歴史ぱびりよん

6.将軍義詮の死

伊予の河野通堯は、父祖の仇を報じるために必死に戦った。しかし、細川氏の大軍の前に、その抵抗は正しく蟷螂の斧であった。ついに伊予から放逐された通堯は、安芸(広島県)の 能美島 (のみじま ) に逃れ、従来からの宮方である土居、得能、村上氏らと善後策を協議した。

「やはり、征西府の力を借りよう。それしかない」

正平二十一年(1366)夏、河野通堯は、一族郎党千七百騎と艦船二百八十隻を率いて大宰府に現れた。

謁見した懐良親王は、ただちに河野氏に物的なあらゆる援助を与えることを約束し、令旨をもって通堯を伊予国司に任命した。さらに、

「そちの名前、通堯は、あまり験のよい名ではないな。これからは、心機一転を図って『 通直 ( みちなお ) 』と名乗るが良いぞ」

「ありがたきお言葉。肝に銘じまする」若き河野氏の惣領は、膝を付いて礼を述べた。

「そちの目的は、伊予のみならず四国全土の平定であろう。そのためには、河野氏の声望だけでは力不足。ゆえに、そちに余の甥を預ける。宮将軍として旗頭にするが良い」そう言った親王は、謁見室の隅に控えていた一人の少年に目を向けた。「良成、前に出よ」

「はい」お付きの爺に手を引かれて懐良の横に座った少年は、年の頃まだ五、六歳か。後村上天皇の第六皇子である彼は、かねてよりの手筈どおり、無事に賀名生から九州に送り込まれて来たのである。

「良成、この通直と力を合わせ、四国を宮方の元に統合するのだ」

「わかりました」静かに頭を下げた良成親王は、色白で柔順そうな少年であった。世が世なら宮廷で母や乳母と戯れる年頃だろうに、乱世は無情である。

こうして、勇躍して出発した河野勢だが、なにしろ相手は細川頼之だ。通直に出来ることは、伊予 屋代 ( やしろ ) 島から四国本土を眺め渡すことくらいのものであった。この情勢に、良成親王は危険な四国入りを延期し、大宰府で待機することになった。

         ※                 ※

そのころ、斯波氏経らとともに上京していた少弐頼尚は、幕府要人から一通りの事情徴収を受けた後、息子の冬資とともに、ほとんど三十年ぶりの京屋敷に入ってくつろいでいた。

「あの当時に比べれば、人々の生活も穏やかになって来ているようじゃな・・」

頼尚は、幕府の力がますます強固になっている実感を得て、満足であった。だからこそ、九州における幕府方の劣勢がとても信じられない思いであった。

「父上、九州は今後どうなるのでしょうか」真面目な冬資は、のんきな父を叱咤するかのように切り出した。

幕府は、これより一年前の貞治五年(1365)五月に、新たな鎮西探題として足利一族の 渋川義 ( しぶかわよし ) 行 ( ゆき ) を任命していた。しかしこれは、まったく勝算のない無理な任命で、義行は準備不足のまま中国路を西に向かった。案の定、義行は九州入りの手立てすら見つけることができず、備後あたりに駐屯したまま無駄に日を送る羽目に陥ったのである。

「同じことの繰り返しじゃな。どうしようもあるまいて」頼尚は、自嘲気味に呟いた。

「父上、 人事 ( ひとごと ) ではありませんぞ。我らの故郷が逆賊に脅かされているのです。こんなところで燻って時事評論しているときではありませんぞ」冬資は、紅潮した顔を父に向けた。「わたしを、次の鎮西探題に任命するよう、将軍に掛け合ってはくださいませぬか」

「それは無理だな。将軍は、かつて直冬どのに味方して幕府に刃向かった我らを決して信用してはくださらぬ。我が少弐家の勢力拡大を決して許してはくださらぬ」

「・・・それでは、どうすれば」

「待つのだ」頼尚は、それだけ言い残して庭へ出て行った。池の鯉に餌を与える時間である。

その年の暮れも押し詰まったころ、京の少弐頼尚邸を一人の軽装の人物が訪れた。

「お初にお目にかかる」座敷に通されたその人物は、主の頼尚の面前で静かに頭を下げた。

「わたくしは、幕府の四国探題、細川頼之と申すものにござる」

「少弐本通入道頼尚にござる」礼儀正しく答礼した頼尚は、内心ではこの日の来ることを予見していた。

座敷で対峙した主客は、しばしの間、近ごろ都で流行の闘茶や連歌についての四方山にふけった。教養高い二人は、まずはこの楽しい会話にすっかり打ち解け、互いの人物を認めあったのである。

「ところで、讃岐どの(頼之)は、将棋は指されますかな」

「ええ、近ごろは 徒然 ( つれづれ ) に嗜みます」

「おお、それは良い。さっそく一局お相手願えますかな」

「喜んで」

主客は、やがて四角い盤を挟んで机上の角力に没頭した。頼之は、将棋の腕も確かで、熟考の末に着実な一手を放って来る。将棋狂の頼尚も、ひそかに相手の実力を評価し、久しぶりに出会った好敵手の登場を大いに喜んだ。

やがて、頼之はおもむろに本題を切り出す。

「今、鎮西探題として備後にいる渋川義行どのも、能楽や歌道に造詣が深く、将棋に目のないお方です。最近あの方からもらった手紙の中でも、地方では楽しみが少ないと言って、愚痴をこぼしておられましたな」頼之は、かすかに目を落とした。「彼の不満の背景には、仕事がうまく行かない鬱憤が大きいでしょうが・・・」

「そうでしょうな」頼尚は、平然と答えて棋盤に見入る。

「ここで、本通どのに虚心坦懐に伺いたい」頼之は、膝を進めた。「あの征西府を打ち破る手立ては、無いのでござろうか」

「手立てが分かっておれば、こうして所領を追われて都に居候しておりませぬ」

「じゃが、本通どのは、今ならばお解りであろう、征西府の強さの秘密を。どうか、この私と渋川探題のために、その秘密を伝授願えませんか」

「・・・・・・」頼尚は、頼之の目を意味ありげに見た。この男は、確かにたいした人物らしいが、所詮は四国探題にしか過ぎない。秘策を授けたところで、どうにもならぬであろう。教えても無駄になる。

「そういうことですか」頼之は項垂れた。「渋川どのにしか、お話しできぬということですか」

「次回は、お二人でお訪ねくだされ。あるいは、次の九州探題とご一緒でも構いませんぞ」

「わかり申した・・・」細川頼之は、これ以上の説得を諦めて将棋盤に指を進めた。しかし彼は、征西府打倒の鍵が少弐頼尚の心中にあることを確信することができたのである。 やがて、四角い板の上の模擬戦争は、少弐頼尚の勝利に終わった。

「さすがは本通どのですな」

「いやいや、讃岐どのの腕も大したものですわい。また、いつかお相手願いますかな」

「次回は、鎮西探題を伴って参ります」

「その日を、楽しみに待っておりますぞ」

こうして、主客は笑顔で別れた。再会の日を楽しみにしながら。

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細川頼之が、この時期に四国を離れて京にいたのには理由がある。将軍義詮の影の腹心である頼之は、ある策謀の実行を将軍に依頼されていたのである。

この当時、幕政を牛耳っていたのは、管領の斯波一族であった。彼らは幕府の要職を総なめし、専横の限りを尽くしていた。密かにこれを憎む義詮は、佐々木道誉や赤松則祐らと密かに諮り、斯波一族の追放を策していたのである。そして頼之は、この計画の重要な主導者として都で暗躍していたのであった。

貞治五年(1366)八月、斯波高経と 義将 ( よしまさ ) の親子は、突如としてあらゆる職務を解任され、都から追われた。失意のうちに領国の越前に戻った彼らは、さらに遠征軍の猛攻にさらされたのである。これが、貞治の政変と呼ばれる事件である。この当時の幕府の基盤がいかに不安定だったかがよく分かる。

この事件の顛末は、翌年の春に斯波高経が病死したのをきっかけに、その子・義将が幕府軍に投降したことで落着した。

将軍義詮が病床に倒れたのは、その年の秋であった。斯波一族の手からやっとの思いで政治の実権を奪い返した義詮だったが、その理想を達成するための時間はもはや残されてはいなかったのである。

自らの死期を悟った義詮は、十一月二十五日、枕元に嫡子の 春王 ( はるおう ) と細川頼之を呼び寄せた。そして、十歳になったばかりの愛児に三献の儀を行い、剣一振りを与えて将軍位を委ねると同時に、その場で頼之を執事(管領)に任命した。

寝具姿で茵の上に正座した義詮は、春王を指さし、頼之に向かってこう言った。「そなたに、これから一子を与える」次に、頼之を指して、春王にこう言った。「そなたのために、これから一父を与える。決して、教えに背いてはならぬ」

そしてこれが、義詮の遺言となった。同年十二月七日、足利二代将軍義詮は、その三十八年の生涯を閉じた。四歳のときに新田義貞の鎌倉攻めに参加して以来の、戦乱に明け暮れた人生の幕は、今、静かに降りたのである。

しかし、ただちに元服して 義満 ( よしみつ ) と名乗った春王は、まだ幼弱であった。混迷を極める幕政は、今や三十九歳の執事、細川頼之の双肩にかかったのである。

あの古典『太平記』は、細川頼之の執事就任で絶筆となっている。その巻末文は、次のとおりである。

「(頼之は)外相内徳ゲニモ人ノ云ニ違ワザリシカバ、氏族モ是ヲ重ンジ、外様モ彼ノ命令ヲ背カズシテ、中夏無為ノ代ニ成リテ、目出カリシ事共也」

要するに、器量の優れた頼之が管領になったために、すべての人々が彼に心服し、天下太平が開かれたと書かれている。しかし、本当にそうだっただろうか。頼之に反感を抱く豪族たちも多い中、あの強大な征西府の東上も予想される困難な情勢に、頼之の心痛は深まるばかりであったのである。

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九州では、将軍義詮病没の半年前の正平二十二年(1367)五月、征西府の重鎮・五条頼元が病死した。七十八歳であった。

「宮、必ず、必ずや、都の土を爺の墓石にかけてくだされ」

これが、南朝の巨頭・頼元卿の最後の言葉であった。

「なんとしても、爺の遺志をかなえねばならぬ」懐良親王は、唇を震わせた。「東上の準備を急ぐのだ」

反論しようとした菊池武光は、しかし口をつぐんだ。心の中で、あれほど都に憧れた頼元卿の願いを、最後まで聞き届けられなかった自分の無力さに慚愧していたからである。

将軍義詮の病死は、そんな武光に一縷の希望を与えた。将軍交替によって予想される幕政の混乱は、瀬戸内海の制海権掌握も不十分な征西府に、勝機を与える天の声と思われた。

正平二十三年(1368)正月、大宰府に九州各地から続々と軍勢が参集し、その総勢はいつしか七万の大軍となっていた。集まった面々を見渡すと、菊池一族の諸将を筆頭に、少弐、島津、名和、新田、伊東、原田、秋月、三原、草野、黒木、星野、平戸、千葉、大村、山鹿、松浦、相良といった堂々たる顔触れである。ほとんど全九州の精鋭が、今や一斉に東上の途に乗り出そうとしていた。しかし、

「菊池肥後守、大友一族はどうしたのだ。到着が遅いではないか」軍議の席での懐良親王の発言である。

「はっ、大友氏継からは、未だなんの連絡もありません。彼らは、どうやら東上には反対のようにござりまする」菊池武光は、恐縮した顔で答えた。

「そんな我が儘は許されぬ。征西府の意向に逆らうものはどうなるか、思い知らせてやらねばなるまい」親王は肩を怒らせた。「肥後守、ご苦労だが、一軍を率いて大友征伐に向かってもらいたい。その間、我が主力は博多から乗船し、長門近海で待機する。そなたは、大友平定後、豊後から乗船するがよい。赤間ヶ関あたりで合流しようぞ」

「分かりました」武光は、静かに頭を下げた。しかし、彼の心は重かった。親王は東上を焦っている。主将は、もっとじっくりと構えて欲しいのに。

二月初旬、菊池武光率いる二万は豊後に乱入した。慌てた大友氏継は、ただちに恭順の意を表明したが、弟の親世とその一党は頑強に抵抗した。しかし、所詮は武光の敵ではない。大友一族は、二月中旬にはことごとく屈服し、武光とその軍勢のために鶴崎に軍船を集めさせられる始末。

その間、懐良親王と菊池武安らは、大宰府守備に良成親王と少弐頼澄を配し、博多から乗船し、下関周辺に集結した。しかし、数万の大軍を一斉に乗船させられるほどの船は集まらなかったので、船に乗り切れなかった豪族たちは、やむを得ず豊前の門司まで陸路を進出して、待機した。

今や、室町幕府の最も恐れていた事態が現実のものとなろうとしていた。征西府の東上軍は、虎視眈々と京都の空を睨んでいる。