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7.魂は北闕 ( ほっけつ ) を望む

九州の戦況が膠着状態に陥った延元三年の末、中央では北朝方の優位が固まりつつあった。越前では、亡き義貞の弟の脇屋義助が全軍の指揮をとって奮闘していたが、劣勢は覆せなかった。また、畿内や奥州においても、北畠顕家の戦死の打撃は大きく、南朝方の勢力はまったく奮わなかった。

しかし延元三年の九月、後醍醐天皇は東国の味方を立て直し、再度奥州軍を編成するために、北畠親房と顕信の親子を筆頭に、結城宗広、義良親王といった奥州軍の残存兵力を東国に派遣することに決した。この際、陸路は敵に閉塞されているので、伊勢の 大湊 ( おおみなと ) から海路をとることにした。

だが、南朝方の非運はどこまでも続いた。東へ向かう大船団は、遠州灘を過ぎた辺りで台風に遭遇し、離れ離れになってしまったのだ。義良親王と北畠顕信は尾張に、宗良親王は遠江に、結城宗広は伊勢に漂着してしまい、無事に常陸(茨城県)にたどり着いたのは北畠親房のみであった。

この結果、結城宗広は失意のあまりに伊勢で病死し、顕信と義良親王はやむなく吉野に帰った。宗良親王は遠江に拠点を構え、親房は小田一族を頼って常陸の 神宮寺城 ( じんぐうじじょう ) に入った。

北畠親房は、常陸各地を転戦しながら、白河の結城親朝(宗広の長男)の援軍到着を待った。だが、結城親朝は援軍を送るつもりなど無かった。父と弟(親光)を無駄に失った今、彼の心は北朝に傾いていたのだ。かくして、北畠親房は苦戦に陥った。小田一族の軍事力は強くなく、京都から進攻してきた高師冬の大軍の前に、次々と崩れた。敵に追われて常陸各地を転々としながら、親房は自身の記憶のみを頼りに、有名な『神皇正統記』を執筆した。これは、目先の利害に迷って北朝方に付く豪族たちを啓蒙するため、皇室の歴史を説き明かすことによって、南朝方の大義を明らかにする書物であった。その主な標的が結城親朝にあったことはもちろんである。だが、結城親朝はなおも動かなかった。

親房は、孤立無援のまま、常陸でこの後五年間戦い続けるが、もっとも大きな収穫は、『正統記』の執筆にあったといえよう。この書物は、苦境に立つ南朝方の諸氏に大義名分を与え、大いに勇気づけたからである。だが結局、南朝の勢力挽回が成らなかったのは、この書物が豪族たちの現実的な利益に資さなかったからである。恩賞目当ての武士たちにとっては、どんな名著も単なる紙でしか無いのだ。

                  ※                 ※

親房が常陸に入ったころ、足利尊氏は、膠着状態に入った九州情勢を打開すべく、菊池一族の分裂を画策していた。延元三年の九月、菊池の血を引く甲斐の豪族、 甲斐重村 ( かいしげむら ) を九州に派遣したのである。この重村は、数代前に分家して東国に移住した菊池一族であり、彼の帰郷は、固い団結を誇る菊池氏に波紋を起こすことが期待された。

だが、結果は散々であった。既に武重の血判によって結束が強化された菊池一族は、一致団結して甲斐重村を迎え撃ったのである。鞍岳の戦いで九郎武敏に敗れた重村は、ほうほうの体で京に逃げ戻っていった。

同じころ、阿蘇惟時はついに坂梨孫熊丸を自刃に追い込み、阿蘇大宮司に復位していた。かくして、九州における南朝方の優位は小揺るぎもなかった。

だが・・・、

この年の十月、勢いに乗る菊池、阿蘇両軍に大打撃を与える出来事が起こった。

後醍醐天皇の突然の崩御である。

当初軽かったはずの風邪は、失意のためか急激に悪化し、天皇は延元三年の冬を越すことができなかったのだ。

自らの死期を悟った後醍醐帝は、新田一族の功績を褒めたたえ、跡を継ぐ義良親王(後村上天皇)をもり立てるように群臣に遺言すると、

『例え朕の身は滅びても、魂はつねに北闕(京都)の天をのぞまん。もし命に背き、義を軽くせば、君も継体の君にあらず。臣も忠烈の臣にあらず』

こう逆賊討伐を言い残し、左手に法華経の巻を握り締め、右手には剣を抱いて大往生を遂げたとされている。また、歴代の天皇稜は南向きだが、後醍醐天皇の稜墓のみは京の都が見えるよう、北向きにつくられたという。すさまじい執念、いや妄執と言うべきであろうか。

思えば、後醍醐天皇の生涯は戦いの連続であった。皇子のころから宮廷内の派閥抗争を戦い、即位されてからは鎌倉幕府の打倒に燃え、いったんは隠岐に流されながら、脱出して大逆転で悲願を達成した。だが、建武の新政であまりに性急に貴族独裁を推進したがため、多くの武士たちに見放され、ついには足利尊氏との対決を迫られ、ついには京を追われた。そして今、吉野の山奥で激動の生涯を閉じられたことは、気の毒という外はない。

しかし、天皇の理想と野望のために犠牲となった、多くの人々のことを忘れてはならない。革命に付き物とはいえ、時代の流れの中で苦しんだ人々の憤りは、おそらく天皇にまで及んだのではあるまいか。『太平記』は、後醍醐天皇を、帝でありながら覇道を選び、王道を怠ったことで批判している。確かに、後醍醐帝は天皇というよりも、むしろ革命家であった。それゆえにこそ、今ここに精神的支柱を失った南朝方の衝撃は大きかったのである。もはや南朝の存在意義さえ見いだせず、吉野を去ろうとする群臣も多かったが、楠木、新田、名和、北畠といった諸族が、後村上天皇に変わらぬ忠誠を示したことにより、辛うじて瓦解を免れる始末であったといわれる。

だが、後醍醐天皇崩御の知らせは、敵である京にも衝撃を与えた。

「お許しくださいっ」

足利尊氏、直義の兄弟は、南の空に向かって膝まづいた。彼らは、必ずしも敵である天皇個人を憎んでいたわけではなく、むしろ朝廷に敵対する自分たちに自責の念を感じていたのだ。しかも、天皇の死の原因の一端は自分たちにある。恐れ多くもあり、気の毒でもあり、また怨霊が怖くもあった。

宿敵の死を素直に喜び、記念行事を執り行おうとした北朝の朝廷は、足利尊氏の命令によって逆に全ての政務を停止し、喪に服すことを強制された。もちろん、幕府もその機能を停止し、七日間の謹慎に入ったのである。また尊氏は、後醍醐天皇の霊魂を慰めるために、天龍寺という寺の造営さえも行った。

だが、天皇を悼む尊氏の気持ちは、一人の人間としては尊いかもしれないが、政治家としては失格であろう。北朝の朝廷が傀儡であり、本当の朝廷は吉野であると、内外に公表しているようなものだからである。室町幕府に終生つきまとう、大名に対する統制力の弱さは、ここに原点があるのかもしれない。

だが当面は、敵の総帥である後醍醐天皇の死は、北朝方の緊張感を緩め、安逸な気分に浸らせた。このことが新たな戦乱を招くことになろうとは、誰が想像しえただろう。

                  ※                  ※

「よしっ、ついに好機到来ぞっ」

博多の鎮西大将軍・一色範氏は、手を打って叫んだ。

「帝が死んだとあらば、さしもの肥後の逆賊も気落ちしておるでろう。一気に踏み潰してくれるぞっ」

誤解なきように言っておくが、一色範氏は、これまで手を拱いていたわけではない。菊池討伐のための軍勢を何度も招集しようとした。だが、それに応じるのは肥前の豪族のみであった。なぜなら、筑前の豪族は少弐氏の指令しか受けず、豊後の豪族は大友氏の指令しか受けなかったからである。一族の畠山義顕は日向で激戦中であり、島津氏も薩摩の戦いに追われて頼りにならない。と言って、強力な菊池氏に対抗するには、肥前の軍勢だけでは少なすぎる。そのため、範氏は情勢の変化をじっと待つしかなかったのだ。

一色範氏は、九州北部の友軍、特に少弐氏にに苛立ちを感じていた。頼尚が、彼の命令をことごとく無視するからである。先日も、博多の鎮西大将軍屋形の新設に当たって、少弐に資材の供出を命じたのに、体よく拒否された。足利尊氏の恐れは、今や現実化しようとしていた。北九州に伝統的な権威を有する少弐氏は、新参者の範氏の言いなりになる積もりはなかったのだ。

こんな北朝方の対立が、菊池氏を助けていたことは言うまでもない。範氏と頼尚の連合軍に攻められれば一たまりもなかったのに、彼らは常に別行動を取ったからである。

もっとも、少弐頼尚は、独自の戦略のもとに菊池攻撃計画を固めていた。半年にわたって逼塞していたのは、新兵器の開発と訓練に追われていたためである。四月の戦いで千本槍隊の活躍を目の当たりにした頼尚は、菊池氏に対抗するために、自ら槍隊の育成に乗り出したのである。

「よしっ、菊池武重め、槍隊の整備は万全じゃ。おまけに後醍醐の君も亡く、こちらには必勝の作戦があるときた。貴様の首を見る日も近いぞ」

延元三年十月、少弐軍はついに行動を開始した。大友氏泰とも連絡を取り、東西から肥後に侵入しようとした。

かくして、菊池武重には、敬愛する帝の崩御を悼むゆとりすら与えられなかった。喪服と一緒に、胸に焼き付く深い悲しみを脱ぎ捨てると、弟たちから戦況の報告を受けた。

「敵は、少弐と大友の連合軍か。一色はどうした」

「一色軍も博多に軍勢を集めていますが、発向は遅れそうです」

「そうか、ならばまず、東から阿蘇を越えて接近中の大友、次いで北から来る少弐を叩くぞ。範氏が出てくる前に、片を付けるのだ」

菊池武重は、衰弱した体を推して、自ら陣頭に立つことに決めた。彼でなくては、この危機を乗り越えられないと判断したからである。武重の病状を知らぬ寄合衆も、初代管領に任命された木野五郎武茂を始め、異議なく賛同した。

菊池川を溯った菊池軍は、鞍岳で大友軍と遭遇した。大友軍は何故か最初から弱腰で、一度の合戦の後に退去していった。

「おかしい、最初から戦う気が無かったようだが」

首をひねる武重に対して、百戦錬磨の弟たちは楽天的だった。

「なあに、おいたちの強さに恐れをなしただけでしょう」と、九郎武敏が言えば、

「少弐が後ろに迫ってなければ、このまま豊後を制圧しに行くのじゃが」と、八郎武豊も、生え始めたばかりの髭をひねる。

だが、武重の不審は的確だった。少弐に備えるために菊池に引き返そうとする軍勢は、一群の怪しい軍隊に、突如として行く手を遮られたのだ。その軍隊の陣頭に翻る『違い鷹羽』に、武重たち兄弟は驚愕した。

「なんと、あれは阿蘇の旗印じゃないか」

「なぜ、おいたちを妨害するのじゃっ」

「・・・とりあえず、軍使を送ってみよう」

戦闘隊形をとって、謎の軍隊と対峙した菊池軍は、やがて戻って来た使いから、恐るべき知らせを受けた。

「お屋形さまっ、やはりあれは阿蘇の軍勢ですっ。阿蘇惟時どのが、阿蘇惟時めが裏切って敵についたのですばいっ」

「ばかなっ」九郎武敏が絶叫した。「惟時どのは、亡き帝の恩顧を深く受けているうえに、ご子息を二人(惟直と惟成)も足利に殺されているのだぞ。いまさら敵に寝返る道理があろうはずがないわ」

「お疑いでしたなら、これをご覧くださいっ」使いの者は、懐から一通の書状を取り出した。それを受け取り、読み始めた武重の額から、冷や汗が流れ落ちた。

「ううむっ、これは紛れもなく惟時どのの花押ぞ」

「それで惟時どのは、なんと言って来たのですか」八郎武豊の剛毅な顔も青ざめる。

「・・・吉野の帝が亡くなったので、吉野方につく義理は無くなった。これからは、足利幕府とともに新しい世の中の創設に尽力すると言ってきおったわ。惟時めっ、我らを狭い山地に閉じ込めて、その隙に少弐勢に菊池を襲わせる魂胆ぞ」

「おのれっ、阿蘇惟時っ、朝敵に我らを売り渡そうというのか。太古より続いた、菊池と阿蘇の仲もここまでというわけかっ」武敏はこぶしを振り上げ、大地を踏み鳴らし、歯軋りして悔しがった。「ゆるせん、一揉みに踏みつぶしてくれるわっ」

「落ち着け、九郎。まだ解決策はあるはずだ」武重は、さすがに冷静に弟を宥めた。「阿蘇惟澄どのはどうであろうか。あの惟澄どのが、養父に同意したとは思えぬ。おそらくは惟澄どのにとっても、今度の事件は寝耳に水であろう。惟澄どのが動いてくれれば、まだ希望がもてるぞ」

「兄上、そんな悠長なことを」武豊が呻いた。「菊池には、五郎兄上や城隆顕どのが留守しているものの、兵力はわずか。とても少弐の大軍にはかないませんぞ。一刻も早く我らが戻らねば・・・」

「それは分かっておる。分かっておるが、ここで阿蘇軍と戦ってみよ。菊池と阿蘇とが長年にわたって築いて来た絆は、完全に断ち切られてしまうことになるぞ。なんとか、血を流さずに済ませたいのだ」辛抱強く語る武重は、頭に突然の鈍痛を感じた。

「ばってん、それこそ少弐の狙いなのではありませんか。・・・我らは、完全に罠にはまったという形ですな」自嘲ぎみに呟く武敏。その言葉に、武重は耐えられなかった。

「むうっ」片手で強く頭を押さえた武重の巨体は、次の瞬間には仰向けに転倒していたのだ。あわてて助け起こし、典医を呼ぶ弟たちや郎党たちの声は、もはや武重の意識には入って来なかった。

進路を塞がれたうえに、重態に陥った総大将を抱え、菊池軍の動きは完全に停止した。もはや、少弐軍の進攻を阻む手立てはないと思われた。

「作戦は、大成功じゃ」菊池城を望む台地の軍中で、少弐頼尚はほくそ笑んだ。「わしの工作により、阿蘇惟時は菊池軍の主力を山地に封鎖しておる。どうやらこれで、菊池一族との戦いに終止符が打てるぞ。そして、菊池を滅ぼした功績によって、このわしは、一色氏に代わって筑紫全土に君臨することになろう」

一方、阿蘇惟時の背信を知った菊池深川城は、大いに動揺していた。城を捨てて逃げるという、いつもの手も、阿蘇一族の支援なくては行えない。もはや、彼らに残された道は、城を枕に討ち死にするのみである。

「来るなら来いっ、そう簡単には城は渡さぬぞっ」

必死に防備を整える五郎武茂や城隆顕。城兵の戦意も強固である。だが、彼らを支えるものは、武重の主力の帰還の可能性一筋であった。焦慮にかられ、六郎武澄は、戦備の合間に聖護寺へと馬を走らせた。

「大智禅師、次郎兄上をお救いくだされっ」

息せききって、本堂にへたり込んだ武澄の姿に、大智の心は強く動かされた。

「分かり申した。仏の御加護を頼んでみましょう」

大智は正装すると、仏壇の前に鎮座し、武重の帰還を願って一心不乱に祈祷を行った。現世からの解脱を身上とする大智は、滅多に祈祷などはしなかった。そんな彼を祈祷に踏み切らせたということは、それほど菊池一族の危機が深刻だったということであろう。

大智の必死の祈りは、さっそくその翌日、別の形でかなえられた。

菊池南方から、予期せぬ援軍が出現したのである。