歴史ぱびりよん

第七章 革命

 

アドルフ・ヒトラー首相の誕生は、まさに歴史の奇観である。

過激で破壊的な政策(反共、反ユダヤ、反ベルサイユ)を一貫し、独裁制を求め続けた浮浪者あがりのオーストリア人は、民主主義の手続きに乗っ取り、選挙の積み重ねによって議会の絶対的多数を獲得し、ついにドイツ全土の宰相に成り上がったのである。その成功の理由は、いったいどこにあるのだろう。

彼は、誠実な政治家であった。

彼の主張は、全て誠心誠意本心を語っており、その著書の内容や党の綱領に矛盾するものではなかった。もちろん、中には政治用の宣伝や事実を歪めた主張もある。しかし彼は、一種の自己催眠によって、それらを自分自身で真実だと思い込むことができたのである。そのため、彼のつく嘘は、大きな説得力を持つ誠実な嘘となる。誠実な嘘と真実との距離は、遠くない。そして、語り手に実行力がある場合、誠実な嘘は真実となる。

そして、聴き手は、彼の話術や宣伝術に幻惑され、事の本質を見誤り、危険を見抜くことが出来なかった。

多くの財界人や軍人は、ヒトラーの社会主義を偽装だと思った。保守的な中産階級は彼の反ユダヤを、貧しい労働者は彼の反共を、平和主義者は彼の反ベルサイユを、それぞれ偽装だと思いこんでいたのである。

彼らは、誠実な嘘に騙されたのである。誠実な嘘ほど強力なものはない。もっとも、経済危機によって破局の淵にいた彼らは、誠実な嘘に騙される以外に、生きる希望を持つことが出来なかったのである。

ヒトラーは、例えるならばジゴロのようなものであった。甘言で全ての女にそれぞれの夢を与え、幻想にひたらせた。しかし、その甘言は嘘ではなく本音である。だからジゴロは、嘘をついて女を騙したつもりはない。女は、ジゴロの甘い言葉の中で、自分が信じたい部分だけを勝手に信じるからである。だからジゴロは、心にやましさを感じるわけではない。自分の誠意が、女たちに受け入れられたものだと勝手に思いこむ。しかし、彼が投げ与えた夢と幻想が生み出す果実は、ジゴロも女も必ずしも幸せにはしないのである。ここに、大いなる悲劇の種が蒔かれた。

「心配することはないさ」副首相のパーペンは、あるとき側近に語った。「今度の内閣で、ナチス党出身者は、ヒトラー(首相)、ゲーリング(無任所相)、フリック(内相)の三人だけだ。残りの7人は、国防相ブロンベルク、蔵相クロージックを筆頭に、全て私の仲間だ。いわば、ナチスは我々に雇われたのだ。あと2ヶ月もすれば、ヒトラー氏は壁際でヒイヒイと泣いていることだろうよ」

この副首相の考えは、多くのドイツ人のそれと一致していた。また、諸外国のプレスも同じような感想を持った。

だが、このころのドイツで、ヒトラーの恐ろしさを認識している人物が二人いた。一人は、かつてミュンヘンで彼と共闘したルーテンドルフ将軍であり、もう一人は、国防軍の切れ者ルントシュテット将軍である。二人は、それぞれ大統領に向けて私信を放ち、ヒトラーが将来、戦火でドイツを廃墟にするだろうことを予見した。しかし、老齢の大統領は、彼らの私信に興味を示そうとはしなかったのである。

そして、事件は起こった。

 

 

ナチス報道局主任のハンフシュテングルは、国会議事堂に面したアパートに寄食していた。2月26日、彼は朝から高熱を出して寝込んでおり、その夜、窓を照らす真っ赤な炎を幻だと思いこんだ。

「なんだろう・・音がする。臭いもだ。大きな物が燃えているぞ・・ええっ」

寝間着姿で跳ね起きたハンフシュテングルは、窓に駆け寄ってカーテンを押し開けた。

呆然とする彼の双眼は、真っ赤に染め上げられた。慌てて電話器に飛びついた彼は、ヒトラーに電話を入れた。留守居からゲッベルス宅にいるとの返答を得ると、今度はゲッベルスのアパートをコールした。

その時、ヒトラーとゲッベルスは、マグダ夫人が入れてくれたコーヒーを啜りながら、蓄音機のワーグナーを楽しんでいた。電話のベルに感興をそがれた小男の博士は、不機嫌そうに電話に出た。

「なんだ、エルンストか。こんな時間に何の用だ・・。何、何が燃えてるって・・冗談も大概にしろ。・・自分で見ろだと・・よし、まあ病人は早く休め。じゃあな」

電話を切ったゲッベルスは、ヒトラーに向かって肩をすくめて見せてから、おもむろに窓のカーテンを開いた。

「これは・・」首相と宣伝局長は、同時に絶叫した。夜空が真っ赤に染まっている。

国会議事堂が、炎上しているのだ。

「やりたがったな」ヒトラーは、怒りと炎の照り返しで顔を真っ赤にして叫んだ。「共産主義者ども、ついに、やりやがったなあ」

このころナチスは、国家権力を笠に着て共産主義者への弾圧を強化(政治集会の妨害など)していたから、この手の報復は大いに予想されることであった。事実、犯人はオランダ人共産党員のルッベという青年であった。彼は、放火を得意とする国際共産主義者で、年初にドイツに潜入して以来、ドイツ共産党の危機を見過ごしにできず、彼らの士気を高めるために政府の建物を次々に焼き討ちしていた。そして、四件目の標的に選んだ国会議事堂で、ドイツ共産革命の狼煙を上げるつもりだったのである。しかし、逃げ遅れた彼は、たちまち警官隊に捕縛された。

現場に駆けつけたヒトラーとゲーリングに向かって、警察長官ディールスは、事件の概要を説明した。

「以上のことから本件は、頭の狂った単独犯による、偶発的なもので・・」

「いや違う。共産党の、組織ぐるみの謀略だ」ヒトラーは、間髪入れずに言い放った。

「そのとおりだ。何しろ犯人は、40人もいたのだ。凶悪無比な組織犯罪だ」ゲーリングも、太った腹を反り返らせた。

あわてて反論しようとしたディールスは、しかし二人の高官の目に宿る残忍な光を見て全てを悟り慄然とした。この人たちは、やる気だ・・この事件を口実に、共産党を滅ぼし尽くすつもりなのだ。

熱風と灰が飛び散る中で、ヒトラーとゲーリングの相貌は、炎の照り返しを受けて悪魔のような光を放っていた。

翌日、警察のラジオ放送は全共産党員の逮捕命令を流し、約四千名がたちまち拘引された。共産党系の新聞は全て発行禁止となった。あまりの急展開に、共産党は有効な対処ができず、その組織はたちまち壊滅状態となった。ワイマール共和国を20年近く脅かし続けたドイツ共産党は、ここに再起不能の大打撃を受けたのである。

この事件に勢いを得たヒトラーは、独裁制樹立に向けて次の一手を放った。『ドイツ国民の文化的資料を守るための特別措置』と称する緊急令を国会に提案したのである。その内容は、ドイツの民主主義を根底から否定するものであった。言論の自由、報道の自由、郵便及び電話の秘密、集会及び結社の自由、私有財産の不可侵性の全てを停止する・・・。

さらにヒトラーは、州政府の自治権を大幅に制限し、国家権力の介入を容易にする条例をも上梓した。

驚くべき事だが、閣僚たちは何の反論も唱えなかった。彼らは既に、民主主義はドイツの苦境を救えないとの共通認識に立っていたのだろう。大統領は、さすがに苦渋の表情を浮かべたが、共産主義者の恐怖をまくしたてるヒトラーに押し切られ、2月28日、二つの条例は発布された・・。

そして、総選挙が始まった。ヒトラーは、多くの財界人から多額の寄付を引き出し、それを財源にして大規模な宣伝活動を行ったのである。

SAとSSは、今や公然と他政党の政治活動を妨害し、その矛先は、共産党のみならず、社会民主党にまで及んだのである。

その結果、3月5日の総選挙はナチスの大勝利に終わった。43.9%の得票を得て、政権の安定を不動の物としたのである。

ナチス党は、この勝利に力を得て、未だに彼らの勢力の及ばない各州政府を恫喝し、総監の首を次々にナチスシンパへとすげ替えていった。

そして3月13日、ヒトラーは、新たに『民族啓蒙・宣伝省』を設立し、ゲッベルスをその大臣に任命したのである。

これらの施策は明らかに行きすぎだったが、パーペン派の閣僚たちは身動き出来なかった。彼らは、ヒトラーが議会を尊重するはずだと未だに信じており、また、ヒトラーの才能に心服しつつあったのだ。

アドルフ・ヒトラーは、人並みはずれた記憶力と判断力を具備し、複雑な問題を単純化して処理することに辣腕を発揮した。他の大臣たちは、彼の能力に圧倒され、嘆声を上げることしかできなかったのである。

3月21日、ポツダムのフリードリヒ大王廟で、ドイツ議会の開会式が厳かに執り行われた。演出を担当するのは、もちろん、新宣伝相ゲッベルスである。彼はこの日を「国民総決起の日」と名付け、街中を鉤十字の旗と国旗で埋め尽くし、祝砲を鳴らし、SAの隊列で飾り立てた。ヒンデンブルクとヒトラーは、手に手を取って納骨堂に降り、揃って献花を行った。この様子に、閣僚たちや国民は、胸を撫で下ろした。首相は、やはり大統領の地位と名誉を尊重し、それを継承しているのだと。

しかし、この二日後、ベルリンの議会でヒトラーは、その牙を剥きだした。

その日、共産党員全員と社会民主党員の多くが、議場に現れなかった。不審に思う議員たちに向かって、ゲーリング議長は言い放った。

「奴らは今頃、強制収容所で、有益な労働に勤しんでいるよ」

誤解のないように説明するが、このころの強制収容所は、後の絶滅収容所とは性質を異にする。強制的に労働をさせるための収容所であり、一年足らずで必ず出所できる性質のものであった。それでも、現職の議員を強制収容するとは、尋常でない。

騒然とする議場の中で、ヒトラー首相は、ナチス党議員たちのジーク・ハイルの怒号に囲まれて『人民と国家の苦悩を除く法案』、いわゆる全権賦与法を提議したのである。その内容は、立法権、外交条約承認権、憲法修正発議権を議会から政府に移し、同時に法律作成権を、大統領から首相に移管するというものであった。これはまさしく、議会政治と大統領権限の抹殺である。

「ふざけるな」社会民主党首ヴェルスは、怒りを満面に浮かべて叫んだ。「そんな法律は、決して認められない。議会政治の否定は、この共和国に住む何人にも許されないぞ」

「諸君は、もはや不要だ」ヒトラーは、冷たく言い放った。「新しいドイツの星は、今まさに昇ろうとしているが、社会民主党の星は消えかかっている」

投票の結果、社会民主党員を除く全員が、全権賦与法に賛同した。賛成441、反対94であった。

「ここに、議会の無期休会を宣言するっ」ゲーリング議長が高らかに叫び、ドイツの議会政治は終わりを告げたのである。

憲法、議会、そして大統領は、ここに形骸化した。ヒトラーは、ついに独裁権力をその手に収めたのである。

 

 

「何ということだ」パーペンは絶句した。

ヒトラー政権誕生後、わずか二ヶ月。壁際で悲鳴を上げたのは、パーペン副首相の方だった。

全権賦与法の発布後、共産党に続いて社会民主党も解散させられ、主な党員たちは収容所に収監されてしまった。これを見た国家人民党は自主解散の道を選び、党首フーゲンベルクは内閣を辞任した。そして、中央党も同じ道を選んだ。こうしていつの間にか、ナチスはドイツ共和国の単一政党になっていた。それにつれて閣僚の顔ぶれも大幅に変わり、今や12人中9人までがナチス党出身者である。パーペン氏は、ヒトラーを操るどころか、単なる政府の飾り物に成り果てていた。

こうして、ドイツの全体主義化が開始された。

労働組合は解散させられ、全国の労働者は『ドイツ労働戦線』に強制加入させられた。州政府は廃止され、全ての政治権限は、中央政府の元に一本化された。あらゆる農地は再編成され、『世襲農地法』のもと、農民と不可分に結びつけられた。また、強力な商工会議所が設立され、商業資本もナチスのもとに一元化された。

再編成の波は、教育界にも及んだ。全ての学校は一元化され、全国的に画一的教育を行うこととされた。当時のドイツの子女は、先の大戦で父親を失い、母親とともに貧困を舐め尽くし、未来に絶望し疎外感を持つ者が多かったので、画一的教育は、そんな彼らに国家や同胞との連帯感を植え付ける上で大いに役立ったのである。

さらにヒトラーは、軍備の拡張を国防相ブロンベルクに指示していた。国民に愛国心を回復させ、また外交交渉を有利に運ぶためには、再軍備は避けて通れない道であった。しかし、これは明白なベルサイユ条約違反であり、諸外国の非難が集中した。

ヒトラーは、しかし悪びれることはなかった。

「私には、ドイツ国民を守る義務がある。6千5百万人の国民を守るのに、わずか10万人の軍隊しか許されないとは話にならぬ。なぜなら、国連の威信で欧州の平和を維持できるとは思えないからだ。日本の侵略主義を見よ。皆、傍観しているだけではないか。ドイツだって、いつ他国の侵略を受けるか分からない。どうしてもドイツの再軍備を認めないと言うのなら、周辺諸国から軍縮すべきではないか」

おりしも5月16日、アメリカ大統領ルーズヴェルトは、重要な軍縮提案を世界44カ国に対して行った。すなわち、爆撃機や戦車といった攻撃兵器の全廃を提案したのである。

そして翌17日、ヒトラーはこれに呼応した形で、いわゆる『大平和演説』を行った。

「ドイツは、たとえ完全に成功する場合であっても、ヨーロッパにおける軍事行動が、利益よりも犠牲をもたらすことを知っている。それゆえ、ドイツは安全保障の確保のみを念じ、いかなる不戦条約にも賛成する用意がある」ヒトラー首相は、マイクに向かって声を張り上げた。「しかし、その前提として、隣邦の軍縮を要求する。ドイツは、国家間の平等を常に要求する。隣邦が軍縮に着手せず、ドイツに一方的に不平等な軍備制限を押しつけて圧迫し続ける限り、ドイツは軍縮会議にも国際連盟にも止まりえず、独自の道を歩むこととなるだろう」

欧州各国は、この演説を聞いて大いに安堵した。ドイツの新しい指導者を、平和主義者だと思いこんだのである。ヒトラー氏は、党の綱領と著書での主張(東方植民地政策とフランスへの復讐)を全面的に修正したのだと。だが、彼らは演説の前段に気を取られ過ぎ、事の本質を見落としていた。ヒトラーの本心は、演説の後段にあったのだ。

そのためか、各国は肝心のルーズヴェルト提案について真剣に検討しようとしなかった。欧州の一般軍縮は見送られ、ドイツは、依然として差別的制限軍備の対象であり続けた。

こうして、ドイツの再軍備は道義的に正当化され、世界戦争への扉は、音を立てて開かれたのである。

 

 

世界で最も民主的な憲法を持つワイマール共和国は、今やその命の炎を全く消し去ろうとしていた。

しかし、この連邦共和国は、後世に言われるほど民主的な国家ではなかった。強力な自治権を持つ各州は、帝政時代の王国の改称に過ぎなかったし、大統領は皇帝の成り代わりとして絶大な権力を握り議会を無視できたし、大臣や閣僚も貴族でなければその地位に就くことができず、肝心の議会は馴れ合いだった。つまり、帝政の皮を脱げない共和制であり、国家の力は、全てにおいて中途半端だった。それゆえ、外交も経済も振るわず、国民の生活や誇りをドブに叩きこむことしか出来なかったのである。

しかし、アドルフ・ヒトラーは革命を起こした。国家の全てを一元化し、全ての権力を一つに集めることで、共和制下の全ての矛盾を一気に解消しようと試みたのである。ヒトラーの性急で過激な政策に多くの国民が黙って追従したことは、彼の独裁主義が民意の反映であったことを示している。

何よりも重要な事は、ヒトラーの政策の照準が、大衆の利益確保に据えられていたことである。ヒトラーは、旧貴族たちを屈服させ使役することで、大衆の利益を最大にしようとする。その点で、彼はレーニン同様、この時代を代表する階級闘争の戦士だったと言うこともできる。

彼は、身分に囚われず、様々な階層の人材を登用した。昨日までの百姓は、今日は市長になっていた。一介の職人が、警察署長になっていた。多くの有能な人々の前に、様々な可能性が提示されたのである。

しかし、ヒトラーに課された最大の問題は、経済危機の克服である。経済政策の成否いかんで、彼の革命の帰趨は定まるのだ。

「6百万の失業者に、パンを与えなければならない」若き首相は、唇を噛んだ。

経済問題を苦手とする彼は、有能な顧問の助けを必要としていた。そして、彼が白羽の矢を立てたのは、共和国の歴代首相が黙殺してきた異端の経済学者たちであった。

ヴィルヘルム・ラウテンバッハは、中部ドイツの小村ツビンゲの出自である。ゲッチンゲン等各地の大学で高等数学や経済学を学んだ彼は、新進気鋭の学者であったが、従来の経済学に真っ向から対立する理論を構築し、共和国政府にその理論に基づく政策転換を提唱したが、受け入れられずにいた。

しかしヒトラーは、そんなラウテンバッハに目を付け、1933年1月末日、会見の席を用意したのである。

42歳のラウテンバッハは、田舎の豪農出身だけあって、おっとりとした人好きのする人物であった。彼は、二時間にわたって話し、ヒトラーは黙って聞き入った。

「従来の経済学は間違いです。供給が、それに見合った需要を創るという発想(セイ法則)は、もはや過去のものなのです。現在の世界的大不況は、供給に比して需要が不足していることが原因です。それゆえ、不況を乗り越えるためには、政府が需要を管理し、供給に見合うだけの需要を創り出してやらなければなりません」経済学者は、口角泡をとばして主張した。「そのためには、赤字国債を発行し、それを財源とする国家規模の公共事業を行うしかありません。公共事業は、それに見合う資材と人材を需要します。その需要がさまざまな形で国内に波及すれば、たちまち経済界は活気づき、失業者は救済されることでしょう」

このときラウテンバッハが主張した政策は、いわゆる総需要管理政策である。需要が供給を創出するという主張は、後にイギリスの経済学者ケインズによって『有効需要の原理』と呼称され、彼の著書『一般理論』とともに広くケインズ理論と呼ばれることになる。しかし、ケインズよりも十年近く前にこの理論を発見したのは、ドイツの田舎経済学者だったのである。

現在、ラウテンバッハの業績が忘れられた理由は、めぼしい著書が残らなかった事と、ナチスの全体主義政策が個人の業績を評価しなかった事、そして戦後、彼が戦犯扱いされた事にあるのだろう。

しかしヒトラー首相は、ラウテンバッハの理論の鋭さと正しさを即時に見抜いた。彼は感動の面もちで経済学者の手を取り、強く二度打ち振った。

「首相、国民を救って下さい」

「もちろんだ。もちろんだとも」

ラウテンバッハは帰郷すると、このときの会見の模様を自慢げに村人たちに語った。

「あの人の鋭い青い目は、ありゃあ尋常じゃなかったね。おら、神様と話しているかと思っただ」

しかし、この経済学者の末路は悲惨だった。ナチス政権が崩壊すると、ソ連軍によってファシストのレッテルを貼られて追求され、各地を転々と逃げ回り、最後はスイスの山中にて56歳で衰弱死する運命にあったのだ。

それは、後の物語である。

さて、ラウテンバッハの理論に感銘を受けたヒトラーは、次に中央銀行総裁のヒャルマール・シャハトを呼び寄せた。

「シャハトさん」首相は身を乗り出した。「あなたは、老練なる魔術師を自称する財政の専門家ですね」

「さよう」自信家の総裁は、白髪を昂然とかざした。

「あなたの魔術が必要なのです」ヒトラーは眼を光らせた。「我が政府は、多額の赤字国債の発行を必要としています。しかし現在、国民は窮乏しており、とても国債を引き受けられません。国民に負担をかけずに、国債を発行する方法はありませんか」

「さよう・・」シャハトは口ひげを捻った。「国債を、中央銀行で引き受ける手しかありませんな」

「しかし、貨幣供給の増加はインフレを招きます。それは避けたい・・」

「私に腹案があります。ダミー会社を設立し、その会社に手形を振り出させるのです。その手形の支払期日は3ヶ月ですが、自動的に5年延長できる事とします。保証は中央銀行で行い、割引も中央銀行で行う」

「なるほど、架空の会社が発行する架空の手形(メフォ手形と呼ばれる)を使うわけですか。通貨を増発しないのでインフレの恐れもないわけですね」

「さよう」魔術師は、笑顔で頷いた。

こうして、公共事業への財源が確保された。

まず始まったのは、前述の再軍備である。5月15日、航空省が発足し、ゲーリングが空相の地位に就いた。航空機をはじめとする兵器類の増産は、たちまちドイツの産業界を活性化し、膨大な雇用を生んだ。

続いて、6月30日には、有名なアウトバーン(高速自動車道路網)の建設が始まった。これはドイツ全土に及ぶ大土木工事であり、延べ数千万人の雇用と、それに付随する食料、鉄筋、セメント、砂礫、石片に対する大幅な需要を喚起した。総監に任命したトロット博士の前で、工事現場の最初の一鍬を入れたのは、ヒトラー首相自身であった。その意気込みのほどが感じられる。

もちろん、道路だけ出来ても仕方がない。ヒトラー首相は、全国民が安価で入手できる自動車の開発に取りかかった。自動車好きの彼は、ポルシェ博士と自ら協議し、いわゆる国民車(フォルクス・ワーゲン)の開発を決定したのである。当時、自動車は旧貴族や金持ちのステータスシンボルであって、大衆には縁遠き存在であった。大衆のための国造りを目標とするヒトラーは、自動車を大衆のものとすることで、大衆文化に革命を起こすことを目論んだのである。彼の脳裏には、全ドイツ国民が、同じ型式のワーゲンに乗り、全国に張り巡らされたアウトバーンを使って各地に行楽に向かう有様が、鮮やかに描かれたことであろう。

さらに、ヒトラーは、自給自足経済というスローガンを打ち出すことで、人造ゴムや合成石油の開発と生産をスタートさせた。

こうして、再軍備と公共土木工事等によって、ドイツ経済は大いに活性化したのである。当然、失業は大幅に減り、人々は生色を取り戻した。デモや暴動はなりを潜め、人々は人間らしい生活を送れるようになったのだ。その結果、結婚する若者たちが急増し、マイホームの新築ブームも起こったのである。

ところで、不景気対策としての公共事業は、今日の世界では常識となっている。しかしこの当時、このような政策は、前人未踏の新機軸であった。同時代でこのような政策を採りえた国家は、ルーズヴェルト大統領のアメリカ(ニューディール政策)と、ヒトラー首相のドイツだけである。そして、もっとも大きな成果を挙げた国こそ、ナチスドイツに他ならなかった。

国民は、いつの時代にも、生活を安定させてくれる政治家を歓迎する。そして、この時期のヒトラーは、まさにそのような政治家であった。彼は、夢だけでなく、愛のある生活をも提供できるジゴロだったのである。

彼のベルヒテスガーデンの山荘は、いつしか観光名所となっていた。ヒトラーが山荘の窓から顔を見せただけで、庭の周囲で遠望していた婦人観光客たちが、感動のあまり卒倒してしまうこともあったと言う。

 

 

だが、この時期のヒトラーが、もっとも精力を使ったのは外交問題であった。

ヴァチカンのキリスト教会は、ドイツ国内の共産勢力を駆逐したヒトラーの手腕を高く評価し、終始好意的な態度をとってくれる。

しかし、ドイツの再軍備に怯えた周辺諸国は、軍縮会議を開催してドイツ軍の押さえ込みを図る一方で、フランスを中心に軍事同盟を締結し、ドイツ包囲網を構築する動きを見せていた。

「私の生涯の目標は」ドイツの首相は考えた。「共産主義と、その背後にあるユダヤ人秘密結社をヨーロッパから放逐すると同時に、東方に生活圏(レーベンスラウム)を確保し、ドイツを欧州随一の大国に押し上げることにある。そのためには、西方の安全を確保しなければならない。アメリカと友好関係を結ぶとともに、イギリスを懐柔してフランスを孤立させることが必要だ」

目的合理主義者のヒトラーは、アメリカとイギリスに対してしきりに秋波を送った。その前提として、国内のユダヤ人迫害を停止し、ドイツがリベラルな国家であることをアピールした。また、軍縮会議の席で、イギリスに対して大幅な譲歩を行い、ドイツ海軍を著しく縮小したのである。

「海はイギリスのものです。従って、ドイツに海軍は不要なのです」

ヒトラーは笑顔でこう公言し、イギリスの首脳たちを大いに喜ばせ安堵させた。

このころ、アメリカ、イギリス、フランスといった国々の中にも、いち早く経済危機を克服しつつあるドイツに憧れる者が多く、ナチスの支部や類似政党が大きな政治力を持ちつつあった。その事実が、国際情勢に与える影響も大きかったのである。

こうして、いつしか国際連盟は不協和音を奏でだし、ベルサイユ体制は骨抜きになっていった。

そんな折、ヒトラーは重大な決意をした。

国際連盟からの脱退である。

当時の国連は、孤立主義のアメリカを構成員に含まず、ソ連を窓際に追いやっていたので、欧州諸国の国際フォーラム以上の価値を持っていなかった。しかし、軍縮会議などは国連主導で行われていたので、国連からの脱退は、国際会議からの離反を意味する。しかし、国連が決議したベルサイユ条約打破を目標とするヒトラーにとって、これは避けられない道であった。

「危険すぎます」パーペン副首相は絶句した。「フランスが、きっと黙っていません。イタリア、ポーランド、チェコ、ベルギーと歩調を合わせて攻め寄せてくるでしょう。そうなったら、ひとたまりもありませんぞ」

「日本が脱退したとき、奴らは制裁を加えたかね」ヒトラーは、鼻を鳴らした。「奴らはガタガタだ。口先だけで何もできぬ」

しかし、ヒンデンブルク大統領が、パーペンに同調した。

「祖国を、国際会議から閉め出すことの利点が、どこにあるというのだ」

今や、権威だけの存在となった老紳士は、精一杯重々しく首相に問いかけた。

「国際間の不平等の撤廃、理不尽な賠償金からの解放は、我が国民の望むところであります」ヒトラーは、堂々と言い放った。

「・・フランス軍に対抗できるのか」

「大丈夫です。今や、米英はドイツの味方です。フランスは、彼らの意向を無視できませんから、軍事力行使はあり得ません」

ヒトラーのこの見解は、同席のノイラート外相の支持を受けていた。そのため、老紳士も渋々頷かざるを得なかった。

「・・もはや後戻りは出来んぞ」

「覚悟の上です、大統領閣下」

10月14日、外相ノイラートは、一般軍縮を実現しようとしない国連を非難し、ドイツの軍縮会議からの脱退を通告した。同時に、ベルリンでは、ドイツが同日をもって国際連盟から脱退する旨のラジオ放送が流れた。

全世界は驚愕した。しかし・・

案の定、国連軍の制裁は行われなかったのである。

ドイツ国民の不安は、やがて安堵へ、そして喜びへと変わっていった。ベルサイユ体制の打破は、彼らの宿願であり、国連軍の報復攻撃が無いと分かれば、もっとも喜ばしい出来事に違いなかったからである。

この様子を見たヒトラーは、国会解散と国民投票の実施を決意した。歴史上最も過酷な独裁者と言われるヒトラーは、国民投票を重視するという意外な側面を持っていた。

宣伝相ゲッベルスは、例によって派手な宣伝を行い、ヒトラーも積極的に各地で講演を行った。その甲斐あって、4千5百万人の有権者の96%が投票を行い、そのうちの95.1%が、国際連盟脱退を支持する結果となったのである。

この時期、ナチスの思想統制は完成されておらず、秘密警察ゲシュタポも創設されて間もないころだったから、この投票結果は、国民の自由意志に基づくものと見なして良かろう。

ヒトラーは、大いに自信を得た。

その自信が、さらに大きな冒険を誘い、やがてこの国家を紅蓮の炎に飲み込むことになるのである。