歴史ぱびりよん

第十一章 民族自決

 

「お兄さん、何だか最近、とても怖いわ」

「どうして」

「気を悪くしないでね。そういう気がするだけなんだから」

「もうすぐだ。もうすぐ、二人で胸を張って、お父さんとお母さんの墓参りが出来るよ」

「・・・また、何を考えているのか分からない。きっと、そういうところが怖いのだわ」

「パウラ・・」

「きっと、そう思っているのはあたしだけじゃない。お兄さんは、やっぱり政治家になるべきじゃなかった。芸術家を目指すべき人だったのよ」

「・・・」

アドルフ・ヒトラーは、去りゆく妹の姿を黙って見送ることしか出来なかった。いまだに独身の妹は、その翌日、一人でウイーンへと帰っていった。しかし、彼女の兄の目指す場所もウイーンだったのである。

1938年2月、ヒトラーはついにオーストリアの併合に着手した。イタリアの妨害が考えられなくなった今、隣邦の無血併合は、掌を返すがごときものである。

2月11日、ベルヒテスガーテンに呼びつけられたオーストリア首相シュシュニクは、ドイツの独裁者から露骨な恫喝を受けた。その要求は、オーストリア国内のナチス系政治犯の釈放と、右翼の大物ザイスインクヴァルトらの内閣加入である。これは明らかな内政干渉であり、この要求を受け入れることは、オーストリアがドイツの衛星国に成り下がることを意味する。驚いたシュシュニクは、組閣の決定権が大統領ミクラスにあることを盾にして拒絶した。しかし、その程度のことはヒトラーの予想の範囲内であった。ドイツの総統は、オーストリア大使パーペンと合議の上、ベルリンからカイテルら三人の将軍を呼び寄せ、会議に同席させることで、軍事力行使も有り得る旨をほのめかしたのである。

「考えさせてください・・」動揺したオーストリア首相は、顔面を真っ青にしながらウイーンへと帰っていった。イタリアが頼りにならぬ以上、彼の愛する祖国は蛇に睨まれた蛙同然なのだ。

2月13日、カイテル率いるドイツ軍は、オーストリア国境で軍事演習を行った。露骨な威嚇行動である。

恐れをなしたオーストリア大統領ミクラスは、2月16日、ヒトラーの要求を全て受け入れたのだが、このことは独墺合併の機運を大きく盛り上げた。

ドイツとオーストリアは、どちらも同じドイツ民族の住む国であって、歴史的経緯から分離しているのに過ぎない。もともとドイツとオーストリアは、神聖ローマ帝国内の封建領主が母胎となっている。ホーエンツオレルン家のプロイセン王国が勢力を拡大してドイツとなり、ハプスブルク家のオーストリア王国と拮抗し、帝国を二分化したのである。

19世紀終盤、ドイツ帝国を創ったプロイセンの鉄血宰相ビスマルクは、ライバル・フランスを打倒する事を優先課題としていたので、いわゆる小ドイツ主義を採用し、オーストリアとの併合を断念したのであった。しかし、両国の併合問題はその後も引き続き議論された。第一次世界大戦後も、民族自決の名の下に、両国の合併が討議されたことがある。しかし、ドイツの弱体化を目論む英仏がこれを拒み、話は振り出しに戻ってしまったのだ。

以上のことから、独墺の国民感情は、合併におおむね賛成であった。オーストリア国民にしてみれば、経済復興に成功し国力を強めたドイツは憧憬の対象であった。オーストリア政府は、政治的経済的不作を脱却できず、国民は疲れ切っていた。彼らは、オーストリア出身のヒトラー総統による世直しを期待していたのだ。

また、国際世論も、『民族自決』の大義名分を掲げるヒトラーに好意的であった。それゆえ、合併が平和的に行われる限り、国連の介入は考えられない情勢であった。

 

 

以上の状況を十分に感得した総統は、2月20日の国会演説で、隣国のドイツ人の統合を呼びかけた。これは、間接的にオーストリアの併合を宣告したに等しい。

焦ったシュシュニク首相は、2月24日、ウイーンの議会で対抗演説を行った。

「我々の合い言葉は愛国心だ。死ぬまでオーストリアだ」

彼は、ヒトラーの侵略にとことん抵抗するつもりであった。しかし、彼が頼りにできる外国は一つも無かった。イタリアは既にドイツの一味だし、フランスは政情不安で喘いでいる。イギリスに至っては、チェンバレン首相がヒトラー演説に賛意を表明する始末だった。

「こうなったら、国民投票によって内閣を延命させるしかない。私の内閣さえ健在なら、時間稼ぎが出来る。そうなれば、国際情勢も動くはずだ」思い詰めたシュシュニクは、思い切った選挙活動に打って出た。

「脅しが足りなかったのかな」

首をかしげたヒトラーは、カイテルを呼び、オーストリア攻撃命令を伝えた。もちろん、ただのはったりである。同胞の血を流し、いたずらに世論を刺激することは避けなければならなかった。

だが結局、シュシュニクは恫喝に屈したのである。3月11日、開票を二日後に控えた国民投票は、土壇場で打ち切られてしまった。失意の首相は辞任し、その後任には親ナチスのザイスインクヴァルト内相が収まったのである。

この間、外交戦で最も活躍したのはゲーリングであった。オーストリアの要人たちと親しい彼は、情報操作や政治工作を駆使して、無血の政権交代に大いに貢献したのであった。

そしてドイツ軍の進駐が始まった。

各部隊の行軍は大いに遅延した。オーストリア側の抵抗による遅延ではない。歓迎攻めによる遅延なのであった。行く先々で彼らに浴びせられるのは、銃弾でも罵声でもなく花束なのだった。将兵は、降り注ぐ花びらから目を守るために防塵ゴーグルを着用しなければならなかった。

「花戦争だなあ」抵抗を予想していた将兵は、拍子抜けすると同時に歓喜の声を上げた。

その一方で、ユダヤ人をはじめとする反ナチス派の人々は、亡命のために空港に殺到した。その中には、心理学者のフロイト博士らの姿もあった。

3月12日、ヒトラーは、カイテルやボルマンらを引き連れて、自動車で祖国に入った。

やや心配だったイタリアの反応は良好で、ムソリーニはドイツ軍のオーストリア進駐に祝電を打った。

「統帥の恩は、一生忘れない。この恩は、必ずお返しする」

ヒトラーは、感極まって叫んだ。彼は後に、この言葉を寸分たがわず履行するのである。

生まれ故郷のブラウナウを経てリンツに入る。午後7時、リンツ市公会堂に到着した一行は、10万人を超える群衆の出迎えを受けた。

「リンツの皆さん」総統は、バルコニーから群衆に語りかけた。「私は祖国に帰ってきました。そして、ドイツとオーストリアの絆は一つに結ばれたのです。数百年にわたって引き裂かれてきた二つの民族は、ようやく運命を乗り越え手を握りあうことができたのです」

演説する痩身の独裁者の両頬は、いつしか溢れる涙に彩られていた。ヒトラーは、泣いていた。心の底から、感動の涙を故郷の土に落としていたのだった。

オーストリアは、国民投票によってドイツと統合されることになった。リンツに到着したオーストリア新首相ザイスインクヴァルトは、急造の『ドイツとオーストリア統合法』を持参し、一読したヒトラーは、満足げにサインした。時に、3月13日午後11時52分。ここにオーストリアは、国家として実質的に消滅し、ドイツ領オストマルク州となったのである。

翌日から、オーストリアに乗り込んできたSSによって、反ナチス分子の摘発が開始された。同時に、ユダヤ人たちの公職追放が開始され、職にあぶれた彼らは、便所掃除や壁の落書きの清掃に駆り出され、ひどい虐待を受けたのである。見かねたドイツ軍将兵が止めに入り、国防軍とSSの乱闘騒ぎが頻発した。

そのような状況を知ってか知らずか、ヒトラー一行は自動車で悠然とウイーンに向かった。群がる人々の歓喜の声を浴びながら、時の人が旧オーストリアの首都に入ったのは、3月14日夕方であった。出迎えの人々の中には、先行していたエヴァ・ブラウンの姿もあった。ヒトラーは、ウイーンの一日を、恋人と一緒に過ごすことに決めていたのである。

だが、ホテル・インペリアルに入ったヒトラーは、群衆の歓呼の声に呼ばれて、何度もバルコニーに顔を見せに出なければならなかった。

「今日は、もう休みたい」総統は、ボルマンに言った。「来客は全部、断ってくれ」

「かしこまりました」ヒトラーの手から来客名簿を受け取ろうとした秘書は、しかし、名簿の隅に目をやった総統に止められた。

「ちょっと待て」総統の目は輝いた。「彼には会いたい」

そこには、アウグスト・クビチェクの名があった。

 

 

会見は、ヒトラーの私室で、二人きりで行われた。

かつてグストルと呼ばれていたこの人物は、柔和な容貌をした中年になっていた。今は、役所に勤めているという。

「どうして」ドイツの総統は絶句した。「君ほどの才能が役人に収まっているのだ。君なら、立派な音楽家にも指揮者にもなれただろうに」

「世界恐慌のせいだ」グストルは、寂しげな笑みを浮かべながら語った。「家族を養って生き延びていくために、夢を棄てなければならなかったんだ」

「忌々しき世界恐慌め」古い友人は拳を振り上げた。「君のように、夢を棄てねばならなかった若者が、何と多いことか」

「三人の子供たちは、私以上に音楽の才能を持っている。せめて子供たちには、夢を抱いて欲しかったのだが、知っての通り、オーストリアの経済事情は最悪だ」

「私が変えてやる」ヒトラーは叫んだ。「私が全てを変えてやる。ドイツに住む全ての子供に、夢を与えてやる。最初は君の子供たちからだ」

アドルフは、脱兎のごとく部屋を飛び出した。

「ああいうところは、昔と少しも変わらないな」グストルは、一人取り残された部屋で微笑んだ。

やがて戻ってきたヒトラーは、かつての親友の息子たちを、音楽アカデミーに入校させる手続きが終わったことを伝えた。

「ありがとう、アドルフ」

「お安いご用だ。困ったことがあったら、いつでも言ってきてくれ」恐怖の独裁者は、少年のように純真な表情を浮かべながら、グストルの手を取った。

その夜、エヴァ・ブラウンと枕をかわしたヒトラーは、若き日の思い出話に夢中になった。

「私がウイーンで職にあぶれていたころ、このホテルは貴族専用の高級ホテルだった。私は、仲間たちと共に玄関で雪かきのアルバイトをやったのだ。空腹の上に、寒くてたまらなかった。でも、誰も我々に無関心だった。ホテルのポーターは、貴族の顔色を窺うのに汲々として、我々に暖かいコーヒーの一杯すらくれなかった。みじめで、辛くて、この世の不平等を恨んだものだよ。でも、今は違う。今こうして、ホテルの最高の部屋で君と一夜を過ごせるとは、本当に夢のようだ」

そう語る総統の双眼は、いつしか涙で曇っていた。エヴァは、その指でそっと彼の眼を拭ってあげた。

 

 

オーストリアの無血併合は、鉄血宰相ビスマルクの業績を遙かに上回る歴史上の偉業である。ヒトラー総統の威信は、最高潮に高まった。

ほとんどのドイツ国民にとって、ヒトラーは神のごとき存在であり、ドイツ史始まって以来の完全無謬の英雄であった。

ドイツ国民は、ヒトラーを、粗末な服装に身を包み、粗食に耐え、妻帯もせず、貧窮のなかでひたすら国民のために働く聖人のように思っていた。実際には、簡素な制服も菜食主義もヒトラーの個人的趣味によるものだったのだし、エヴァという愛人がいたし、ベルクホーフは贅沢な別荘だったし、そもそも『我が闘争』の印税収入で彼は非常に富裕だった。だが、表面に出る事実において、総統は、その絶大な権力に比して無欲で質素な独裁者と言えた。そのため、大衆の旗手であるというヒトラーの謳い文句は、実に大きな説得力を持っていたのである。

また、ヒトラーの実施する政策は全て、選挙公約やナチス党綱領で既に公言された内容を履行するものであったから、ヒトラーの政治家としての真面目な姿勢は、多くのドイツ国民の共感を呼んだのである。

その一方で、ナチス要人たちの奢侈や不正は人々の眉を曇らせていたのだが、そのことは却って、ヒトラーの廉潔さを強調する結果となった。ドイツ国民は、純真なヒトラーが幹部たちに騙されているのだと考えていた。いつかは事実を知って、世直しをしてくれるものと信じていたのである。

ドイツの大衆は考えた。確かにドイツの民主主義は否定され、文化は画一化され、言論統制やユダヤ人迫害は激しさを増しているかもしれない。しかし、それがどうしたというのだ。民主主義は、もはや時代遅れなのだ。それが証拠に、イギリス、フランス、ソ連といった列強は、ドイツの日の出の勢いに恐れをなしているし、日本やイタリア、スペインは、競い合って尻尾を振ってきているではないか。何よりも、総統は我々に職を与えてくれた。あの屈辱的なベルサイユ体制を打破し、誇りを取り戻してくれたではないか。そして今、オーストリアの同胞を解放し、民族の絆を堅く結んでくれたではないか。

民主主義の伝統の乏しい当時のドイツにおいては、カリスマ性のある独裁者による専制こそが、理想の政治の在り方なのであった。民主主義や議会政治は、ワイマール共和国時代の屈辱と貧困の記憶しか呼び起こさない。それゆえ、ドイツ国民がヒトラーに心酔するこの状況は、むしろ当然だったのである。

4月10日に実施された独墺合併の国民投票は、かくして両国ともに99%を上回る賛成票を得たのである。

思えば、ヒトラー政権が誕生したとき、人々は半信半疑であった。選挙で彼に投票した人も、他に選択肢がないからやむなく彼に一票を投じた者が大半であった。しかし、今は違った。人々は、ヒトラーに従っていれば間違いはないのだと思い込んでいた。永遠の発展と栄光が、両手を広げて待ち受けているものと信じ込んでいたのである。

そして、ヒトラー自身も、己の天才と無謬性を信じていた。己の直感と状況判断力は抜群であり、全ての事象を包括し、動かす偉大な力があると思い込んでいた。

野心と自信は、人を行動に駆り立て成功させる原動力である。そしてそれは、しばしば人を破滅に追いやる罠にもなる。

 

 

オーストリア無血併合の成功は、中欧に対するヒトラーの野心をますますかき立てた。次なる目標は、チェコスロバキアに居住する3百万ドイツ人の「解放」である。民族自決の大原則に照らせば、チェコ領ズデーテンラントは、ドイツに併合されるべきものであるからだ。それに加えて、この土地の有する大企業群や地下資源は極めて魅力的であった。

しかし、チェコはオーストリアのように簡単には行かない。チェコスロバキアは、元来オーストリア・ハンガリー帝国の一部であって、第一次大戦の後に独立してから、わずかに20年にしかならない。構成民族は、チェコ人とスロバキア人を筆頭に、ドイツ人、ハンガリー人、ポーランド人等雑多であり、内情は複雑であった。ここでもしドイツに領土を割譲する事態になれば、国土を構成する多数の民族が、たちまち独立や隣国との併合を主張し、国家の解体を招来するだろう。だからチェコ首脳は、ドイツの領土割譲要求を、頑としてはねつけるに違いなかった。

「戦争もやむなし」ヒトラーは、決意を固めた。「フランスとソ連は、チェコと同盟を結んでいる。しかし、彼らが中欧の小国のために血を流すことはあり得ない。チェコだけが相手なら、現在の戦力で十分に料理できるはずだ」

ヒトラーはまず、4月24日、ズテーテン・ドイツ党の党首ヘンラインを唆し、チェコ政府に対してズテーテンランドの自治権を要求させた。ベネシュ大統領を中心にしたチェコ政府は、当然この要求をはねつけた。しかし意外なことに、英仏両国はドイツ側に好意的であり、ヘンライン要求の受け入れをプラハに勧告したのである。

「頼りない同盟国もあったものだ」ベネシュ大統領は鼻白んだ。「英仏は、チェコの領土を犠牲にしてドイツのご機嫌を取るつもりだろうが、黙って食われる私ではないぞ。単独でもやってやるぞ」

5月21日、チェコ政府は動員令を発した。国境の要塞線を固守し、ドイツ軍を迎え撃つつもりなのである。

チェコの強気な姿勢に驚いたのは、むしろドイツ側だった。その日、ベルリンのビル破壊の現場に偶然通り合わせた人々は、爆発音を聞いてパニックになって逃げ散ったという。チェコ軍の空襲だと思ったのである。ドイツ国民の戦意と自信のなさは顕著であった。

国民のみならず、肝心のドイツ軍部にも戦意が乏しかった。カイテル将軍の立案した作戦計画は、素人目にも稚拙であり、とても実戦に使えたものではなかった。

また、密かに軍部によるクーデター計画も練られていた。ベック将軍を中心に結束した彼らは、対チェコ開戦と同時に決起し、ヒトラーを監禁しようと考えていたのである。彼らは、チェコ開戦が第二次世界大戦を引き起こすと見ており、そうなったらドイツに勝ち目はないと信じていた。

クーデター計画はともかくとして、国全体の戦意の低さは、ヒトラーにも容易に感得できた。

「仕方ない」ヒトラーは嘆息した。「しばし、様子を見よう」

彼は軍事力行使を諦めたが、しかし第十回ニュールンベルク党大会でチェコのドイツ人迫害(実際には、迫害などなかった)を激しく非難したので、9月中旬を迎える頃には、チェコ国内は居住ドイツ人の権利を巡って騒然たる有様になってきた。

情勢を憂慮した英仏首脳陣は、自ら調停に乗り出すことにした。

特に、イギリス首相チェンバレンの決意は深刻だった。この温厚な徳人は、戦争の危機を回避するために手段を選ばぬ覚悟があった。彼は、ヒトラーに一対一の会見を申し込んだのである。老首相は、大英帝国の威信よりも、世界平和を重視したのだ。

「これは驚いた」さすがのヒトラーも、口をあんぐりと開けた。「よろしい、日時は明日の正午。場所はベルクホーフだ」

9月15日、チェンバレンは、飛行機と列車と自動車を乗り継いで、ヒトラー自慢の別荘に姿を現した。彼は、通訳一人を従えてドイツの総統と二人きりになると、戦争の無謀さを訴えた。

「私も戦争は望みません」ヒトラーは、むすりと言った。「動員令を出したりズデーテンドイツ人を迫害したりしているのはベネシュの方ではありませんか。もう我慢なりません。ドイツはこのような侮辱には耐えられません。進撃あるのみです」

「それほど堅い決意なら」チェンバレンは、反撃を開始した。「私が訪れた意味はありませんな。お暇させてもらいます」

「いや・・」総統は狼狽して見せた。「イギリス政府が、チェコ内部の民族自決について考慮してくれるのであれば、こちらにはいくらでも譲歩の用意がありますよ」

「それならば、数日お待ち下さい。必ず朗報をお持ちします」温厚な老首相は、大急ぎで山を降っていった。

帰国したチェンバレンは、フランスのダラディエ首相と相談の上、チェコに圧力をかけることにした。すなわち、ズデーテンラント全土のドイツへの割譲を要請したのである。これに応じない場合、フランスは同盟を破棄する用意があるとも述べた。

「なんだって、そんな馬鹿な」ベネシュ大統領は動転し、痛む胃を押さえてうずくまった。大急ぎでソ連大使館に伺いを立てた彼は、ソ連政府からもフランス同様の答えを得た。彼は泣いた。彼は、見捨てられたのだった。

9月20日、チェコ政府は、ズデーテンラントのドイツへの割譲を決定した。ベルサイユ条約の修正がなされたのである。

翌日、チェンバレンはえびす顔を浮かべながら、再び機上の人となった。しかし、二度目の会見場に選ばれたゴーデスブルクのホテルで、その笑顔はたちまち蒼白となった。

「情勢は大きく変わりました」ヒトラーは、冷徹なまなざしを英首相に向けた。「ズデーテンラントは、即時に軍事占領されなければなりません。また、民族自決を言うのなら、チェコ領内のポーランド人やハンガリー人も、それぞれの祖国に編入されるべきではないでしょうか」

ヒトラーは、ベルサイユ体制の修正という形での領土割譲を拒否したのである。彼は、ドイツ軍による直接占領によって、ベルサイユ体制を打破する形での成果を上げるつもりだったのだ。また、ポーランドやハンガリーを介入させることで、これらの国々に恩を売ると同時に、チェコ国家そのものの抹殺を目論んだのである。

「話が違う」温厚な首相は、さすがに憤慨した。

「ドイツは、9月28日までに、ズデーテンラントのチェコ軍の全面撤退と、全領土の引き渡しを要求します」ヒトラーは、憮然とした表情で言い放った。「これは、私の最後の領土要求です」

「無茶だ」チェンバレンは暗い目を向けた。「まるで最後通牒ではないですか。あなたは戦争がしたいのか。こうなったら処置なしだ。私は帰ります」

ヒトラーは、顔色を変えた。彼のやり方は、明らかにブラフである。最初に、わざと法外で理不尽な要求を出し、徐々にそれを引っ込めていく交渉術であった。しかしこの方法は、律気で真面目なチェンバレン氏には通じにくいようだ。

「お待ち下さい。この交渉が続く限り、ドイツは武力には訴えません。分かりました。あなたの顔を立てるために、チェコ軍の撤退期限を10月1日までとします」

「そうですか」老首相は、ようやく眉を開いた。

チェンバレンは、ヒトラーからメモランダムを受け取ると、帰国して閣議にかけた。賛否両論の嵐が巻き起こり、閣議は荒れに荒れた。妥協か拒絶か。平和か戦争か。

全世界のプレスが戦争の危機について書き立て、世界中の人々が、不安の眼差しを中欧に向けた。

しかし、イギリスとフランスは、己の軍事力と経済力に自信を持てずにいた。戦争になったら、ドイツに勝てるとは思えなかった。ソ連も、中欧情勢に積極的に介入する意志を持たない。

ところが、ドイツ側でも事情は同じで、軍部も民衆も戦争を望んでいなかった。ヒトラー自身、この段階で西欧諸国と対決する自信を持っていなかった。あくまでも交渉と恫喝で目的を達成しようと考えていたのである。そして、この複雑な情勢を前に、クーデターを企むベック将軍らも、行動を自粛せざるを得なかった。

冷たい睨み合いが続いたまま、約束の10月1日が目前に迫った。

このまま世界は戦争に突入してしまうのだろうか。しかし、意外な人物が介入し、この危機を収めることになる。

イタリア首相ムソリーニが動き出したのだ。

 

 

60歳を迎えたベニト・ムソリーニは、思いがけず舞い込んだチャンスに武者震いした。自信家で野心家の彼は、ここ数年の欧州情勢が、後輩格のヒトラー中心に動いているのが不満だったので、ここでヒトラーとチェンバレンに恩を売り、己の威信を高めようと考えたのだ。

ムソリーニからの電報を受け取ったとき、ヒトラーはちょうどフランス大使フランソワポンセと会談中であった。フランスは、ドイツを宥めて戦争を回避するため、なりふり構わぬ交渉を続けていたのである。

「そうか、統帥が・・」ヒトラーは、電報の趣旨を知って笑みを浮かべた。「これはチャンスだ。英仏が妥協するための口実を、彼が与えてくれるというわけだ」

イタリア首相の提案によって、英仏独伊の四大国首脳の直接会談が開催されることになった。時は9月29日午後零時、場所はミュンヘン。

ケーニヒス広場に面した屋敷フューラーズバウに参集したのは、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア統帥ムソリーニ、そしてドイツ総統ヒトラーという、そうそうたる顔ぶれであった。事がチェコに関する問題であるだけに、チェコ外務省のマサリク代表も呼ばれていたのだが、彼は別のホテルで待機させられていた。

会議の主導権を握ったのは、ホストであるムソリーニであった。語学に堪能な彼は、英仏独三カ国語を操れたので、通訳を押しのけて積極的に会談を纏めたのである。その結果、イタリア側の提案である、「10月10日までに、チェコ軍が段階的にズデーテンラントから撤退する」案が妥結されたのである。

チェンバレンとダラディエは、満足げに頷いていたが、これはドイツ側の主張が全面的に通ることを意味した。ヒトラーが主張した10月1日が、10日に延びただけだからである。それもそのはず、イタリア提案というのは、ヒトラーとムソリーニが水面下で示し合わせて決めたものだったのである。

ヒトラーは、大喜びで統帥と握手を交わした。

チェンバレンとダラディエは、見事に騙された。いや、彼らはわざと騙されたのである。彼らにとっては、チェコがどうなろうと、結局関係なかったのだ。平和さえ獲得できれば、中欧の小国の運命がどうなろうと知ったことではなかったのだ。彼らは、気持ちよく騙される口実を、第三者であるムソリーニに創ってもらったというわけである。

チェコ代表マサリクと駐独チェコ大使マストニーは、不安にさいなまれながら会談の結果を待っていた。9月30日午前2時、英仏代表の宿泊するホテルに呼び出された二人は、英仏両首脳によって、ミュンヘン協定の写しを見せられた。

二人のチェコ人は泣いた。ぽろぽろと涙を流した。

そんな彼らを後目にダラディエ首相がやってみせたのは、大きな欠伸であったという。

ヒトラーは、またもや勝利した。彼は、最初に望んだ全てを手に入れたのだ。二万平方キロの土地と350万の人口を、無血で手に入れたのである。有名な軍需産業ショコダ社とその工場群も、今や彼のものだ。

だが、その日の午前9時、チェンバレンは、大きな決意を胸にヒトラーのもとを訪れた。「最後の領土要求」という彼の言葉を確認したかったのである。英首相は、持参してきた共同声明文に、ヒトラーのサインを求めた。その文面は、英独の協議によって欧州に平和をもたらそうという漠然たるものだった。

起き抜けのヒトラーは、赤い目をこすりながら、二つ返事でサインをした。

「こんな紙切れが、何になるというのだろう」

総統は、内心で不思議がっていたのだが、チェンバレンの反応は違った。老首相は、喜色満面で母国への帰路についたのである。そして、ロンドン空港に着地した彼が、出迎えの大衆に向けて打ち振ったものこそ、ヒトラーのサイン入りの共同声明文だったのである。

「みなさん、私は欧州に平和を持参しましたぞ」

大歓声が、感涙が、痩せた英首相を包み込んだ。

そしてミュンヘン会談は、歴史上の偉業とされた。

当時の世界、特に西欧諸国において、戦争がこれほどまでに嫌われていたことは注目に値する。第一次大戦の後遺症が、それほどに強烈だったということであろう。太平洋戦争の後遺症で戦争アレルギーになっている日本の現状を見れば、何となく頷ける気がする。

こうして、世界中の賞賛が四巨頭に集まった。ヒトラーの威信が高まったことは言うまでもないが、ムソリーニは世界を救った英雄として讃えられ、チェンバレンはノーベル平和賞の候補に上がった。それほど、世界中の人々が平和を願っていたのである。

しかし、時の英雄チェンバレンを、一人冷たく睨む人物があった。

「何が平和だ。何の解決にもならぬ。チェコの人々は、これからどうなるというのだ。ミュンヘン会談は、終わりではない。恐怖の始まりに過ぎない」

シルクハットを目深にかぶり、葉巻をふかすその下院議員は、ウインストン・チャーチルであった。