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9月6日日曜日 ハバナ市街観光


(1)朝の散歩

(2)ガイドさん

(3)オビスポ通り

(4)アルマス広場とビエハ広場

(5)パリの貴公子

(6)モロ要塞

(7)ジョン・レノン公園

(8)昼食

(9)ハバナ・リブレ

(10)革命博物館

(11)午睡

(12)ジャズ・カフェ


 

朝の散歩

いつものように、明け方に目が覚めた。

意外と時差ボケは苦しくないから、着いてすぐに寝たのが良かったのだ。やはり滞在初日は、そのまま寝るのに限る。

全身汗みどろなので、まずはシャワーを浴びた。浴槽のないシャワー室には石鹸もシャンプーも無かったけど、お湯だけでも浴びないよりはマシである。

しかし、朝6時だというのに暑い。さすがは南国だ。

空は晴天なので、気を取り直して恒例の朝の散歩に出かけた。

まずはカリブ海が見たいので、北を目指すこととする。ホテルの南側に広がるのが中央公園(パルケ・セントラル)なので、これと逆の方向に歩けば良い。北へと向かう狭い路地をどんどん進むと、いくつかの宮殿風の建物が見えてきた。どうやら、最初が国立美術館の建物で、次が革命博物館の建物(旧大統領官邸)であるらしい。後者は、南側に隣接する小さな公園と、その真ん中に設えられた巨大なガラスケースが目印なので、すぐに分かった。

このガラスケースの中に鎮座する白いレジャーヨットは、かの名高き「グランマ号」だ。1956年11月、フィデル・カストロやチェ・ゲバラを中心にした革命戦士82名は、亡命先のメキシコをこのヨットで出帆してキューバに強攻上陸。かくして、革命戦争の口火を切ったのだ。これはある意味で、世界で一番、歴史に貢献したヨットなのである。そいつに、滞在初日の朝から対面できて光栄である。いずれ、じっくり間近で見学するとしよう。

革命博物館の正面に位置する美麗な公園の北側からは、蒼いカリブ海が遠望できる。空は快晴なので、実にナイスな雰囲気である。

公園は美しく整備されており、椰子の木や南国風の珍しい樹木に飾られている。それらを見ているだけでも楽しくなる。そこで、まずはこの公園に入って、マキシモ・ゴメス将軍の騎馬像をデジカメ撮影した。この人は、1895年の第二次キューバ独立戦争で、宗主国スペインと戦った英雄である。アメリカが「米西戦争」で介入して来なければ、自力でキューバを独立に導いたに違いない人だ。

ゴメス像の北側に広がる自動車道が、海岸通り(マレコン)だ。ここには横断歩道が無いので面倒なのだが、行きかう自動車の隙を縫って、やっと北に超えると海岸線に出る。そこに広がる無骨な石造りの建築物は、プンタ要塞の遺構だ。これ見よがしに、周囲に古い大砲が並べて置いてあるから、すぐに分かる。

この要塞の脇をさらに北に抜けると、白いコンクリートの堤防の上に出た。眼前には雄大なカリブ海が青々と広がって美しい。白いカモメが舞う中を、一艘の白いヨットが波間に漂っている。堤防の突端では、朝早くから釣り人たちが太公望を気取っているから、イスタンブールを懐かしく思い出した。

そういえば、ハバナの街の形は、イスタンブールに良く似ている。内陸に深く入り込んだ海によって、市街が数か所に分断されている点が共通だ。俺が今いる場所は、旧市街(ハバナ・ビエハ)なのだが、ここはスペイン風のコロニアル建築が多い地区だ。この旧市街の西側に中央市街、その更に西側に新市街がある。また、旧市街からハバナ湾を南に越えた場所にも市域の一部があり、旧市街からハバナ水道を隔てた東側も市の一部だ。実は、ここは人口300万人の大都市なのである。

ハバナ市を南北に縦貫する形のハバナ湾は、漏斗のような形をした天然の良港だ。カリブ海に繋がる狭くて長い水道(ボスポラス海峡に似ている)を南にずっと入った所に、巨大な港湾部が開けているのである。俺は今、その水道の入口部分の西側に立っているというわけだ。

俺が今立つこの場所から、南へと伸びる狭い水道を挟んだ東側には、巨大な石造りの要塞がある。その海沿いの突端には、厳めしい灯台が立っている。なるほど、これがモロ要塞だろう。

moro fortres

ハバナ水道の入口は、モロ要塞とプンタ要塞によって、東西から挟まれる形になっているのだ。これは、この良港を巡って、歴史の中で多くの戦いが行われたことを意味する。ここは、そういった悲劇を背負うところでも、イスタンブールに似ている。

さて、散歩を続けよう。

ハバナ水道に興味を感じたので、これに沿って南に歩くことにした。道路や沿道の風景は、思ったより奇麗に整備されている。

しばらく沿道の西側を歩いていると、右手の公園の中で、どこかで見たことのある顔立ちの銅像が目に入った。まさかと思ったけど、やっぱり。そこにあったのは、トルコの英雄ケマル・アタチュルクの大きな胸像なのだった。アタチュルクの銅像を肉眼で見るのは、まさにイスタンブール以来である。って言うか、こんなところで会えるとは夢にも思わなかった。どうして、キューバにいるんですか?ケマルさん!

ata in cuba

頭の中で、キューバとトルコの関係、あるいはカストロとアタチュルクの関係について知識を検索してみたのだが、何も出てこない。両国ないし両者は、ほとんど無関係のはずである。 冷戦時代、キューバとトルコはむしろ敵同士だったはずだ。

首をかしげつつ歩くと、そこには支倉常長の銅像が立っていた。伊達政宗の部下であった彼は、16世紀の人物であるが、決してハバナと無関係ではない。彼は、政宗の使節としてスペインに向かう途中、実際にここに寄港したらしいのだ。ただし、銅像の周囲にはいくつものプレートがあり、そこに書かれた説明を読むと、これは仙台育英学園の寄付であると誇らしげに書いてある。なるほど、仙台だから支倉常長なのね。でも、どうせハバナの一等地に置くのなら、もっとメジャーな人物の銅像を寄進すれば良かったのに(笑)。

この通りには、他にもあちこちに銅像ないし胸像があるのだが、奇妙なことに、キューバとは縁が無さそうな外国人の像が多い。おそらくこれは、カストロの「国際主義」から来ているのだろう。彼は、「人類みな兄弟」と本気で思っている人物なので、それで母国と関係ない偉人の像を建てちゃうのだ。

そういうカストロの銅像は、どこにも無い。実はキューバには、「生きている人間を公の場で顕彰してはならない」という法律がある。そしてカストロはまだ存命なので、彼の像はどこにも存在しないのである。

しばらく歩くと、右手に立派な児童公園が広がった。なるほど、キューバは噂通りに「子供を大切にする国」なのである。

さらに歩くと、白い石造りの重厚な建物が見えてきた。「地球の歩き方」で確認すると、これはフエルサ要塞である。函館の五稜郭を小さくしたような星形の防塁の中に、白亜の厳めしい建物が屹立している。この街には、本当に昔の要塞が多い。

さて、そろそろ朝飯を食べにホテルに帰りたくなったので、フエルサ要塞の手前の道を右に折れた。狭い路地を抜けると、そこにはハバナ大聖堂(カテドラル)が建っていた。その正面には、長方形の大きな広場があり、多くの博物館やレストランに囲まれているから、まるでヨーロッパの街のような雰囲気だ。もちろん、まだ早朝なので周囲は閑散としている。日が昇れば、きっと大きな賑わいを見せるのだろう。

意外に思う人もいるかもしれないが、キューバでは信仰の自由が完全に保証されている。この国は、日本人が「社会主義国」と聞いてイメージする典型には、必ずしも当てはまらないのである。そういえば、この散歩中、警官や軍人やスパイらしき人の姿はまったく見かけなかった。したがって、監視の眼も感じなかった。キューバでは、「あらゆる路地に監視員やスパイがいて、市民生活を見張っている」というアメリカ発の情報は、滞在初日の早朝の時点で、まったくの嘘であることが明らかとなったわけだ。

さて、大聖堂前広場から少し南側を東西に走るオ・ライリー通りを、西に向けて歩く。ここは一般市民が住む普通の街路なので、洗濯ものがベランダに干してあったりして生活臭が濃く漂っている。壁のペンキが剥げたりひび割れたりしているけれど、ヨーロッパの街だって郊外に行けばこんな感じである。ハバナ旧市街は、スペインの植民地として発足した街なので、だからこんなにヨーロッパっぽいのだ。この時間帯だから、たまに清掃夫のオジサンに行き会うくらいの街路だが、昼間は人でいっぱいになるのだろうな。

街路の途中に、「ヴィクトル・ユゴー記念館」の案内があったので驚いた。ユゴーはフランス人作家だし、キューバを訪れたことは無いはずだ。それなのに記念館が存在するとは、さすがキューバは国際主義の国だ。

ハバナの街は、京都などと同様に碁盤目状の構造になっているのだが、各街路にちゃんと標識があるので、迷子になる心配は無さそうだ。そこで、オ・ライリー通りから一本南に位置するオビスポ通りに入った。ここはハバナ旧市街で最大の繁華街なのだが、狭くて小さな普通の路地だったのが意外である。

こうして、旧市街の海沿いの北東部分を、時計回りに一周する形でホテル・プラサに帰って来た。部屋に荷物を置いてから、5Fの上にある屋上レストランに向かう。一基しかないエレベーターは混んでいそうなので、階段を使うことにした。

朝の陽光が眩しい屋上に出たものの、この階段だとレストランの裏側に出てしまったので、屋上中央の諸施設を反時計回りに回り込む形で目的地に到着した。

歓談中のウエイターたちにルームカードを提示してから、バイキング形式の朝食を漁る。屋内部分でトマト・スパゲティやイモの揚げもの、アロス・コングリ(豆ご飯)、パンなどを皿に盛り込んでから、オープン・エアのテーブルに座って町並みを眺めつつ食べた。なるほど、スパゲティとパンが美味なので、何度もお代りをしてしまった。アロス・コングリは、塩の利いた赤飯の味である。食後のコーヒーも、なかなか美味い。

キューバ料理は、基本的にスペイン料理なのだが、全てを有機栽培で作っているので、食材のレベルは日本より高いように感じられた。そして、料理が美味いのは予想外の嬉しい誤算であった。

 

ガイドさん

さて、ガイドさんとの待ち合わせの10時まで、まだ2時間もある。腹ごしらえが済んだので、部屋に帰ってガイドブックなどを精読して時間を潰した。そして、待ち合わせの1時間前になったので、中央公園周辺に散歩に出ることにした。

中央公園(パルケ・セントラル)は、その名の通り、旧市街のど真ん中に位置する四角い公園である。公園の中央には大きな噴水があり、その隣にはホセ・マルティの白い石像が立っている。無数の南国風の樹木や、多くのベンチに彩られた美しい公園は、市民の憩いの場所だ。ここに限らず、ハバナの公園は、構造や樹木の配置が実に良く考えられていて、それぞれが個性的でとても美しい。俺がこれまで見て来たヨーロッパの公園よりも、遙かに知的な香気を感じるのだ。

この中央公園を囲む形で、多くのホテルや映画館が並んでいる。ちなみに、俺が宿泊しているホテル・プラサは、公園の北東側に位置している。ホテルを出た俺は、公園の真ん中を南下する形で周囲を視察した。よしよし、市内観光バスの停留所の位置も確認したぞ。ついでに映画館の様子も偵察したのだが、ビジュアル的なポスターが乏しいので、何の映画が上映されているのか分からなかった。文字は全てスペイン語だし。

公園の南側に建つ美麗な白亜の巨大建築は、カピトリオ(旧国会議事堂)だ。どこかで見たような形だと思ったら、ワシントンDCのホワイトハウスにそっくりだ。アメリカは、かつて米西戦争(1898年)でキューバを手に入れた後、恩恵のつもりで、この建物を「可愛い植民地」に授けたのだった。「アメリカの猿まねをすること=進歩の証」というのが、今も変わらぬアメリカ人の傲慢な考え方である。その思想が、この建物の形にはっきりと表れている。ここは今では博物館になっているらしいので、時間があったら入ってみるとしよう。

 

capitorio

さて、カピトリオの前は大きな広場になっているのだが、そこでは市民バザーが開催されていた。多くの屋台が並び、ホットドックやハンバーガー、アイスクリームにジュースやケーキ、肉や野菜、さらには古着や人形まで売っている。なるほど、今日は日曜だから、大勢の市民が家族連れで来ているのだ。みんな、笑顔で楽しそうだ。そして、この国の作りものではない本物の市民生活を眺められるのは本当に楽しい。

こうして見ると、キューバって普通の人が住む普通の国じゃん。他の国と、まったく同じじゃん。アメリカが、蛇蠍のように忌み嫌う理由が、ますます分からなくなった。

バザーを眺めているうち、ホテルの風呂場にシャンプーと石鹸が無かったことを思い出した。屋台では売って無さそうなので、カピトリオの対面に位置するビル内の雑貨屋を覗き込むと、そこはどうやら生活雑貨を売っている店だった。そこで、店のオバチャンに「シャンプーと石鹸ありますか?」とボディランゲージ交じりに聞いてみたら、悲しそうな表情で首を横に振られた。ううう、困った。どこに行けば調達できるのやら。

そうこうするうちに、待ち合わせの時間が迫った。ホテルに戻りかけると、途中のビル陰から初老のオジサンが姿を現し、片言の日本語と英語で葉巻の営業を始めた。なるほど、これが噂に聞いた「にせ葉巻屋」か。俺は、「急ぐから」と言って振り切った。粗悪品を売りつけられたら適わないからな。こういった犯罪まがいの人が多いところも、「普通の国」である。またもや、イスタンブールを思い出してしまった。そう考えるなら、この国はもっと警官の数を増員した方が良いのと違うか?なにしろ、まったくどこにも警官らしき人を見かけないもんな。

さて、ホテルのロビーに帰って見回すと、そこは人でいっぱいだったのだが、ガイドさんらしき人は見かけなかった。時計を見ると、約束の10分前なので、まだ余裕がある。そこで、ロビーに隣接したバーに行き、ラム酒カクテル「キューバ・リブレ」を注文した。これは、ラム酒をコーラで割ったものであるが、周囲の蒸し暑さも手伝って、すこぶる美味であった。

さて、いよいよ午前10時となると、周囲の暑さが物凄いことになって来た。暑いのはある程度予想していたが、この湿度の高さは予想外だ。なにしろ、猛暑日の東京より蒸すのである。往来のキューバ人男性は、みんな上半身裸で行動しているのだが、その気持ちは良く分かる。午前10時でこうなのだから、先が思いやられるわい。

カクテルを飲み終えたので、再びロビーに様子を見に行くと、それらしい日本人女性を発見した。お互いに自己紹介してから、しばらく歓談する。

ガイドのMさんは、あれこれあって、キューバに9年も住みついている人だ。普段はキューバ人に日本語を教えたり、あるいは外務省がらみの通訳や翻訳の仕事をしているのだが、アルバイト感覚で観光ガイドもしているのである。この人は、俺が税務顧問をしている社長の知人だったので、社長に電子メール伝に紹介して貰ったのだ。持つべきものは、顔の広いクライアントである。そして電子メールは、時差の存在を克服できる便利なツールなのである。

ロビーのソファーに座りながら、キューバの現地事情について彼女にいろいろと話を聞いたところ、ここはどうやら、事前に想像していたほどには貧困な社会では無いらしい。食料は十分にあるし、エネルギー事情も悪くないので、停電も起きないらしい。俺のホテルの部屋にシャンプーと石鹸が無かったのも、ただ単に従業員が置き忘れただけだと判明した。 Mさんがスペイン語でフロントに注意してくれたので、今夜からは安心だろう。

 

オビスポ通り

さて、暑いけど、せっかくなので外出することにした。

「最初はどこに行きたいですか?」と聞かれたので、適当に「オビスポ通り」と答えた。

2人でブラブラ歩いて行くと、有名なバー「エル・フロリディーテ」の前に出た。「この店はどうですか?」と、ガイドさんに聞いたところ、「不味くて高いカクテルを出すところです」と、バッサリ。なるほど、確かに大仰な看板と派手な間取りの佇まいは、キューバらしくない。まず間違いなく、観光客を騙して大枚を取る店だろうから、今回の旅行では行かないことにした。

オビスポ通りに入ると、早朝とは打って変わってたいへんな人出である。意外なことに、観光客よりも現地人の方が多い。Mさんいわく、「キューバ人は、他に遊ぶ場所が無いものだから、この街路をひたすら冷やかしでウロウロするのです」。

なるほど、グッチなどのブランド品を売る店の値札を見ると、日本人でも驚くくらいに高い。これらは、まず間違いなく観光客用の品々であり、現地人は冷やかすだけだろう。それでも、副業でカネを貯めて買う現地人もいるらしいのだが、基本的には観光客を喜ばせるための店が多そうだ。

キューバは、1990年代のソ連の崩壊以降、観光業を国家経済の主軸にしている。だからこそ、繁華街を観光仕様に仕立てているのだろう。土産屋はもちろん、ジューススタンドやコーヒー屋も多いから、それなりに楽しめそうだ。

ぶらぶらと通りを歩きつつ、Mさんと俺は、沿道に立つホテル「アンボス・ムンドス」に立ち寄ることにした。ここはヘミングウェイが定宿としていたホテルで、瀟洒な一階ロビーの奥にヘミングウェイとカストロの写真がたくさん飾ってあった。

アメリカのノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイは、キューバが大好きで、この地に20年も住みついていた。彼はまた、キューバ革命とカストロが大好きで、積極的に応援していたのである。しかしその事実は、彼の母国アメリカではタブーになっているようだ。少し前に、小説の執筆の都合上、アメリカの英語サイトを検索したところ、ヘミングウェイとキューバの関係については完全に削除され「無かったこと」にされていた。この事実から分かるように、アメリカという国は、大国のくせに心が狭くてセコいのである。俺は、ヘミングウェイとカストロが仲良く握手を交わす写真を見ながら、複雑な心境になった。

このホテルのロビーには大きな池があり、そこには亀がたくさん飼われていた。イシガメの一種かな?俺はカメが大好きなので、思わず嬉しくなってしまった。

 

アルマス広場とビエハ広場

ホテル「アンボス・ムンドス」を出てオビスポ通りを東へ歩いて行くうちに、アルマス広場に突き当たった。

この緑豊かな美しい広場に面した白亜の立派な建物は、旧スペイン総督邸(現・市民博物館)だ。その玄関前の地面には、一面に寄木細工のような材木が貼られている。「初代総督夫人が、馬車が石の上を走る時に立てる音が大嫌いだったので、総督が石畳を木材に張り替えさせたのです」と、 Mさんが語る。我が儘だねえ。まあ、植民地の支配者なんて、そういうものか。

キューバがスペインの植民地になったのは、1492年のコロンブスの「アメリカ発見」に遡る。クリストファー・コロンブスは、アメリカ大陸を発見したことになっているが、実際に彼が第一回航海で発見したのは、キューバを中心とするカリブ海の島々だった。しかも興味深いことに、彼自身は「インドを発見した」と思い込んでいたらしい。だから、この地域の先住民は、インド人でもないのにインディアンとかインディオとか呼ばれるようになったのである。こうして、キューバは「発見」以降450年もの間、コロンブスの雇い主であったスペインの植民地にされたというわけだ。この島の人々がスペイン語を話すのも、やたらとスペイン風建築やスペイン料理があるのも、まさにそのためである。

そんなキューバが、初めて独立闘争に立ち上がったのは19世紀半ば。最初の蜂起のリーダーとなったのは、ここアルマス広場の真ん中に、白い石像となって立つカルロス・セスペデスであった。その像の頭の上に、ちょうど小鳥が一羽留まって動こうとしない。 Mさんは「邪魔ですね」と言うが、俺は「かえって、この方が個性的で面白いです」と笑って、石像の写真を撮った。

sestepes

セスペデスは、もともと豊かな大地主だった。しかし、スペイン当局の搾取に憤り、可哀想な小作人たちを救うために革命に立ち上がったのだ。というのは伝説で、実際には農地経営に失敗して破産寸前になったから、ヤケを起こして暴れ出したというのが真相らしい。案外、歴史上の偉人の行動の動機なんて、そんなものである。

それを受けて、「フィデル(カストロ)の方が、セスペデスより偉いです」と、Mさんは言う。「フィデルは、裕福な生まれの弁護士で、生活に何の不自由も無かったというのに、貧しい民衆のために命がけで立ち上がったのですから」。

俺は笑いながら、「でも、フィデルの弁護士稼業は、失敗続きで借金まみれだったんでしょう?」と切り返した。Mさんはその事は知らなかったらしく、当惑の表情を見せた。

どうやらMさんは、徹底的なフィデルファンでキューバシンパであるらしい。9年もここに住んでいるのだから当然か。だったら、あえてキューバやカストロの悪口を言って彼女を焦らせた方が、有益な情報を引き出せるかもしれぬと思案した。

その後、狭い路地を南に抜けて、スペイン風建築に囲まれた美麗なビエハ広場に出た。

広場の東側には中途半端な土木工事の跡があったのだが、これはプラネタリウムの建築計画なのだそうな。日本からプラネタリウムの機械を購入済みなのだが、肝心の箱モノが出来ないまま、虚しく数年が経過しているのだとか。キューバは、アメリカの経済封鎖などもあって、建築資材が著しく不足している国なのである。もっとも、キューバ人自身がそれほど勤勉な性質ではないし、社会主義体制の行政組織は弛緩しているケースが多いので、そういった理由もあって建設が遅れているのかもしれない。

さて、Mさんの提案で、ここらでコーヒーを飲むことにした。ビエハ広場に面したカフェ「エル・エスコリアル」のエスプレッソが美味しくて有名らしい。後で調べたところ、ここは「地球の歩き方」にも載っている店だった。

キューバは砂糖の名産地なので、国民はみんな甘党である。そういうわけで、コーヒーにも砂糖を大量に入れて飲むのが普通らしい。俺は、いつもはブラックで飲む人なのだが、キューバ文化に敬意を表して砂糖を2杯入れることにした。なるほど、美味い。エスプレッソはかなり苦かったので、砂糖2杯でちょうど良かったかもしれない。

我々は、広場に面したオープンテラスに座って歓談していたのだが、そこに一人の初老のキューバ人が近づいて、スペイン語で何やら話しかけて来た。Mさんが対応したところ、どうやら「おカネちょうだい」と、おねだりしているらしい。 Mさんが厳しい口調で叱責すると、老人は「恵んでくれる気がないなら、キューバに来るなよ」と、軽い捨てゼリフを残して去って行った。

「昔のキューバ人は、こんなこと無かったのに」ガイドさんは、沈んだ口調で言う。「観光事業をやり始めてから、急におカネに興味を持つ人が増えてしまったのです。若い世代ならともかく、あんな老人まで金満主義になるなんて、信じられない」

さすが、Mさんは革命シンパである。でも、キューバの「たかり」は、他の国に比べると良心的だと思う。せいぜい小銭をせびる程度だし、目的に失敗した場合でも、照れ笑いしながら素直に笑って去るのみだからだ。

考えてみたらそれも当然で、この国では全国民に配給制が行き届いているのだから、誰も基本的な生活には困っていない。だから、「生きるため」に乞食をしたり犯罪をしたりする事は有り得ないので、たかりも犯罪もゲーム感覚の低レベルで留まり得るのだろう。実際、旅行中の経験を総合して考えるに、この国では他のラテン系諸国に比べると悪質な詐欺や強盗は少ないように思われた。その点では、トルコなどとは違う。これぞ、「社会主義の優位性」であろうか。

すると、盛大な楽器の音とともに、ちんどん屋のようなパレードが現れた。どうやら、観光客向けのイベントらしい。彼らは、ここビエハ広場から出発して、旧市街全域を練り歩くそうな。この暑い中、観光業を振興するために、いろいろ頑張っておりますなあ。

 

パリの貴公子

ビエハ広場から東へと歩き、サン・フランシスコ修道院の横に出た。

今朝の散歩で遭遇した大聖堂がその典型なのだが、ハバナにはキリスト教の教会が多い。これは必ずしも観光用というわけではなく、キューバは実際にキリスト教(カトリック)を国教とする国なのである。社会主義思想と宗教とが、立派に両立しているところが、この国のユニークさだ。

もっとも、国民の多くは、実際にはサンテリアという混合宗教の信者であるらしい。サンテリアとは、アフリカ・ヨルバ族の多神教にカトリック教が合体して出来た、キューバ独特の宗教である。

コロンブスの「発見」の後、「新しい植民地」にやって来たスペイン人が持ち込んだ天然痘によって先住民が大量に死亡したため、この島は急激な奴隷労働力不足に見舞われた。困ったスペインは、アフリカの黒人奴隷を大量にこの島に送り込むことで、労働力不足を補填したのである。こうして、無理やりカリブ海に連れて来られた哀れな黒人奴隷たちは、祖国アフリカでの信仰を唯一の心の憩いにしたのだが、残酷な宗主国スペインはそれすら禁じ、彼らにカトリックを無理やり信仰させようとした。そこで黒人奴隷たちは、表向きはカトリックに改宗したように見せかけて、その裏側で祖国の神々や精霊を拝む形を取ったのである。こうして生まれたのが、混合宗教のサンテリアである。

サンテリアは、精霊を体内に呼び込むことで願いを叶える宗教である。この儀式には音楽や踊りを伴うのだが、世界に名高いキューバ音楽は、もともとこの儀式が発祥であるらしい。

この国には、サンテリアの聖職者用の修道院もある。修行僧はそこに籠り切りとなり、人々の前には姿を見せない。もっとも、サンテリアには在家信者もあって、市井で普通に生活する聖職者もいる。そういう人は、全身白づくしの独特の衣装を身に纏って歩いているから、すぐにそれと分かる。

さて、サン・フランシスコ修道院だ。白い石造りで立派で重厚な建築なのだが、俺はヨーロッパでこういうのを山ほど見ている人なので、あまり大きな感動は無かった。むしろ面白いと感じたのは、教会の脇に立っていた等身大の銅像である。その名も「パリの貴公子」。

paris

Mさんに聞いたところ、この人は19世紀の終わりにこの辺りに出没していた乞食で、実際に「俺はパリの貴公子だぜ」と言いまくって物乞いをしていたらしい(笑)。乞食ながら温厚で楽しい人柄で、ハバナ市民の人気者だったので、死後にめでたく(?)銅像になったというわけ。乞食の銅像とは珍しいが、さすがは「万民平等」を標榜するキューバと言うべきか。

こいつの顎髭に触ると「良いことがある」と言われており、みんなが触りまくるせいで、顎髭の部分だけ白く変色している。今しも大勢の白人観光客が、鬚に触ろうとして像の周りに群がっていた。俺は混雑が苦手なので、触るのは次の機会にしたのだが。

 

モロ要塞

さて、Mさんの案内で、周囲の美しいスペイン風建築をいくつか見学した後で、朝の散歩で見かけたフエルサ要塞の南側に出た。

次はどこに行きたいか聞かれたので、反射的に「モロ要塞」と答えた。深い意図はなく、なんとなくモロ要塞内にある大きな灯台の頂上から景色を見たかったのである。

問題になったのは、モロ要塞に行くためには、ここからハバナ水道を東に越えなければならず、そして、この水道には橋が架かっていない点である。すなわち、向こう岸に渡るためには、水道の南端にある小さな渡し船に乗るか、あるいは、自動車を使って水道の北端の海底トンネルを抜けるかのどちらかの手段しかない。俺は、好奇心から渡し船を希望したのだが、 Mさんは利便性の観点からタクシーを提案した。確かに、渡し船の船着き場はモロ要塞から遠いので、向こう岸に着いてからこの殺人的な炎天下を延々と歩く羽目になるだろうから、女性にはきついだろう。それで、タクシー利用に妥協した。

フエルサ要塞の前で、旧ソ連製と思われるタクシーを拾う。オンボロの車は、車体をギシギシ言わせながらも頑張って走り、朝の散歩で見かけたゴメス将軍像の北側にある海底トンネルの入口から地下に入り、そしてあっという間に対岸に出た。

地表に飛び出したタクシーは、マタンサス方面行きハイウェイに乗ってからすぐに右折し、ロータリーを大きく回り込むような形でモロ要塞の入口に着いた。タクシー代は5CUC(約500円)だったから、東京よりは安い。

キューバのタクシーは、やはり観光客用と現地人用に分かれている。観光客用タクシーは、もちろんCUC払いで、料金は高めに設定されている。その車体は、観光客に人気のある50年代のクラシックカーがメインである。その一方、現地人用は、CUP払いの格安の乗り合いタクシーが主体で、車体もグレードの落ちるソ連・東欧車がメインであるらしい。

さて、崩れかけたレンガの壁を歩いて、モロ要塞の切符売場に来た。

Mさんは現地人扱いなので、CUPで安く切符を買えたのだが、俺は外人扱いなのでCUC(10ペソ)を支払った。「地球の歩き方」に書かれている7ペソより高くついたのだが、これは館内に新たに博物館が出来て、その料金分だけ割増になったということらしい。意外と、キューバ人は商売上手なのだ。社会主義のくせに(笑)。

このとき、Mさんが財布から出したCUP紙幣に描かれた顔を見て、俺が思わず「カミーロだ!」と言ったら、チケット売り場の白人系のオバサンが、笑顔で「そうよ、カミーロよ!」と返してくれた。

カミーロ・シエンフエゴスは、キューバ革命の英雄である。ラテン系の陽気な人物で、そのくせに名戦略家で、ハンサムで、しかも飛行機事故で早世したこともあって、キューバ人の間では非常に人気が高い人物だ。日本では、なぜかチェ・ゲバラばかりが持てはやされるけど、現地では必ずしもそうではないのである。

さて、石造りの堅牢な細いトンネルを使って外壁を潜り、要塞の内側に出る。まずは、新設の「要塞博物館」に入ったのだが、ここはキューバ島内の様々な要塞の写真やジオラマが飾ってある内容だった。要塞マニア(そんな奴、いるのか?)は、大喜びかも分からない。ただし、文字表記は全てスペイン語だ。

続いて、海を望見できるテラスを散歩し、それから真の目的地である灯台に上った。狭い石造りの螺旋階段を、息を切らしつつ登り切ると、そこからは最高の眺めだった。

ハバナ市は、カリブ海に凹型に面しているので、海に突き出したこの灯台からは、その市街全域をじっくりと眺めることが出来る。海は本当に青く美しいし、白く輝く市街はため息が出るほど奇麗だ。さすがは、「カリブ海の真珠」である。

moro landscape

人口300万人の大都市に面しているというのに、ダークブルーの海は驚くほど澄んでいる。高さ30メートルの灯台からでもクラゲの姿が良く見えるし、多くの魚が密集して巣を作っている場所もはっきりと分かるほどだ。なるほど、キューバは環境保護主義の国だと実感する。

こうして素晴らしい眺望を楽しみながらも、MさんからキューバVSアメリカの最近の政治情勢について話を聞いた。アメリカのマスコミは、相変わらず「キューバは、細菌兵器を作ってアメリカにばら撒こうとしている」とか、「カストロが、カリブ海のサメを洗脳して(!)、アメリカ人スイマーを襲わせようとしている」とか言い立てているらしい(笑)。つまり、アメリカ国内には、キューバの恐怖や悪を言い立てることで利益を得る勢力が、未だに大勢いるというわけだ。

実際には、キューバがアメリカに対して武力を用いていたのは、チェ・ゲバラがボリビアで斃れる1967年までの話である。それ以降、カストロ政権は武器を思想に替え、そして戦場を国際会議に移して、アメリカと戦う方針に切り替えているのだ。

しかし、アメリカ自身は、その事実を認めたくないらしい。おそらく、「キューバの恐怖」を声高に言いまくる方が、雑多な国内世論を纏める上で有利だからだろう。

両国の純朴で平和的な国民にとっては、まったく無意味で不幸な話であるが。

 

ジョン・レノン公園

さて、Mさんが、次に希望する行き先を聞いて来たので、「ジョン・レノンの銅像が見たい」と応えた。なぜか、ハバナにはジョン・レノンの銅像が置かれた公園があって、観光客に人気なのだ。公園の場所は、新市街の住宅地の中だというから、またタクシーで移動しなければならぬ。

ハバナの街の不便さは、市内に電車や地下鉄やトラムが一本も走っていないことである。すなわち、観光客・住民問わず、自家用車を持たない人は、徒歩かバスかタクシーを用いて広大な市域を移動しなければならない。

ハバナは奇麗な良い町なのだが、そのインフラは1950年代のまま発展を停止している。キューバ革命後の急激な経済難によって、先進国のようなインフラ整備が出来ずにいるからだ。街を走る車も、そのほとんどが1950年代のアメリカ車ないし1970年代のソ連・東欧車だ。もっとも、それこそがこの街の魅力なのかもしれない。実際、ハバナはクラシックカーのマニアにとっては聖地扱いらしい。そして、アメリカ資本と絶縁状態のここは、マクドナルドやセブンイレブンが存在しない地球上で唯一の大都市だろうから、それはそれで貴重である。

さて、モロ要塞の入口でポーランド車のタクシーを拾った我々は、再び海底トンネルを西に越えて、旧市街から中央市街の真ん中に入り、そのまま新市街へと西進を続けた。

中央市街は、旧市街と違って実にボロい。タクシーの車窓から眺めるだけでも、崩れかけた建物が多くて、まるで廃墟の様相であることが分かる。歩いている市民も、気のせいかウツロな雰囲気である。なるほど、送迎のルイスさんが「治安が悪いから中央市街には行かない方が良い」と言っていたのも納得である。

キューバは、アメリカの経済封鎖などの影響で、建築資材の輸入を行いにくい国だ。そして、たまたま入って来た希少な建材は、観光用の旧市街や、政府関係施設が多い新市街に優先的に回されるのに違いない。そのシワ寄せが、ここ中央市街に来ているため、やけにボロ家が多いのだろう。

Mさんの話では、キューバ人は大家族主義なのだが、家を新築できないものだから、一つの古い家に何世帯も同居して、あたかもハチかアリの巣の様相なのだとか。いかに教育と医療が完全無料であっても、これじゃあ住みづらいね。さすがの俺も、キューバに亡命したいとはとても思わないな。

さて、中央市街を突破したタクシーは、一昔前のアメリカ風建築が多い新市街に入った。奇麗に整備された碁盤目状の街路を縫いつつ、さらに西側の住宅街に入る。

この住宅街の様子はやっぱりアメリカ風で、緑の芝生の中に平屋か二階建ての一軒家がいくつも並んでいる。この住宅街には、政府要人かVIP(功績の高い教員や医者など)の家族が優先的に住んでいるのだが、一つの家の中に何世帯も同居していて、やっぱりハチやアリの巣状態らしい。

さて、ここの街路は碁盤目状に区画されている上、似たような形の家が多いので迷子になり易い。タクシーの運ちゃんも、何度も道に迷いつつ、なんとか通称「ジョン・レノン公園」に辿り着いた。料金は7CUCだったけど、こんなものでしょう。

「ジョン・レノン公園」は一見すると、緑の芝生と小高い樹木に覆われた、どこにでも有りそうな普通の公園だ。他と違うのは、一基のベンチの上にくつろいだ格好で座るジョン・レノンの銅像の存在である。

なんでジョン・レノンの銅像があるかと言えば、その理由は単純。カストロが彼のファンだからである。特に、代表曲「イマジン」がお気に入りらしい。案の定、ジョンの銅像の足元には、「イマジン」の一節が刻まれた美麗な石造りのレリーフがあった。

言われてみれば、「イマジン」の歌詞って、究極の左翼思想だよね。「すべての人が平等になって、争いも宗教も無くなる世界を想像してみよう」って。社会主義の権化であるフィデルさんが、この歌を気に入るのは、むしろ当然のことだ。そう考えれば、アタチュルク像や支倉常長像よりは、ジョン・レノン像の方が存在に違和感がないかも。

さて、このジョン・レノン像は、キューバ映画「永遠のハバナ」(フェルナンド・ペレス監督)に登場して有名になった。この銅像は、銅像のくせに本物の丸眼鏡をかけているのだが、これを時々盗む不心得者がいる。それを防ぐために、市民ボランティアが24時間交代制で銅像を見張ることにした。その様子が、映画に描かれていてとても印象的なのであった。

ところが、俺が訪れたとき、銅像の前に市民ボランティアの監視員はいなかった。Mさんに理由を聞いたところ、映画で有名になって以来、銅像を見に来る人が急増したので、国費で専属の監視員を雇うことにしたのだという。

監視員さんは、薄茶の制服を着たカウボウイハットの白人のお爺さんで、いつも笑顔を浮かべている気さくな人だった。このお爺さんは、観光客がいない時は、ジョンの丸眼鏡を制服のポケットに入れて近くの木陰で涼んでいる。そして、人が来たときだけ、丸眼鏡をポケットから取り出して銅像に装着し、ついでに記念写真を撮ってくれるのだ。まあ、市民ボランティアよりは、こっちの方が合理的である。老人の雇用対策にもなるのだろうし。

俺は、お爺さんの言葉に甘えて、何枚もジョン像と一緒の記念写真を撮ってもらった。炎天下の銅像は激しく熱をもっていて、抱きついたときに全身が火傷しそうになったのだが(笑)。

 

昼食

さて、時計を見ると午後2時である。

殺人的な炎天下とは言え、さすがに空腹を感じ始めたので、公園近くのMさんご推奨のフランス料理屋に入ることにした。

洋風の一軒家を改造したお洒落なレストランは、松濤のシェ松尾を彷彿させる雰囲気だ。テーブルは全部で6つしか無いけど、店員さんは3名もいるのでサービスもバッチリ。最近の東京の飲食店のサービスの悪さとは随分違うね。

我々は、チーズカツレツとアロス・コングリ(豆ご飯)のセット、さらにサラダセットを注文した。そして、Mさんはアルコールがダメだと言うので、自分だけキューバの地ビール「バハネロ」を注文した。

キューバ・ビールは、半信半疑で飲んだのだけど、意外な美味であった。サッパリ風味で、周囲の暑さに上手にフィットしている。この国は、冷戦時代にチェコと親しかったので、チェコビールの技術を導入したのかもしれない。しかし、亜熱帯のキューバ島のどこで、原料の大麦を作っているのだろう?これも、キューバ共和国が誇るバイオテクノロジーの成果なのか?いろいろと謎である。

サラダも美味い。特に、瓜の浅漬け(?)は大ヒットだ。ちなみに、俺の経験では、世界一野菜が不味い国は日本である。外国で、日本より不味い野菜を食べた記憶は存在しない。日本の農業は、この事実をもう少し真剣に噛みしめるべきである。

さて、肝心のメインディッシュだが、その巨大さには唖然とした。カツレツなど、皿からはみ出しそうになっているのだが、これほど巨大なカツを見たのはミラノ旅行以来である。味は良いのだが、とてもじゃないけど食べ切れないので、1/4ほど残してしまった。後から出て来たコングリに至っては、ほんの少ししか食べられなかった。そして Mさんも同様なので、かなりの残飯が出来てしまった。

lunch

俺は、食事を残すことに非常な罪悪感を覚える人なので、居心地が悪い思いをしたのだが、Mさんによればキューバではこれが自然なんだそうな。特に、「客」に対して「これでもか!」とばかりに食事を振る舞うのがキューバ文化なので、残飯が出来るのが当たり前らしい。ある意味、日本の田舎の文化と似ているね。

我々の感覚からは、「キューバ人は食料不足でいつも飢えている」という印象があるけど、一般家庭であっても、食事を大量に作りすぎて残飯が出るのが普通なのだとか。ということは、食料は十分に確保されているということであるから、北朝鮮とは訳が違うのである。

 

ハバナ・リブレ

とりあえず食事が済んだので、戸外に出る。

せっかく新市街に来たのだから、次はこちらの名所を回ることにした。

それにしても暑い。特に日差しの強さは、全身にビームライフルの直撃を受けているような有様だから(笑)、帽子を持参しなかったことを激しく後悔した。

食事が進まなかったのは、料理の量のせいだけでなく、この暑さのせいでもあっただろう。明日からは、その辺りを考慮して、食事を減らすことにしよう。

2人で歓談しつつ、目抜き通りの「23番通り」まで歩く。そこで、乗り合いタクシーを拾ったのだが、乗り込む時に俺がドアを強く締めたものだから、運ちゃんに怒られてしまった。

このタクシーは、1950年代のアメリカ車であった。キューバには自前の自動車工場が無く、しかも50年にわたってアメリカの経済封鎖を受けているので、街を走る全てのアメリカ車がクラシックカーなのである。その中で、質の良いものは観光客用(CUC払い)に回されるのだが、質が低くて壊れかけたものは、現地人用(CUP払い)の乗り合いタクシーになるのだった。そして、我々が乗ったのは現地人用の乗り合いタクシーだったため、ドアが非常に壊れやすくなっていて、それで運ちゃんが俺を怒ったと言うわけだ。

厳密に言うと、観光客(俺)は、乗り合いタクシーに乗ってはダメなのである。ただ、Mさんが現地人待遇の人なので、その連れということでオーケーなのだった。もっとも、観光客か居住者かなんて、タクシーの運ちゃんに区別できるはずがないので、ズルい観光客は乗り合いタクシーを平気で使っているようだ。俺は、本当はそんな事はしたくなかったのだけどね。

さて、壊れかけのクラシックカーであっても、重厚な造りで中はずいぶんと広い。走行も安定感があって頼もしいので、まるでハリウッドのギャング映画の世界にタイムスリップしたような楽しさだ。すでにカップルや家族連れが大勢乗っていたので、我々は端の方に小さくなって座った。

乗り合いタクシーは、バスに良く似たシステムで、決まった道しか走らない。だから、乗る時に行き先を確認しなければならないので、スペイン語とハバナ市内の地名に精通した Mさんがいなければ、最初から利用する気にならなかっただろう。

ともあれ、こうして新市街の中心部にやって来た。最も目立つ巨大な建物は、ホテル「ハバナ・リブレ」である。ここは革命の直前(1958年)に、アメリカ資本の「ホテル・ヒルトン」として落成したのだが、その直後にカストロに乗っ取られて、革命本部にされてしまった因縁のホテルである。

このホテルのロビーには、革命当時のモノクロ写真がたくさん飾ってあった。カストロ兄弟やゲバラやカミーロの高揚しきった顔を見ていると、あの当時の興奮と熱狂ぶりがヒシヒシと伝わってくる。

なお、このホテルは今では観光用に開放されている。しかし、50年前のホテルだから、あちこち老朽化していて、あまり泊まり心地は良くなさそうだ。むしろ、一階の各フロアに併設されている土産屋が興味深かった。ここは特に、上質の葉巻やラム酒を揃えているらしいから、日本への土産を買う場所としてナイスかもしれない。

ひととおりの探索が済んだので、この近くにあるMさんの家で休むことにした。

ハバナ・リブレから少し歩くと、ハバナ大学の正門が見えてきた。「入りたい」と言ったら、Mさんに、「この大学は部外者立ち入り禁止です」と言われてしまった。意外と、そういうことは厳しいのだね、キューバ。

Mさんの家は、大学から少し離れた路地にあった。なるほど、ここなら大学に仕事をしに行く時に至便だろう。日本の安アパートくらいの大きさだが、室内に階段があって2階に上がれるようになっている。すなわち、日本でいうロフト式になっていた。

俺は、Mさんが冷蔵庫から出してくれたバハネロ・ビールを楽しみながら、いろいろなキューバや南米世界の裏話を聞いた。

興味深かったのは、ヴェネズエラのチャベス大統領の話。つい最近、Mさんの親友である有名彫刻家が、同国に滞在して大統領と一週間ほど過ごしたのだとか。チャベスさんは、実はああ見えて、かなり繊細で数字に細かい人らしい。過激な演説や反米発言なども、かなり緻密な計算の上でなされているらしい。考えてみれば、そうでもなければ南米で強大な長期権力を維持することは出来ないだろうしね。

 

革命博物館

すっかりくつろいだので、タクシーで旧市街の「革命博物館」に移動することにした。

Mさんのお宅を出たところで、庭にいた隣家の幼児と目が合った。俺がひょうきんな顔を作って手を振ると、満面の笑顔を返してくれた。キューバ人の子供は、本当に可愛い。

キューバ人の多くは、スペイン系白人とアフリカ系黒人の混血である。有名人で言うと、ハル・ベリーとかビヨンセみたいな感じの顔立ちの人が多いのだ。したがって、男も女も美形が多い。子供も当然、すこぶる可愛い。

ロリ萌えー♪。

さて、革命博物館の訪問は明日でも良かったのだが、俺が「行きたい場所です」と言ったら、Mさんが「さっそく」と言い出したのだ。でも、時計を見たら午後3時だから、博物館に入る時間として適当とは思われない。 Mさんは、あまり時間の組み立てとか段取りが上手ではないのだが、キューバに長く住んでいるからそうなったのだろうか?

ガイドさんの家から少し歩いた場所で、乗り合いタクシーを拾った。我々を乗せたタクシーは、中央市街を抜けて旧市街の中央広場に繋がる「ホセ・マルティ通り」に着いたのだが、ここは美しい並木と遊歩道が整備された素敵な道だったので、時間に余裕があれば、後でゆっくりと歩いてみるとしよう。

ここから中央公園の北側を東向きに歩き、馴染みのプラサ・ホテルの手前を左折すれば革命博物館だ。

北向きに建てられた重厚な石造りの入口を潜った後、左側の受付でチケットを買おうとしたらトラブル発生。レジの姉ちゃんが、チケット代のお釣りを誤魔化してちゃんと返そうとしないのだ。俺が途方にくれて姉ちゃんを睨んでいると、 Mさんがすぐに気付いて助けてくれた。まさか「革命博物館」で、これほどのモラル低下が起きているとは思わなかった。これには、がっかりだ。

この博物館では、カバン類は全てクロークに預けなければならないのだが、そういう状況だからすごく不安になった。とりあえず、金目のものやデジカメは身近に確保したので、最悪の事態は避けられるだろうと思いたい。

この博物館は、もともとはバティスタ大統領の官邸だった場所である。カストロの革命(1959年)後に接収されて革命博物館になったのだ。

この白亜の美麗な建物は、大きな中庭を正方形に囲んだ形で建つ回廊状のコロニアル建築だ。その中を階段で最上階に上がり、グルりと回りながら展示を見て行く仕様になっているから、ヨーロッパの博物館などに良く見られる展示形式である。

さて、最初の展示は、革命前の貧困なキューバの状況から始まり、不正な選挙でバティスタ将軍が大統領となった様子、これに怒った若きカストロとその同志たちが集まって行く様子を描く。モンカダ兵営の襲撃。同志のほとんどが殺害される。そして捕囚となったカストロとその裁判。「歴史は我に無罪を宣告するであろう」との名文句。メキシコへの亡命、そしてグランマ号に乗っての嵐の夜の大冒険。アレグレア・デ・ピオでの大敗。そしてラ・プラタ兵営での初勝利。アメリカ人記者とのインタビュー。そしてエル・ウベロの激戦。

予備知識のない人は、何を言われているのか分からないだろうけど(笑)、歴史マニアにとってはたまらない写真や遺品やジオラマの宝庫である。特に、主な戦闘については詳細な絵図付きで説明されているのが嬉しい。

他にも、革命戦士たちが使っていた品々の展示は興味深かった。特に、フアン・アルメイダのギターは楽しい。この人は音楽家としても有名だが、ジャングルでの戦陣でギターを弾いていたとは知らなかったな。

Mさんは、アルメイダ氏に会ったことがあるらしい。まだご存命のこの人は、すごく気さくで庶民的な優しい人柄だとか。なるほど、革命初期からの英雄だけに、革命の原点である四民平等の理想を固く守っているのだろうな。

なお、アルメイダ氏は、俺が帰国した直後の9月11日に心不全で亡くなった。享年82歳。ご冥福をお祈りします。

館内の展示は、夏攻勢、そしてチェ・ゲバラが指揮をとったサンタ・クララの戦いへと続き、バティスタの亡命、革命の勝利へと続く。その後の展示も豊富で、農地解放や教育の向上といった革命の成果が熱く語られる。

どひゃー、これじゃあ、一日かかっても見切れないぞ!

そのとき、係員が声をかけて来た。もう閉館時間だとか。

俺とMさんが困り顔をしていると、係員は「明日も継続して見られるよう、チケットにサインしてもらいなさい」と教えてくれた。そんな制度があるのか!

急いで一階に移動した2人は、受付の奥に座る老人に紙チケットを提示し、そこに「明日もオーケー」のサインをもらうことが出来た。ただし、Mさんは明日の午前中は仕事らしいので、俺一人で見に来るとしよう。

 

午睡

時計を見ると、午後5時だ。それなのに日は高く、しかも物凄く暑い。クロークでカバンを受け取った後、2人でお茶しようという話になったのだが、目当てのカフェは閉まっていた。

Mさんに「ナイトライフはどうします?」と聞かれたので、「何かお勧めはありますか?」と聞き返してみた。どうやら、今夜は新市街の「ジャズ・カフェ」で、夜9時から良い催しがあるらしい。

そこで、今日はいったんここで解散ということにして、夜8時に俺が彼女の携帯に電話して、夜の待ち合わせ場所を決めることにした。

Mさんは親切で有難いのだが、個人旅行の基本は一人で行動することにある。俺は「疲れたので昼寝する」と言う名目でガイドさんと別れたのだが、気が変わったので旧市街の南側を散歩することにした。

しかし暑い。しかも湿度も高いから、不快指数の高さは東京とまったく比較にならない。

カピトリオの前まで歩いたとき、どうしても喉の渇きが耐えられなくなり、売店に立ち寄った。紙に手書きで書かれた表示を見ると、「本日は全品1ペソ」とある。それで、ペットボトルのミネラルウォーターを買ったところ、売り子のオジサンに「1・5ペソ」を請求された。俺が、「全品1ペソでしょう?」と抗議すると、「それは食べ物に限った話だ。飲み物は別だ」と英語で言い返された。明らかに、俺を舐めてボっているわけだが、1ペソと1・5ペソの差は50円である。この50円を巡って口論するのも大人げないので、不愉快ではあるが、素直に支払うことにした。

すると、その様子を見ていた学校帰りの数人の子供たちが寄ってきて、売店の商品を指さして「僕はこのお菓子が食べたいよ。買っておくれよ」などとスペイン語で言い出した。俺は、見るからに頭の悪そうなリーダー格の少年を強く睨みつけると、足早にその場を去った。売店のオヤジも子供たちの行動に不愉快そうにしていたので、キューバ社会のモラル低下は最悪の段階ではないことが分かり、少しは安心したのだったが。

しかし、ここで買ったミネラルウォーターは本当に美味かった。こんなに美味い水を飲んだのは生まれて初めてかもしれない。きっと、混じりけなしの本物のミネラルウォーターなのだろう。この美味さで1・5ペソなら、安いものだ。

でも、ボッタくりや不良少年のおねだりで心が折れたので、散歩は諦めて、本当にホテルで休むことにした。気のせいか、腰の具合も良くなかったので。

途中で、にせ葉巻屋の営業攻勢をかわしたりしつつ、ホテルの部屋に帰った。よしよし、ちゃんとシャンプーと石鹸が置いてあるぞ。そして、目覚ましをセットすると、腰痛の薬を飲んでから横になった。

あっという間に、眠りに落ちた。

 

ジャズ・カフェ

いつものように、目覚ましが鳴る直前に目が覚めた。

夜8時ちょうどに、Mさんの携帯に自分の携帯から電話すると、すぐに繋がり、タクシーで新市街のホテル「メリア・コイバ」まで来るように言いつけられた。

意外に思う人もいるだろうが、キューバは携帯電話オーケーの国である。携帯画面の表示を見るに、どうやら「キューバ・セル」という国営会社が取り仕切っているらしい。ただし、料金はかなり高めらしいので、あまり長電話はしたくないところだ。

さて、急いで着替えてホテルの正面でタクシーを拾う。こういう場所で屯しているタクシーは、国営なので良心的だ。5CUCで新市街西端の目的地まで行ってくれた。

スペイン系資本の美麗なホテル「メリア・コイバ」のロビーに入ると、Mさんが待っていてくれた。しばらくロビーをウロウロしてから、二人でホテルのすぐ近くにある「ジャズ・カフェ」に向かう。

海岸通り(マレコン)に面したジャズ・カフェは、大きなスーパーマーケットの2階に設えられた大き目のミュージックサロンである。料金先払いのシステムで、事前に払ったお金の範囲内で飲み放題なのだそうな。

80年代の欧米ポップスが楽しく流れる中を、我々は演台の正面の良い席に座ることが出来た。事前予約していなかったのに、この位置に座れるとは実にラッキーである。

今夜は、キューバを代表する有名なミュージシャンが一堂に会して、即興のジャズセッションをやるのだと言う。Mさんは興奮気味にいろいろなミュージシャンの名を挙げるのだが、俺は残念ながらキューバ音楽には詳しくない。ただ、今日が非常なラッキーデーだと言う事は良く分かった。

コンサートが始まるまで少し時間があるので、俺はラム酒カクテルを、Mさんはお茶を注文してしばらく歓談した。周囲は外国人観光客でいっぱいだ。中には、美味そうにキューバ葉巻を吹かす人もいて、羨ましくなった。俺も、昼間のハバナ・リブレで、何本か買っておくべきだったかな?

そういえば、夕飯がまだだった。Mさんが勧めるので、この店の名物だというパエリアを注文してみた。ロブスターが一匹丸々入っているという贅沢な一品だ。この国では、こういう料理でも良心価格で提供されるから嬉しい。

しかしながら、出て来たパエリアは、「塩の味しかしない」というトンデモ品だった。せっかくのロブスターの輪切りも、塩の味しかしないのでは無意味である。俺が渋い顔をしているのを見て、 Mさんもテーブルの反対側からスプーンを伸ばしたのだが、やはり梅干しを丸ごと一気食いしたような顔をして目を白黒させた。どうやら、シェフが変わって味が落ちたということらしい。

そういうわけで、料理は散々だったのだが、何種類か頼んだラム酒カクテルは最高の美味だった。こういう暑い国では、こういう酒が良く映える。

さて、9時になったのでジャズが始まった。小型ピアノとギターを中心にしたカルテットの即興演奏だったのだが、これが実に良かった。日本人の中には、音楽を通じてキューバファンになる人が多いらしいが、なるほど納得である。なにしろ、日本で聞いたどのジャズよりもハイレベルなのだ。しかも、演者の間に見事なまでに友愛の心が通っているのが分かり、それが本当に楽しいのだ。彼らの楽器はみんな古びているけど、そんなのをモノともしないパワーを感じた。

Mさんの説明によると、これも「社会主義の優位性」なのだそうだ。すなわち、演奏者はみんな「お金」のためにやっていないので、スポンサー等の歓心を買う必要がない。だから、自由に好きなように創作出来るし、工夫も出来る。キューバ音楽は、資本主義世界では考えられないほど複雑で実験的で冒険的なのだそうだが、それは金儲けの効率性に関係なく創作出来る環境があるからである。また、金儲けに配慮する必要がないので、演奏者はお客さんと一緒になって、自分自身も心から楽しんでプレイ出来るのである。

なるほど、これがキューバなのだ。真面目で正しい社会主義なのだ。

やはり、遠路はるばるこの国まで来て良かったな。

2時間ほどで演奏が終わったので、我々は海岸通りでタクシーを拾い、一緒に帰ることにした。タクシーの運ちゃんは平服を着た普通のオジサンで、車も普通のヨーロッパ製乗用車だった。 Mさんの説明によると、この人は、昼間は普通に公務員として働き、夜になるとアルバイトでこういう盛り場に出張るのだという。従って、料金も国営タクシーと違って出鱈目なので、乗るときにしっかり交渉しないとボラれるとか。

Mさんが頑張って舌戦し、バイトの運ちゃんは7CUCでプラサ・ホテルまで行ってくれることになった。ガイドさんは、ハバナ大学近くの自宅で降りたので、その後は俺一人きりだ。周囲が真っ暗なので不安になったけど、運ちゃんは約束通りに7CUCでオーケーだったし、ホテル周辺も不穏な空気は感じなかった。

なるほど、キューバは治安の良い国なのだな。

かといって、一人でウロウロする気もなかったので、ホテルに帰ってスペイン語の本を読みこんでから寝ることにした。明日の午前中は一人で行動するわけだし、この国では英語がほとんど通じないことが分かったからである。

ともあれ、滞在初日から、夜遅くまで大冒険が出来て大満足であった。