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第九章 千年帝国の飛翔

 

レーム粛正事件は、しかしナチス党の威信を傷つけないわけにはいかなかった。各国のプレスは厳しく批判し、その影響を受けたドイツ国民の中にも、疑問を呈する世論が少しずつ形成されつつあったのである。

「処刑者の遺族に年金を支給せよ。遺族を宥めることで、世論を沈静化するのだ」悩める首相は、慌てて指示した。

そんなとき、大事件が起きた。

7月25日、オーストリア首相ドルフスが、オーストリア国内のナチス党支部員によって暗殺されたのである。

社会主義者のドルフス首相は、従来、イタリアのムソリーニと手を結び、国内の右翼を弾圧していたのだが、ナチスドイツの勢いに勇気づけられた右翼勢力によって、ついに致命的な反撃を受けたのであった。

激怒したムソリーニは、この事件をヒトラーの陰謀だと決めつけ、オーストリア国境に軍勢を集結させた。

「太古の原始林に住むゲルマン族が、我が栄光のローマに攻め込んできた。今こそ迎え撃つのだ」イタリアの統帥は、大きな顎を突きだして怒号した。

状況によっては、ドイツを打ち破り、オーストリアを併合するつもりである。しかし、ドイツには未だ、イタリアと戦えるだけの戦力が無かった。

ヒトラーは震え上がり、パーペン副首相を急遽オーストリア大使に任命し、イタリアに派遣して誤解の氷解に努めさせた。それが功を奏し、戦争の危機が回避されたのは、ようやく7月30日のことだった。

この当時、ドイツの最大の脅威はイタリアだったのである。イタリアの統帥ムソリーニは、ローマ帝国の再興を夢見る野心家であった。彼は、いずれはオーストリアを占領するつもりでいたのだが、同様の野心はヒトラーも持っていた。民族主義者のヒトラーは、ドイツ民族の統合をスローガンにしており、オーストリアはドイツ語を話すドイツ民族の国なのであった。

「統帥とは、一度じっくり話し合わないといけないな」頬づえついて悩むヒトラーであった。

しかし、彼の心の平安は、容易には訪れなかった。8月1日、ヒンデンブルク大統領が危篤に陥ったのである。

ヒトラーが恐れるのは、若く新しい大統領が、軍部と結託して帝政を復活させることである。そうなれば、ナチスが営々として築き上げてきた栄光は、砂上の楼閣と化す。

「私が、大統領になるしかない」

大慌てで閣議を招集した首相は、『国家元首に関する法律』を提出した。すなわち、大統領と首相の兼務を強制する法律である。

前述のように、閣僚のほとんどはナチス党員である。邪魔なパーペンも、今は大使としてオーストリアにいた。国防相ブロンベルクは、レーム事件の折りに手なずけてある。多数決の結果は、言わずとしれたこと。

そして、8月2日午前9時、ワイマール共和国の最後の大統領は、静かにその息を引き取った。彼の最後の言葉は「皇帝陛下」だったという。

この瞬間、アドルフ・ヒトラーは、文字通り全能の権力者となったのである。彼は、それまで党の指導者を意味していた「総統(フューラー)」を、大統領兼首相の呼称に改めた。

次に彼は、陸海空三軍の司令官を召集し、総統に対して忠誠の誓いを交わさせた。これにより、ドイツ全軍はヒトラーの僕となったわけである。軍部の中には危機感を表明する者もいたが、国防相ブロンベルク大将は総統を信頼しきっており、全軍に忠誠の宣誓を行わせるのを躊躇わなかったのである。

故大統領の盛大な葬儀を営んだ後、ヒトラーは、例によって国民投票を行った。そして8月19日の開票の結果、驚くべき事に有権者の89%が、彼の絶対権力を承認したのである。

この間、ドイツ国内のナチス化は加速度的に進み、農商工業はもちろん、教育、文化、芸術、出版といったあらゆる物が、国家の統制下に置かれ、画一化されていた。国民は、ヒトラーの著書『我が闘争』の購読を義務づけられ、あらゆるマスコミは、ナチスとヒトラーを賛美するように強要された。そして、逆らう者には、強制収容所(一年弱の収監)への片道切符が待ち受けていたのである。

賛成票89%。この数字の意味は、この情勢を知らなければ理解できない。

そして、この結果を受け、ナチス化の嵐はさらに吹き荒れた。

子供たちは学校で、ヒトラーに対する忠誠心と、共産主義やユダヤ人の恐ろしさ、そしてドイツ民族の優秀性について徹底的に叩き込まれた。

これに応じて、ユダヤ人に対する差別と弾圧も進んだ。どんなに優れた能力の持ち主であっても、ユダヤ人であるだけで学会や文壇から追放され、公職から放逐されたのである。アインシュタインやトーマス・マンといった天才であっても、その例外では無かった。彼らは、やがてドイツから亡命し、海外に活躍の場を求めることになる。

しかしヒトラーは、国民投票での賛成票の多さには幻惑されなかった。何しろ、レーム粛正、ドルフス暗殺と戦争の危機、そして大統領の死と、暗い事件が続いたのである。

国民の雰囲気に敏感なヒトラーが、彼らに明るく楽しい話題を提供しようと考えたのはむしろ当然である。

「今度の党大会は、派手で豪勢で楽しいものにしようじゃないか」

党大会とは、年に一度、ニュールンベルクで9月に開催される決起大会である。この大会は、規模の大小こそあれ、ナチス党結成以来営々と続けられていた。

ヒトラーは、左右の側近に抱負を語った。

「まずは建築だ。豪勢なスタジアムを造ろう。それから映画だ。芸術的な映画を撮ろうじゃないか」

建築、そして映画。ヒトラーは、そのどちらに対しても異例の大抜擢を行った。

建築責任者に選ばれたのは、弱冠28歳の建築家アルベルト・シュペーアだった。もっとも、彼の才能はヒンデンブルクの墓碑建設で実証済みである。

「優れた建築物とは、数千年を経ても、廃墟の姿で人々から賞賛されるものでなければなりません」青年は、このコンセプトのもとに優美で華麗で壮大なスタジアムを、ニュールンベルクの平原に現出させた。

そのモデルは、ギリシャのペルガモン大神殿。長さ390メートル、高さ20メートルの石造り。高さ25メートルの巨大な鷲の像が頂上を飾り、幾千もの鉤十字旗が周囲にぐるりと垂れ下がる。また、周囲には130基の対空サーチライトが設置され、夜を昼に変える工夫がなされた。

ヒトラーは、この成果に満足げに頷いた。

建築家シュペーアは、私生活の上でもヒトラーの友人となる。

そして、彼が建てたこのスタジアムは、今日も現存しネオナチの憩いの場となっている。

 

 

次に、映画監督としてヒトラーが抜擢したのは、32歳の美人女流監督レニ・リーフェンシュタールであった。

彼女の本職は女優である。それも、かのマリーネ・ディートリヒの向こうを張れる実力の持ち主だった。マリーネを高貴な貴婦人タイプと形容するならば、レニは清純な美少女タイプ。二人は正反対の個性を持つ良きライバルであった。

当時のドイツは、経済危機と政治的不作にもかかわらず、世界に冠たる映画の都であった。UFAスタジオから送り出された『メトロポリス』『カリガリ博士』『ノスフェラトウ』らは、歴史に残る傑作である。

二人のライバル女優は、こうした銀幕の中で、互いに磨きあって光り輝いた。

二人は、1920年代の終わりに、ハリウッドからスカウトを受けた。マリーネはこれに応じたが、レニは拒否した。レニが拒否した理由は、当時交際していた恋人がドイツ人だったからである。しかし、このことが二人の運命を大きく分けることになる。マリーネはアメリカで反ナチ運動のアイドルとなり、慰問団に従軍志願し、名曲『リリ・マルレーン』で名を馳せる。一方、レニはと言えば、戦後、親ナチス分子として弾劾誹謗され、その業績を不当に否定される運命に陥るのである。

さて、マリーネと決別したレニは、前から興味を持っていた映画撮影に挑戦する。親友のファンク監督の力を借りながらも、ほとんど独力で『青の光』を創りあげたのである。レニ自ら演ずる少女ユンタと、満月の光の中で映える青き水晶の洞窟との、絶妙なコントラストを見よ。ここに、紛れもない傑作が誕生したのである。

もともと映画好きのヒトラー総統は、『青の光』を観て、すっかりレニの虜になってしまった。

彼女を呼び出したヒトラーは、直々に党大会の映画撮影を依頼した。

「あなたの光の使い方は素晴らしい。どうか、私のために記録映画を創ってくれませんか。費用はいくらでも出しますから」

一度は承知したレニだったが、帰る途中で偶然ゲッベルスに出会って気を変えた。彼女は以前、色好みの宣伝相からしつこく求愛され、それを厳しくはねつけた事があったのだ。

「あいつの近くで仕事するなんて、まっぴらだわ」

レニは、他の監督にナチスの仕事を押しつけて、スタッフを連れてスペインに渡り、別の映画の撮影を始めてしまった。

驚いたのはヒトラーである。慌ててヘスに手紙を書かせて呼び戻させた。しかし、彼女がベルリンに戻ったのは、党大会開催予定日の二週間前である。

「レームみたいに消されちゃうかしら」

レニは、カメラマンたちに不安げに語ったが、意外なことに、ヒトラーは怒っていなかった。

「どうしても、あなたに監督をお願いしたい。あなたの人生の中で、たった六日間だけ、私のためにお時間を削いてくれれば良いのです」ヒトラーは、一介の小市民のような謙虚な口調で彼女を口説いた。

「撮影は六日でも、編集に半年かかりますわ」

「あなたはお若い。半年くらい、どうってことないでしょう」

「でも」気丈な彼女は反論した。「あたしは、ナチス党のことを何も知りません。SAとSSの区別さえつかないのですよ」

「そこが良いのです。その方が、却って新鮮な映画が出来るでしょう」

「・・あたしは、山岳映画とメルヘンしか撮れません。宣伝映画なんて・・」

「宣伝映画だったら、あなたに頼みません。私が望むのは芸術なのです。後世に残るような芸術をお願いしたいのです。それが出来るのは、あなたしかいません」

芸術という言葉は、レニを動かした。彼女は、全力を尽くしてこの仕事に臨む決意を固めたのである。

9月4日、第六回ニュールンベルク党大会がその幕を開けた。ドイツ全土から続々と詰めかける党員、観客、特派員の群は、数十万人を数えた。

ルイトポルト・ホールでの開会式、ヒトラーは自ら声を出さず、草稿をミュンヘン大管区指導者ワーグナーに読ませた。ワーグナーの声と話し方は、ヒトラーに酷似していたので、観客の多くはヒトラーが話していると思い込んだという。

「我々が望むのは、平和。すべからく平和である。もしも平和が破られる事あらば、それは共産主義者とユダヤ人の陰謀によるものである。

そして、平和をもたらすのは、経済の安定と雇用である。平和と雇用、これを我々に与えてくれたのは誰か。賢明な国民が、全てを委ねたのは誰か。その人の偉大な名を知らぬ者、忘れる者に災いあれ」ワーグナーは声を高めた。「そして、ドイツの生活様式は、今後千年間にわたって明確に決定された。我々にとって、不安な19世紀は永遠に終わりを告げたのだ。来る千年間に、ドイツは二度と革命を経験することはないだろう。ハイル・ヒトラー(ヒトラーに幸あれ)、ジーク・ハイル(勝利万歳)」

いわゆる、千年帝国宣言である。3万の聴衆は歓呼の声を張り上げた。

9月7日、舞台はシュペーアが築いた野外式場に移り、『労働奉仕団』の5万の青年が、シャベルを担いで総統の前を行進した。見物の群衆は、上半身裸の青年たちの、軍隊式の勇ましい行進に感激し、ハイル・ヒトラーの連呼で応えた。

そして9月8日夜、20万の党員たちが整然と組んだ方陣の前に現れたヒトラーは、荘重かつ重厚な演説を行った。130基のサーチライトが虚空に放った光は成層圏まで達し、人々は光の洪水に飲み込まれているかのような錯覚に陥ったのである。

「すごいわ、すごい」カメラを片手に飛び回っていたレニ監督は、感極まって嘆声を上げた。「こんな現場に生まれ合わせるなんて、あたしって、なんて幸運なのかしら」

レニ・リーフェンシュタールの才能は開花し、止まるところを知らなかった。彼女は、飛行機、起重機、ローラースケート、さらには演壇の後壁に小型エレベーターまで取り付けて、ありとあらゆるアングルから人々の表情や動きを撮り続けた。彼女の興味の主眼は、光だった。いかに陰影を上手に撮るか。彼女は、無制限に与えられた予算を武器に、あらゆる問題を次々に克服していった。その技法の多くは、今日の記録映画でも使われている。だが、その先駆者が、この若き美貌の女性だという事実は、不当にも忘れ去られているのだ。

「あの生意気な女め」ゲッベルスは、根に持つタイプだった。「吠えずらかかせてやるわ」

密かにSAと結託した彼は、彼らに露骨な撮影妨害を行わせた。足場を壊したり、カメラの前に立ちふさがったり。

「気にすることはないわ」バイタリティの固まりのようなこの女性は、笑顔で左右に語った。「よくある事じゃない」

そんな彼女の頭上の演壇で、映画の主演俳優である総統は怒号した。

「我々は、強くなる。もっともっと強くなるだろう」

サーチライトに照らされたヒトラーの横顔は、万雷の歓声の中で、怪しく光り輝いた。

この大会で、ヒトラーはSAや軍部と積極的に交流を図った。レームの死で沈滞したSA隊員の士気を鼓舞し忠誠を取り戻した。また、兵士たちの宿舎に自ら乗り込み、大戦中の思い出話をすることで、彼らの心を捉えることができたのである。内部調整者としてのヒトラーの手腕は、まだまだ健在だったわけだ。

だが、この党大会で得られたそれ以上の成果は、リーフェンシュタール監督の映画『意志の勝利』が、全世界で喝采を浴びたことであろう。国内の文化功労賞受賞は当然としても、1937年度パリ万博での金メダル獲得は、特筆すべき意義がある。

しかし、この映画の完成は、レニという巨人の「意志の勝利」によって生まれたものだった。

ゲッベルスの妨害を乗り越えて漕ぎ着けた試写会で、多くの党員たちが不満を漏らした。自分の顔が映っていないというのだ。

「くだらない」一笑に伏したレニだったが、総統から呼び出しをくった。

「画面に、彼らの顔を貼り付けてやってはくれませんか」

ヒトラーは、真顔で聞いてきた。もちろん、女流監督は拒否し、口論になった。

「この私を、誰だと思ってるんだ」

総統は激怒したが、レニは泣き出したい思いを抑えて精一杯抗議した。

「総統は、あたしに仰いました。これは宣伝映画ではなく芸術だと。あたしは、芸術を撮りたかったのです」

芸術という言葉は、頑なな総統の心を溶かした。彼は、気丈な監督に心得違いを謝り、そしてこの大作映画は、監督の希望通りの形で日の目を見ることが出来たのである。

「総統は」レニは、カメラマンに語った。「男性としては、あたしの好みじゃないけど、魅力的な人物だわ。これからも、あの方の力になって行きたいわ・・」

 

 

少し余談をする。

アドルフ・ヒトラーが創設したこの全体主義国家は、一般に『ドイツ第三帝国』と通称される。『第三』というのは、神聖ローマ帝国(第一帝国)、ビスマルク宰相創設のドイツ帝国(第二帝国)の伝統を継承する三番目の国家という意味である。

ただし、『帝国』という言葉には問題がある。ヒトラーは、皇帝ではないからである。そもそも、欧州における皇帝(カイゼル、エンペラー)は、複数民族に君臨する君主を指す用語であるから、単一民族国家を理想とするヒトラーの思想に合わない言葉である。この『第三帝国』は、ドイツ語ではダス・トリッテ・ライヒであって、英語ではザ・サード・ライヒと訳されている。ドイツ語のライヒは、非常に難解な言葉であるから、他国語に翻訳不可能なのである。敢えて訳すなら「民族共同体」とでも言うべきか。いずれにせよ、日本語訳中の『帝国』は、事実認識を誤った不適切な言葉と言わざるを得ない。

しかし、他に適当な訳語もないため、この作品ではやむなく『第三帝国』という呼称を、そのまま使わせていただく。日本人の感覚からすれば、ヒトラーという名の魔人によって全てが支配されるこの国家は、帝国と言うのにふさわしいであろう。

そして、この千年帝国は、今まさに、激動と混沌の世界の中へ高々と飛翔しようとしていたのである。

 

 

ニュールンベルク党大会の成功は、この新国家の門出を大いに祝福する盛事であった。

ヒトラーは、その年の秋を姉やエヴァたちとベルヒテスガーデンの山荘で過ごし、ようやく鋭気を回復した。

エヴァは、ヒトラーとの結婚を諦めつつあったが、愛する人の女性関係の噂に、ひどく臆病になっていた。

「あのイギリス人のお嬢さんや、映画監督との噂は本当なの」

「ユニティ・ミトフォード嬢と、レニ・リーフェンシュタールさんのことだね。あのイギリス娘は、父親がロンドン政財界の重鎮だから仲良くしているだけさ。女流監督の場合は、芸術愛好家として尊敬しているだけだよ。私が愛する女性は、君だけさ」

山荘から離れたホテルの一室で、ヒトラーはエヴァにウインクして見せ、優しく唇を寄せた。

だが、国民の評判を気にする彼は、エヴァ・ブラウンの存在を、ホフマンら少数の側近以外には秘密にしていたのである。

さて、1935年に入ると、ドイツを巡る国際環境は、緊迫の度合いを増して来た。

まず1月、国連保護区だったザール地方は、その保護期間が経過したので住民投票が行われ、90%という圧倒的多数でドイツへの復帰が決定された。独仏国境のこの地域は、ほとんどドイツ系住民で占められていたから、この結果はむしろ当然であった。

しかしこれは、ベルサイユ体制打倒を目指すナチスドイツにとって、重要なスプリングボードとなった。ヒトラーは、ドイツ系民族統合への自信をますます深めることとなる。

そして3月、ヒトラーは、かねてより推進してきた英仏離間策が順調であるのを見て、新たな冒険に踏み出した。すなわち、一般徴兵制の復活を伴う再軍備宣言である。従来から極秘裏に進めてきた軍備拡張を公にしたことで、ドイツ軍は、ベルサイユ条約に定められた十万人の枠を超え、一気に五十万人の軍隊を発足させたのである。

各国は色めき立ったが、国連は例によって足並みが揃わず、軍事制裁は行われなかった。さすがにフランスは焦り、イギリス、イタリアを語らってストレーザ戦線を結成、またソ連やチェコとも同盟を結ぶことに成功した。ドイツを包囲しようというのだ。

「無駄なことを」ヒトラーは、鼻で笑った。「イギリスは、既にこちらの味方だ」

イギリスでは、皇太子(後のエドワード8世)が極端な親独主義で、国民もドイツに対して好意的だった。また、サイモン卿やイーデン卿といった外交界の大物も、ヒトラーにすっかり籠絡されていたのである。

6月、外務次官リッベントロップは、イギリスとの海軍協定の調印に成功。イギリス政府は、その35%までの海軍力を条件に、ドイツの再軍備を容認したのである。ドイツ包囲網は、もろくも瓦解した。

「ははは、やったぞ」

ヒトラーは快哉を叫んだが、その声はかすれていた。数日前に、ポリープ摘出の喉の手術を受けたばかりだったのである。

良性のポリープが喉に出来るのは、声を出す職業の人に良く見られる症状である。しかし、ヒトラーは、最初大いに取り乱した。

「先生、本当の事を言って下さい。癌なのでしょう」

「大丈夫。手術は成功です。数日間安静にしていれば直りますよ」エイケン医師は、笑顔で答えた。

「私の母は、癌で死にました。我が家は、早死にの家系なのです・・」

「大丈夫、大丈夫、総統は健康そのものですよ」

だが、その数日後、死の危険に瀕したのは、彼の愛人エヴァの方だった。

ヒトラーが手術でデートをすっぽかし、電話もくれなかった(実際は出来なかった)ため、棄てられたと誤解した彼女は、睡眠薬を多量に服用したのである。

幸い、彼女の姉のイルゼが、早期に発見し適切な処置を取ったため命は助かった。

「またか」ヒトラーは、肩を落とした。「相変わらず、そそっかしい女だなあ」

癌の恐怖を振り払い、エヴァに手術前後の事情を話したヒトラーは、彼女の情念の深さに改めて驚かされた。

「これほど私を愛してくれるなんて」総統は、元気を取り戻した愛人の肩を抱いた。「絶対に棄てはしないから、もう二度と、こんなことはするな」

エヴァは、双眼に涙を一杯に浮かべて頷いた。

そしてヒトラーは、エヴァのためにアパートを借りて、定期的に訪れることを約束したのである。

しかし、収まらないのは彼女の家族である。特に、父親のフリッツは思いあまって、総統に手紙を書いた。「このままでは、娘は世間の面汚しです。結婚の意志がないのなら、娘を家族の元へ返してください」

フリッツは、この手紙をホフマンにことづけたのだが、写真屋は、これを総統に渡す前に、差出人の娘に見せた。

「父さんは」エヴァは、白い歯を見せた。「娘の気持ちが分かっていないのね」

21歳の健気な女性は、父親の手紙を一読して破り捨てたのである。

 

 

9月15日、ヒトラーは、いよいよユダヤ人虐待への牙を剥きだした。『ドイツ人の血と名誉の保護のための法律』、いわゆるニュールンベルク法の制定である。それによれば、ドイツ人の血統以外には公民権が認められなくなり、また、ドイツ人と他民族の結婚も認められないことになる。ここに、ユダヤ人やジプシーは、ドイツの市民権から疎外され、法的保護の埒外に置かれたのである。

ヒトラーは、諸外国の非難を覚悟したが、またもや幸運が彼を助けた。10月3日、イタリアが、エチオピアに侵略を開始したのである。国連は、ドイツの国内問題などに構っていられなくなったのだ。

しかも、国連の弱腰はここでも発揮され、イタリアに対する経済封鎖が決定されたものの、石油などの戦略物資はその対象外とされ、軍事制裁も行われなかったのである。

ヒトラーは、この情勢を見てほくそ笑んだ。これは、イタリアを抱き込んで、ベルサイユ体制を崩壊させるチャンスだ。こうしてドイツは、有形無形の援助を様々な形でイタリアに与え、ムソリーニはこれに深く感謝することになる。またもや、外交情勢はドイツに有利に働いた。ヒトラーは、己の幸運と能力に対し、ますます自信を深めたのである。

「私は、ドイツ史上最高の英雄となる運命ではないのか」

自信家で一本気な総統は、その思いをますます強くしていった。

しかし、国内問題は別だった。

もちろん、失業は解消し、福祉も大幅に改善された。労働者たちは、月賦積み立てで自動車を買えることになったし、国の補助金で家族旅行をすることも出来た。治安が良好になったため、刑務所や裁判所では閑古鳥が鳴いていた。重工業も驚異的な発展を遂げたが、公害対策は完璧で、環境汚染を嫌う総統によって、各工場は厳しい規制を受けていた。

しかし、良いことばかりではない。

ドイツ国内での階級制は否定されたが、経済格差は埋めることができず、成り上がりの党員たちが、極端な贅沢を楽しみ始めたのだ。例えば、ゲーリングの結婚式(二度目)は、王侯諸侯もかくやとばかりの派手なものであった。ゲーリングに限らず、出世したナチス党員は、出身階級が貧しかったためか、特権を利用して民衆から搾取を行ったり、賄賂を着服するなどの非行が目立った。

それに対して、労働組合を廃止された労働者たちは、賃上げ交渉が行えず、いつまでも貧しいままだった。逆に、資本家たちは肥え太る一方であった。

また、リベラルな思想を持つ人々は、ナチスの思想統制(焚書など)やユダヤ人迫害は、我慢ならない愚挙だと考えていた。

人間の欲望というものは、段階的に大きくなる。生命の安全が確保されたら、自由や贅沢への欲求が生まれる。しかし、ナチス政権は、国民の生命の安全は確保するけれど、(大多数の)自由や贅沢を認めるわけにはいかない体制なのであった。そういう意味では、ソ連型社会主義と良く似ている。

ヒトラーは、このような問題点を正確に認識していた。このまま推移すれば、国民はナチスに不満を持ち、この運動は大衆から遊離してしまうに違いない。ヒトラーは真面目な政治家であるから、そのような事態を我慢することは出来なかった。それゆえ彼は、絶え間ない外交成果の累積によって、国民の不満を外にそらし続けるしか無かったのである。

 

 

1936年3月、ヒトラー総統は、またもや新たな賭けに出た。ベルサイユ条約で非武装地帯と定められている、ドイツ領ラインラントへの進駐である。

ラインラントは、ライン川の東西岸40キロに渡る重要地域であり、ルール工業地帯やケルン、ボンといった都市が含まれている。

だが、これは危険な賭けであった。ワイマール政府が西欧諸国と結んだロカルノ条約(1925年)によれば、この地域への武装侵攻は、諸外国の軍事的反撃を受ける旨が明記されていたからである。

当然、反対が多かった。特に、軍事力に自信のない軍部は、猛烈に反対した。

「フランスが、単独で反撃してくることはあり得ない」ヒトラーは言った。「必ずイギリスを語らうはずだ。しかし、そのイギリスでは、先頃エドワード皇太子(親独主義者)が、即位し王位に就かれた。また内閣も、親独のボールドウィン政権に変わったばかり。彼らは、我々の行動を容認することだろう。

それに、昨年フランスがソ連やチェコと結んだ相互援助条約は、明らかにロカルノ条約違反である。フランスが先に違反しておいて、我々を責めるのは筋違いというものだ」

こうして3月7日早朝、ドイツ軍の歩兵19個連隊二万五千人が、粛々と進軍を開始した。

ラインラントの人々は、みな争って街路へ飛び出し、感涙にむせびながら解放者たちを出迎えた。フランス、ベルギー国境に近いこの地域の人々は、外国の脅威に日夜怯える生活を送っていたのである。

「ドイツ議会の諸君、この瞬間に、ドイツ軍は平和な駐屯地に向けて進軍中である」

その日の正午、ベルリンのクロール・オペラハウスで、ヒトラーはハンカチを握りしめながら、荘重に宣言した。議場は、歓声と歓呼で埋め尽くされた。

しかし、ヒトラーの心中は、焦燥感で一杯だった。彼は、実際は薄氷を踏む思いだったのである。もしもフランス軍が攻めてくれば、装備不十分なドイツ軍は、裸足で逃げ出すほか無かったのだ。その間にも、外相ノイラートや駐英大使ヘーシュは懸命に奔走し、各国にドイツの行為の正当性を説いて回っていた。

しかし、3月10日、フランス軍13個師団が進撃中との知らせが入り、国防相ブロンベルクは震え上がった。

「総統、撤退しましょう」

「まだ早いっ、イギリスからの情報を待ってからだ」ヒトラーは、内心の動揺を抑え、蒼白な頬を震わせた。

だが、ヒトラーの判断は正しかった。フランスの13個師団は、ドイツ軍のフランス侵攻を恐れ、国境のマジノ要塞線の増強に向かったに過ぎなかったのである。フランスの混乱ぶりが良く分かる挿話である。

そして3月12日、イギリスは、いきり立つフランス政府を宥め、ドイツの侵略行為を全面的に容認させたのである。

国連も、非難の声を上げたに過ぎなかった。

「勝った」ヒトラーは、潤む目で空を見上げた。「さあ、国民投票だ」

3月29日の国民投票は、またもや圧倒的多数でヒトラーを支持した。有権者の98.9%が賛成票を投じたのだ。

ヒトラーは、再び勝利を掴んだのである。

 

 

幸運の波に乗るヒトラーは、国際的威信を発揮する更なるチャンスに恵まれた。

1936年の夏季オリンピックの開催地は、ベルリンだった。ゲッベルスらは張り切っていたが、肝心のヒトラーは、当初はそれほど乗り気ではなかった。

「どうせ勝つのは、黒人か黄色人種だろう。そんなもの興味ないよ」

「しかし、総統」宣伝相は反論した。「我が国の平和主義と、スポーツ愛護を宣伝する最良の機会ですぞ。先頃始まったスペイン内戦で、我が国の特殊部隊がフランコ将軍(反乱軍の指導者)を支援していることは、我が国の評判を落としています。ここで、平和主義をアピールしておかないと・・」

「なるほど」ヒトラーは、皮肉な目を向けた。「宣伝ならば、映画が必要だ。君の嫌いなあの人に撮ってもらおうと思うのだが、構わないか」

「・・もちろんです」ゲッベルスは、作り笑いを浮かべた。

「ユダヤ人迫害も、一時的に停止だ」

「もちろんですとも」

こうしてベルリンオリンピックは、ドイツ国家主催で、史上空前の規模で開催されることとなった。ヒトラーをはじめ、ナチスのアイデアマンが一同に会して知恵を絞ったのだ。

まず、創始されたのは聖火リレーである。オリンピック発祥の地であるギリシャのアテネから、開催地まで聖火を絶やさずにリレーで運ばせるというアイデアは、この時に生まれたのである。

また、国ごとに設営された選手村(日本人村には、風呂ハウスまであった)、競争記録用の高速度撮影機、巨大なオリンピックベルの設置、巨大な飛行船の登場など、後のオリンピックの元祖となる趣向が、至るところに見られたのである。

8月1日から幕を開いたオリンピックは、世界的に高まる民族主義の影響もあって、その競技自体の内容も素晴らしかった。50カ国が参加し、19種目を16日間に渡って戦い抜いた。

最初は乗り気でなかった総統は、大会が始まると心変わりして、連日のようにスタジアムに通いつめて応援した。彼は子供のように目を輝かせ、金メダルをとった選手に対し、ドイツ人であろうがなかろうが握手を求めた。

ただ、二日目以降、総統は握手をしなくなった。陸上4種目の金メダルに輝いたアメリカのオーエンスは、黒人であったので、それを総統の人種差別によるものと思ったが、熱心にこちらに手を振る独裁者の姿を見て、その考えが誤りであることを知った。ヒトラーは、急な仕事のために初日の最終競技のメダリストと握手が出来なかったのだが、そのことをオリンピック委員会に窘められて、以後の握手を取りやめたというのが事の真相である。

この大会で、特筆すべき健闘を見せたのは、日本である。マラソンの孫基禎、水泳の前畑秀子らが金メダルに輝き、一万メートル競走の村社講平は4位に終わったものの、その奮闘ぶりは世界を感動させた。

「日本人は、立派だ」ヒトラーは、左右に語った。「我々のアジアのパートナーは、中国ではなく日本にするべきかもしれぬ」

結局、最多金メダルはドイツの33個であった。二位はアメリカである。ドイツの威信は、十分に示されたというべきであろう。

競技は8月16日に終了したが、その二年後、世界は再び深い感動に包まれることになる。巨匠レニ・リーフェンシュタールの記録映画『オリンピア』が封切られたからである。

レニは、しつこいゲッベルスの妨害をかわしながら、全身全霊を込めてこの映画を撮り上げた。

「この映画は、20年は色あせない」

160名のスタッフを前に、豪語するレニ。彼女は、国家の全面的バックアップを受け、特製の望遠レンズ、高速度撮影カメラ、水中カメラ、移動レールを取りそろえ、競技トラックの横に塹壕を掘ってカメラを据え付けた。オリンピック委員会から苦情が入ると、彼女は自ら乗り込んで、嘘泣きまで使って要求を貫徹した。そして、あらゆる競技を全周囲から撮り、巧みに編集していった。撮ったフィルムの長さは4百キロメートルに及び、編集に費やした歳月は2年間になる。

その映像美と見事な演出は、まさしく世界最高峰である。とてもモノクロ映画とは思えないほどの色彩美と躍動感に満ちあふれている。ブロンズの彫像が動き出し、選手の姿に変貌していくプロローグ。さりげなく逆転フィルムを入れた高飛び込み。喉仏の動きまではっきり分かる陸上競技。音楽の臨場感を極限にまで生かしたマラソン。これは紛れもなく人類史上最高の記録映画であり、これ以上の作品は二度と望めないだろう。

さすがのゲッベルスも、完全に脱帽した。

「私のどんな宣伝術も、この女性の映像にはとても適わない」

芸術を志したレニの偉業は、図らずもナチスの平和主義の仮装への貢献となった。彼女は戦後、敵性分子として弾劾を受け、未だにドイツ国内での活動を認められていない。90歳を超えて、いまだに元気に水中写真を撮り続ける彼女に、安息の日はいつ訪れるのだろうか。

しかし、それは後の物語。純真なレニは、彼女の敬愛する総統を天使のような人物だと思い込んでいた。

「あの方の理想が、もっともっと世界中に伝わりますように」編集作業の徹夜明けに、ふと、そんな事を想う彼女の姿があった。

彼女だけではない。イギリスの歴史家トインビー、劇作家バーナード・ショウ、経済学者ケインズ、スウェーデンの探検家ヘディン、アメリカの飛行士で実業家のリンドバーク等、世界中にヒトラーの心酔者が溢れていた。みんなが、ヒトラーを愛していた。みんなが、その理想に共鳴していた。