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9月8日火曜日 ハバナ郊外ロングウォーク


(1)郊外行きバス

(2)奇跡の海岸プラヤ・デル・エステ

(3)ハバナへのハイウェイ

(4)庶民のビーチ・バクラナオ

(5)カバーニャ要塞

(6)ゲバラの家

(7)社会主義の優位性?

(8)社会主義の劣後性?

(9)国立美術館

(10)最後の晩餐、そして盗難

 


郊外行きバス

今日は、ちょっと遅めで8時に起きた。そのまま屋上バイキングに食事に行き、1階ロビーで1万ユーロをCUCに両替してから、肩掛けカバンを抱えて朝の散歩に出た。

今日は、T3バスに乗って、ハバナ東郊の海岸「プラヤ・デル・エステ」に行こうと考えている。しかし、バスの始発は9時半なので、その間は、いつものようにカリブ海を眺めたり、ホセ・マルティ通りや革命博物館北側公園で子供たちを眺めたりして過ごした。

やがて時間になったので、中央公園のバス乗り場に向かう。さすがに始発なので、T3バスはそれほど遅れずに現れた。T3は、T1のような2階建ではなく、日本でも見られるような型式の普通の観光バスだった。乗客は、やはり白人観光客ばかり。

発車したバスは、ゴメス将軍像の北側の海底トンネルを抜けてマタンサス方面行きのハイウェイに乗る。最初のうちは、沿道のモロ要塞や国立スタジアムの前で観光案内のアナウンスがあったのだが、やがてジャングルの中を走る一本道になったので、バスは黙ってひたすら快走した。

すると、近くの座席にいたチケット係の白人女性が、何やら英語で事務的に話しかけて来た。「どこまで行くつもり?」と聞いている。チケット代はどこまで行っても3ペソのはずだから、何の目的で聞いているのか分からない。そこで、肩を竦めて無視することにした。女性は腹を立てたようだが、会話はそれっきりになった。

バスは、すごいスピードでハイウェイを走るので気持ちよい。この道路には信号や横断歩道が無いし、バスはどうやら途中のバス停を全て無視して走っているので、高速道路と全く同じ感覚だった。冷房も良く効いているので、すこぶる楽しい。

この国には商業広告がまったく存在しないので、目に映る文字は青地に白の行き先案内板だけである。その点を除けば、他の国のハイウェイと同じだ。緑のジャングルの中の一本道をまっすぐ進む風情は、富士山麓の青木ヶ原樹海を想起させる。ただし、緑の色はこちらの方が濃いから、さすがは亜熱帯の国だぜ。

20キロ近く走ったか。バスは速度を落として左折すると、海岸へと続くなだらかな丘を降りて行った。いよいよ、プラヤ・デル・エステ(東の海岸)に到着というわけか。この辺りから、バスは頻繁に停車するようになった。どうやら、あちこちにホテルやペンションがあり、それぞれの前にバス停があるようだ。

なるほど。チケット係の女性は、俺がどこのホテルに泊まっているのか確認し、俺を降ろす場所を特定したかったわけか。つまり、この海岸の宿泊客ではない外国人は、あまりこのバスには乗らないのかもしれない。俺は、良くも悪くも無手勝流だからな(苦笑)。

いずれにせよ、俺は海を見に来たわけだから、海の近くのバス停で降りた方が良いだろう。そこで、適当なペンションの前で、白人の家族連れと一緒にバスを降りた。

そこから、舗装されていない田舎の砂利道を北向きにしばらく歩くと、椰子林の向こう側に白い砂浜が見えてきた。

 

奇跡の海岸プラヤ・デル・エステ

自分が見ているものが信じられない。

この世界に、これほど美しい風景があったなんて。

目の前に広がるカリブ海は、とにかく美しすぎる。

どんな大げさな美辞麗句を並べても、この感動を表現することは出来ないだろう。

なにしろ、空と海の色が完全に同じなのだ。したがって、海と空の境界線を特定することが難しい。その中に、白い雲がポツリポツリ優しく浮かぶ様子がまた美しい。砂浜は真白で清潔だし、椰子の木々は緑に輝いて隆々だ。何よりも、人がほとんどいないし、ゴミが一つも落ちていないのが良い。日本の砂浜では、絶対に有り得ない光景である。

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なるほど、コロンブスが1492年に「人間の目が見た最も美しい土地だ」と絶賛したのも頷ける。この景色を見られただけでも、はるばる日本からやって来た甲斐があった!

波打ち際で海水をすくって飲んだり、足を濡らしたりして遊んだ。本当は、水着に着替えて泳ぎたい気分でいっぱいだった。しかし、もともと水着は持って来ていないし、一人で来ているのだから泥棒が怖い。こういう時に、一人旅の不便さを痛感してしまう。加賀谷くん(第2次チェコ旅行の相棒)でも誘えば良かったな、と初めて思った(笑)。

仕方ないので砂浜に座って、ボーっと海を眺めた。この光景なら、一日中見ていても飽きないだろう。ただし、一日中海岸に座ることは絶対に不可能である。なぜなら、陽射しの強さが殺人的だからだ。

どこかに遮蔽物でも無いものかと砂浜を歩き回ったけど、たまに見かける屋根つき施設はプライベートビーチ専用と思われるので、部外者は使えそうもない。そうかと言って、野生の椰子の木の影は、気休めにしかならない。

太陽が中天に移るにつれて、周囲の暑さは洒落にならなくなって来た。このままでは、焼死することに間違いない。ああ、マジで海に入りたい。泳ぎまくりたい。暑さに加えて欲求不満が募るので、精神的に良くない。

そこで、思い切って撤収することにした。次に来るときは、水着とビーチパラソルと相棒の帯同が必須である!

せっかくだから、歩いて別の場所を見て回るとしようか。

元の田舎道に帰ってきたら、ちょうどT3バスが目の前をハバナ方面に通過して行った。もしかしたら、行きに乗って来たのと同じ車両だろうか。で、次のバスはいつ来るのだろう?本数はT1に比べると少なそうだから、下手をするとハバナまで歩く羽目になるかもしれぬが、その時はその時だ。

そう割りきって、のどかな田舎道を鼻歌混じりに歩いた。

足元の歩道には、やたらと繊維質の植物の残骸が転がっているのだが、これは全て椰子の実の熟れの果てだ。これらを靴で搔き分けながら歩くのが楽しい。沿道で見かける木々や花々や小鳥も、日本では絶対に見られないような珍しいものばかりだ。空気も本当に美味い。

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いやあ、楽しい。マジで幸せだ。

ハバナの街や革命博物館にジャズ・カフェもキャバレーもカクテルも良かったが、こういう大自然こそ本物の「キューバ」であろうか。幸福感で胸がはち切れそうである。

途中で警官隊とすれ違ったが、「なんで東洋人がこんなところにいるんだ?」と怪訝そうな眼を向けられただけで済んだ。キューバにもやっぱり警官がいたのか(笑)。初めて見たぞ。

 

ハバナへのハイウェイ

こうして、美味い空気を存分に楽しみつつ、ハバナへと続くハイウェイに戻って来た。すると後ろから、家族連れを乗せた古いアメ車がやって来て、俺の横に静かに停まった。そして、運転席から黒人青年が身を乗り出すと、「ハバナに行くんでしょう?乗せて行くよ!」と声をかけてくれた。しばし迷ったのだが、もうしばらくキューバの大自然と戯れていたい気分だ。そこで、お礼をして手を振って別れた。

その後も、ひっきりなしに車が俺のために停まってくれる。通りすがりにクラクションを鳴らすだけでなく、俺の進行方向に車を停めて待っていてくれるのだ。いちいち断りを入れるのが面倒くさいほどである。もちろん、中には「小遣い稼ぎ」を企んでいるドライバーもいるのだろうけど、キューバ人は親切だなあ。

そういえば、キューバは90年代の燃料危機の時、カストロの命令で「ヒッチハイクの義務」が法制化されたことがある。その慣習がまだ残っているのだろうか?

ハバナへのハイウェイは、やっぱり田舎道に比べると面白みに欠ける。古い車が、ひっきりなしに通るからガソリン臭いし。かといって、脇道を使うと迷子になる恐れがあるので、とりあえずはガス臭いハイウェイを歩くしかあるまい。そう考えると、ヒッチハイクに甘えたい気分にもなって来るけれど、どうせ車に乗るのならT3バスを待った方が無料だし冷房も効いているからナイスだろう。そう考えて、猛暑の中をひたすらハバナに向かって歩くのだった。

全身が汗まみれで殺人日光に丸焼きにされている状態であるが、それでも沿道の樹木を見ているのは楽しい。牧場の痩せ牛をからかうのも楽しいし、タララ川の河口など美しい風景も多い。そういえば、1962年のミサイル危機の時、アメリカ海兵隊はこの辺りに強襲上陸する予定だったとか。今日の平和が嘘のようだ。

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翻ってハイウェイを見回すと、走っている車は、平日の昼間だけに通勤用のバスや果物を乗せたトラックが多い。トラックの荷台のパパイヤやバナナは、本当に美味そうだ。

さんいわく、キューバのパパイヤは現地では二束三文だが、日本では「ゴールデンパパイヤ」と呼ばれて高値で取引されるほどの品質なのだそうな。ということは、キューバのパパイヤを劣化させずに日本に搬入する通商ルートを開拓すれば、大金持ちになれるかもね。

などと、資本主義的なことを考えていると(笑)、喉の渇きが耐え難くなって来た。たまたま沿道にガソリンスタンドがあったので、併設された雑貨屋に入って「水ください」と店番のオバサンに言ったら、彼女は黙って後ろの店棚を指さした。驚いたことに、バハネロの缶ビールは冷蔵棚の中に山積みなのに、水はまったく無かった。キューバの流通システムはどうなっているんじゃ!だから社会主義はダメなんだよ!と思いつつ、この状況はビール好きにとってはかえって嬉しいかも分からない。そこで一瞬、バハネロをもらおうかなと思ったけど、今はとにかく水が欲しい時だ。そこで、何も買わずに店を出た。

暑さと渇きに耐えかねて、沿道の草むらに寝転んで休息など取りつつ歩くうち、ようやく新たな雑貨屋を発見した。幸いにもここは、観光バスの休憩所と思われる大きめの雑貨屋だった。冷房はしっかり効いているし、休憩用の椅子やテーブルもある。ここでようやく水のペットボトルを手に入れると、テーブル席に座ってから、これを一気に飲んで生色を取り戻した。

それにしても、キューバのミネラルウォーター(AQUA(アグア=水。そのまんまのネーミングじゃん!)という一銘柄しかない)は本当に美味いな。たくさん買って、日本に持って帰りたいくらいである。もっとも、飛行機にペットボトルを持ち込むのはどこの空港でも禁止なのだから、アメリカの税関うんぬん以前にこのプランは却下であろうけど。

落ち着いて店内を見回すと、店員さんの数がやたらに多い。中には、ヨボヨボのお婆ちゃんもいる。さっきのガソリンスタンドもそうだったけど、ここはどうやら家族で経営している店のようだ。こういうところも、トルコの社会の在り方に似ている。

ただし、おそらく、その意味合いはまったく違う。

トルコの場合は、大昔の日本と同様に、家族の絆をとても大切に考えている文化だから、同族経営の店が多いのだ。

これに対してキューバは、もともと経済の規模が非常に小さい上、配給制が行き届いていて誰も生活に困らないので、実際には仕事を持たずにブラブラしている人が多い。だけど家に居たって暇だし、世間体も悪いので、しょうがなしにお店を経営している家族のところに行って、何となく群がって一日を過ごすのだろう。

このようにトルコとキューバでは、資本主義と社会主義の違いはあるけれど、「家族がいつも一緒」という文化は同じである。日本も、少しはこれを見習えば良いのに。そうなれば、年金や介護の問題も案外簡単に解決しそうな気がする。なにしろ、(無能な)政府に頼る必要自体が消滅するのだから。

どうして、誰もこれを言い出さないのだろうか?そっちの方が不思議である。

 

 庶民のビーチ・バクラナオ

さて、水分をたっぷり補給した上に冷房で十分に涼んだので、再びハバナへのハイウェイに立った。

 

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それにしても、T3バスは全然やって来ないね。暑いから、スタッフ全員で昼寝しているのだろうか?キューバでは、実際に有り得る話だから怖い(笑)。このままでは、ハバナまでの20キロを歩きとおす羽目になりそうだ。

まあ、それでもいいか。と、呑気に考えていると尿意を催して来た。これだけ滝のように汗をかいても、やっぱりしたくなるものなんだなあ。ある意味で感心である。沿道で立ちションでも良いけど、このハイウェイは常に車が走っているので、どうしても人目につくだろうし、キューバで日本の恥をさらすのは心苦しいな。

困りながら歩いていると、「右に行けばバクラナオ海岸」という標識が出ていた。持参して来た雑誌「旅行人」によれば、これはキューバの庶民用ビーチである。だったら、公衆便所くらいあるだろう。そう考えて、海岸へと続く小道をゆっくりと下って行った。

小さな子供を連れた夫婦の横を、挨拶しながら追い抜きつつ、舗装された駐車場の間を通って、「海の家」らしき建物に入った。ううむ、コンクリート製でペンキが剥げかけた建物の中は、殺風景で何も無い。

トイレはどこじゃ!

バーの廃墟らしき空間をウロウロしていると、ふいに後ろから「サヨナラ!」と声がかかった。振り返ると、屈強な水着姿の黒人青年が白い歯を見せながら、「そこの日本人、早く服を脱いで、俺たちと一緒に泳ごうぜ!(スペイン語だけど、こんな感じ)」。

キューバ人は、とにかく人懐こい。ハバナの街の中でも、ちょっとでも目が合うと「チーノ・オ・ハポネ?(中国人それとも日本人?)」から始まって、挨拶代わりに「サヨナラ!」とか声をかけて来る。ただ、どういう経緯で「こんにちは」と「さよなら」を混同しているのかは謎だ(苦笑)。

「海の家」の出口から見えるビーチでは、この黒人青年の仲間と思われる若者たちが、デッキチェアの上でくつろいでいた。彼らは、珍しそうに俺を見る。俺は、青年と彼らに向かって、英語と片言のスペイン語で「水着を持っていないから遠慮するよ」と告げ、手を振って別れた。ある意味、残念であった。

それから、しばらくビーチを散歩して過ごした。ここは、プラヤ・デル・エステとは違った意味で美しい砂浜だ。思わず、息を呑んでしまう。日本では、沖縄に行ったってこんなに美しいビーチには決してお目にかかれないだろう。

この非常識なまでに美しすぎる海水浴場では、数組のキューバ人たちが満面の笑顔で遊び楽しんでいる。この人たちは、実は日本人なんかより遙かに幸せな国民なのではないかと、羨ましくなってしまった。

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しかし、結局トイレは見つからなかったし、人目があるから立ちションも無理である。これは、一刻も早くハバナに戻った方が良いと思案した。

ハイウェイまで戻って来ると、そこにバス停があるのに気付いた。庶民用のバス停とT3のバス停が並んで立っているので、ここでT3を待つことにした。バス停に貼ってある時刻表は当てにならないが、午後1時だし、いくらなんでも、そろそろ来るころだろう。

庶民用バス停の前では、女の赤ちゃんを抱いた太ったお婆さんと、その娘と思われる痩せたオバサンがいた。これはどうやら、お婆さんが孫娘を抱っこしている図らしい。このお婆さんと来たら、赤ちゃんに頬ずりしてキスをして「あなたは、どうしてこんなに可愛いの?大好きよ(スペイン語だけどこんな感じ)」と言い続けている。その様子が愛情たっぷりなので、思わずこっちの頬もほころんでしまった。さすが「世界で一番、子供を大切にする国」だな。日本では、ここまでベタベタしないものな。

やがて庶民用バスが来たので、愛に溢れた家族はこれに乗って行ってしまった。俺も、庶民用通貨(CUP)を持っていれば、このバスに乗ったところだが。

なかなか来ないT3を待ちつつイライラしていると、ふいに後ろから黒人の太った青年が声をかけて来た。やっぱりスペイン語の会話になったので意思疎通が難しかったのだけど、どうやら彼は、「俺の車で、5ペソでハバナまで送って行ってあげるよ」と言っているのだ。ここから5ペソなら安いな。どうしたものかと思案していると、その横をT3が轟音を上げて通り過ぎて行った。

あちゃーーーー!

親切な(?)青年のせいで、バスを逃してしまった。これでは、まるでハリウッドのコメディ映画である。なんとなく格好悪いし気恥ずかしいので、青年に別れを告げてハバナまで歩くことにした。小便は、どこか適当な木陰を見つけて処理するとしよう。

すると、程無くしてT3が再び後方から現れた。なるほど、来る時はジャンジャン来るというわけね。俺が手を振って合図すると、バス停でもないのに停車してくれた。すかさず乗り込んで、サングラスの奇麗なお姉さんにチケット(一日無料券)を見せてから、「カバーニャ要塞で降りるからね」と告げた。

車内はガラ空きだったので、俺はゆったりとした座席の中、心地よい冷房で生色を取り戻すのであった。

 

 カバーニャ要塞

バスは凄いスピードでハイウェイを走るので、あっという間にハバナ水道に到達した。それでもバクラナオから随分と距離があったので、炎天下の中でこれを歩くのは無謀であった。T3を捕まえられた幸運に感謝である。

さて、ハバナ水道を西に越えてしまったら意味がない。バスはカバーニャ要塞の近くで停車してくれたので、目論見どおりにここで降りた。

カバーニャ要塞は、以前訪れたモロ要塞の南に隣接する広大な陸上陣地である。

18世紀半ば、イギリス軍の海からの攻撃で、モロ要塞が占領されたことがある。当時の在キューバ・スペイン軍は、モロ要塞に替わる拠点を持っていなかったために、その後の戦いで劣勢となり、ついにキューバ全土をイギリスに奪われる事態となった。しかし、どうしてもキューバを諦められないスペインはイギリスと交渉し、当時保有していたフロリダ州との交換という形で、再びこの島を再占領したのだった。そしてその後で、モロ要塞が奪われた場合の次善の拠点にする目的で、このカバーニャ要塞を築いたのだ。もっとも、ここは実際には一度も戦いに使われないまま今日に至る。

深い空堀とベトンの城壁に囲まれたカバーニャ要塞へは、狭い回廊とコンクリートの橋を使って入る。チケット売り場が最初分からず、入口で中世ヨーロッパ風の宮廷衣装をつけた係員(暑そう!)に注意されたりしつつも、なんとか要塞の中に入った。

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まずは、トイレを探さなければならぬ。しかし、構内は想像以上に広く、石造りの建物が居並ぶ碁盤目状の石畳は迷路のように複雑だ。

しょうがないので、建物一棟を丸々改造した「ゲバラ博物館」に入った。ここは、チェ・ゲバラの遺品や彼が使っていた道具が置かれ、さらには彼が遺した名言が書かれたポスターが壁一面に貼られた施設だった。実際に、ゲバラはここで執務していた時期があるらしい。

しかし、この建物内にはトイレが見当たらない。

困っていると、係員と思われる黒人の少女が英語で話しかけて来た。「ゲバラは好きですか?ゲバラコインに興味あります?格安でお分けしますよ」。って、営業かよ!

俺が「ゲバラコインには興味があるけど、トイレにはもっと興味があるんだけど」と返すと、奥からオバサン係員が現われて、少女に案内するよう言いつけた。少女は付いてくるよう俺に言うと、先頭に立って歩き始めた。しばらく歩くと、別の施設の男性係員と合流。彼は、たまたまトイレの近くに用があるらしいので、少女とバトンタッチした。そして、かなりの距離を歩いてから、トイレの前で俺に手を振って別れた。

トイレは、要塞の壁の中の分かりにくい場所にあったので、案内してもらえなければ辿り着けなかったかもしれぬ。ともあれ、ようやく念願の小便をすることが出来たのだった。ある意味、今日一番の感動の瞬間かもしれぬ(笑)。さすがの俺も、生理的要求には勝てないからな。

それにしても、キューバ人は親切だな。まさか、トイレの正面まで連れて来てくれるとは思わなかった。これが日本人なら、トイレの方向を指さすだけで終わりだろう。

もちろん、それはキューバ人が「暇」だからなのだが、それで人に親切に出来るなら、暇は大いに結構であろう。資本主義で忙しくて不人情になるよりは、社会主義で暇に親切に生きた方が、よっぽど人間的である。これも、「社会主義の優位性」であろうか?

などと考えつつも、すっきりしたので広大な施設の中を歩いて回る。

・・・しかし、誰もいないな。観光客は俺だけか?

ハバナ水道に面した高台には、昔風の黒い大砲がズラリと並んでいた。ここは夜になると、空砲を鳴らすイベントがあって観光客でごった返すと言うが、わざわざそれを見に来る必要は感じない。俺は昔から、ミーハーやメジャーとは縁のない男なのだ。ただし、この高台から見下ろすハバナ旧市街はとても美しい。そこでしばらく、この高台の石段に座って休むことにした。

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さすがの俺も、歩き疲れた。しばらく、この高台の木陰から移動したくないな。

時計を見ると、午後2時だ。意外と腹は空かないから、今日も昼飯抜きでいいや。などと考えていると、一匹の痩せた黒犬が現われて、俺と同じ木陰で涼み始めた。周辺には他に日蔭は無いから、この暑さの中で、ワンちゃんもたいへんだ。

キューバは、ヨーロッパ文化の影響なのか、「犬社会」である。ただし、街で見かけた犬はみんな痩せて卑屈な感じだから、ヨーロッパほどには甘やかされていないようだ。

さて、いつまでも座っていても仕方ないので、足早に広大な要塞の中を見て回る。改装工事の左官たちと楽しく片言の会話をしたりしつつ、芝生の上に無造作に置かれたU2偵察機の翼の残骸(1962年の「ミサイル危機」で撃墜されたやつ)を鑑賞したりしつつ、要塞の構内をほぼ一周した。

これで入館料の元は取れたので、次に行くとしようか。

 

ゲバラの家

元の出入口から、要塞の外に出た。

とにかく暑いので、要塞のチケット売り場に併設されたカフェで冷えたカクテルでも飲もうかと考えたのだが、こっちは観光客で満員だった。なるほど、この暑さだから、みんな冷房から離れたくないのね。

考えてみたら、この日差しの中を一日中戸外にいるとは、俺ほどアホな観光客は稀かもしれぬ。もはや、全身は日焼けして真っ黒となり、激しく熱を持っている。両足の裏が痛いのは、おそらく豆が出来たのだろう。

それでも、南に向かって歩くことにした。同じアホなら歩かにゃ損である。

草の香りがかぐわしい田舎道を、ゆっくりと歩く。周囲には誰もいないけど、この暑さでは無理もない。もはや、戸外を歩くこと自体が自殺行為である。

右手の丘に、なぜか放置された古いミサイル発射台や軍用トラックがあったので、近くに寄ってあれこれ観察した。これも、「兵どもが夢の跡」であろうか。

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さらに進むと、左手に兵営のグラウンドが見えてきた。なるほど、ここが「カバーニャ兵営」か。そこで、金網越しにグラウンドや兵舎を観察した。ここが北朝鮮なら、俺はこの時点で射殺されているんだろうけど(笑)、キューバは緩い国なので注意すら受けなかった。そして、兵営内は殺風景で面白くなかった。兵隊のほとんどは、昼寝中なのかもしれない(笑)。

この辺りは、首都の一角だというのに、静かだし空気が美味い。ずんずん歩いて行くうちに、カバーニャ要塞から南に2キロほどの場所にある大きなキリスト像に着いた。その手前に、芝生に囲まれた小さな白い家がある。これが、チェ・ゲバラの家(ゲバラ第一邸宅)だろう。革命成功後に、ゲバラがハバナで最初の住居としたのがこの茅屋なのだ。

ちなみに、第二邸宅というのが、新市街の南側にある。昨日、ココ・タクシーで訪れたバス・ターミナルの近くのようだが、そこは「ゲバラ研究所」になる予定なのに、開館の目途が立っていないらしい。Mさんに聞いても、はっきりした状況が分からないので、今回の訪問は諦めることにした。無理にでも押しかけたら、ゲバラの遺族に会えたかもしれないけど、考えてみたら俺はゲバラファンではないのだから、無理する意味がない。スペイン語での会話にも自信がないし(汗)。

で、旧市街のここ第一邸宅だ。俺はゲバラファンではないけれど、いちおう、「ゲバラ萌え腐女子」の歓心を買うために、土産話を求めて訪れたのだった。

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入口側の庭の1階にテラスがあり、そこの白い丸テーブルに家族っぽい雰囲気の黒人女性たちが10人近く就いて歓談していた。はて?ここは「ゲバラ博物館」になっているはずだが。

俺が玄関に回ったのに気付いて、女性たちはみんな受付に出て来た。ああ、良かった。博物館は開館中だった。女性たちは、客がいないものだから庭でサボっていたのね。

「ガイドは必要ですか?」と先頭の少女が英語で聞いてきたけど、見るからに小さな家なので断った。また、デジカメの電池が枯渇気味なので、写真撮影もしないことにしたので、料金は入館料4ペソだけ支払った。金払いの悪いケチな客だと思われたかな?

各部屋に、ゲバラの遺品や執務机などが置いてある。ポスターや似顔絵もあり、彼が残した名言が記されたパネルも充実している。映写室もあった。

さすがは生粋の真面目な社会主義者ゲバラだけに、質素で小さな家なので、あっという間に見終わった。それでも、ゲバラファンは十分に楽しめるだろう。なんとなく、イスタンブールで見学したアタチュルクの質素な部屋を思い出した。「不惜身命の壮烈な生きざま」という点では、アタチュルクとゲバラは良く似ていると思う。

館員の一人が、「2階からの眺めが良いですよ」と言うので、わずか1部屋しかない2階に階段で上り、そのベランダから屋根に乗り出して周囲を見渡した。なるほど、良い景色だ。だけど、灼熱地獄だから、あまり太陽の中にいたくないな。

そこで再び1階に戻り、最奥の部屋に設えられた売店でミネラルウォーターとゲバラ絵葉書を数枚買い込んでから、庭のテラスのテーブルに就いて喉を潤した。ここは程よく木陰になっているし、新緑に整備された芝生の香りが芳しい。水も、本当に美味い。

 

社会主義の優位性?

なんか、心からマッタリする。これぞ、バカンスという感じである。革命博物館で歴史の勉強をするのも楽しかったけど、結局、こっちはもっと楽しいかも。

キューバは生粋の社会主義の国なので、他のラテン系の資本主義国よりも時間がゆっくり流れている。また、周囲の雰囲気も、平和的で優しいオーラが漂っている。だからこそ、旅行者でも心底からリラックス出来るのだろう。

そもそも、この狭い小さな家に、館員が10名もいるのが「暇そう」である。この中で、政府に任命された正式な博物館員は、せいぜい2~3名ってところだろう。残りの人は恐らく、館員の家族で、家にいても暇だからここにいるのである。これは、平均的な日本人の感覚では「モラルハザード」であり、「社会主義の失敗」なのかもしれない。だけど、家族みんなが、一日中テラスに座ってボーっと芝生を眺めていても生活が成り立つのだったら、考えようによっては、こっちの社会の方が優れていると言える。

日本人は勤勉だと言われるが、いったい何のための勤勉なのだろう?みんな老後が不安だし、お金を稼がないと生活が出来ないものだから、仕方なしに働いているのではないだろうか?その結果、不安に押し潰されてストレスを溜め、鬱病になったり自殺したりするのである。

そういえば、キューバには「貯金」という概念が存在しないらしい。Mさんによれば、キューバ人は誰も貯金をしないので、貯金という言葉自体が理解出来ないのだとか。それは、政府が国民の生活の面倒を全て見てくれるので、国民に「貯金をする必要自体が存在しない」からである。

また、一般のキューバ国民は、政治家や高級官僚に嫉妬することはない。なぜなら、この国では、政治家も官僚も国民同様に貧乏だからである。なにしろ、独裁者といわれるカストロ兄弟でさえ「貯金ゼロ」なのである。本当にそうかは知らないけど、少なくともキューバ国民は固くそう信じている。そこが重要である。

今年の5月に、政府要人のカルロス・ラヘとロベルト・ロバイナが失脚した。彼らはカストロ兄弟に次ぐ高位高官だったのだが、どうやら失脚の理由は「贅沢をした」ためらしい。この国では、贅沢をしただけで有力閣僚が失脚するのである。そんなこと言ったら、日本の霞ヶ関と永田町の面々は、ただちに全員クビだろう(笑)。そもそも、「貯金」が悪徳だというなら、うちの鳩山首相や小沢黒幕はどういう扱いになるのだろうか?

そういえば、ハバナの街で見かけた閣僚の車(ナンバープレートの色で分かる)は、みんな壊れかけた旧ソ連・東欧製のボロ車であった。さすがは、世界で唯一の「真面目で正しい社会主義」である。

キューバ共和国はこの体制を、アメリカの膝元でアメリカと敵対しながら50年も維持しているのだ。また、この国全体に漂う「優しい空気」を見ると、カストロ体制が本当はどういうものなのか良く分かる。

そういえば、Mさんから昨日、「ハリケーン・シェルター」の話を聞いた。

キューバは、過去数十年にわたって「自然災害による死者がゼロ」なのが自慢だという。その秘密は、各地に設けられたハリケーン・シェルターにある。キューバ政府は、発生したハリケーンの進路を入念にリサーチし、その通り道に位置する住民全員を強制的にシェルターに避難させるのだ。このシェルターは地下施設ではあるが、学校も病院も産院も完備されており、とても居心地が良いのだとか。なるほど、こういう仕組みなら自然災害で死者がゼロであってもおかしくはない。だからキューバ人は、アメリカでハリケーンによって人が死んだとかいうニュースを見ると、「アメリカ人は可哀想な国民だ。我々はキューバに生まれて良かったね」と心から言い合うのだとか。

もっとも、この状況をアメリカから見ると、「キューバは『死ぬ自由』さえ国民から奪っている人権侵害の統制国家だ」という非難になるのかもしれない。確かに、「国家権力が強制的に国民をシェルターに避難させる」というのは、アメリカや日本の感覚では有り得ない。そもそも、アメリカや日本の国民は、だいたいどこかの私企業に所属しているのだから、政府から避難勧告が出たとしても、その指示を真面目に聞くわけがないのだ。避難なんかしたら、ライバルに出し抜かれて金儲けの機会を失ってしまうだろうから。

つまり、「原則として全国民が公務員」であり、「経済格差を否定し金儲けを悪徳と考える」キューバだからこそ、「国家命令による強制避難」という荒業が使えるのである。

これはまさに、資本主義と社会主義の違いであり、その土台となる社会思想の違いであり、ひいては人間観の違いである。自由と金儲けが大切なのか(アメリカ)、平等と安全が大切なのか(キューバ)の違いである。

ここで思い出したのが、ドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』の挿話「大審問官」だ。これは、中世のスペインに復活したイエスが、異端審問官によって牢獄に繋がれ死刑囚にされる物語だ。異端審問官は、捕えたイエスを「本物のイエスだと知りながら」殺そうとする。なぜなら、本物のイエスの存在は、キリスト教会の既得権益を破壊してしまうからである。

ここで、異端審問官=アメリカ、イエス=カストロと考えると、いろいろとしっくり来る。アメリカが、カストロを激しく憎み抹殺しようとするのは、つまり、そういうことなのではないだろうか?カストロのような「人命を最優先に考える清貧の思想を持つ優しい人」というのは、アメリカ型資本主義から見ると、抹殺すべき巨悪なのである。

ところで、日本はどっちなのだろう?アメリカにもキューバにも成り切れず、何もかも中途半端だ。むしろ、両者の「悪いところ取り」になっている。これは、国家の指導者に明白なポリシーが存在していないためである。だからこそ、特定の既得権者(中央官僚など)が私利私欲に走り、その結果として「悪いところ取り」になったのだ。

今の日本も、フィデル・カストロのような「優しい独裁者」を必要とする季節に入ったのかもしれない。

 

社会主義の劣後性?

などと考えつつ、ゲバラの家を後にした。俺がさっきまで居座っていたテラスの白テーブルは、再び暇そうな女性たちによって再占領されたのであった。

相変わらずの殺人的な炎天下の中、元来た道をブラブラ歩いていると、古いアメ車を改造したタクシーが、後ろからゆっくりと近づいて来た。カウボウイ・ハットの大柄な老人が運転席から身を乗り出し、「10ペソで旧市街まで行くよ!」って。

・・・高え!

俺が「乗らないよ。すぐ近くのカバーニャ要塞まで歩くので」と、言い捨てて足早に進むと、爺さんはしつこく低速で追ってくる。しまいには、「1ペソで要塞まで乗ってよ!」と哀願調に。

・・・弱え!

無視してカバーニャ要塞の入口へと折れて行くと、爺さんは諦めて去って行った。

もちろん、この要塞自体には今さら用はない。俺のプランは、要塞の近くでT3バスを拾い、冷房に浸されつつ無料で旧市街に帰ることだった。爺さんには悪いが、俺はボッタくりに金を払うほど寛容ではないし、一度決めたプランを容易に変更しない男なのだ!

などと内心で豪語した割には、すぐに気が変わった(笑)。バス停の近くに古いアメ車タクシーが何台も並んでいて、運ちゃんの一人が「旧市街まで5ペソだよ」と言ってくれたので、これに乗ることにしたのである。

英語ペラペラの若い白人系の運ちゃんは、気さくで陽気な人で、愛車である50年型フォードとオイラの2ショットを何枚もデジカメ撮影してくれた。ただ、この車は1リッターで1キロ走行という凄まじい燃費の代物らしい。ほとんど、ガソリンをばら撒きながら走っているようなものだな(笑)。

キューバは、石油のほとんどを友邦のヴェネズエラから輸入している。なにしろ、アメリカと敵対関係にあるのだから、アメリカからは石油を買えないのである。いちおうキューバでも石油は採れるのだが、量も質も劣悪らしい。だからヴェネズエラの石油が命綱なのだが、それもこの国がチャベス大統領率いる反米社会主義政権だからこそ可能なのであって、実はかなり危うい状況であると言える。

・・・チャベス政権が倒れる前に、もうちょっと燃費の良い車を調達しとくべきだと思うぞ、キューバ。

ともあれ、50年型フォードは良く整備されているので、かなり快適に走った。運ちゃんは海外勤務経験がある人で、だからこそ英語がペラペラで観光客の扱いに慣れているのだ。ただ、俺が革命の話をするとあまり楽しそうではなかったので、内心では現体制に対して不満を抱いているのかもしれない。

これは社会主義体制の本質的な欠陥なのだが、有能な野心家にとってこれほど住みにくい国は無いと言える。なにしろ、どんなに頑張っても能力を発揮しても、もらえる給料は一定なのだから。いちおう、優秀なスポーツ選手や功績の高い医師などは、政府から新市街の質の良い住宅や質の高い車(1リッター1キロ走行のクラシックカーだが(苦笑))を支給されるようだが、その程度では「報われない」と感じる才人も多いはずだ。

日本やアメリカでも、もちろん公官庁の職員は似たような処遇を受けているのだが、それが嫌な人は、民間企業に転職して能力を発揮すれば良い。ところが、キューバは原則として全国民が公務員なので、逃げ場というものがない。だから、優秀な野心家は皆、海外に亡命してしまうのだ。

ホテル・プラサの前で別れの挨拶をしつつ、「この若い運ちゃんも、いずれはアメリカなどに亡命してしまうのかな」と寂しくなった。

ホテルのロビーに入って行くと、バーの店員が嬉しそうに「今日は何を飲みますか?」と声をかけて来た。いつも昼間から一人でカクテルを飲んでいるので、完全に顔を覚えられてしまったようだな(笑)。そこで、お言葉に甘えて(?)ダイキリを注文した。ラム酒の柑橘系ジュース割りは、このような殺人的な暑さの中では本当に美味い。

 

国立美術館

カクテルを飲み終えたので、部屋に帰って休もうとしたら、3階の廊下で清掃係の白人オバサン(っていうかお婆さん)に出会った。「何号室のお客様?」と聞かれたので、素直に「302号室です」と答えたら、「ああ、明日、出発されるお客様ですね」と笑顔。ちゃんと覚えているとは優秀なオバサンだな。おそらくこの人が、昨日、チップの礼状を書いてくれた「あなたのメイド」だろう。俺は、キューバでは、とりあえずババアにモテるらしいぞ(苦笑)。

メイドさんだからって、バカにしてはいけない。外国人観光客相手の仕事は、平均的なキューバ人の数倍の収入になるに違いないからだ。たとえば、俺が無造作にあげる1ペソのチップは、市井では25倍の価値を持つのだから、チップ収入だけを考えても一財産になるはずだ。キューバは社会主義の理想を貫徹してはいるけれど、観光産業を国家経済の柱に据えた以上、こういった形で市井に所得格差が生まれることは避けられないことだろう。

さて、しばらく部屋で休んだ後、近くの国立美術館に遊びに行くことにした。ここは、ホテル・プラサと革命博物館によって挟まれた区画に建つ近代的な建物である。

肩掛けカバンで石造りの正門を潜ったら、荷物は全てクロークに預けろと言われた。係員が泥棒だったらどうする?不安になったが、断るのもおかしいので、仕方なしにカバンを預けた。

それから受付で料金を払おうとしたら、入館料5ペソのはずなのに3ペソで良いと言われた。どうして値下げしたのか係員に聞くと、今日は館内の冷房が故障中であるため特別に値下げしてくれたのだとか。こういうのって、日本や欧米では有り得ないことだろう。

面白いと感じるのは、キューバ社会では、諸事において料金体系がフレキシブルな点である。タクシーの料金しかり、観光バスしかり。ペットボトルのミネラルウォーターも、同じ店なのに日によって値段が異なったりする。「真面目な社会主義」は、あまり貨幣経済に重きを置かないためだろうか?

逆に、この国では、どこに泥棒がいるか分からない危険性がある。何しろ「真面目な社会主義」は、「私有財産を尊重する」という考え方をしないから、他人の物でも罪悪感なく盗むし、遠慮会釈なくボッタりセビるからだ。どうやら彼らは、「金持ちは貧乏人に財産を分けるのが当然だ」と考えているらしい。市井を歩いていて、無邪気な顔で自然にカネをねだる人たちに出会うと、社会主義体制が人間の在り方まで変えてしまうことに気付く。

もっとも、それは「キューバ人がラテン系だから」という要素もあるだろうから(笑)、杓子定規に社会主義のせいにする見方は間違っているのかもしれない。

さて、国立美術館だ。

明るい近代建築は、予想以上に居心地が良い。広大な吹き抜けの1階フロアは、大きな緑の庭園を取り囲むような形で、彫刻を中心とした前衛美術が並び、その一角にはセンスの良いカフェがある。

ここを階段で上がると、2階と3階は、吹き抜け部分を囲む回遊型展示室となっており、これをグルっと回りながら鑑賞する流れだ。思ったよりも政治臭が少なくて、普通に見事にキューバ人芸術家の前衛彫刻や前衛絵画が並んでいた。

そういえば、受付で冷房は故障中と言われたけど、内部は広壮としているし展示スペースの間取りが贅沢なので、ほとんど暑さを感じない。

俺は、前衛美術については好き嫌いが激しく、日本の美術館に入っても、「ここはダメだ!」「この人の作品は俺には合わぬ!」となる場合が多い。ところが、キューバのこの美術館は非常に気に入った。余裕があれば、一日中いても飽きないかもしれない。

こうした素晴らしい独特の美術の成果は、時間にふんだんに余裕があって、しかも金儲けと無縁に芸術活動を行えるキューバだからだろうか?

それでも、閉館時間が近づいたし、足の痛み(豆がたくさん出来ていた)が耐え難くなって来たので、惜しみつつもこの素晴らしい美術館を後にするのだった。

 

最後の晩餐、そして盗難

ホテルの部屋に帰り、携帯電話でMさんと連絡を取って、夕飯の待ち合わせ時間を決めた。それから、シャワーを浴びて仮眠した。それにしても、全身の火ぶくれと足の裏の豆の痛みは、かなりシャレにならない。我ながら、この殺人的な炎天下を良く歩いたものだわい。

ホテル・プラサのロビーで、6時にMさんと合流した。それから、カピトリオの前にあるMさんご推奨のキューバ料理レストランで、いろいろと珍しい料理を注文した。アボガドのツナサラダなど非常に美味であったが、最も気に入ったのは、大きなデキャンタで出て来るレモネードだった。生まれてこの方、こんなに美味いレモネードは飲んだことがない。それでレモネードを飲み過ぎたため、肝心の鶏肉料理やコングリの味などはあまり記憶に残っていない(汗)。

ガイド料の精算なども終えたので、レストランを出たところ、周囲がやけに薄暗い。どうやら停電のようだ。だけど、しばらくすると復旧したので、単なる一時的な事故だったのかもしれない。

さんによれば、ラウル・カストロ議長は、やたらと経済危機を強調し停電の可能性などにも言及しているようだが、実際には大した問題は起きていないらしい。どうやら、わざと悲観的なことを言って国民に緊張感を与えるのがラウル議長の政治手法であるようだ。

ラウルはフィデルの実弟であるため、彼が兄の地位を引き継いだことについては「世襲じゃないか!」との批判や失望が内外からあるらしい。ただし、ラウル氏は革命運動の最初期からのメンバーだし、自ら銃を取って屍の山を乗り越えて来た人物だ。また、非常に有能で人望も篤いので、彼が後継者になることは、むしろ当然であった。

それよりも深刻な問題は、「その次がいない」点である。フィデルやラウルには何人も実子がいるのだが、彼らは自分の子供に跡を譲る気はまったくないらしい。実際、政府の重職についている子供は皆無である。そこが、北朝鮮とは決定的に違うところだ。かといって、若手の有能な高官たちは、先述のカルロス・ラヘのように「贅沢したから」という理由で次々に失脚してしまう。

そもそも、キューバ革命体制自体が、未だに前議長フィデル・カストロの超絶的なカリスマ性によって維持されていると言っても過言ではない。キューバ国民は、フィデル翁のことが大好きだから、この体制を受容しているのだ。敵国アメリカも、フィデルのこの人気と知謀を知っているからこそ、この小さな島国に大規模な攻撃を加えることが出来ずにいるのだ。しかし、そのフィデル翁はもう83歳だ。

もしかすると、キューバ革命政権の寿命自体が、いや、世界でほとんど唯一の「真面目な社会主義」の寿命自体がもう長くないのかもしれない。

などと寂しく考えつつ、ガルシア・ロルカ劇場の隣の喫茶店で、Mさんとエスプレッソを飲んだ。

この時の話し合いで、例のお土産の葉巻は結局、Mさんの友達がカナダ経由で日本に持って行ってくれることに決まったので安心した。キューバ葉巻はかなり高価なので、アメリカの税関で没収されたら、関係者一同にとって極めて不愉快だろうから。

ともあれ、キューバのコーヒーはとても美味い。昨年のポーランドとは雲泥の差だ。

美しい中央公園付近の夜景を楽しみつつ、コーヒーも飲み終えたしお金がらみの用談も済んだので、日本での再会を約束しつつ、Mさんにお礼を言って別れた。

さて、いよいよ明日はこの国を発つことになる。それで、部屋で荷物の点検を始めたところ、かなり盗まれていることが分かった。まず、電子辞書が無くなっている。次に、MDプレイヤーが、その中に入れておいた「雑種テープ29巻」ごと無くなっている。どちらも購入後3年以上経っている安物だから、損害保険の対象にもなりはしないし、金銭的ダメージは少ない代物だ。だけど、やっぱり盗まれたことは不愉快だ。

それにしても、どこで盗まれたのだろうか?今回の旅行では、いつも以上に盗難に気を付けていたので、カードなどの貴重品はすべて部屋の金庫に厳重保管していた。また、特に必要が無い限り、肩掛けカバンでさえ外に持ち歩かないようにしていたし、持ち歩く場合であっても肌身離さずにいた。

唯一考えられる可能性は、初日の革命博物館のクロークと、今日の国立美術館のクロークである。ホテルの外でカバンを手放したのは、この2回のみだからだ。おそらく、前者が怪しい。

もっとも、最終日の前夜になって荷物を点検するまで、盗まれたことに気付かなかった俺もウカツである。まあ、盗まれたのが、それだけ重要度の低いどうでも良い品物だったとも言えるのだが。

今回の旅行では、「キューバはきっと泥棒が多いだろう」と正しく予想していたため、最低限必要なものしか持参して来なかった。デジカメがバッテリー切れになったのも、アダプターをわざと日本に置いて来たからである。現地に来てからは、パスポートもクレジットカードも、ほとんど常に金庫に入れっ放しにしておいた。これだけ用心していたのに、それでも盗まれるとは、キューバ人恐るべし!

かなり不愉快な気分になりつつ、そのまま不貞寝した。