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第十二章 砕かれた水晶の夜

 

ミュンヘンで見せたチェンバレンとダラディエの卑屈な外交姿勢は、今日、『宥和政策』として侮蔑の対象となっている。問題を先送りにして、将来の危機を高めたというのだ。

しかし当時、英仏両国の戦備が不十分であったことは事実であるし、チェコがドイツと戦って勝ち目が無いことも事実であった。従って、あの時点で戦争に突入した場合、ドイツの全面的勝利に終わる可能性も大きかったのである。つまり、彼らの宥和外交が貴重な時間稼ぎとなり、後の連合軍の勝利に貢献したという見方だって可能なのである。

ただし、ミュンヘンの成功がヒトラーを慢心させ、その行動を歯止めが効かないものにした事もまた事実である。

ヒトラーは、英仏の姿勢を軽侮した。

「結局、自分たちさえ困らなければ、中欧や東欧がどうなろうとも、見て見ぬ振りをする連中なのだ。彼らはきっと、最終的にドイツを共産主義ソ連にぶつけて共倒れさせたいのだろう。となれば、ソ連攻撃の基地としてチェコ全土を占領しても、ポーランドを侵略しても、連中は何も言うまい」

ヒトラーは焦っていた。もう49歳だ。年のせいか体調が不良になり、胃痛に悩まされることが増えていたのである。最近は視力も低下し、老眼鏡をかけなければ書類に目を通すことすら出来なかった。早死にの血筋であることを自認する彼は、寿命との競争が始まったと思った。

1938年の秋には個人的遺書を書き、印税収入によって膨れ上がった財産の遺贈先を決めた。それによれば、イギリスに住む異父兄アロイス一家、オーストリアに住む姉アンゲラ夫婦、妹パウラのみならず、エヴァ・ブラウンにも多額の財産が贈られることになっていた。ヒトラーの意識の中で、エヴァは既に家族の一員だったのだろう。

そのエヴァは、この年末から首相官邸での生活を始めていた。対外的には秘書という事にしていたが、実質は夫婦である。しかしヒトラーは、自分が独身であることが己のカリスマ性の維持につながると考えていたので、エヴァの存在は極力秘密にしておきたかった。そのため、彼女はファーストレディーとしての振る舞いは許されなかった。ミュンヘン協定以後、東欧諸国のヒトラー詣でが始まったが、外国の要人が訪れるたびに、エヴァは別室に姿を隠さなければならなかったのである。彼女は、要人たちをもてなすため、陰ながら室内装飾や料理をしつらえて、ささやかな満足を得る事しかできなかった。

そんな彼女とヒトラーの本当の関係を知る者は少なかった。

 

 

イギリスの名門貴族の娘ユニティ・ミトフォードは、ドイツ留学中にヒトラーと知り合い、彼の心酔者になっていた。この若い女性は、初対面のヒトラーに「彼女こそアーリア人だ」と言わせしめたほどに完成された美貌を誇っていた。

少女の頃から社交界の花形であった彼女は、ヒトラーの心を手に入れることなど朝飯前だと思っていた。しかし意外なことに、この独身のドイツ人は、彼女の誘惑に乗ってこなかった。礼儀正しく優しい紳士としての姿勢を、決して崩そうとはしなかったのである。

「女性に興味が無いのかしら・・」

ユニティは、却って闘志をそそられた。総統に、新しい世界を教えてあげなければ・・。

彼女は、エヴァ・ブラウンが自分のライバルだということを知らなかった。小太りで、いつも曖昧な笑顔を浮かべているエヴァのことを、彼女は陰で「間抜けな雌牛」と呼んで軽蔑していたのである。

しかし、ヒトラーは物堅い性質だったので、エヴァの信頼を裏切るつもりはさらさら無かった。彼にとってユニティは、イギリス社交界に食い入るための大事な手ゴマに過ぎなかった。事実、イーデン卿や前首相ロイド・ジョージとのコネクションの樹立は、彼女の助力なくしては有り得なかった。また、彼女はイギリス政界の裏情報に精通していたので、秘密の情報源としても有用だったのだ。

いつしかヒトラーは、ユニティのもたらす情報を全面的に信頼するようになっていた。そして、彼女の女心が、情報の客観性を歪めるという可能性を忘れていた。

そのことも、老境に入った総統の焦りの顕れと言えなくもない。

 

 

「死ぬまでに、東方植民地を完成させ、ユダヤ人に鉄槌をくらわさねば・・」

焦燥感は判断力を狂わせる。無謬の英雄であるはずの総統は、ついに大きな失敗をおかす事になる。

そのきっかけを作ったのは、宣伝相ゲッベルスであった。浮気を繰り返した彼は、1938年の秋、マグタ夫人がその事実に気付いたために離婚訴訟に巻き込まれた。結局、すったもんだの末に元の鞘に収まったのだが、このスキャンダルは大きな波紋を呼び起こした。

レーム粛正やハンフシュテングル亡命の事情からも分かるように、ナチスの組織内では、幹部同士の足の引っ張り合いが恒常化していた。これは、ヒトラーが己の地位の安定を図って意図的にそう仕向けていたのである。そもそも組織の在り方が、そうなっている。例えば、軍隊ならば「国防軍」と「武装SS」が併置され、警察ならば「SD」と「ゲシュタポ」が併置されており、外交は「外務省」と「リッベントロップ機構」が互いに競争して足を引っ張らせるように出来ているのである。これは、競争による切磋琢磨を促す上で有効な施策であったが、同時に下部機関同士の抗争を煽って潰し合わすことで、ヒトラーに対する反逆の芽を未然に封じようという意図が隠されていた。

さて、ゲッベルスのスキャンダルは、彼のライバルであるゲーリングやヒムラー、そしてボルマンに絶好の機会を提供した。彼らは一挙にゲッベルスを追い落とそうと考えたのである。

焦ったゲッベルスは、一大プロジェクトを実施し、己の地位を保全することを目論んだ。彼は、党内の反ユダヤ主義者が、党の近年の穏健政策に不満を抱いていることを総統に訴えた。ヒトラーも、ここでゲッベルスの才能を失いたくなかったので、彼の計画を承認したのである。

 

 

ゲッベルスの計画に実行の口実を与えたのは、パリのドイツ大使館員が、ユダヤ人青年に暗殺された事件であった。両親をドイツからポーランドに追放された青年グリュンシュパンは、11月7日、大使館顧問のラートを射殺したのであった。逮捕された青年は、泣きながらフランス警察に訴えた。

「ユダヤ人でいることは罪じゃない。僕たちは犬や猫じゃないんだ」

「報復だ」ゲッベルスは、恰好の口実が出来たことに喜んだ。

11月9日夜、ドイツ在住のユダヤ人に狂気の嵐が襲いかかった。組織化されたSAが、牙を剥いて弱者に躍りかかったのだ。

ドイツ全土で814四軒の店と171軒の住宅が破壊され、191のユダヤ寺院が灰燼に帰した。36人が殺害され、その数十倍の死傷者が街路を埋め尽くした。また、二万名を超える人々が強制収容所に送られた。もっとも、この数字はナチスの公式発表によるものだから当てにはならない。恐らく、これらの実数はもっと多いことだろう。

あまりの惨状に、警察官はなすすべもなく立ちつくし、中には泣き出す者さえあったという。

この事件は、ユダヤ商店の砕かれたガラスが街路に散乱したことから『砕かれた水晶の夜』と名付けられ、内外から激しく非難された。諸外国のプレスの反応は当然としても、国内でもゲーリングやヒムラーは、口をきわめてゲッベルスを罵った。特に、四カ年計画を指揮するゲーリングは、国内の財産の大量破壊を嘆き悲しんだ。もっとも、彼は都市の復興費用の全額を、ユダヤ人から特別税として取り立てたのであったが。

ヒトラーは、ゲッベルスの行為に承認を与えていたにもかかわらず、事件には中立の態度をとった。彼は、拮抗する派閥のどちらにも荷担しないように身を処す必要があったのだ。

しかし、『砕かれた水晶の夜』は、ドイツの国家としての国際的信用を大きく失墜させる結果となった。理性を失った野蛮な国家という印象が、広く流布されたからである。特に、ユダヤ人ブレーンを多く抱えるアメリカのルーズヴェルト大統領は、激しく憤った。彼はイギリスとの連帯を強め、ドイツを国際的に孤立させようと動き始めたのである。

ヒトラーは、本人がそれと気付かぬうちに、重大な失策を冒したのであった。

 

 

この機会に、ヒトラーの人種観とナチスの人種政策について概観してみる。

ヒトラー思想の根本にあるのは、「人類の歴史は、人種間闘争の歴史である」という信念であった。マルクスが、人類の歴史を「階級闘争の歴史」と位置づけたのと好対照であるが、どちらも事実を単純化した偏った歴史観である。歴史とは、そんなに単純なものではない。しかし、20世紀初頭の急激に複雑化した社会では、そのような分かりやすい主張が大衆に歓迎されたのである。

さて、ヒトラーの歴史観から演繹されることは、人類の目的は民族間競争に勝利することであって、国家はそのための道具でなければならず、従って、国家は単一民族によって支配される状態が望ましいことになる。

ヒトラーがユダヤ人排斥にこだわるのは、彼らが国家を持たない「寄生虫」だからである。ヒトラー思想では、国家を持たない民族というのは、歴史の正常な流れから外れた存在なのであって、ここに弾圧の正当性が生まれるのだ。

また、ヒトラーはユダヤ人を恐怖してもいた。ユダヤ人も民族である以上、人種間闘争を勝ち抜く用意があるに違いない。国家という有用な道具を持たぬ彼らは、他民族の国家に寄生し、これを内から操り、その犠牲の元に勝利を得ようとするに違いないのだ。事実、ドイツは第一次大戦で「背後からの一突き」にしてやられたではないか。

そしてヒトラー思想によれば、共産主義思想を奉じる連中も、その国際主義ゆえに否定されるべき存在であった。

以上のことから、このドイツの独裁者は、ドイツの将来のために、ユダヤ人と共産主義者を国外追放し、背後の安全を確保する必要があると考えていた。来るべき東方植民地戦争で、「背後からの一突き」が起きてはならないのだ。

またヒトラーは、「進化論」を応用した人種分類を行っている。『我が闘争』によれば、彼は人種を三つに分類している。

第一に、創造的人種。これは、いわゆるグローバルスタンダートを創出し、全人類を啓蒙する人種であって、具体的には白人種、中でもアーリア人種がこれに当たるという。ヒトラーのいうアーリア人というのは、どうやらゲルマン族、ノルマン族、アングロサクソン族(それぞれドイツ人、北欧人、イギリス人)のことを漠然と指してそう呼んでいるらしい。

次に、模倣的人種。これは、創造性こそ持たないが、創造的人種の創ったスタンダートを継承発展させる能力を持つ人種であって、有色人種(日本人や中国人、黒人)がこれに当たるという。

最後に、劣等人種(ウンターメンシュ)。これは、人類の発展に何のメリットも提供しない害虫であるがゆえ、駆除しなければならない人種である。ユダヤ人、ジプシー、スラブ族(特にロシア人)がこれに該当するという。

これらの人種観は、おそろしく偏っていて狂信的である。このような思想の持ち主が、有能で誠実で真面目であったことは、人類にとって大きな不幸であったと言う他はない。

もっとも、ヒトラーは、個人的に親しかったり世話になったユダヤ人(例えば、母を看病してくれたブロッホ医師とその家族)には、『名誉アーリア人』なる不可解な称号を授け、保護しているから、彼にとって人種論はあくまでも政策だったのである。

ところで、ナチスの人種政策は、政権当初から必ずしも首尾一貫していない。状況判断力に優れたヒトラーは、周囲の様々な政治事象を勘案しつつ、人種政策を遂行しなければならなかったからである。

ドイツ国民の良識派は、ユダヤ人を特別視しておらず、従って敵意も持っていなかった。そのため、ヒトラーは彼らの支持を得るために、政権争奪戦において反ユダヤ主義を極力抑える必要があった。また、政権を掌握してからは、諸外国の心証を気にして、やはり過激なユダヤ排撃は行えない情勢であった。

だが、1935年のニュールンベルク法は、大きな転機であった。これは、ユダヤ人の公職追放と市民権剥奪を意味したため、十万を超えるユダヤ人が海外に亡命する事態を引き起こし、彼らの急激な乱入に驚いた亡命先の諸外国は、いっせいにドイツを非難した。このニュールンベルク法発布の背景としては、総統がナチス党内の過激分子の突き上げを受けた事もあるが、それ以上に経済的閉塞という問題もあった。つまりヒトラーは、様々な国内の不満を外にそらす目的で、ユダヤ人迫害を進めたのである。

その後はしばらく小康状態が続き、ドイツに残ったユダヤ人たちも胸を撫で下ろした。ベルリンオリンピックの年は、対外的心証を重んじるヒトラーの命令で、虐待は大幅に緩和されたのである。

しかし1938年の冬は、ナチス体制にとって危機であったため、虐待は再び強化された。生産用資源の枯渇は深刻となり、総統に諫言を試みたシャハト博士は、前年の経済相罷免に続き、中央銀行総裁の地位をも追われた。ドイツの国民所得は1933年に比して倍増していたが、その実体はお寒い限りであった。もともと、メフォ手形という詐術に依存して拡大させた経済だったからである。ヒトラーは、それだからこそ領土拡大を望み、その前提として、国内の人種的統一、すなわちユダヤ人ら他民族の排斥を図ったのである。

『砕かれた水晶の夜』は、ドイツ国内のユダヤ人を絶望に追いやった。亡命者は急増し、ナチス政府も積極的にそれを奨励した。ただし亡命するユダヤ人は、その所有財産のほとんどを政府に没収されることになっており(生理帯すら奪われた記録がある)、異境に裸一貫で放り出される事になるので、亡命の実行には相当の勇気が必要とされた。また、ドイツに愛国心を持つユダヤ人も多かったので、そのような人々は、ドイツ国内で小さくなって生きていく道を選択した。彼らは、ナチス政権はいずれ転覆し、蛮行は終わりを告げるものと信じていたのである。

しかし、1939年1月、ヒトラーは、党の幹部たちの前で明言した。

「ドイツ国内のユダヤ人の撲滅政策は、不退転の決意で行わなければならない。国外退去させる事が不可能であるなら、非常手段の行使もやむを得ない」

老境に入って焦る独裁者は、ついにその本性を顕わしたのであった。

 

 

焦るヒトラーは、再び致命的な失策を冒した。

1939年3月、風前の灯火であった小国の命の炎を吹き消したのである。

重要な産業地帯であったズデーテンラントをはじめ、多くの領土をドイツ、ハンガリー、ポーランドに割譲させられたチェコスロバキアは、さらに大きな試練にさらされていた。国土の半分を占めるスロバキアの独立問題である。

今日、平和的に分立していることから分かるとおり、チェコ人とスロバキア人は異民族である。それゆえ、政治的威信を失墜した首都プラハのチェコ人政府に対し、スロバキア人が反旗を翻したとしても、それほど怪しむに足りない。問題は、ドイツ政府がそれを煽っていることである。

3月14日、スロバキアは独立宣言を行った。国内を纏めきれなくなったチェコのハーハ大統領は、3月15日、ベルリンを訪れた。これは、まさしく飛んで火に入る夏の虫であった。

ヒトラー、カイテル、ゲーリングらナチス首脳は、笑顔で彼を迎えた。そして、明朝6時にドイツ軍のプラハ進撃が開始される旨を宣告したのである。

ハーハは、椅子から崩れ落ちた。持病の心臓発作を起こしたのだ。しかし、ヒトラーの侍医モレルが駆けつけ、ただちに強心剤を処方して正気に返らせた。

「さあ、これを。戦争か平和か決めてください」

笑顔のゲーリングが差し出すペンを握った哀れな大統領は、涙で潤む眼を押さえながら、併合受諾宣言にサインしたのであった。

こうして、チェコスロバキアは滅亡した。国土の東半分はドイツ領となり、西半分のうち中央部はスロバキア独立国(ドイツの属国)となり、それ以外の領土は、ポーランドとハンガリーに分け取りにされてしまったのである。

世界は衝撃を受けた。

「騙された」呆然と立ちつくしたのは、イギリス首相チェンバレンである。「ヒトラー氏はミュンヘンで、ズデーテンを最後の領土要求だと言っていた。あれは何だったのだ。・・このままでは、奴の侵略は永遠に終わらない。誰かが止めなければならぬ。そして、その役目を果たすのは、我々民主主義陣営なのだ」

ダラディエとルーズヴェルトも同様の感想を持ち、精神的に団結した。ドイツの同盟国イタリア統帥ムソリーニも、ミュンヘンでのメンツをすっかり潰されて怒った。

ドイツの国際的信用は、こうして完全に地に落ちたのである。

それまでのドイツの行動は、『民族自決』の大義名分を掲げていたので、道義的に首肯できる部分が多かった。しかし、チェコは非ドイツ人が住む土地であるから、チェコ併合は、無血進駐とはいえ明白な侵略行為である。

もっとも、ドイツ側の言い分もある。もともと纏まりの悪い多民族国家チェコは、ズデーテンラント割譲が決定された段階で崩壊が決定づけられていた。今度のドイツの行為は、落ちた栗を拾ったに過ぎないのである。

それでも、軍事力を背景にした恫喝は行き過ぎであった。

以前のヒトラーなら、時期が熟すまで数年待っただろう。しかし、彼はもはや待てなくなっていたのである。

幼なじみのグストルとワーグナーの墓参りに出かけたヒトラーは、友人の髪に白いものを見つけて、寂しげに微笑んだ。

「みんな年をとる。私も50歳になってしまった。しかし、ここで立ち止まってはならないのだ。偉大な人物は、最後まで走ることを止めてはならない。例え血を吐いて倒れても」