をかけた。

「いつまでも嘆いている場合ではごわさぬ。尊氏は大宰府に入り、着々と次の手を打っているそうです。我らも愚図愚図していられませんぞ」

「隆顕どのは、この惨めな武敏に、まだ戦えというのか」

「当然でしょう。亡き阿蘇大宮司のためにも、我らは最後まで踏ん張らねばなりませぬぞ」厳しく言い放つ隆顕に、武敏は夢から覚めたような目付きになった。

「そうだ、おいはまだ生きているのだ。全てを諦めるには早すぎる」

武敏は痛む傷を庇いながら、やがて襲い来る足利勢を迎え撃つために、防戦準備に取り掛かった。