水島合戦における征西府軍の勝利は、九州の戦況を逆転させた。
今川了俊の裏切り行為に憤った薩摩、大隅の島津氏久と師久の兄弟は、菊池賀々丸のもとに勝利を祝う引き出物を送り、同時に征西府との同盟を求めて来た。良成親王が、これを快諾したことは言うまでもない。
豊後の大友親世も、了俊への猜疑心の虜となり、一応は幕府方の旗を翻してはいたものの、実質的には中立化した。
また、主を言われなく殺された少弐氏は、これまで征西府の要人であった少弐頼澄を新たな家督に迎え、全面的に征西府方に転向した。頼澄は、菊池氏の援護の下に大宰府に入り、筑前国内の幕府方の豪族を次々に粉砕したのである。
肥前の今川了俊は、これらの知らせに衝撃を受けた。御三家全てに背かれたということは、当てにしていた九州武士の動員力の、大幅な減少をもたらすからである。
「なんの、ここで挫けてなるものか」
必死に自分を奮い立たせた了俊は、さっそく退勢挽回の策を講じた。島津師久と大友親世に対して寝返りの説得工作を展開するとともに、息子の満範を日向に派遣して島津氏久を攻撃させることにした。もちろん、都に援軍を要請することを忘れはしない。そして、背振山を本営とする今川軍主力二万は、ほぼ同数の軍勢を擁する征西府軍と向かい合い、持久戦の構えに入ったのである。
一方、少弐、島津両氏を配下に引き入れ、敵将今川了俊を肥前一国に押し込めた征西府は、かつての栄光を再び夢見て大いに沸き立っていた。
「あのとき今川入道の降参勧告を蹴ったのは正解だったのう」
「九州の再統一は、もはや目の前じゃ」
天授二年(1376)正月、兵力再編成のために菊池に帰還した賀々丸は、大叔母の早苗から祝福を受けた。
「よく頑張った、やっぱり賀々丸は強い男ね」早苗は、笑顔を隠さない。
「なんの、今川入道の首を父祖の墓前に供えぬかぎり、おいはまだまだ半人前でごわす」そう言い放った賀々丸は、その鋭い眼光を、はるか北方に向けるのだった。
※ ※
「ううむ、了俊入道め、あと一歩というところで詰めを誤ったな・・・」
京の細川頼之は、肥前で苦境に立つ親友からの書状を前にして、腕を組んで考え込んだ。
「入道め、将軍の弟御を、総大将として九州に派遣して欲しいと言って来ているが、それは無理だ。第一、これ以上畿内の軍勢をつけてやる余裕はない。ここは、大内弘世の力に頼るしかないな・・」
頼之の派遣した幕府の使者は、ただちに周防山口に走った。
しかし、使者を迎えた大内弘世は、九州出征に乗り気ではなかった。彼は、むしろ九州よりも中国地方に自己の勢力を伸ばしたかったのである。
「ふん、了俊入道の苦戦は自業自得というものだ。我が縁者ではあるが、名門少弐の惣領を惨殺するような男のために、貴重な我が兵力を消耗させるつもりなど無いわい」
これに反対したのは、弘世嫡男の孫太郎義弘である。
「わしは、探題を救援すべきと考えます。今は確かに征西府が勢力を回復していますが、終局的な勝利は、必ず幕府のものとなりましょう。ここで苦境の九州探題に恩を売っておけば、戦後の九州との交渉が極めて有利となりましょう」
この義弘は、今川了俊の大宰府攻略に参加して以来、九州、特に博多の富に心を奪われていた。行く行くは、北九州を大内の領土に加えたい野心を燃やしていたのだ。
「そんなに、あの狐親父を助けたいのか。ならば、お前一人で行くがよい。父は知らぬ」
「・・・・・・」義弘は、うつむいた。父に背くのは心が痛むが、どうしても九州を諦め切れなかった。
煩悶の末、義弘は決意を固めた。
「わしは、九州へ菊池賀々丸退治に出陣するっ。心あるものは、わしに続けっ」
天授二年の春、大内義弘は、 陶弘長 ( すえひろなが ) 、 杉重運 ( すぎしげつら ) といった心安い部将たちとともに、手勢二千を引き連れて関門海峡を押し渡った。
そのころ筑前の戦場では、今川仲秋、氏兼、宗像大宮司の幕府方連合軍が、少弐頼澄軍と一進一退の攻防を繰り広げていた。幕軍にとっては猫の手でも借りたい苦しい情勢であったから、博多で今川仲秋軍に合流した大内義弘勢は、幕府方将兵に大いに歓迎されたのである。
「よく来てくれた、義兄上(仲秋の妻は、義弘の妹である)。弘世どのと対立してまで幕府のために尽くす貴殿の忠誠には、きっと京の将軍の覚えも目出度いことでしょう」
しかし義弘は、首を横に振って仲秋の感謝の言葉を打ち消した。
「こんなところで燻っている場合ではありませんぞ。ただちに大宰府を奪い返し、肥前の探題どのを救い出しましょうぞ」
「だが、少弐勢の戦意は極めて強固です。いかに大内勢が精強と言っても、そう簡単に勝てる相手ではありませんぞ」
「いいや、このわしに、必勝の作戦があります。ただちに全軍で大宰府に向かいましょうぞ」義弘は、自信満々に言い放った。
こうして、今川、大内連合軍は一気呵成に大宰府を目指した。
手ぐすね引いて待ち受けていた少弐勢は、予期せぬ知らせの直撃を受けた。あの大友親世が、再び幕府方の旗を翻して東方より接近中であるという。
「おのれっ、大友め。この局面で、やはり探題に味方するのか」大宰府の少弐頼澄は、思わずその唇を噛み締めた。
水島の合戦以来、中立を守り続けていた大友を動かしたのは、大内義弘の粘り強い説得の成果であった。大友親世は、探題・今川了俊のために戦う気はなかったが、かねてより大内氏とは誼みを深めたいと考えていたので、義弘の誘いを断ることができなかったのである。そして、この大友勢の出陣こそ、大内義弘の切り札に外ならなかった。
東西からの挟撃を受けた少弐勢は、野戦を諦めて有智山城に籠城した。ここを足場に時間を稼ぎ、菊池賀々丸らの救援を待つ作戦であった。
しかし、大内義弘の用兵の巧みさは、頼澄の想像を絶していた。これまでの今川勢などとは、とても比較にならない。有智山に肉薄した大内勢は、大量の火矢を城内に放ち、城兵が混乱している隙に、城門に丸太を叩きつけてこれを破壊し、一斉に城内に乱入したのである。その暴れぶりは、あたかも阿修羅のよう。今川、大友軍が、これに続く。こうして、堅城と謳われた有智山城は、わずか三日の戦いの後に炎に包まれたのである。
重傷を負った少弐頼澄は、嫡子の 貞頼 ( さだより ) や側近たちに守られて、裏門から脱出した。
時に、天授二年正月十九日、有智山城に幕府軍の凱歌があがり、筑前は再び探題方の手に落ちた。
「さすがですな、義兄上」今川仲秋は、感嘆の声を上げて大内の若大将の肩を叩いた。
「なんの、これしき」義弘は、硬い表情のまま答えた。「本当の戦いはこれからです。菊池賀々丸は、まだ若いが中々の将器。少弐頼澄相手のような訳には行かないでしょう。兜の緒を締めてかからねば・・・」
このころ、噂の賀々丸と良成親王は、征西府軍主力とともに肥前国府にあり、 千布 ( ちふ ) の平原に陣を張る今川了俊と対峙していた。
賀々丸は、少弐頼澄率いる疲労困憊した筑前の敗残兵を収容して事情を聴集すると、大内義弘の恐ろしさを知って、その頬を緊張させた。
「お屋形、心配には及びません」同陣の藤五郎武勝が、胸を張った。「おいは、大内勢とは、ちょうど十年前に豊前で対決したことがありますが、奴らは、華麗な鎧に身を包んだだけの腰抜けでしたぞ」
「ばってん、大叔父上」賀々丸は、首を横に振った。「十年の隔たりは、どんな意外な出来事を起こすか分かりません。そもそも、我が軍勢とて、十年前の張り切った強さは持ってはおりません。毎年の戦に疲れきり、負傷者や病人も続出しています」
「じゃどん、後一息の踏ん張りでごわす」 自関 ( じかん ) 入道武義は、分厚い唇を引き締めた。「征西府の栄光は、今や指呼の間にありますばい。ここで引き下がるわけにはまいらぬ」
しかし、同陣の阿蘇惟武は、菊池首脳のこの会話を聞きながら漠然と思った。
「この人達は、心身ともに疲れ切っているのに、そのことに気づいておらぬ。これは危険な兆候ばい。・・・ばってん、おいは、最後まで賀々丸のために戦うことに決めたのだ。たとえ前途に何があろうと、武士の意地ば貫きとおしてみせる・・・」
諸将の複雑な思いを孕みながら、征西軍は決戦の時を待った。
さて、筑前、豊前を完全に平定した今川、大内連合軍が肥前に到着したのは、天授二年も暮れに入ったころであった。この増援を得てその勢力を急激に拡張させた今川主力は、士気を大いに高め、積極的に征西府軍と対決する構えを見せ始めた。
「この一戦で、九州の運命は変わる」菊池賀々丸は、まだ髭も生えない顎に兜の紐を結びながら考えていた。「祖父様(武光)、父上(武政)、どうかこの賀々丸をお守りください。ここが正念場なのです」
年が明けた天授(永和)三年(1377)正月十三日、南北両軍の決戦は、今日の佐賀市南部に広がる千布・ 蜷打 ( になうち ) の平原を戦場にした。
大内義弘の説得によって応援に駆けつけた大友親世勢と、精強な大内勢に力を得た今川軍三万は、緒戦から菊池軍二万を圧倒した。
「者共、踏ん張れっ、ここが命の捨て場ぞっ」
菊池賀々丸は、その小柄な体躯を陣頭に置いて奮戦した。良成親王、武良親王、実良親王、菊池武安、武義、武勝、阿蘇惟武らは、持てるかぎりの力を振り絞って奮闘した。
しかし、天才的な戦術眼を持つ大内義弘は、征西府軍本陣に空いた一瞬の隙を見逃さなかった。獰猛な大内勢は、錐のように征西府本陣に突っ込んで来た。たちまち激しい接近戦の渦が広がる。殴り蹴り突き刺し斬り落とす。怒号が広がり悲鳴があがる。
そして、数刻の血戦の後、ついに征西府本陣は崩れ立った。
「お屋形を逃がせっ」
多くの郎党、武将が、大内勢の前に立ちはだかって命を捨てた。
「みんな、すまぬっ」
菊池賀々丸は、そんな彼らの背中に切なげな視線を投げながら馬を南へ駆った。自分は、ここで死ぬ訳にいかない。
「お屋形」去り行く少年の後ろ姿に向かって、弓矢で全身針鼠のようになった武安が絶叫した。「後は頼みましたぞっ」
菊池武安、自関入道武義、饗庭道哲、そして援将の阿蘇惟武は、最後まで一歩も退かずに戦い抜き、壮烈な戦死を遂げた。その隙に、菊池賀々丸、親王たち、少弐頼澄らは、命からがら肥後へと落ちて行ったのである。
この一戦で征西府軍の被った損害は、恐るべきものであった。全軍の三分の一が事実上壊滅し、歴戦の猛将がほとんど討ち死にを遂げてしまったのである。
千布・蜷打の決戦は、まさに征西府の起死回生の望みを打ち砕く、とどめの一撃だった。