袁術は、上機嫌だった。
彼の手には、ある予言の記された竹簡が握られていた。これこそ、彼が長年探しつづけた何よりも大切なものなのだ。これに比べれば、呂布も劉備も曹操もくだらない小事だ。
『春秋識』の中にある予言は、『漢に代わる者は当塗高なり』と言っている。当塗高とは、道に当たって高い、という意味で、袁術の字・公路に通じている。また袁家は、五行思想の土徳の家柄であるから、火徳の漢王朝を打倒する資格がある。
つまり、俺に皇帝になれとの天命が下ったのだ。そう解釈した袁術の胸は躍った。
建安二年(一九七)正月、袁術は皇帝の位についた。南郊北郊で祭祀を執り行う。この新国家の国号は、『仲』。
許昌と寿春。二人の皇帝が並立する異常事態が現出した。
天に二日なし、という原則はこの瞬間に崩れ落ちたのである。
この事態に、曹操は機敏な対応を行なった。袁術を囲む豪族たちに密書を放ち、また官位を惜しみなく与え、偽帝討伐を要請したのである。
まず、江南の孫策が呼応した。前年末に会稽郡の平定を完了した「小覇王」は、袁術からの自立の機会を狙っていたのだが、主の帝位僭称は、独立の大義名分として恰好の口実だった。彼は、主に絶縁状を叩きつけ、その不義不忠を詰ったのである。
孫策の離反は、袁術の背後を脅かすと同時に、その糧道を断つ効果をもたらしたので、窮した新皇帝は、呂布との提携を強化しようと考えた。
一方、豫州沛国の劉備は、変転する情勢を尻目に内政と軍備拡張に励んでいたのだが、意外な人物がそんな彼のもとを訪れたのは、四月の暖かい日だった。
礼服姿の陳登が、彼の前で笑顔を浮かべて立っていたのである。
「元龍どの」劉備は、小躍りせんばかりになって旧友を迎え入れた。
陳登は、呂布の使者として許昌を訪れたのであるが、曹操との会見を終えて、その帰り道に様子を見にきてくれたのだという。
「小沛のときは、力になれずにすみません」客室に迎え入れられた陳登は、昔の主に向かって頭を下げた。「建議もかけられず、急に呂布の出陣が決まったのです」
「いやあ、貴君が早馬を飛ばしてくれたから、逃げきれたんだ。こっちには身重の女房もいたからね」劉備は、満面の笑顔で応える。
「おお、奥方はお元気ですか」
「来月に出産予定だ」
「それは目出度い」
「ああ、ありがとう。・・・そんなことより、都での呂布の要件って、いったい何だったんだ」劉備は手を打って合図し、酒肴の用意をさせる。
陳登の語るところによると。
三月、寿春の袁術から、挨拶の使者・韓胤が下邳にやってきて、呂布の娘を要求した。政略結婚の話を蒸し返したのである。これは、軍師の陳宮が熱心に賛同したので纏まりかけた。
「私と、父の陳珪がぶち壊したのです」陳登は、愉快そうに言った。「逆賊の親戚になるよりも、本当の天子との関係を強化して官位を貰うべきだと言って、あの野生児を説得したのです。呂布は、結局、我々の言うことに従いました。韓胤を逮捕して、私に命じて許昌に護送させたのです。ついでに、徐州牧の官位を正式に貰うように言いつけられましたがね」
「ふうん、それで」
「韓胤は、近日中に都で処刑されるでしょう。そして、呂布は徐州牧にはなれません。だって、本当の徐州牧は、あなたですから」
「・・・ありがとう」劉備は、思わず目頭を押さえた。久しぶりに旧知と再会して、気が弱くなっているようだ。
「私は、曹操と秘密同盟を結びました。呂布と袁術を引き離して、各個撃破する策略を準備中です。その一環として、私は広陵太守に就任することに決まりそうです。期待していてください。あなたの復活の日はもうすぐです」
劉備は、陳登の両手を取って強く打ち振った。
さて、陳登は、下邳に戻ると呂布に詰問された。
「俺が徐州牧に任命されないのに、お前が広陵太守に就任したのはどういうことだ。お前、俺たちを曹操に売ったのだな」
図星を指されて冷や冷やしながら、陳登は巧みに弁明した。
「私は、司空(曹操)にこう言いました。『呂将軍は、虎のような人なので、州牧の地位を与えて飼いならすべきです』。すると、司空はこう言い返しました。『いや、君は間違っている。呂布は鷹のようなものだから、満腹させると飛んでいってしまうだろう』。こうして、州牧就任の話は取りやめになったのです」
呂布は大笑いして陳登を許した。虎や鷹に例えられて嬉しくなったのだろう。無邪気な人柄だ。
しかし、笑い事では済まされなくなった。五月、韓胤を殺されて怒り狂った袁術軍が、白波賊残党の楊奉、韓暹と手を組んで、徐州に押し寄せてきたのである。その総勢は五万。
「どうするか」呂布は焦った。彼の軍勢は三万である。苦戦は必至の情勢だ。
「お任せあれ」進み出たのは、陳登の父・陳珪だ。この高名な士大夫は、弁舌の達人でもあった。
単身敵地に乗り込んだ陳珪は、楊奉と韓暹に莫大な恩賞を約束し、戦い半ばにして突如寝返らせたのである。そのため、袁術軍は十名の大将を失う大敗北となり、呂布の猛追撃を受けて寿春まで逃げ帰る体たらくとなった。
呂布は、赤兎を駆って寿春城下にまで攻め入ると、城壁に向かって悪口雑言をぶちまけて、満足して引き上げた。袁術は、恐れて後を襲おうともしなかった。
この戦いを契機に、呂布の陳珪と陳登に対する信頼は厚くなった。彼は、この親子が密かに曹操と通じているとは、夢にも思わなかったのである。
しかし、偽帝は未だに意気軒昂であった。思い込みの激しいこの人物は、予言に顕れた己の運命を、堅く信じていたのである。四方を敵に囲まれた危うい情勢にもかかわらず、その奢侈と荒淫はますます激しくなった。城下で飢え死にする領民が相次ぐ一方で、宮殿には穀物が山積されて腐臭を放っていた。
袁術の帝位僭称は、今日の日本人が考えるほどには、常軌を逸した行為ではない。中国には、天命思想というものがある。それによれば、皇帝の位というのは、天上界に君臨する天帝によって人間に授け与えられたものであるから、皇帝一族の天命が尽きたなら、然るべき者は取って代わってよいのだ。天命が尽きたことは、天が啓示を与えてくれるのですぐに分かる。すなわち、天変地異や異常気象や人民反乱が相次ぐ場合、天命が現在の王朝から去ったという正当な根拠となる。これは、まさしく漢末の状況だ。そのため、漢朝に代わる新しい王朝の創始を待望している者は多かった。袁術の帝位僭称は、その期待に応えたものだったのである。
しかし、肝心なことに、袁術その人に新たな天命が下ったという根拠が弱かった。怪しげな予言を牽強付会しただけでは、多くの人々の心を捉えることなどできない。
曹操は、この弱点を巧みに衝いたのである。彼は漢の皇帝の正当性を強く訴え、漢朝復興を全国に喧伝した。この方が、怪しげな予言よりも説得力があることは言うまでもない。そのため、袁術は孤立した。袁術は、僭称のタイミングを間違えたのである。曹操が天子を奉戴し、許昌で内政を充実させる前なら、成功の可能性もあったのである。
九月、袁術は最後の大攻勢に打って出た。
宛の敗戦で曹操が動けない事を期待した彼は、中立を守りつづけていた豫州陳国に侵入したのである。ここには漢皇室の劉寵が君臨していたが、彼は袁術の放った刺客の凶刃に倒れ、陳国が長年にわたって蓄えていた物資や兵器は、全て袁術の手に落ちた。
ところが、袁術の予想を裏切って、曹操は全軍で攻撃をかけてきた。陳国は、許昌の東南に位置する要地であるから、曹操が指をくわえて見ているだろうと考えた袁術が甘かった。支えきれないと見た袁術が、一目散に寿春に逃げ出したため、残された四将軍(橋蕤、李豊、梁綱、楽就)は斬り殺され、陳国の袁術軍は全滅したのである。このとき、付近の侠客の大親分であった許楮が、数万の民衆と共に曹操軍に加入した。
袁術皇帝の威信は、度重なる敗戦で一気に地に落ちた。帝位僭称の賭けは、完全なる失敗に終わったのである。袁術には、もはや他国に侵入する余力は残されていなかった。
この情勢を見た曹操は、十一月、再び南陽郡の張繍を攻撃した。
張繍は、荊州の劉表と同盟を結んで曹操を待ち受けた。曹操は劉表側の諸城を攻略し、湖陽県の鄧済を生け捕りにし、張繍と賈詡を穰県に孤立させた。しかし、袁紹が南下してくるとの風聞がしきりと入ったため、攻城戦には入らずに許昌に引き上げたのである。
曹操は、天子を奉戴することで強力な政治力を手に入れたが、それと同時に多くの群雄を敵に回してしまったのである。その点、わが国の戦国時代、足利将軍を擁立した織田信長が陥った立場に良く似ている。
曹操は、包囲網を打ち破らなければならない。
そんな彼の東の要は、劉備玄徳であった。