発端
俺は、24歳になるまで、海外旅行というものをしたことがなかった。どうしてかというと、貧乏だったからである。でも、好奇心と冒険心だけは人一倍あったので、何が何でも海外に行ってみたかった。そこで、就職して金が出来た一年目の夏(ボーナスがたっぷり出た)に、イギリスに行こうと思い立ったのである。
どうしてイギリスなのか。それは、言葉が通じる可能性が高く、治安が比較的安定していると思われたからである。また、俺は博物館大好き男なので、世界一の規模を誇る「大英博物館」を、ぜひとも訪れたかったのだ。
最初は、一人で行こうと思っていた。団体旅行は自由が無いから嫌いなので、飛行機とホテルだけを旅行会社に取ってもらい、現地では完全に自由行動できるツアー(近畿日本ツーリストのマイ・ツアー)に申し込んだ。ところが、同期入社の飲み会の席で、田中くん(以下、バンちゃん)が一緒に行きたいと言い出した。別に断る理由は無いし、初めての海外旅行が一人ぼっちでは不安でもある。そこで、彼に俺が申し込んだツアーを教えて、追加申し込みしてもらったのだった。
二人は、別の部署に所属しており、仕事の内容もバラバラなので、旅行当日まで殆ど会わなかった。一度だけ会合を開いて、持ち物や事前の英語学習を確認したくらいだった。
8月7日(月曜日)
さて、1993年8月の成田空港だ。
俺は、ここに来るのは初めてなので、なんか感動した。新宿から乗った成田エクスプレスも、実に格好良くて快適だった(当時は、素直にそう思えた)。
バンちゃんは、お父さんに車で成田まで送ってもらうというので、彼とは空港のブースで待ち合わせということにした。それにしても彼は、埼玉県民のはずだが、わざわざ車で送ってくれる家族がいるとは、なかなか過保護なことで結構だな。
現地での合流はスムーズに行って、マイ・ツアーのブースで航空券や宿泊券を無事に受け取り、飛行機の発着が見えるレストランで軽く朝飯を食った。 我々が乗る機体は、大韓航空だ。安いツアーに申し込むと、こういう事になるわけ。それも、ロンドンまでまっすぐ飛ばず、ソウルで乗り換えないといけないから、ちょっと面倒くさい。
ソウルまでの便では、俺は窓側の三列のうち真中の席をあてがわれた。右横の窓際がバンちゃんで、左横廊下側には白人青年が座った。どういう経緯かは忘れたが、白人青年と親しくなって、機中でずっと会話する羽目になった。それも、英語で。
自慢じゃないが、俺は大学受験の英語の偏差値が50をきっちゃった人なのだ。そんな人が、最初は一人でイギリスに行こうと考えたこと自体が無謀と言えなくもないのだが、不思議なことに、会話がまともに成立した。その青年がデンマーク人だったので、発音が分かりやすかったせいもあるだろう。彼は、日本商社に勤めている人で、休暇で祖国に帰るところだという。名前は、日本語では発音不能なので、取りあえずアーボさんと呼ぶことにした。ギョエテをゲーテと表記するようなものだが仕方ない。
お国自慢が始まった。隣のバンちゃんが、なぜか世界地図帳を持っていたので、その国勢調査のページを開きながら舌戦したところ、デンマーク人は、どうやら平野面積の広さが自慢らしいのだ。「平野面積を問題にする以前に、めちゃくちゃ小さい国じゃんか」と俺が馬鹿にすると、彼は、「なにおう、お前はグリーンランドを知らないのか」と言い返してきた。ああ、そういえば、あそこはデンマーク領なのね。人が住めない氷漬けの島だけど、面積自慢のポイントにはなるわけね。 それにしても、韓国までの2時間を、英会話三昧で過ごしたわけだから、中途半端に英会話学校に通うより、よっぽど勉強になったはずだ。この経験は、後に生きてくる。何よりも、不安だった自分の英語能力に自信がついた事が大きい。
・・・それにしても、大学受験の偏差値なんて、実生活では全然関係ないことが実に良く分かった。我が国の教育制度は、根底の部分で間違っていると思うぞ。 ソウルでのトランジットは問題なく済んだが、この地からロンドンまで、やっぱり大韓航空だ。しかも、ロシア領の上を飛ぶ。ミサイルが飛んでこないか心配だが、心配してもしょうがないので開き直る。
それにしても、窓外に広がるロシアの深緑の大地は圧巻だ。モスクワ近辺にまで達しても、尚も土地が余りまくっている。きっと、一坪1円もしないのだろうな。でも、冬はきっと地獄の寒さだろう。ともあれ、飛行機の中では、大部分の時間を寝て過ごした。俺は、どこででも何時間でも眠れる特技の持ち主なのだった。
その間、バンちゃんはイギリス史の本を読みふけっていたのだが、彼は会計士にしてはなかなか勉強家で感心だ(会計士は、受験勉強のし過ぎで、一般教養に乏しい人が多いのだが)。
さて、夕方にロンドン上空に達する。窓外には、美しく広がる赤屋根の列。初めて肉眼で見たけれど、やっぱりヨーロッパの街は綺麗だ。東京なんかとは比較にならない。きっと、散歩するだけで楽しいのだろう、と夢を膨らます。
ヒースロー空港に降りると、マイ・ツアーの駐在員が迎えに来ていた。白人の太ったオバサンだが、日本語はペラペラだ。ちょっと神経質そうで、目がいつでもオドオドしている。同じツアーの客は全部で10人くらい。中年夫婦もいれば若い女性たちもいた。
俺は、ツアー客の群れから離れて両替所に行った。その目的は、親父から貰った古いポンド札(10年前のもの)を、新札に変えてもらうことであった。しかし、受付の姉ちゃんが早口なので、いきなり意思疎通ができない。やはり、本場の英語は難しいなあ。すると、駐在員のオバチャンが血相変えて飛んできた。「トラブルですか!トラブルですか!」。見かけどおりに神経質だ。面倒くさくなったので、ここでの両替は諦めた。
さて、空港からホテルへは、マイ・ツアーの借切シャトルバスで行く。思ったよりも道は空いていたので、ロンドン市内には簡単に乗り入れできた。我々が泊まるホテルは、「グレート・ウェスタン・ロイヤル・ホテル」という厳しい名前のヨーロピアンスタイルだ。すぐ近くにパティントン駅があるから、地の利は得ている。
ただ、ヨーロピアンスタイルは、築100年とかいう骨董品ものが多く、我らがグレート・・・もその例に漏れなかった。木造の階段はミシミシいうし、ツインルームの部屋の鍵は、錠前式で結構固い。不器用なバンちゃんでは開閉できないので、俺がドアマンの係になった。
ホテルのロビーで駐在員やツアー仲間と別れ、後は5日間の自由行動となった。ナーバスな駐在員は、くれぐれもトラブルは起こすなと言い続け、市街地図を全員に配って去っていった。
俺はロビーで、例の旧札を新札に換えてもらおうと試みたが、どうやら銀行などに行かないと無理だと分かったので、今回の旅行中での両替は断念することにした。
時刻は夜7時。友人との相部屋に荷物を置いて落着いたころ、ちょうど腹も減ったので、二人で飯を食いに出ることにした。ロンドンは、8月でも随分と涼しくて軽井沢にいるみたいだ。日本のような湿気がないだけでも全然違う。でも、きっと冬はとんでもなく寒いのだろうな。
我々は、ホテルの真向かいのカフェで腹ごしらえすることにした。俺は、色の黒い姉ちゃんにカレー料理とビールを注文すると、さっそく持ってきたガイドブックをテーブルに出して、今後の旅程を詰めようとした。ところが、バンちゃんが持ってきた本を見ると、例の世界地図帳とイギリス史だけなのである。俺は、少なからず驚いた。
「ガイドブックとか観光案内とか無いの?」
「持ってきてないよ」
「・・・なんで?」
「君が持ってくると思ったから」
だからって、世界地図帳持ってくる奴があるか。デンマーク人と親睦を図る上では貢献したけど、現地では全く意味ねえぞ。だいたい、自由旅行なのに、現地情報を研究してこねえとはどういうこった。はらわたが煮えたが、今更どうしようもないので、諦めて黙りこんだ。ウエイトレスへの対応を見るに、彼はどうやら英語もまったく出来ないようだ。不安感が、津波のように心を覆い尽くす。
カレーは、ライスにかける形式ではなくて、ポテトに漬けて食べるものだった。なかなか、ビールには合う味だ。しかし、味を楽しむ心の余裕は無かった。口に運ぶポテトの味は、日増しにゴムのようになってきた。異国で二人きり。しかも、相棒は頼りにならない。前途への不安は、高まるばかりだ。
でも、酔いが回ってきたためか、そういう心配はホテルへの帰路で薄れていった。どうせ、もともと一人で来るはずだったんだ。相棒が頼りないなら、全てを自分で仕切るしかない。つまり、一から十まで自分の思い通りに旅程を組めるのだから、それはそれでナイスかもしれぬ。
しかし、部屋に戻った我々は、いきなりトラブルに見舞われたのである。シャワーを浴びようと思った俺は、蛇口に針金が巻かれているのに気付いた。「なんだこれ」と思ったが、深く考えずに捻ってみたところ、噴出した熱湯が止まらなくなったのだ。なんというボロ。 俺は、服を着て大急ぎでロビーに人を呼びに行ったところ、玄関脇にいた大柄なポーターが、まっすぐに部屋に来てくれた。彼は、ずぶ濡れになりながらシャワーと格闘したが、結局、直すことができなかった。このとき、彼がペンチを要求したのに、我々はペンスと聞き間違えて、2ペンス硬貨を渡したのが笑い話だ。
だいたい、旅行者にペンチを要求するポーターもどうかと思うが。
結局彼は、明日、修理工を呼んで直してもらうと言い残して去っていった。
我々は、うるさい浴室の水音に悩まされながら眠りについた。まあ、音さえ我慢すれば、いつでもシャワーを浴びれるわけだ。なんでも能天気に考える俺である。もともと誰が悪いのかというと・・・他ならぬ俺なんだけどね。