歴史ぱびりよん

10.婆娑羅の世の中

歳月の流れは、人々に戦乱を忘れさせた。今まで流浪にあえいでいた民衆は、やっと落ち着いて正業に励みだし、そのやつれた顔に笑顔が帰って来た。

後醍醐天皇の死後、南朝方の軍事的劣勢は圧倒的となり、もはや北朝の敵ではなくなった。そのため、恐ろしい戦の影が鳴りを潜めたからである。

菊池武重が死んで二年後の 興国 ( こうこく ) 元年(南朝年号1340)、北陸の脇屋義助軍は、高師直の圧倒的大軍の前に大敗し、兄の遺恨の残る北陸経営を放棄せざるを得なくなった。いまや残りわずかとなった一族とともに美濃から吉野へ逃れた義助は、その山々のあまりの美しさに思わず涙を流したという。南畿の大自然は、義助にどのような感慨をもって戦続きの半生を振り返らせたのであろうか。

九州の形勢も同様であった。武重の死後、勢いの衰えた南朝軍は各地で連敗を重ねた。

武重死後わずか二カ月の 延元 ( えんげん ) 四年(1339)四月に、伊東祐広が畠山義顕に敗れて討ち死にしたのを手始めに、同年八月には肝付兼重も北朝方に降伏してしまった。

あの菊池一族は、惣領交代に伴う戦力の再編成に追われて、軍事行動を制限するしかなかったため、これまで押さえ込まれていた肥後の北朝方の豪族たちが、みんな息を吹き返してしまった。四方を彼らに取り囲まれた菊池氏には、もはや往年の力はない。そう判断した一色範氏は、今や主敵を肥後南部の相良氏や阿蘇惟澄に絞り込むことにした。

忽那島の懐良親王も、このような情勢では九州入りを延期せざるを得ない。

吉野の後村上天皇や東国の北畠親房は未だに気を吐いていたものの、もはや戦乱は実質的に終わったかに思われた。

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南朝の興国三年、と同時に北朝の 康永 ( こうえい ) 元年(1342)の春、堺浦に入港した大型船の甲板に、馴染みの見慣れた顔があった。

白髪が目立つその人物は、ふくよかな恵比寿顔の博多商人、梅富屋庄吾郎その人である。その傍らに佇む影は、番頭の弥次六である。

「どうやら、無事に瀬戸内を渡れたな」庄吾郎が言った。

「近ごろは、海賊もおとなしいようですね。これで我らも安心して商売に励むことができまさあ」弥次六が頷く。

「うむ、これで将軍との会談が成功すれば文句ないのだがな・・・」

庄吾郎が、自ら堺まで出てくることは珍しい。今回の彼の旅の目的は、畿内および九州の大商人が集まり、足利幕府に重大な提議を行うことに決まったので、それに参加することにあった。

堺の町は、戦乱の安定を迎えてようやく賑わい始めていた。大きな商館が連なり、大勢の人々が市場に集う。みんな、平和の恩恵を謳歌しているかに思えた。

だが、堺には別の顔があった。堺はかつて楠木氏の領土だったこともあり、心情的には未だに南朝贔屓の者が多かった。道行く人々の中にも、北畠親房の息のかかった工作員がどれだけいるのか分からない。

もっとも、庄吾郎にとってはそんなことはどうでも良かった。彼は、動乱の間を縫って、梅富屋をより一層発展させることが生きがいであった。

幕府への提議の立案者は、堺の商人・桔梗屋である。その商館に宿をとった梅富屋の一行は、翌日の集会に備えて、その夜はぐっすり眠って鋭気を養った。

その翌日、朝から大勢の貿易商人が、桔梗屋の豪邸に集まった。

「我々の利害は一致する」

「そのとおり。 天龍寺船 ( てんりゅうじぶね ) を幕府で独占する将軍のやり方は、我らの利益を侵すものだ」

  「そうだっ、我ら民間の商人にも、大陸に独自に船出する権利はあるはずだ」

「なんとかして、将軍に我らの権利を認めさせねばならぬ」

天龍寺船というのは、足利幕府が大陸に派遣する貿易船の俗称である。なお、天龍寺とは、将軍尊氏が後醍醐天皇の霊魂を慰めるため建立した寺の名前である。幕府がこの寺の造営費用を賄うために大陸との貿易を始めたことから、官営の貿易船はこう呼ばれた。

商人たちの主張は、要するに貿易の民営化である。彼らは当時、建前上、自らの持ち船を大陸に送ることは許されず、密貿易のような形で交易を行っていた。従来これを黙認していた幕府は、しかし近ごろ、彼らが手掛けていた密貿易に対する規制を強化しつつあったのである。商人たちの不満は、ここにある。

喧々囂々の議論の中で、冷静な庄吾郎は終始無言であった。彼は、このような要求を将軍尊氏が呑むはずはないと考えていたからだ。なぜなら・・・・。

「将軍は、豪族連合の首長たる今の幕府の在り方を改善しようとしている。幕府の権力を高め、好き勝手に振る舞う 婆娑羅 ( ばさら ) 大名たちを取り締まろうと考えているのだ。そのためには、幕府に富を集中させたいはずだ。貿易を完全に国営化しようとするのは、そのために違いない。とすれば、将軍が我ら木っ端商人の言うことに耳を傾けるはずはない」

このような庄五郎の思惑にも拘わらず、会議は、代表として博多商人の 肥 富屋 ( こいとみや ) を幕府に派遣することに決して散会した。

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「駄目じゃっ、将軍は、我らのことなど歯牙にもかけなんだ」

京から戻った肥富屋は、がっくりと膝を落として嘆息した。

「ほうか・・・・・」

「将軍の業突張りめっ」

再び桔梗屋の屋敷に集まった商人たちは、期待を裏切られて愚痴を言い合うだけであった。

「ううむ、これ以上、交易を規制されたら、飯の食い上げになるやもしれぬぞ」

「何か解決策は無いものか」

その時である。それまで一言も発しなかった、梅富屋庄吾郎が口を開いたのは。

「私に考えがある」

万座の視線は、庄吾郎一人に集中した。

「庄吾郎どの、何でも良い。我らの苦境を救ってくれぬか」桔梗屋が言った。

「ええ、ただし、私がこれから語ることは、他言無用に願います」そう念を押してから庄吾郎が語ったのは、驚くべき話であった。

当時、中国大陸および朝鮮半島でも、戦乱の嵐が吹き荒れようとしていた。一時は周辺諸国を席巻したモンゴルの元帝国は、被支配民族の漢人(中国人)との対立激化に苦しんでおり、朝鮮半島でも高麗王朝が衰退期を迎えつつあった。

後に 倭寇 ( わこう ) と呼ばれるようになる海賊たちは、この機会に暗躍を開始した。最初は、元寇の敵討ちのつもりで対馬や壱岐の島民が動いた。今では、五島列島や肥前の豪族たちも動いている。彼らの目的は、財宝と人の略奪であった。どちらも、日本国内では高く売れて金になるのだ。

「我が梅富屋は、肥前の松浦党と秘密の契約を結びました。我らが必要な資金を供給する代わりに、彼らは獲得した財宝の一部をこちらに譲り渡すという契約を」

「なんと」肥富屋は仰天した。「庄吾郎どのは、海賊と結託したというのかっ」

「そのとおり」庄吾郎は鷹揚にうなずいて見せた。「直接手を下すのは海賊どもだ。我らには危険はない。また、筑紫北部の海賊たちにまでは幕府の手は及ばない。上手に密貿易をするには、これが最良の方法と思うが、どうでしょう」

「確かに・・・。だが、どうして梅富屋は、そのような大事を我らに打ち明けたのか。自分たちだけで儲ければよいものを」博多商人の 宗金 ( しゅうきん ) が首をかしげた。

「私の夢は」庄吾郎の声音は高くなった。「世界中の富を手にすることです。それには、梅富屋だけでは資本が足りない。そこで、共通の悩みを持つ皆様と資金を出し合って、共に大きく儲けようと考えたのです。いかがでしょうか、皆さん」

商人たちの目は怪しく光った。この機会を逃す手は無い。幕府なぞ糞くらえだ。

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そんな不穏な動きを知るすべもなく、京では足利尊氏が頭を悩ましていた。

悩みの種は、世情を騒がせる婆娑羅の風潮である。

婆娑羅とは、本来は 梵語 ( ぼんご ) の『金剛』を意味する仏教用語である。金剛石が全てを打ち砕くことから、既存の常識や道徳を踏みにじる行為を婆娑羅と言うようになったのだ。

近ごろの京では、婆娑羅が大流行であった。具体的には、朝廷や貴族や寺社などの権益や風俗を踏みにじり、勝手な振る舞いをする武士が恐ろしく数を増したのである。それが下級武士のすることなら、見せしめに何名か処刑して解決できるだろうが、一国の有力守護が率先して婆娑羅をする以上、これは由々しき大事であった。

特に、近江の佐々木道誉の婆娑羅は有名であった。派手な行列で町中を練り歩き、闘茶に連歌と遊びに狂い、放蕩三昧したい放題であった。彼は、興国元年(1340)に、有名な妙法院焼き打ちを敢行している。鷹狩の帰りに、道誉は天台宗の妙法寺の紅葉を愛で、郎党に命じて小枝を折り取らせた。ところが、怒った法師たちがその郎党をめった打ちにして小枝を取り上げたため、道誉の婆娑羅に火がついた。その夜、手勢三百を引き連れた道誉は、妙法院に火を放ち、全てを焼き払ってしまったのだ。怒った比叡山は道誉を強訴した。困った尊氏は、道誉を 上総 ( かずさ ) (千葉県)に流罪にしたが、これはあくまでも形式で、罪人のはずの道誉は、この翌年には京の町を悠々闊歩している始末であった。

婆娑羅大名は道誉ばかりではない。公家の娘たちは、いつのまにやら田舎豪族たちの屋敷に侍り、寺社や貴族の荘園は、軍隊の補給基地として武士に接収されていた。

それというのも、北朝の朝廷および公家、僧侶は、武士のお陰で今日の姿があり、自らは武士たちに何の恩恵も施していないのだから、武士たちに嘗められても仕方ないのだ。

しかし、幕府を事実上主催する足利直義の理想は、鎌倉時代の質実剛健の復活にあった。

そのため、彼は婆娑羅の風潮を憎み、事ある事に弾圧を加えた。例えば、少し後のことになるが、美濃の 土岐 ( とき ) 頼遠 ( よりとお ) が、泥酔して光厳院の御幸に行き会ったときの事件が有名である。頼遠はこの時、院の従者に道を開けるように言われて、「院だか犬だか分からんわ。犬ならば射てやろう」と答えて、上皇の牛車に矢を射かけたのである。上皇の身に怪我こそ無かったが、これを知った直義は烈火のごとく怒り、多くの反対を押し切って、この有力大名を死刑にしてしまった。

だが、彼とは逆に、婆娑羅を積極的に擁護する実力者もいた。高師直である。

足利家執事の師直は、形式的には幕府の恩賞方の長官に過ぎないが、政務に消極的な将軍尊氏の執務代行者として、絶大な権力を握っている。

彼は、先進的な思考力を持つ、優れた戦略家であった。由緒ある寺に立てこもった敵を仏閣ごと容赦無く焼き払ったり、必要とあれば貴族の荘園から兵糧を強奪したりした。その臨機応変ぶりによって、北朝軍は多くの勝利を獲得できたのである。だが、その既存の秩序を無視する行動ぶりは、婆娑羅以外の何者でもなかった。

師直の婆娑羅は、軍事のみならず、私生活や政治の上でも大いに発揮された。

私生活の上では、兄の師泰と共に、その放埒ぶりは京じゅうの語り草となっていた。貴族の女を片っ端から犯したとか、別荘を建てるために公家たちの墓地を掘り返し、貴人たちの遺骨を雨ざらしにしたりとか、その手の挿話には事欠かない。

だが、政治の上では、役立たずの公家や僧侶の力を弱め、足軽の供給源たる地方武士や山の民の権力伸長に尽力した。その点で、彼は革新的な政治家としての側面も持っていた。

このころの彼の婆娑羅ぶりを、如実に示す彼の言葉が残されている。「この世に、院とか御所などと言われるものがあるから、日常生活が窮屈なのだ。どうしても王や貴族が必要なら、木や金で造作して飾っておけば良いのだ。現在生きている彼らは、邪魔だからどこかに島流しにしてしまうべきだ」

しかし、師直のこのような考え方が、復古的な立場の直義に受け入れられるはずもない。かくして、幕府の中に保守と革新の二つの派閥が対立し、この両者の間の反感は日増しに大きくなって行った。

将軍・足利尊氏は、両者の間を調整すべき地位にあった。だが、そのためには、彼自身にそれだけの力が備わっていなければならない。いつまでも、豪族連合の御神輿としてかつがれている訳にはいかない。

「そのためには、大陸との貿易によって富を得、外交成果によって自らの威信を高めるのが一番だ。筑紫、特に博多は、絶対に我が手に確保しておかねばならぬ要地。貿易も、我が一手に押さえねばならぬ。一色範氏の権限を強め、鎮西探題を復活させる準備を急がねばならぬ・・・」重大な決意を胸に、尊氏は沈思するのだった。