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19.南北朝、ついに合体す

肥後南部で激しい戦火が吹き荒れる中、了心素覚尼の早苗は、自己の信じる方法で一族を救うべく奔走していた。まず、年頃の娘に成長した長女の綾香を、今川 氏兼 ( うじかね ) (了俊の弟)末子・ 末兼 ( すえかね ) に嫁がせる根回しを行った。この工作は予想外にうまく運び、元中二年(1385)の春には、めでたく輿入れが実現したのである。

「戦が終わったら、遠江に住むわ。そしたら、向こうの珍しいものは、全部母上に届けてあげるね」綾香は、幸せそうに早苗に語るのだった。

今川家としても、後醍醐帝の皇子の血を受けた高貴な娘の輿入れは、歓迎すべきことだった。駿河遠江の今川家の人々も、この知らせを受けて大いに喜んだのである。

しかし、早苗と今川了俊の思惑は、彼らとは違うところにあった。

「これで、菊池と今川は親戚同士。例え武朝が幕府に降っても、それ相応の地位は確保されるはずだわ」

「よし、これで今川と菊池の絆は強くなった。九州平定の後、我を張ってわしに敵対するであろう御三家を抑えるために、菊池の武力を道具として使いやすくなった・・」

二人とも、互いを利用しようと火花を散らしながら、表面は静かに茶や生け花、連歌を楽しみ合う仲であった。

その翌年、早苗の次女である佳奈子は、阿蘇惟村の長男・ 惟郷 ( これさと ) の元に輿入れした。早苗の腹積もりは、戦後の菊池と阿蘇の絆を強化し、肥後における一族の地位を盤石にしようというものであった。

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ところで、南九州の戦いは、元中四年(1387)閏五月、鹿児島における島津氏久の病死によって転換点を迎えた。

偉大な武将の死に浮足立った征西府軍の足並みは乱れ、そこに付け込んだ今川軍の攻撃は激しさを増した。

元中七年(1390)九月、川尻と宇土の両城は相次いで陥落し、宇土に置かれていた征西府は、名和氏を頼って八代に逃れたのである。

追撃を仕掛けた今川軍は、しかし八代古麓城を攻めあぐみ、膠着状態が続いた。

「もはやこれまでだ」良成親王は、しかしすっかり戦意を失っていた。「これ以上の抗戦は無意味であろう。了俊入道との和睦の道は無いものか・・・」

この親王の内意を受けて動いたのは、名和顕興であった。彼は、この期に及んでついに征西府の主導権を握ったのである。顕興の城に養われている菊池武朝は、もはや口出しできる立場ではなかった。

北朝の 明徳 ( めいとく ) 二年、同時に南朝の 元中 ( げんちゅう ) 八年(1391)九月、今川軍と征西府軍の間に休戦協定が結ばれた。良成親王、名和顕興、相良前頼、川尻広覚らは、八代を今川方に開け渡し、実質的に降参したのである。

ところが、菊池武朝は一族郎党とともに城を脱出し、その所在をくらました。菊池氏は、九州の山の民と深い関係にあったので、彼らを頼って逃れたのであろう。そして今川方の探索網も、菊池氏残党の所在をとらえることはできなかった。

「武朝・・・」知らせを受けて、早苗は心を痛めた。「そんなに無理をして・・・そこまで一族の栄光が大事なの・・・」

 「なあに、今にきっと折れてでますわい。武朝どのとて、愚か者ではない」今川了俊は、笑顔で早苗を慰めた。彼は上機嫌であった。今や肥後全土を平定し、日向の戦局も有利に展開させ、倭寇の禁圧を通じて明や高麗との外交交渉も円滑に進めている彼にとって、残る任務は薩摩大隅の両島津を討伐するのみである。九州探題の勢威は、まさに九州全土を一呑みせんという勢いであった。

しかし、そんな了俊の威勢を苦々しげに見つめる人物があった。

誰あらん、室町将軍・足利義満である。

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ここで、再び視点を中央政局に移そう。

細川頼之の後見のもとに成人した室町将軍義満は、その恐るべき権謀を次第に明らかにしていった。義満の至上目的は、単なる豪族連合にすぎない今の幕府の姿を改めて、日本全国を統べる強権を手に入れることにあった。

そのためには、自分と北朝の朝廷の威信を高めるために、南北朝の不毛な争いを一刻も早く終わらせ、正平年間に南朝に持ち去られた三種の神器を回収しなければならない。また、大陸との外交を有利に展開し、最終的には日本国王の地位を手に入れなければならない。そして同時に、幕権の脅威となるような強力な豪族を叩き潰さねばならない。

義満がこのとき敵対視する有力な豪族は、具体的には中国筋の山名、大内、そして鎌倉の関東公方、そして九州の今川了俊であった。義満は、彼らを使えるだけ使い、用が済めば容赦なく滅ぼすつもりであったのだ。

穏健派の細川頼之も、もはや成人した義満の意向に逆らうことはできなかった。幕府の安定にあれほど貢献したこの有能な政治家は、義満の成人後急速に不遇となり、幕府内の派閥抗争に敗れ、 康暦 ( こうりゃく ) 元年(1379)から 明徳 ( めいとく ) 二年(1391)の間、国元の四国に蟄居させられたほどである。だがこの間、頼之は攻め寄せた河野通直を返り討ちにし、河野氏を滅亡に追いやるという大戦果を上げている。彼の幕府への忠誠は、ゆるぎなかった。

そして、明徳二年三月、義満は管領・斯波義将を突然解任し、頼之を四国から召還し、その養子・ 頼元 ( よりもと ) を新たに管領に任じた。そして、この細川一族の幕政復帰は、義満の山名氏討伐の狼煙となったのである。山名氏は、もともと斯波氏と結んで頼之排撃の急先鋒であったので、細川一族の反撃によって京都から締め出される始末となった。

「おのれっ、こうなったら将軍と直談判じゃ」 山名氏清 ( やまなうじきよ ) は、いったん国元に逃げると、多数の軍勢を引き連れて京に迫った。しかし、かねてよりの義満の裏工作によって一族内部に不満分子を多く抱える氏清の力は、たかが知れている。日本六十六国のうち十一国を領有し、六分の一衆と呼ばれる山名氏も、内部が分裂していては、その実力を発揮できなかった。

「よし、これで山名は逆賊よ。一気に攻め潰せ」義満の命令で山名軍に襲い掛かったのは、将軍直属の 馬廻衆 ( うままわりしゅう ) (親衛隊)、細川頼之、畠山 基国 ( もとくに ) 、そして大内義弘らの軍勢であった。

周防の大内義弘は、菊池十八外城の戦いに参加した後、その直後に病没した父・弘世に代わって大内氏惣領となり、このころは義満に気に入られて京に駐屯していたのである。

決死の山名軍の勢いは凄まじく、幕府軍は苦戦を強いられた。だが、大内義弘の奮闘によって戦局はついに逆転し、山名軍はついに壊滅したのである。九州の原野であの菊池一族を悩ませた義弘の器量は、ここでも遺憾なく発揮されたのであった。

こうして、『明徳の乱』の殊勲一等は、当然にして大内義弘に帰せられた。彼は、解体された山名氏の領土の多くを恩賞として与えられ、従来の周防、長門、石見、豊前に加えて、和泉、紀伊の六国の領主となり、大いに時めいたのである。

一方、こうして名門山名氏を弱体化させた義満は、いよいよ積極的に南北朝の合体に取り掛かった。新たに紀伊、和泉の守護に任命された大内義弘が、外交官としてここでも大いに活躍した。今川了俊との交流を通じて一流の教養を身につけた義弘は、南朝方の要人の頑なな心を、次第に溶かして行ったのである。

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「なんだと・・・」

菊池武朝がその知らせを受けたのは、日向高千穂山中であった。

「帝が、神器をもって京に入られたというのは真かっ」

「間違いありませぬ。本年(明徳三年)閏十月五日、吉野の帝はわずか五十人の側近に守られて京の大覚寺に入られました」

答えたのは、武朝が和泉に派遣していた郎党の新吉である。彼は、堺の梅富屋からこの知らせを聞いて、慌てて京都に駆けつけ、後亀山帝の行列をその目で見たのだという。

「降参か・・・帝が逆賊に降参したというのか」武朝は、唇を強く噛み締めた。「良成の宮のみならず、帝まで敵に頭を下げるというのか。なんて世の中だ」

「いいえ、人々の噂では、対等な条件での和睦ということです。帝は、 両統 ( りょうとう ) 迭立 ( てつりつ ) (南北の皇統から交替で天皇を出す)を条件に、神器の返還を承諾なされたとか」

「あの幕府が、約束を守るものかよっ。帝は、義満めにたばかられたのだ。おいは認めぬ」武朝は、そのやつれた拳で、その粗末な部屋の柱を強打した。

だが、武朝がどんなに憤ってみても、歴史の流れを止めることはできない。やがて、南北朝合体の確報が九州一円にも広がり始めた。

そんなある日、武朝は自分に付き従って来た一族郎党を一室に集め、訓示した。

「皆も聞き知っていると思うが、本年閏十月をもって、吉野の帝は、持明院統(北朝)の帝に譲位なされた。これからは、京におわす持明院の帝が我らの主上となられる。戦は終わったのだ・・・鉾を収めよう。それからみんなで菊池に帰ろう」

「お屋形・・・・」

武尚、武勝、武直、武方、武郷ら、一族たちは、一様に複雑な表情を浮かべた。土民に混じって逃げ回る生活から解放される喜びと、これまでの自分たちの奮闘努力が、まったく無駄になったやり切れなさとに挟まれて。

「我々は、決して負けたわけではない。和睦の条件に従って、堂々と今川了俊に会いに行くのだ。我らは、摂関藤原氏の流れを汲む菊池一族だ。足利一門などに侮蔑されるいわれはどこにもない。それだけは、決して忘れてはならぬぞ・・・」

菊池武朝は、自分自身に言い聞かせるかのように語った。武朝は、このとき三十二歳になっていた。隈府城の陥落の直後に生まれた彼の嫡子は、既に十歳になっていた。

数日後、薄汚れ、やつれ果てた菊池一族五百余名は、高千穂山を下って懐かしい故郷へと歩を進めた。途中、散り散りになった一族たちとも合流し、千名近くになった一行は、阿蘇山中まで来ると今川方の役人の出迎えを受け、菊池までの先導を受けた。

「そうか、菊池武朝が来たか」博多の今川了俊は、取るものも取り敢えず肥後菊池まで出張し、菊池の惣領を出迎えたのである。

「これが、今川了俊か・・・」隈府城の二の丸にて、正装で了俊と対面した武朝は、相手に備わる人品と威厳とに驚嘆した。「こんな男が相手では、今度のことも仕方ない・・」

今川了俊も、長年に亙って争い続けた武朝に対して、不思議と好感を抱いた。早苗と何度も話題に出していたためか、初対面にも拘わらず、古くからの知人のような気さえしていたのだ。

「菊池どの、長い間ご苦労でした。これからは、いつまでも菊池におって肥後の民を安んじてくだされ」今川了俊は、柔和な笑顔で言うのである。

「・・・肥後の民、と言われたが、おいはもはや国司ではありませぬ。そのような言葉は、阿蘇どのか相良どのにおっしゃるべきではありませぬか」武朝は、訝しげに問うた。

「心配はいりませぬ。この了俊の力で、必ずや菊池どのの肥後守護職を実現させて見せます。これからは、全てこの了俊を信じてくだされ」

武朝は、狐につままれた思いだった。彼は、ほとんど自分の命すら諦めていたのである。自分の命と引き換えに、先祖伝来の荘園の一部でも安堵してもらえば穏の字だと考えていたのだ。それなのに、この了俊の対応はどうしたことか。

彼は、隈府陥落の際に逃げ遅れた大叔母の早苗が、懸命に今川家に取り入っている事情を知らなかったし、また、戦後の九州戦略を睨む了俊の深慮遠謀にも気づかなかったのである。

今川了俊は、戦後必ず探題と大友島津との対立が激化すると予想していた。大友らは九州御三家の誇りに固執し、邪魔な探題を排撃しようとすることは明らかである。それに備えて、水島の陣以来弱体化した少弐氏と、未だに肥後の民に慕われている菊池氏とを懐柔して配下とし、さらに彼らの勢力を強化することで、九州探題の地位を安定させようと図っていたのである。

そして、この今川了俊の目論みは成功した。少弐貞頼と菊池武朝は、九州探題の最も有力な与力となったのである。既に貞頼は筑前守護であり、武朝は補任こそまだだが、実質的な肥後守護として君臨した。名目上の肥後守護である阿蘇惟村は、武朝の意向を伺わねば何も決められなかったのである。

「大叔母上、あなたは素晴らしい人だ」ある日、武朝は早苗の住む広福寺を訪れて感謝の言葉を述べた。「あなたの尽力がなければ、今頃我が一族は歴史から消えていたでしょう。あの楠木、新田、名和一族などは、南北統一後、無位無官の徒に成り下がったと聞きます。我らがそのような運命から免れたのは、一重に大叔母上の尽力の賜物です。まことにかたじけない」

「武朝や」僧衣の早苗は、穏やかに語った。「そのような言葉は、探題どのに申し上げなされ。あのような人物を上に迎えたことは、お前にとっても、九州の民草にとっても、この上ない幸せだったんだよ」

「分かっております。これからは、おいに力がある限り、探題どののために尽力する所存です」

「そうそう、それでよか」そう言うと、早苗は静かに目を閉じた。

彼女の傍らに座するは、彼女の長男・武良の、僧形の姿である。このごろは、親子で懐良の菩提を弔うのがこの二人の日課となっていた。

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しかし、合体したはずの南北朝は、ほどなく不気味な軋みを見せ始めた。将軍義満が、和睦の条件を悉く無視したためである。

僧形の良成親王が、お忍びで隈府に武朝を訪ねて来たのは、そんなある日のことだった。

「武朝、お主も知っておろう。あの義満の狸めは、今上( 後小松 ( ごこまつ ) 天皇)の後継者に、今上の子・ 躬仁 ( みひと ) を立てさせたのだぞ。本来なら、我が後亀山帝の皇子が立つはずの約束ではなかったか。ええいっ、幕府めっ、どこまで我らを蔑ろにすれば気が済むのじゃ。京の後亀山の君も幽閉同然の生活をなされておるそうじゃし、もう許せんっ」

「どうなされます」

「当然じゃっ、再び兵を上げるのよ。菊池十八外城に立てこもり、島津や相良と協力し、幕府を懲らしめるのじゃっ」

「島津らが、今更容易に応ずるとは思えませんが」

「ならば、お前だけでもよい。昔のように、手を携えて戦おう。な、武朝」

「お断りいたす」

「な、なんだと」

「・・・宮様は、八代でこの武朝の立場を踏みにじり、名和顕興と結んで勝手に敵に降参なされました。そのお陰で、武朝はどんな苦難に陥ったことか・・・宮様・・・宮様は、いったんこの武朝を捨てたのですぞ。捨てたものに今更すがろうとは、あんまりに見苦しくはありませぬか」

「・・・分かった、もう頼まぬ。お前は、幕府の犬として安穏とした生活を送るがいい」

そう言い残すや、良成は後ろも見ずに席を立った。数日後、筑後矢部の奥地に再び征西将軍旗が翻ったが、もはや味方する豪族は現れなかった。親王はそれから数年後、五条氏に見守られて矢部で寂しく病没されたと伝えられている。