歴史ぱびりよん

26.官渡の決戦

 

劉備軍の戦勝は、官渡の袁紹軍を沸き立たせた。

「今こそ、汝南に大軍を送り込み、背後から許昌を襲うべきです」沮授と許攸は、口々に言った。

「それは違う。王道のためには、全軍でまず官渡城を落とすべきだ」郭図と逢紀は唾を飛ばす。

決断できない袁紹は、部将の韓荀の一千騎で、曹操軍の補給路を襲わせるという折衷案を採用した。なんとも、中途半端な策である。

それでも、韓荀の行動が一ヶ月早ければ、戦局は決定的に変わっていたかもしれない。しかし、韓荀が動き出した九月上旬の段階では、曹操軍は画期的な補給システムを発明し、絶妙な運用を見せ始めていた。このシステムを開発したのは、尚書の任峻という人物である。すなわち、荷車千両からなるユニットを十組編成し、これに時間差をつけて同時に進発させるというのである。そして、補給路の両側に二重の柵を張り巡らして、かなりの兵力でこれを防備させたのである。これなら、リスクを大きく分散させられる。

果たして韓荀軍は、柵に引っかかって時間を空費し、さらに補給部隊の一部しか捕捉できない状態で、曹仁軍三千の襲撃を受けて殲滅されたのであった。

しかし、最前線の曹操軍は苦境に陥っていた。汝南の劉備対策のみならず、許昌からの補給路を防備するために、次々と兵を分派したからである。もはや官渡城に残る兵は二万であり、そのうちの三割が負傷している状況であった。そして、肝心の補給物資も、残りわずか一か月分にまで激減していた。

正面に陣取る袁紹軍は、相変わらず十万近い軍勢を保っており、その戦意はまだまだ旺盛である。この情勢に絶望した曹操陣営からは、密かに袁紹に書状を送り、協力の約束をする者が続出していたのである。

窮した曹操は、許昌を守る荀彧に手紙を送り、撤退の相談をした。官渡城を放棄して許昌に立て篭もれば、戦線を縮小して大軍を集中できるし、補給路も短縮できるからである。しかし、荀彧は鋭い語調の返書を書き送った。ここが正念場なのだから、決して弱音を吐いてはならない、と。これに勇気付けられた曹操は、最後までこの城で踏ん張る決意を固めたのである。

味方が苦しいときは、敵もまた苦しい。

実は、袁紹軍も深刻な事態に直面していた。大軍を維持するための補給が間に合わないのである。王道に拘る袁紹が略奪を禁止したため、彼の大軍は、冀州から黄河を超える長大な糧道を維持し続けなければならなかった。そして、王道に拘る袁紹は、最前線に大軍を常駐させたがったため、この補給路を守る兵力は常に不十分であった。

そして、曹操の諜報網は、敵の動きを見逃さなかった。九月下旬、荀攸に策を授けられた徐晃、史渙、曹仁の率いる五千は、故市で数千乗もの袁軍補給部隊を焼き払ったのである。袁紹は、何よりも大切な補給部隊を、すべて一箇所に纏めて行動させていたのだ。しかも、守将に任命した韓猛は、猪突猛進のイノシシ武者であった。そもそも、彼の率いる軍勢は、わずか一千だったというから、補給物資を守れなかったのはむしろ当然であろう。

袁紹軍は、飢餓に苦しみ始めた。慌てて冀州に使者を発し、前よりも大規模な補給物資を手配する。この補給の輸送に失敗したら、冀州の大軍は空中分解必至の情勢だった。そして、さしもの袁紹も、この事態を重視した。十月上旬、信頼する淳于瓊将軍に一万の兵を授け、補給物資を厳重に警護させたのである。防諜を厳にしたのは言うまでもない。

しかし、軍師の沮授はまだ安心できなかった。彼は、曹操が必ず補給を狙ってくると洞察していたからである。彼は、支援部隊を淳于瓊につけて奇襲に対処すべきだと主張した。しかし、これ以上補給に兵を裂きたくない袁紹は、この策を退けてしまったのである。

一方、疲労にあえぐ曹操軍は、必死に敵の補給部隊の位置を探った。しかし、どうしても探知できなかった。

「このままでは、こっちの補給が先に底をつく」曹操は、目に隈を浮かべて呟いた。「こうなれば、奇跡を祈るしかない」

しかし、奇跡が起きた。袁紹軍の軍師・許攸が投降してきたのである。

 

この十日前、飢えが進む味方の有様を憂慮した許攸は、再び袁紹に献策した。

「兵力が健在なうちに、敵の後方に軍勢を派遣し、劉備とともに許昌を攻撃させるべきです」

「何を言うか」袁紹は、叱咤した。「俺は、何が何でも目の前の敵を踏み潰す」

「どうやって踏み潰すというのです」許攸は激怒した。「敵の結束はまだまだ固く、そう簡単には潰せませんぞ。味方の飢え死にのほうが早く来ます」

「不吉なことを申すな。退がれ、退がれ」袁紹も怒り満面で叫んだ。

激情家の許攸は、歯軋りしながら大またで幕舎を出て行った。

これを見ていた郭図は、袁紹に耳打ちした。

「あいつは財貨に貪欲で道徳観念が弱い男ですから、怒りに任せて敵に寝返るかもしれませんぞ」

「ふむ、どうしたらよかろう」

「鄴にいる奴の家族を捕らえて、人質にすれば良いのです」

郭図は、かつて許攸の家族と諍いを起こしたことがあったので、この機会に昔の恨みを晴らそうと謀ったのである。彼の使者は、鄴の審配の元へと走った。

家族が審配によって牢に繋がれたと知った許攸は、怒り狂った。

「長年の忠義の報いがこれかよ」

陣営を飛び出した許攸は、その足で曹操軍に投降したのである。

「久しぶりだね、子遠」曹操は、喜んで出迎えた。「君が来ればもう安心だ」

「お尋ねしますが、袁氏の軍は勢い盛んです。どうやって対処されるおつもりですか」許攸は、問い掛けた。「まず、今、どれほどの糧食があるのですか」

「まだ一年分はある」

「もう一度おっしゃってください」

「・・・実は半年分なのだ」

「どうして隠すのです。袁紹に勝ちたくはないのですか」

「さすがは子遠だ。実は、残り一ヶ月なのだ。どうしたら良かろう」

「冀州の補給部隊が、急速に南下しています。守将は、淳于瓊率いる一万です。今日から明日にかけて、ここから四十里東の烏巣に駐屯する予定ですぞ。これを焼き払えば、袁紹軍は戦わずして崩壊するでしょう」

「かたじけない」曹操は、喜色満面で降将の手を握った。

幕僚の中には、許攸の投降を罠ではないかと疑うものが多かった。しかし、曹操は彼を信じた。荀攸と賈詡も、曹操を支持する。危険な賭けだが、これに勝てなければ明日は来ない。

曹操は、その夜のうちに五千の精鋭を選抜すると、官渡の留守を曹洪と荀攸に任せて自ら出陣した。兵には『袁』の旗を持たせ、馬には枚を含ませて鳴き声を封じた。必殺必死の奇襲部隊である。

烏巣の防備は手薄だった。一万二千乗の輸送車は、簡単な陣地の中に置きさらされており、守将の淳于瓊は酔って寝ていた。

敵襲の報に慌てて飛び起きた淳于瓊は、守備兵を率いて迎撃しようとした。だが、敵中深く潜入して逃げ場の無い曹操軍は必死だ。全ての兵士が決死の覚悟で戦うから強いのなんの。淳于軍は、たちまち蹴散らされて陣地の中に追い込まれたのである。曹操軍は、陣の外からしきりに火矢を射掛けた。彼らの目的は兵糧を焼くことだから、これで十分なのである。火に巻かれて窮した袁紹軍は次々に投降し、大将の淳于瓊も捕虜となって斬られた。

東の空を照らす炎を見て、袁紹の本陣は異変を察知した。しかし、その対応はまたしても中途半端だった。軍を二つに分けて、一つに烏巣を救援に向かわせ、もう一つに手薄のはずの官渡城を攻撃させたのである。

一方、烏巣の曹操は、敵の援軍が来ることを察知し、過酷な策を用いた。捕虜の鼻や耳を殺ぎ落とし、身包み剥いで官渡方面に逃がしたのである。袁紹の救援軍は、道中で顔面血まみれの悲惨な逃亡兵たちに出会い、恐怖のあまり戦意を喪失し、行軍速度を鈍らせた。そして曹操軍五千は、その隙をついて官渡に生還したのであった。

他方、官渡攻撃に向かった高覧、張郃両将軍は、曹洪と荀攸の必死の防戦の前に行き詰まっていたのだが、白み始めた空の中で途方にくれる彼らの耳に、とんでもない噂が入ってきた。本陣の郭図と逢紀が、自分たちの失策をごまかすために、全ての責任を彼らに押し付けようとしているというのだ。

「もうやってられない」「勝手にしやがれ」

怒った高覧と張郃は、軍勢を率いて相次いで曹操軍に投降したのである。

踏んだり蹴ったりの袁紹軍。補給物資が全滅したとの知らせは、たちまち全軍に行き渡った。戦意は崩れ、完全に浮き足立ち、十万の大軍も烏合の衆である。

官渡城に帰還した曹操は、その翌日、直ちに城門を開けて総攻撃を開始した。別働隊の曹仁や夏侯惇らも、これに呼応して挟撃の構えを見せる。

恐れた袁紹は、息子の袁譚や郭図、逢紀ら八百人で逃亡した。このため、取り残された袁紹軍は一たまりもなく壊滅し、その殆どが捕虜になってしまったのである。

名軍師・沮授も逃げ遅れて捕まった。曹操は彼の才能を愛し、召抱えようとしたのだが、彼はあくまでもこれを拒みつづけ、逃亡を試みて殺されたのである。

なお、曹操は、袁紹の本陣を占拠した際、自陣営の幕僚たちから送られたと思われる文書を大量に押収した。恐らくその内容は、敵に内通して保身を図るものに違いない。しかし彼は、これを読まずに焼き捨てた(あるいはそういうポーズをとった)。

「俺だって、本当に危なかったんだ。諸君が敵を恐れて内通しても、それは仕方なかったさ」そう言って満座を安心させたのである。この人物の優れた人心掌握術が分かる。

さて、曹操が頭を悩ませたのは、八万人に及ぶ捕虜の処置である。彼らに食わせる食料は一石たりとも残っていないのだ。

「これだけは、やりたくなかったが」曹操は、切なげな顔を天に向けた。「他に方法はない・・・」

八万人の捕虜は、峡谷に誘導されて突き落とされた。その上から土砂が降り積もる。生き埋めだ。わずか一日で、八万もの人命が地上から姿を消したのである。天下は、曹操の蛮行に恐れおののいた。

・・・こうして、天下分け目の官渡の戦いは終わったのである。

曹操は、天下人への最終切符を手に入れた。

 

官渡決戦の顛末は、程なくして汝南の劉備の耳にも入った。

「十万の軍勢が一昼夜で全滅だと。そんな馬鹿な。信じられん」

「どうなさいますか」関羽や張飛らが、心配そうな目を向けてくる。

「劉表との連携を強化しよう。それしかない」劉備は、大きな耳を掴みながら唇を噛んだ。

しかし、荊州牧・劉表は、官渡の戦いの決着を知ると、中原に進出する野心を無くしてしまった。正面きって曹操と戦う自信が無かったからである。こうして、劉備は孤立無援となる。もはや、許昌攻撃計画は夢に終わったのである。

曹操軍は、半年間の休息をとった後、再び活発に活動を始めた。

建安六年(二〇一)四月、曹操自ら黄河北岸に押し渡り、倉亭の袁紹軍を痛破した。

昨年、主力軍を皆殺しにされた袁紹軍は、今や防戦一方である。冀州各地で反乱が続発し、袁紹はこれの鎮圧に大部分の精力を使わなければならなかったのだ。

それでも、猜疑心の強い袁紹の性格は少しも改まらなかった。彼は、官渡決戦の直前に牢に繋いだ軍師の田豊を、殺害してしまったのである。官渡の大敗の原因が、田豊の献策に従わなかったためということは、誰の目にも明らかであったから、今のうちに彼を殺さなければ己の威信が落ちると考えたのであろう。

・・・沮授も田豊も、仕えるべき主人を間違ったのであろうか。

九月までの軍事行動で、曹操は黄河沿岸のほとんどを征服した。もはや、袁紹側からの積極攻勢は有り得ない。

「次は、玄徳だ」曹操の鋭い目は南に向いた。

曹操自ら五万の兵で攻めてくると聞いた劉備は、戦意を無くして震え上がった。その脳裏には、またもや呂布の無残な死に顔が浮かんだ。

「とてもじゃないが、歯が立たない。劉表のところに逃げよう」

劉備は、麋竺と孫乾を使者として荊州に派遣した。

劉表は、喜んで亡命を受け入れると言ってきた。

劉備は、こうして軍勢を纏めて南へと向かい、共都らは散り散りになって野に潜んだ。

ここに、曹操の豫州平定も完成したのである。