歴史ぱびりよん

21.鏡の中の早苗

足利直義の死は、九州の情勢をまたもや震撼とさせた。

後ろ盾を失った佐殿方の士気が衰えただけでない。尊氏が三月に鎌倉から発布した指令は、かつて無い激しい語調で直冬追討を全九州の豪族に命じた。弟の命を自らの手で断った尊氏の心の中で、何かがふっ切れたのであろう。

そもそも、足利直冬の声望の最も重要な要素は、彼が将軍・尊氏の実子であることにある。そして、多くの佐殿方の豪族は、直冬に味方しても尊氏に弓引くことにならぬと信じて、彼に従っていたのである。ところが、尊氏が直冬に示した激しい敵意は、この直冬の魅力を大きく減殺させた。中央の戦局が明らかとなった今、将軍の命令に歯向かうくらいなら、早めに直冬を離反するべきだ。多くの豪族がそう考えたのである。

少弐頼尚とその主力はさすがに強く、一色、大友、島津連合軍と戦って一度の遅れも取らなかった。それにも拘わらず、その味方は次々に減って行く。勝てば勝つほど、少弐軍は次第に追い詰められていくという情勢となった。

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一方の雄、征西府は、北九州の動静を肥後菊池から望見していた。どうせ一色も少弐も北朝方なのだから、両者が勝手に争い合って消耗してくれるのは大歓迎であった。もっとも、菊池武光は、肥後や筑後国内の掃討戦の手は休めなかった。来るべき征西府の大攻勢の基礎固めを怠る訳にはいかない。

そして、正平七年の夏、平和郷の菊池は大いなる祝い事に賑わっていた。

懐良親王と菊池早苗の結婚が決まったのである。

思ったよりも呆気なかった。菊池武光が勇気を奮い起こして、自分の妹を妻にしてくれるように親王に頼んだところ、親王は意外にも二つ返事で引き受けたのである。

「肥後守の妹御なら、こちらこそ望むところである。さっそく準備に取り掛かってもらいたい」宮は、武光に笑顔を向けて言った。

驚いた五条頼元は、その日の夕刻、宮の居室に飛び込んで来た。

「宮様っ、菊池の姫を娶るというのは真ですか」

「ああ、そのつもりだが。爺、何を血相変えているのだ」

「これが驚かずにいられますか。宮様、菊池武光の意図は明白ですぞ。皇族と縁戚関係を結び、他の豪族たちに対して優位に立とうというのに決まっています。つまり、これは明らかに政略結婚です」

「それが、どうしたというのだ」

「・・・どうした、ですと。宮様は、その貴い血を、本気で田舎豪族に分け与えようと言われるのか。頼元は、絶対に反対ですぞ。宮は、武士の汚さをご存じないのじゃ。奴らは、結局は尊王の気概など持っておりません。利用できるものは何でも利用し、自らの一族を富ませることが狙いなのです。そんな武士団の利権争いに、宮様の血を利用させるなど・・・もってのほか」

「菊池武光は、そんな男ではない」

「確かに、武光を始めとする菊池一族は、朝廷を敬い、道義を重んじる点で、武士の中でも白眉であることは認めます。頼元の知っている中で、最も優れた武士団と言っても過言ではありません。しかし、所詮は武士です。彼らは、結局のところ肥後国司の地位を守り、宿敵の御三家を打倒して九州の覇権を握ることが目的なのです。宮は、そんな彼らの野望の御神輿になって甘んじるのですかっ。爺は悲しい。」

「それでは、どうする。菊池を去って、あの辛い流浪の日々に戻るのか、爺」

「・・・・・・」

「我々が目的を達成するためには、菊池一族の武力は必要不可欠だ。よく考えろ、爺、菊池一族と縁戚関係を持つのは、我らにとっても望ましいことではないのか。ここまで来て、宮廷人のつもりでいるのは止めよう。私は、賀名生朝廷から派遣された征西将軍なのだ。もうお前の知っている宮廷の甘い生活は終わったのだ。前へ前へと、進み続けるしかない・・。早苗という娘には特に関心ないが、目的達成のためなら望むところと言おう」

「おお、宮様っ、それほどのお覚悟で・・・」五条頼元は、もはやそれ以上言うべき言葉を知らなかった。

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早苗はもちろん、結婚という言葉に時めきを感じる年齢になっていた。だが、突然兄から押し付けられた親王との結婚には戸惑いを覚えた。

彼女は、自分がもっと自由に生きられるものと信じていたのに、自分の体が、目に見えない一族の運命に以前から縛られていたことに気づいて衝撃を受けた。彼女の脳裏の中では、懐かしい波多勇の日焼けした笑顔と、懐良親王の端正な横顔とが交錯した。

「どう考えたらいいんだろう。うちには、もう分からない。大智さまに相談してみたら、禅師なら、きっと答えを教えてくれるわ」

聖護寺では、大智が笑顔で早苗を迎えた。既に六十路を越えた大智は、しかしまだまだ元気一杯だった。早苗の結婚のことは、既に武澄の口から聞いており、訪れた早苗を大いに祝福した。しかし、

「禅師、うちには分からない。この結婚は、うちが望んだものではないもの。幸せになれるかどうか、とっても心配なの」早苗は打ち明けた。

「・・・早苗どのは、自分が望んだ結婚ではないので不安だと言われる。じゃが、男女の縁というのは不思議なものでの。生まれる前から定められているものなのじゃ。指と指の間に、目に見えない赤い糸が結ばれていて、それがいつかお互いを引き付け合う」

「少弐の翠さんと、足利直冬さまも、そうだったのかしら」

「みんなそうじゃよ。早苗どのの父上も母上も、早苗どのが生まれたことも、みんな前世から定められていたことなのじゃ。自分が望んだとか、家に押し付けられたとかいうのは、その時の気持ちの問題にしか過ぎませぬ。幸せになるか不幸せになるかは、お互いの努力の問題でしかありません」

「・・・・・・」

「わしは、初めて早苗どのにお目にかかったとき、父上(武時)に言ったものじゃ。この子には、高貴な人と結ばれる縁があると。きっと、わしには見えていたのじゃ、この日の来ることが」

「・・・・・・」

早苗は、なにか割り切れない気持ちのままで帰って行った。

隈府城の居室に落ち着いた早苗は、手文庫から手鏡を取り出して、自分の顔を映し出した。金の縁取りがされた綺麗な手鏡は、あの波多勇からの贈り物なのだ。おおかた、高麗の良家からの略奪品なのだろうが、早苗はこれをとっても大事にしていた。

鏡に映す自分と、鏡に映る自分。一方には、奔放に野山を駆け、自由に恋をする少女があり、もう一方には、家の名と前世の因縁に縛られる少女があった。どちらが本当の自分なのだろう。どちらも本当の自分とするなら、どちらの生き方が自分を幸せにしてくれるのだろう。考えても考えても、答えは見つかりそうになかった。

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そんな早苗の意志に拘わらず、嫁入りの準備は刻々と進み、秋の収穫の前に輿入れが行われた。ここに若い夫婦が誕生し、征西府と菊池氏の団結は、より一層強化された。

 「あなた、娘の幸せな姿をご覧くださいまし・・」母の 比丘尼 ( びくに ) 慈春 ( じしゅん ) (智子)は、早苗の乳母の桔梗と手を取り合って、冥府の夫・武時に胸の中で語りかけた。その双眼は、うれし涙でぐっしょりだった。

「宮将軍と早苗姫がご結婚されたそうな」

「宮様が親戚とは、うちのお屋形様も偉くなったんだねえ」

「いやあ、目出たや、目出たや」

領民たちは喝采し、秋祭りには領主を讃える歌を唄い、踊った。懐良と早苗は、祝いの言葉を述べる 村長 ( むらおさ ) たちを引見し、労いの言葉をかけた。

早苗は前向きな気性の持ち主だったので、もはや悩まなかった。夫婦生活を幸せなものにするのは、本人の努力だ。彼女は大智の言葉を思い出し、自分に言い聞かせた。

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あの美しい博多の街は、北九州全土に荒れ狂う戦乱にもかかわらず、まだ無傷であった。日本最大の貿易港であるこの街を守るため、一色探題が戦場を常に他に移してくれたお陰であった。その代償として一色親子は苦戦を強いられ、いまも豊後あたりで大友、島津軍と共同作戦の最中である。

さて、密かに倭寇に原資を提供し、前にも増して豊かになった梅富屋の屋敷に一人の若者が訪れたのは、秋も終わりのころであった。訪れた人物は、誰あらん、松浦党の波多勇である。彼は、つい最近まで海賊船団の一員として大陸まで遠征しており、その成果の報告に梅富屋を訪れたのである。

「元は、断末魔にあえいでいます」勇は、大陸情勢を庄吾郎に語った。「漢民族の反乱はますます激しくなっています」

「それで、元の滅亡も近いと言われるのか」庄吾郎は思わず身を乗り出した。

「反乱軍の中でも、 紅巾党 ( こうきんとう ) を率いる 朱元璋 ( しゅげんしょう ) という人物が頭角を現して来ました。この人の動向には要注意でしょう」

「ふむふむ・・・でも、大陸の戦乱が激しくなるということは・・」

「我々も活動しやすくなったということです。見ていてください。我らは、より多くの富を稼ぎ出して見せましょう」勇は、大きく胸をたたいた。

「期待してますぞ、波多どの」庄吾郎は、静かに微笑んだ。

「ところで、肥後の征西府の様子はどうです。あちらには、既に大量の富が流れているはずですが、まだ動き出す様子はありませぬか」

「地味ですが、肥後や筑後でかなりの戦果を挙げてますな。あの二国は、すでに征西府のものと言っても過言でありませんぞ」

「それを聞いて、安心しました。我々の命懸けの活動を、無意味に終わらせたくありませんからな」

「そういえば、近ごろ、征西将軍宮が菊池武光さまの妹御と結婚なさったそうです。これで、将軍宮と菊池氏の絆もますます強くなるでしょう」

笑顔で語る庄吾郎に、勇は寂しげに頷いた。

「それは目出たい・・。そうですか、早苗どのは、宮将軍と」

これで、もう早苗と二人きりで語らうこともないだろう。覚悟はしていたものの、勇の心に何か空虚なものが広がった。

早苗姫、せめて幸せになって欲しい。梅富屋邸を辞した勇は、夕暮れ時の肥後の空を見つめ、心の中で一人小さくつぶやいた。