歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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世界旅行記

チェコ、オーストリア旅行記

9月8日水曜  ターボルへの車窓の旅

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 コトノフ城より、ターボル旧市街を望む

 

 またもや6時に目が覚める。俺の体はどうなってしまったのだろうか。まあ、昨日は10時くらいに寝たもんな。適当に時間を潰してから7時にホテルで朝飯を食う。今日は、トラムを試してみようと思って、ホテルの前からディヴィチェ駅まで乗ってみるが、なんだ、バスと同じじゃないか、つまらん。

 地下鉄に乗ると、ちょうど通勤ラッシュに当たったようで、結構混んでいた。といっても、もちろん日本ほど酷くは無い。日本なら、この程度の混み方は空いている部類だろう。車内には、さすがにスーツ姿の白人しかいない。注意深くサラリーマン同士(OL同士)の会話に耳を傾けると、やっぱりロシア語に近い語感だ。こいつら、スラヴ族なんだなあ、ロシアの身内なんだなあ、と思う。

 ムステークで黄色のB線に乗り換えて、「ナメステ・レパブリキー」(共和国広場)まで行く。目的地は、マサリク駅だ。ここから国鉄に乗ってターボルに行くのが、本日の第一目標なのだった。しかし、地表に出てみたら方向感覚が全く涌かない。どっちに向かえば駅なのか?多分、人が大勢歩く方向に進めばよいのだろうと安易に考え、胸を張って歩く。

 知らず知らず、逆方向へ歩いてしまったようだ。この辺りはオフィス街らしく、通行人は左右のビルに消えていくため、俺はたちまち一人ぼっちになってしまった。すると、目の前に天使が・・・というのは見間違えで、母親に手を引かれた幼稚園児くらいの少女の姿が目に入った。金色のおさげ髪を飾るピンクのリボンが、朝日に輝いて眩しいぜ。この可愛らしさは反則だ!不思議な引力に惹かれてその後に付いていくと、母親に連れられた天使の数がどんどん増えていく。日ごろの行いが良かったのかな、と思いつつ、ずるずる引きずられているうちに、荘厳な教会の前に出た。その入り口の前に優しそうな女の人が立っていて、天使たちを中に導きいれているのだった。母親は、愛児に手を振って去っていく。どうやら、教会系の幼稚園ということらしい。その有様をじっと見守る俺っていったい・・・。

 ロリコン罪での誤認(誤認か?)逮捕は避けたいので、怪しまれないうちにその場を去る。ところが、振り向いたとたんに警官に行き会ってびっくり。気のせいか、向こうも「怪しい奴め」という目で見る。「俺はロリコンじゃありません、単なる迷子でござる」という念を送って脱出成功。もう少しで死刑になるとこだった。まさに危機一髪だ。冗談はさておき、ここはいったいどこなのだ。少女たちのせいで迷子になってしまったじゃあないか。あいつら、天使の皮を被った悪魔だったのかあ!

 やがて、不意にヴルタヴァ川に突き当たった。そのお陰で、ようやく自分の位置関係が把握できた。駅から南に進むべきところを、北に向かってしまったというわけだ。まあ、そういうトラブルも面白い。のんびりと小路を散策しつつ、進路を南に変える。やがて、目指すマサリク駅に到着するが、思ったよりも小さな駅だ。プラットホームも4つくらいしかない。案内所で行き先を言うと、無愛想なおばちゃんが、紙に列車名と発車時刻を記してくれた。出発まで1時間以上あるので、駅の構内をウロウロする。

 備え付けの時刻表は、とてもユニークだ。行き先別に、巻物のような形で壁に据えつけられてあり、横に付いたハンドルで巻物をグルグル回しながら、目指す時刻と列車を見つける仕組みなのである。しばらくそれで遊んでいると、上品な痩せた老人にいきなり声をかけられた。丁寧な口調のチェコ語で、どうやら列車のことを尋ねているらしい。俺に分かるわけ無いので、英語で断った。しかし、どうして外国人の俺に聞くんだろう。きっと俺のことが、賢く人品高潔な大人物に見えたのだろうな(笑)。

 散歩に飽きたので、切符売り場に行って窓口で行き先を言うと、「ここじゃない」と英語で断られた。ここじゃないとは、どういう意味だろうか。もう一つの窓口に行くと、やっぱり断られた。このとき、急にひらめいた。さては、駅が違うのだ!

 プラハには、もう一つ「主要駅」というのがある。こちらは国際線専用駅だが、考えてみたら、ターボルを通る路線はチェスケー・ブデヨビッチェ経由でオーストリアへ出ているじゃあないか。これは盲点だった。慌てて駅を飛び出してタクシーを拾う。人の良さそうな太った運転手だったが、主要駅に着いたときにボラレた。1キロの走行距離で100コルナはねえだろうが。でも、日本円に換算すれば600円弱だ。大したことないじゃん。さっさと払って駅に入る。出発まであと20分・・・考えてみれば、地下鉄でも十分に間に合ったのだ。俺としたことが、焦って動揺したらしい。くそう、損した。

 それにしても、「主要駅」は立派な大きい建物だ。3階建てになっていて、1階は案内所と切符売り場、2階が売店と乗り場、3階が喫茶店になっている。売店には旨そうなサンドイッチや飲料が並び、喫茶店は瀟洒な雰囲気の落着いたエリアだ。乗り場は、一本の連絡通路の左右に張り出す形になっていて、通路沿いの掲示板に発車時刻と行き先が明記されているので極めて分かりやすい。

 ターボルに停まるチェスケー・ブデヨビッチェ行きは、一番奥からの発車だった。料金は55コルナで、やっぱり安い。ラウチ社のジュースを片手に列車に乗り込むと、なんと全車両が個室形式だ。一つの車両が、5部屋の個室に分かれていて、それぞれの中に、向かいあう形で4人づつくらいが座れる仕組みなのだ。列車は空いていたので、俺は一部屋独占状態でふんぞり返った。発車してすぐに車掌が改札に来たが、その後は、暢気に窓外の景色に心奪われていれば良い。それにしても、この国は自然に恵まれている。20分ほど住宅地を走った列車は、その後は森林地帯に突入し、ずっとそれが続く。人家はほとんど見かけないし、ときおり牧草地や畑が眼に入るのみ。とりあえず、「我が祖国」の4曲目、「ボヘミアの森と草原」を頭の中で演奏する。

 チェコは、北海道程度の面積の平野がちの土地に、1千万人しか住んでいないのだから、土地に余裕があるのは当然だ。実に羨ましい。きっと、一戸建ての豪邸でも安く建てられるのだろうな。日本は、山ばかりの島国に1億2千万人も詰め込まれているわけだが、考えてみれば、この方が異常なのじゃあるまいか。実は、少子化は、事態の正常化を意味するのかもしれぬ。

 プラハから1時間ほどで、ベネショフ駅に到着。森林の狭間に、山小屋みたいな駅がある。こんな田舎くさいところで意外と乗り降りがあるのは、ここにコノピシュテ城(甲冑と毛皮のコレクションが凄いらしい)があるからだろう。でも、今の俺には関係ない。目指すは、ターボルのみだ。

 ベネショフから30分ほどで、目指すターボル駅に到着する。綺麗な駅でプラットホーム数も多い。周囲には平野が広がるが、閑散としていて、まるで篠ノ井駅のような雰囲気のところだ。

 駅舎の外に出て伸びをすると、急に尿意を催した。そこで、駅の便所に行ったところ、入り口で人の良さそうなオジサンに止められた。どうやら、チェコ語しか喋れない人らしく、何かを要求しているのだが、言っていることが良く分からない。そこで、魂のゼスチャーゲーム開始。傍から見れば、きっと大いに楽しめただろう。ようやく意思疎通に成功したが、何の事はない、便所の使用料を要求されたのだ。良く見ると、入り口の壁にチョークで料金表が書いてある。白いチョークじゃ気付かないよ、おっさん、張り紙にしなよ、と言ってあげたかったが、どうせ通じないので諦める。ユニークなのは、大と小で料金が違う点である。大は5コルナ、小は2コルナなのである。大の方は、全ての便室に外からカギが掛けられており、オジサンに金を払ってカギを借りなければ入れない仕組みである。つまり、女性は常に5コルナ取られるというわけ。男に生まれて良かったなあと、ささやかな優越感に浸る俺であった。まあ、日本人にとっては、2コルナも5コルナも端した金だけどね(その差18円)。それにしても、便所で金を取られた経験は過去に何度もあるけれど、大と小で料金が違うというのは初めてだ。どういう経緯でそうなったのか、知りたいところではあるなあ。

 さて、空港でも気付いた事だが、チェコの駅前には広告が少ない。何もかもがケバケバしい日本の事情とは大違いなので、かえって不安になる。本当に、大きな街があるのか?という気にさせるのだ。特にターボルは、駅前に小さなターミナルがある以外には何もないので、心細さもひとしおだ。路上駐車の車もないし、タクシーも見かけない。道は、ターミナルから1本伸びるだけで、その脇には閑散とした公園が広がる。

 とにかく、その道をずんずんと進むと、ようやく沿道に銀行やレストランや雑貨屋が現れる。さらに進んでいくと、だんだんと人通りも増えてきて、デパートやスーパーマーケットが左右に並ぶ大通りに出たので、ようやく一安心する。

 この繁華街を2キロほど歩くと、ようやく目指すターボル城がその姿を現す。城といっても、ここはプラハ城やヴィシェフラトとは異なり、街を城壁で囲んだ城市なのである。ここは、フス派戦争の当時、カトリック教徒に故郷を追われたフス教徒たちが、身を寄せ合って造った自衛の街である。城壁の中には、広場と教会を中心にして多くの家が建ち並んでいるが、その殆どが15世紀創建当時のままに残されている。つまり、街そのものが歴史遺産なのである。だからこそ、近代的なビルやデパートは、城壁の外の大通り沿いに集中しているのだろう。ただ、城壁の中の家屋は、それなりに現代的な利用のされ方をしている。郵便局、警察署、学校、レストラン、カフェが目に付くし、広場に面した屋敷は、建物ごとフス博物館になっている。広場に仁王立ちしている銅像は、歴史に残る片目の名将ジシカである。

 

 さてここで、フス派戦争の歴史について解説するのも一興かもしれない。これは、チェコ民族にとって忘れえぬ、栄光の歴史なのである。

 チェコ人は、既に8世紀の段階で民族としてのアイデンティティーを持っていたと言われるが、これはヨーロッパ世界では珍しいことである。島国に住む日本人でさえ、日本民族のアイデンティティーを固めたのが6世紀前後とされていることからも、それが分かる。チェコ人は、いわゆる西スラヴ民族であるが、四方をドイツ人やハンガリー人に囲まれ、常に外界から脅かされていたため、かえって強く纏まるようになったのだろう。東隣のスロヴァキア人も同じ西スラヴ族であるが、彼らは早い段階でハンガリーの支配下に置かれてしまったため、チェコとは異質のアイデンティティーを持つ民族になってしまった。チェコ人は、今でも島国根性が旺盛で(内陸国なのに?)、民族の独自性を主張したがるらしいが、そういうところも日本人に似ているかもしれない。

 さて、チェコは、神聖ローマ帝国の一領邦として発展を続けるが、14世紀にカレル4世によってプラハに帝都が置かれると、旧市街に中欧初の大学が置かれるなどして大発展する。そして、このプラハ大学がフス問題の発信地となる。

 当時、ローマカトリック教会は、組織の肥大化に伴って政治的性格を強め、本来の役割を忘れる傾向にあった。聖職者たちは、貴族や王家に癒着して財産を蓄えることに汲々とし、庶民の魂の救済など歯牙にもかけぬ者が多かった。さらに、各国王家や皇帝の力関係が教会の有り方に影響を与え、いわゆる教会大分裂(シスマ)が起きたり、戦争資金獲得のための免罪符の販売が大々的に行なわれたりした。

 その一方、欧州では、大学を中心に哲学や個々人の理性を重んじる風潮が盛んになり、新しい立場から宗教や教会の有り方を模索する運動が生まれつつあった。その先鞭をつけたのが、イギリスはオックスフォード大学のジョン・ウイクリフである。彼は、純粋理性の立場から教会の現状を鋭く批判し、聖書の理想に立ち戻るべきだと説いた。

 ウイクリフの死後、その遺志を引き継いだのが、プラハ大学のヤン・フスである。彼は貧しい農民の出身だったが、苦学の末にプラハ大学に入学し、総長にまで立身した人物である。当時の農民には姓などないから、フスというのは姓ではなく、「フシネッツ村出身」を意味する渾名であったらしい。この人は学識豊かなだけでなく、気さくな話上手で、しかも優しく面倒見が良かったので、聖職者や学生のみならず、庶民からも深く敬愛されていた。彼は、教会の腐敗を厳しく批判し、教会の存在意義にまで疑問を投げかけたので、ローマ教会はこれを大きく問題視した。

 おりしも、教会大分裂を終らせるための会議が、ドイツ南部のコンスタンツで開かれることになり、フスも招かれた。彼は、会議の場を利用して教会改革を呼びかけようと考えたのである。しかし、これは罠だった。1415年7月、捕らえられたフスは、弁論の余地も与えられず、一方的に異端扱いされて火あぶりになったのである。居合わせたフスの弟子イエロニームも収監され、連日の異端審問で「転ぶ」よう強制されたが、最後まで屈せず、師と同じ場所で火刑になった。

 フスを敬愛していたチェコの人々は、この騙まし討ちに大いに怒った。彼らは固く団結し、フスの教えを信奉する「フス派」を結成して、カトリックに対抗したのである。当時のチェコには、ドイツ人も多く住んでいたのだが、事の成り行き上、フス派はチェコ人、カトリックはドイツ人が多かったらしい。

 チェコ国王ヴァーツラフ4世は、当初は両者を調整することで平和的解決を目指したのだが、ローマ法王や神聖ローマ皇帝ジギスムントの外圧に耐え切れずに、ついにフス派の弾圧に踏み切ってしまう。

 こうして故郷を追われた人々が、自衛のために築いた街がターボルである。ターボルというのは、聖書の一節から採った名前である。ここでは、聖書の教えに従って、全ての人間が平等という、一種の原始共産制が敷かれたらしい。ここの軍司令官に就任した貧乏貴族出身のヤン・ジシュカは、将来に備えて農民を徴募し、鉄砲と大砲で武装した近代的野戦軍を育成していた。

 さて、1419年、度重なる弾圧に業を煮やしたプラハのフス派市民は、天才的扇動家のヤン・ジェリフスキー(下の名は、ジェリフ村出身という意味の渾名。つまり、この人も下層階級出身だった)の指揮のもとで一斉蜂起し、カトリック系住民と聖職者を市外に放逐してしまう。この結果、プラハは、商人や農民が支配する共和制都市となったのである。郊外にいた国王はショックで病死し、神聖ローマ皇帝がこれに代わって乗り込もうとするが、プラハ市の抵抗にあって果たせない。怒った皇帝ジギスムントは、ローマ法王に働きかけて「異端討伐十字軍」を結成する。こうして、欧州20民族から選りすぐられた5万人近い騎士たちが、怒涛の勢いでプラハに迫ったのである。

 フス派戦争の始まりだ。

 騎士たちは、各所で虐殺を繰り広げながら、皇帝と共にプラハ城に入る。フス派市民は、ヴルタヴァ川を天然の防壁にして旧市街に立て篭もるが、プラハ市の人口は、女子供を含めて4万人。とても抗うべくもない。1420年5月、北に回り込んでヴルタヴァを渡河した十字軍は、プラハの東から旧市街に迫った。市民たちは必死に抵抗するが、相手は戦争のプロだけにたちまち苦戦となる。

 そのとき奇跡が起きた。急を知って駆けつけたターボルのジシュカ将軍が、数千の兵でプラハ市民に加勢したのである。ジシュカの戦術は、馬車を横に繋げた防壁で騎士の突撃を食い止めてから、鉄砲の一斉射撃でこれを蹴散らすというものであった。これは、織田信長が長篠合戦で使った戦術に良く似ているが、ジシュカの方が150年早いから、多分、信長がジシュカをパクったのだろう。さて、槍と馬を唯一の武器とする騎士たちは、鉄砲の一斉射撃に叩きのめされて歴史的な大敗を喫し、皇帝も城を捨てて逃げ出した。フス派軍、奇跡の逆転勝利である。ちなみに、このときジシュカ軍が使った銃が、「ピストル」の語源になったらしい。また、プラハ旧市街の東にあるヴィトコフの丘が、このときの戦場であり、この丘の上にジシュカの騎馬像が立っているのは、この戦勝に由来する。この近くのジシコフという地名も、ジシュカの名前からいただいたらしい。

 その後、フス派は、戦勝による政治的成果を利用して皇帝と交渉し、己の正統性を認めさせようと努力するのだが、なかなか奏効しない。結局、十字軍は第5次まで続くが、ことごとくジシュカ(彼の病死後は、弟子のプロコプ)率いるターボル軍に撃退されるのである。ターボル軍は、余勢を駆ってドイツ、ハンガリー、ポーランドに攻め込んで、カトリック諸侯の軍勢を連戦連破した挙句に、バルト海にまで達したというから恐れ入る。

 ここにローマ法王もついに妥協し、フス派は晴れて正統と認められるのであった。そしてこのとき勝ち得たフス派の伝統が、この百年後、ルターの宗教改革の原動力となる。

 以上が、フス派戦争の概説である。チェコ人が誇りに思うのも無理ないのである。

 

 さて、以上の予備知識を前提にターボルを歩くと、思ったよりも狭い。早足で10分あれば、街の反対側まで行けてしまう。つまり、面積が1キロ四方しかないということだ。街の成り立ち上、やっぱり教会が多い。また、道が狭くて妙に入り組んでいるのは、敵に攻められることを想定して造られたからだろう。だが、この街が直接攻撃されたことは無かった。なにしろジシュカは、生涯無敗の野戦将軍だったので、ここまで攻め込まれる前に敵を倒してしまうのが常だったから。そのお陰で、15世紀当時の街並みが現存しているというわけだ。

 この街は、スメタナ「我が祖国」の5曲目の題材でもある。狂信的(?)愛国者のスメタナにとって、この街の栄光は避けては通れないテーマだったということだろう。この曲の主旋律は、当時のフス派の宗教歌から採られているという。俺はもちろん、街を散策しながらこの曲を頭の中で鳴らしまくった。俺は、「我が祖国」全曲のメロディーを、全て諳んじている男なのであった。

 歩いているうちに、裏門を抜けて街の反対側に飛び出した。狭い車道が走っているが、そこを越えたら谷底だ。ここが天然の堀というわけか。しかし、周囲は見渡す限りの緑である。深い谷底には大きな川が流れており、その対岸は切り立った丘だ。その辺り一面が、人間の手が入らない大自然のまま残されている。水着があれば、谷底に降りて川で遊びたいくらいのものである。日本でこんな景色を見ようと思ったら、黒部渓谷や北海道まで行かねばなるまい。人口密度の低い国は、自然を大切にできるのだなあ。実に羨ましいことだ。

 感動して車道をウロウロしていると、リュックサックを背負った学生風の白人青年に声を掛けられた。何やら早口に喋ってくるので、どうせドイツ語だろうと思って、「英語以外はお断り」と言ったら、「さっきから英語で喋ってるじゃん」と返された。なるほど、良く聞けば英語でやんの。恥かいたわい。その青年の話すところによれば、プラハに行きたいのだが交通手段を教えて欲しいとのこと。俺は、駅とバス停の場所を教えてやったら、彼はヒッチハイクを使いたいのだと応えた。どうやら、俺を車持ちの人だと勘違いして話し掛けたようだ。丁寧に謝って、彼と別れる。どこの人かは知らないが、一人でヒッチハイクとは大したものだ。日本に帰ってから、友人の神田君に話したところ、博識の彼は、その青年は「ユダヤ人」じゃないかとの推測を口にした。ユダヤの若者は、成人前に一人で貧乏旅行を義務付けられるのだとか。まあ、真相は闇の中だが、どうでもいいことではある。

 自然観賞に飽きたので、再び裏門から街に戻る。裏門を入ってすぐ右側に、コトノフ城がそそり立つ。城といっても、裏門を守る櫓だったところなのだろう。ここは、展望台つきの歴史博物館になっているので、好奇心に駆られた俺は、朽ちかけた階段を登って2階から入る。受付には、なぜか大勢の若い男女が群がって歓談していた。恐らく、アルバイトとその友人たち、という図なのだろう。切符を買って中に入ると、その2階と3階がフス戦争の歴史博物館になっていた。当時の旗指物や農具がたくさん飾ってあったが、解説文はやはり全てチェコ語だ。3階からさらに順路に進むと、日本の城の天守閣みたいな薄暗い踊り場に出る。そこから、朽ちかけた木の階段をギシギシと登ると、塔の上に出た。そこには、先客がいた。白人の老夫婦だ。夫のほうは、大学教授のような恰幅で、とても賢くて上品な感じで、妻に向かって饒舌に語っているところを見ると、フス派戦争の歴史でも教えてあげているのだろうか。俺は、彼らに構わず展望に興じた。ここからだと、ターボル市街の赤い屋根が一望のもとだが、いやあ、実に綺麗だ。思わず、自分の目を疑いたくなるほどの美しさ。このとき撮った写真は、今でも俺の宝物になっている。

 この城を出てから時計を見ると、もう12時だ。そろそろ飯でも食おうかな、と思って広場に戻ると、広場にはパトカーやマスコミの車が何台も止まっていて、オープンカフェは観光客で鈴なり状態だった。何があるのだろうかと見ていると、高級車が正面から入ってきて、広場の警察署の前に止まった。その中から、恰幅の良い上品な紳士が右手を挙げながら出て来て、周囲から拍手喝采が轟く。紳士は、笑顔で歓声に応えると、警官たちに守られながら警察署に入っていった。どうやら、有名な政治家であるらしい。もしかして、俺は歴史的瞬間を目撃したのだろうか。でも、チェコの政治事情なんて分からないし興味もないからなあ。

 腹ぺこではあるが、ちょうど昼時で、どこのレストランも一杯だったので、繁華街でウインドウショッピングする。ふと思ったら、もうターボルの名所は殆ど見てしまったのだ。なんだ、じゃあ早めにプラハに帰って、国民博物館やドヴォルザーク博物館に行けるじゃん。というわけで、駅に戻って、早い時刻にプラハに向かう列車を探すことにする。例の巻物状の時刻表をグルグル回すと、なんと、2時50分まで無い!長崎本線なみのローカルさだなあ。あと2時間以上あるじゃないか。というわけで、隣のバスターミナルに行く。おお、1時のプラハ行きがあるじゃないか。これにしよう。しかし、窓口でチケットを買おうとすると、受付の青年が早口のチェコ語で何か言い、売ってくれないのである。まさか、駅が違うわけではあるまい。いったい、何だというのだろうか。言葉が通じないことの不便さを痛感する。

 仕方ないので、腹ごしらえをしてから考えることにする。駅のビュッフェが空いていたので、そこでジュースとサンドイッチを買って食う。ここだと、言葉は通じなくても、品を指差せば事足りるのだ。売り子のオバちゃんは、たいへんに愛想が良い。それにしても、チェコのハムとパンはとても旨いなあ。

 帰途は、バスに直接乗り込む決意をする。お金は、運ちゃんに直接払えばいいじゃん。それでも時刻まで間があるので、再び繁華街に向かう。デパートを冷やかしているうちに小便したくなったので、便所で用を足す。ここは無料らしい、と思ったら甘かった。便所を出たところでオジサンが駆けつけてきて、やっぱり2コルナ取られた。しかし、普通は、デパートの中は無料じゃないか?へんなところがガメツイなあ。ただ、このデパートの館内には、ニック・カーショウの新曲が流れていた。ニックをBGMにするとは目が高いぜ・・・便所のことは許してやろう。ご褒美に、何か買ってやるかな。というわけで、このデパートで絵葉書を買い込んでから、散歩を再開する。

 ここで、奇妙なことに気付く。この街には、黄色人種が一人もいない!黒人も一人もいない!白人のみの白色パラダイスなのだった。自分の姿は、さぞかし浮いて見えるのだろうなと思う。それにしては、あまり周囲の視線は感じない。ここの住人は、あまり人種や肌の色が気にならないようだ。結局、一番気にしているのは自分自身なのだ。そして俺の心に劣等感が湧き出した。客観的に見て、この街の人々は美しい。特に、若者たちは、スタイル抜群の美男美女ばかりだ。それに引き換え、この俺ときたら・・・うがあああ。ああ、穴があったら入りたい。自分の醜さをこれほどまでに意識したのは、生まれて初めてだ。チェコ人をメーテルに譬えるなら、俺は鉄郎だ(松本零士「銀河鉄道999」より)。チェコ人が満天の星ならば、俺はドブに咲くぺんぺん草だ(野島伸司「家なき子」より)。もしも魂を他所に移せるのなら、この肉体を溶鉱炉に放り込みたいと真剣に思うのであった。

 こうして、劣等感に押しつぶされつつバス停に立つ。奇妙なことに、プラハ行きのレーンには誰も並ばない。バスはどんどん来るが、時間になってもプラハ行きは到着する気配が無いのだ。1時半まで待って諦める。どうやら、運休かもしれない。

 諦めて、列車で帰ろう。時間の余裕は、十分すぎるくらいにあるから、仕方なくターボルに戻る。城壁の外側をウロウロすると、お巡りさんがあちこちに屯している。政治家らしい人物は、まだ警察署内なのだろう。でも、お巡りたちは、みんな能天気な弛緩した面で、めいめいに雑談の輪を広げている。おそらく、差し迫った危険が無いのだろうな。

 ええい、まだ時間に余裕があるわい。駅の方角に戻りがてら、大通りの外れの公園に行く。大きな池を囲む形の、立派な公園だ。俺はベンチに座って小説を読む。周りには誰もいないのだが、芝生の草の間から異臭が・・・良く見ると、犬のウンコが、あちらこちらに所狭しとコンニチワ・・・。チェコ人は、犬が大好きだ。大きな犬を連れて散歩する人が、本当に多い。なんでこんなに犬が好きなのか。まあ、犬好きなのはいいよ。俺も好きだよ。でもさあ、頼むからウンコくらい始末してくれよ。・・・

 ようやく時間になったので、恐怖のウンコ地雷原から脱出して駅に向かう。切符を買って、プラハ行きのホームに立ってじっと待つ。時間どおりに来るのだろうか、と疑いつつ周囲を観察すると、結構、田舎行きのローカル線も出ているようだ。どう見てもディーゼルと思える一両列車が彼方に停まっているが、なんと、ホームに横付けされていないので、乗客たちは、昇降口の梯子に掴まってよじ登って乗り込んでいるではないか。ううむ、日本ではお目にかかれないシュールな光景であるなあ。やがて、遠くのホームに大きな列車が滑り込んで来た。周りの客は、慌ててそちらに駆けて行くので、俺もつられて走ると、その列車はプラハ行きだった。なんだよ、ホームが違うじゃねえか。しかし危なかった。のんびり構えていたら乗り遅れるところだったわい。まあ、チェコの国鉄は、時間に正確ということは良く分かった。

 またもや個室を独占状態で、のんびりと森林や田園風景を眺めながらプラハ主要駅に入る。しかし、時計を見たらもう4時半だ。ほとんどの博物館には入れないだろうし、仮に入れたとしても閉館時間まで間がないだろうから意味が無い。何をするにも中途半端な時間だなあ。とりあえず駅を出て、国民博物館前からヴァーツラフ広場に入る。デパートを冷やかして、夕飯までの時間を稼ぐ寸法だ。

 その途中で、兵隊の群れに会った。プラハの街には兵隊が多い。空港にもいたし、空港からのバスの中にもいたし、今朝方のトラムの中にもいた。みんな、緑の迷彩服と茶色の軍靴、そして黄緑色のベレー帽を装着している。しかし、何だか変なのだ。何が変かと言うと、第一に、銃を持っていない。第二に、隊伍を組んでおらず、単独行動している兵隊も多く見かける。第三に、きびきびと歩かず、弛緩した足取りでフラフラしている。第四に、顔に締りがなく、どいつもこいつも能天気で平和そうな面をしている。どう見ても、勤務中とは思えないのだ。かと言って、休み時間にしては、市街に軍服で出歩くのもおかしいし。・・・もしかすると、チェコは世界で有数の平和な国なのかもしれない。俺が訪れたイギリス、イタリア、中国、オーストリアは、テロの恐怖があるために、たとえば空港にはライフル銃を掲げた兵士たちが隊伍を整えて目を光らせていた。日本以外の世界では、これが当たり前なのである。例外が、チェコということになりそうだ。まあ、国内が平和で治安が安定しているというのは、何物にも代えがたい素晴らしいことである。

 俺は現地に来る前に、友人達にチェコは治安が悪いから気をつけろ、と散々に言われてきたのだが、それはまったくのガセネタであることが判明した。だいたい、日本では中欧や東欧の情報がほとんど流れない。だから、実際はみんな何も知らないのだ。これは、一部の外国人が、日本人の事をサムライとゲイシャの国だと思っているのと一緒である。これからは、世界がますます緊密化するのだから、日本のマスコミは、偏った特定の情報ばかりではなく、世界中の広くて全般的な情報を、どんどんと発信していくべきではないだろうか。

 気を取り直して、ウインドウショッピングを続ける。広場に面したデパートの品揃えは、なかなか立派だ。少なくとも、ローマのデパートには少しも負けていない。家電用品や紳士服、お惣菜売り場も充実している。

 デパートを出てもなお、時間が中途半端なので、道に停めてある自動車の車種を見て回る。乗用車は、ドイツ車が多い。ベンツやボルボと言えば、日本では高級車のイメージが強いのだが、実際には庶民向けの小型車も多いのである。意外に思ったのは、中型の商用車は、日本の三菱自動車が多いことである。後で調べたところ、三菱は冷戦終結直後から東欧に浸透していたとのこと。やるなあ、三菱。こういうのを、先見の明と言うのじゃなかろうか。リコール騒動は大目に見てやろう(うちの車は三菱じゃないからだけど)。チェコは、自動車産業が盛んなはずだが、チェコ製の車(ショコダなど)は、ほとんど見かけなかった。まあ、見方が悪かったのかもしれぬ。

 感心したのは、市内に大型自動車の姿が全く見当たらない点である。プラハ市は、バスやトラックなどの大型車の市内乗り入れを、厳しく制限しているのだ。だから、街中は排気ガス臭くないし、スモッグも生じないのだ。これは、実に賢明な施策だと思う。尊敬に値する。まあ、プラハは道が狭いから、もともと大型車が乗り入れしにくいのだけどね。

 不動産屋を見つけて、入り口の物件の写真を眺める。一戸建て住宅らしい物件は、なんと庭付き三階建てだ。値段が書いてないからわからないが、これを日本で買おうと思ったら、土地代込みで億は飛ぶのじゃあるまいか。日本で金を貯めて、こちらでセカンドハウスを持つのはどうだろう、などと妄想を膨らます。なにしろ、チェコの物価水準は日本の5分の1から10分の1だもんな。こっちに商売口があるのなら、今すぐにでも移住するのだが。まあ、日本を追放されたらこっちに住もう。名前はノバーク・ミュラーノフにしようかな。

 ふらふらと歩いて、ムステークまで出る。そういえば、昨日この付近で人形劇(マリオネット)の割引券を貰ったんだっけ。マリオネットは、チェコの名物だ。しかも、演目は「ドン・ジョバンニ」かあ。ぜひ見に行かなくては。

 その前に腹が減った。考えてみれば、昼飯はターボル駅のビュッフェで食べたサンドイッチだけじゃないか。急いでガイドを開いて、「マリア・テレジア」というチェコ料理の店を見つけてそこへ向かう。場所は、ムステーク交差点の繁華街だ。大きなビルの地下で、ビールとクネドリーキと家鴨(念願の)丸焼きを注文する。まだ5時半なので、客は少ない。ウエイターの多くが、控え室でトランプに興じているのだが、その様子が俺の席から丸見えなのがおかしい。いやあ、家鴨は旨かった。チェコ料理は肉中心なのだが、そんなに脂っぽくないので、口に合うし胃にもたれない。また、付け合せのザウアークラフト(キャベツの酢漬け)の旨いこと旨いこと。どこの飯屋でも、このザウアークラフトの旨さは印象的だった。付け合せを食うのが楽しみな料理なんて滅多にないぞ。ビールは世界最高の味だし、クネドリーキも味付きだから単独でも旨い。そのくせ、御代は全部で千二百円ちょっと。ああ、またもや日本に帰りたくなくなってきた。

 腹もくちくなったので、旧市街広場を抜けてユダヤ人街に出てみる。マリオネット劇場は、この辺りの路地にあるはずだが、あった、あった。入り口から地下に入って受付のオジサンに聞くと、なんと、「ドン・ジョバンニ」はやっていないという。外に出てポスターを見たら、水曜日だけは別の演目になっていた。何と言う不運だろう。別の演目でもいいか、とも思ったが、話の筋が全然分からないだろうから諦めた。どうせ、人形劇だ。

 さて、どうしようか。もう6時過ぎだし、コンサートやオペラの会場も、今からでは間に合わないだろう。

 旧市街広場の脇にあるカフカの生家に行ってみたが、写真がたくさん飾られた小さな博物館になっていた。・・5分で見終わってしまった。

 ガイドを探すと、見つかったのが「蝋人形館」だ。ムステーク交差点のすぐ近くだし、行ってみる事にした。まあまあ面白い。チェコ史上の有名人の人形が、時代順に並んでいる。カレル4世、ジシカ、イジー王、ドヴォルザーク、マサリク、チャペック、ナブラチロワなどなど。もっとも、チャップリンやダイアナ妃、巨大なゴーレム(魔法で動く土人形。ロボットの原型)まであるのがご愛嬌か。意外に思ったのは、チェコ人にとって憎むべき敵手である、ヒトラーやソ連の書記長連中の人形まである事だ。しかも、結構、格好良く出来ている。歴史に蓋をせずに正面から向き合うのは、大切なことだと思う。日本人も、この姿勢を見習うべきではあるまいか。

 外に出たら7時で、もう薄暗い。旧市街の西南地帯を適当に散歩すると、大きなスーパーマーケットの前に大勢の若者が屯していた。それにしても、チェコの人々はみんな楽しそうだ。つい最近までバブル経済だったので、金持ちになって浮かれているのだろうか。いや、そればかりではあるまい。彼らは、ヨーロッパ有数の優秀な人々でありながら、17世紀以降ずっと外国の植民地にされつづけ、やっと10年前に独立できたのだ。その喜びが大きいのではあるまいか。日本人の俺には、決して理解できない幸せなのだろう。

 ここで気付いたのだが、この国ではポルノショップも見かけないし、エロ本を売っている雑貨屋もない。これは、社会主義時代の名残なのだろう。エッチ目当てで海外旅行するバカたちには、無縁の国というわけだ。ただ、1件だけsex     shopというのを見かけた。多分外国の資本が入り込んだのだろう。あんまり、資本主義の悪いところを移植するなよな。

 スタレームニェツカから、A線でディヴィチェまで帰る。ホテルから駅への道中で見かけたスーパーマーケットが気になっていたので、歩いてそこに向かうと、まだ開いていた。1階しかないのに、実に広い。衣料品と食料品は、全部この1件で間に合うであろう。俺は、ジュースや果物、そしてお土産用の瓶ビールを2本(スタプロラウメン)抱えてレジに並んだ。いやあ、混んでる。お客さんは、みんなサービスカードをレジのおばちゃんに渡しているから、どうやらサミットや三和スーパーのような仕組みになっているのだろう。おばちゃんは、さすがに外国人の俺にはカードの提出は要求しなかった。愛想良く何か話し掛けながら、手際よく仕分けしてくれる。それにしても安い。ビール1本が9コルナ(50円)だもんなあ。なんだか、とってもお得な気分。

 こうして、ホテルに帰って寝た。

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