歴史ぱびりよん

発端


今回の旅行は、難産の末に実現した。

まずは、Kゼミの話から。

大学のKゼミは、おそらく日本一OB会が充実した会計学のゼミである。とにかく、OB同士が仲良しなのである。俺も、大学を卒業してから10年以上経つというのに、様々な形でここに入り浸る日々であった。

さて、このゼミにモンゴル人留学生のハリウンさんが入ったことが、モンゴル旅行の発端であった。

あれは、今を去る4年前のこと。K先生を囲む酒席(原価計算学会の帰りだったと思うが)にて、俺は初めてモンゴル人留学生がゼミに加入することを耳にした。

俺 「先生、その人は、日本の何に興味があるのでしょうか?」

先生「そういえば、鎌倉に行きたがってたなあ」

俺 「私が案内します。私が案内します。私が案内しますう!(絶叫)」

岳夫(=ゼミ同期の親友)「おい、お前の下心は見え見えなんだよ!ここで恩を売って、モンゴルを案内してもらおうと企んでいるだろう!(笑)」

俺 「むむむー、ばれたかー」

岳夫「いやいや、罪深い妄念だが、俺もお前と同じ考えだ!」

ほとんど、湊川で自決する直前の楠木正成兄弟の会話(七生報国)みたいだが、これが今回の旅行の発端だったのである。俺の頭の中に、「留学生に、モンゴルに連れて行ってもらう」プランが根ざしたのであった。

そういうわけで、次のゼミ合宿のときに、さっそくハリウンさんに会いに行ったのである。

モンゴル人というから、「馬上疾駆しながら振り向きざまに左右に百発百中の弓を射る巨漢」とか、「全身に刺青をした毛むくじゃらの怪人」を想像していたのだが、実際には「普通の女の子」だったので、少なからずがっかりした(笑)。

とりあえず、俺が「鎌倉を案内してあげるよ!」と持ちかけたら、流暢な日本語で「とっくに行っちゃいましたよ!」とのお返事。いきなり、ずっこけてしまった。仕方ないので、「ノモンハン事件のときは、迷惑かけて悪かったねえ」とか適当な会話に逃げた。まあ、モンゴルだって13世紀には日本に迷惑かけまくったんだがな!

それでもハリウンさんは、大学を卒業してからもゼミ関係の集まりに足しげく参加してくれるし、もともと日本語が完璧な上に一種独特の愛嬌を持った可愛らしい女性だったから、すっかりみんなの人気者になっていた(褒めすぎかいな・・・)。

こうして、「モンゴル旅行」は日増しに実現可能性を強めていったのである。

具体的に話が持ち上がったのが、今を去る2年前(2002年)の11月だ。日本商社に入社して仕事にも慣れたハリウンさんが、久しぶりに里帰りをしたい気分になって、みんなを誘ったのだ。俺は、思わずその場で万歳三唱をしちまった。

最初に参加を表明したのは、俺と岳夫と、OB会会長の望月さんとK先生の4人だった。しかし、ほどなく先生は「体調に自信がない」とのことで断念し、岳夫も大学関係の仕事を休めないかもしれないという理由で難色を示し始めた。

ネックになったのは、旅行の時期である。ハリウンは、何が何でも故郷のお祭り(ナーダム)を見に帰りたいというのだが、ナーダムは毎年7月11日からの3日間だ。その時期だと、会計士の俺と税理士の望月さんは暇なのだが、大学関係者はむしろ忙しいのである。

これは、もしかすると、俺と望月さんの2人しか参加できないのか?

それを知ったハリウンは、「せっかくみんなにモンゴルを案内してあげようと思ったのに、変なオジサンが2人しか来ないんじゃ、あたしが可哀想すぎるー」との暴言を吐きおった。言ってること自体は、決して間違ってないんだがなー(笑)。

こういうときに力を発揮するのは、いつも俺だ。ゼミの後輩たちを口説きまくって、なんとか形を整えつつあったのが2003年の3月(つまり1年半前)。

ところが、モンゴル在住のハリウンの弟が急遽、結婚することになった。10月の結婚式に列席しなければならない彼女としては、7月のナーダムに続いて1年に2度も帰省することになるのでたいへんだ。それでも彼女はナーダム見物を強行したがったのだが、先生のアドバイスもあり、また、俺自身も仕切りなおしの必要を感じていたこともあって、そのときのモンゴル旅行は1年延期することにした。ハリウンに延期を説得するのが、なかなかたいへんだったのだが。

俺が仕切りなおしをしたがった最大の理由は、実をいうと岳夫こと岳ちゃんの存在だ。俺は、何としても彼と一緒に旅行に行きたかったのである。1年延期にすれば、彼にも仕事を何とかする時間的余裕が出来るはずだと考えたのだ。俺は彼の両肩に手を置き、「俺は、君が来ないと困るんだ!」の一声で、彼から「翌年は何が何でも参加するから」との確約を得たのであった。

しかし、次の問題が持ち上がった。肝心のハリウンが、「しばらく英語の勉強に専念したいから、当分、モンゴルには帰りません」と言い出したのだ。

もしかすると、モンゴル旅行は、永遠に実現しないのではないだろうか?

どんなに走っても追いつけない蜃気楼ではないのだろうか?

それでも、ハリウンとの友情は変わらず続いていた。友情というのは、利害打算ではなく、心と心の契りだからな。

忘れもしない今年(2004年)の3月、ハリウンと渋谷のライブハウスに行く打ち合わせをしていたときだったと思うが、ふと気になった俺が、「今年のモンゴルは、無しだよな」と確認したところ、返ってきた返事が「行く予定」。

ハリウンは、基本的には良い娘なのだが、マイペースで気まぐれなのが玉に瑕である。これは、遊牧騎馬民族のDNAのなせる業だろうか?

俺は、大慌てで関係者にメールを打ちまくった。急なことだったので、昨年に声をかけておいた後輩たちは全滅だったのだが、幸いなことに望月会長と岳ちゃんが乗ってきてくれた。また、先生夫妻も乗り気であった。これならベストな状況で実現するぞ!

意外なことに、仕事が忙しくていつもは身動き取れないはずの後輩、宮下さん(宮ちゃん)も、話を聞きつけて参加表明してくれた。彼女は、今年が職場での10年表彰なので、いつもより多く休暇を取れるのだ。でも、若い女性なのに、滅多に取れない休暇の使い道がモンゴル旅行でいいのだろうか?まあ、人それぞれだが。

さらに、ハリウンと同期の宮内さん(わかなちゃん)も参加表明してくれたのである。旅行会社勤務の彼女は、仕事が比較的楽な部署に異動になったばかりだった。

「1年延期して大正解だったぞ!」と、大満悦の俺である。

しかし、番狂わせが起きた。

肝心の岳ちゃんが、仕事が予期せぬ忙しさを見せたため、キャンセルを申し出て来たのだ。彼の心を良く知る俺は、何も言うことが出来なかった。本当は、モンゴルに一番行きたかったのは彼かもしれない。彼は、大自然や動物をこの上なく愛する男なのだから。しかし、彼は宮仕えの身分だし女房と子供もいる。自営業で独身野郎の俺とは、置かれた状況が根本的に異なるのだ。

暗い気持ちでハリウンに報告したら、その返事が「岳夫さんは残念だけど、三浦さんは絶対に来てね。来てくれないと困るから」。これって、俺が岳夫を口説いたのと同じセリフなので笑ってしまった。友情は、国籍や国境を超越するものなのだなあ。

いずれにせよ、俺は今度こそ、何が何でもモンゴル旅行を実現する気であった。俺は、一度やろうと決めたことを途中で投げ出すのが大嫌いだ。仮にハリウンが帰省できなくなったとしても、今回は一人でも突撃する覚悟であった(大げさだねえ)。

そうこうするうちに、やがて先生ご夫妻も、体調その他の理由で、正式に不参加を伝えて来た。これも残念だが、仕方がない。

こうして、最終メンバーは、望月会長、俺、宮下(宮ちゃん)、宮内(わかなちゃん)、そしてハリウンの5名となった。考えて見たら、こんなに大勢で旅行に出るのは実に久しぶりである。しかも、メンバーの過半数が若い女性と来たもんだ。どうなることやら。

旅行会社の手配は、全て望月さんが行ってくれた。実をいうと、ナーダムの時期は混むので、なかなかホテルの手配が出来ないのである。俺もそれなりに動いたのだが、うまく行かない。結果的に、旅行会社にコネクションを持つ望月さんにお願いすることとなり、こうして旅程のほとんどが望月さん仕様になったのだ。

彼は名古屋人で、しかも韓国大好き人間なので、旅程もそれに合わせて組まれた。名古屋空港にモンゴルへの直行便が存在しない以上、名古屋人はソウルか北京を経由するしかない。そういうわけで、大韓航空を用いてソウル経由でモンゴルに入るプランになったのである。

ただしこのプランは、往復ともソウルでの待ち時間がかなり多いので、帰路はソウルに1泊して韓国観光も行うことになる。結果的に日数とコストが余分にかかるので、賛否両論を巻き起こすことになった。

わかなちゃんこと宮内さんは、最近韓国に行ったばかりだし、コスト高も嫌だし、また彼女が勤務している旅行会社の顔を立てたいということもあって、往復ともモンゴル航空(MIAT)の直行便で別行動することにした。

ハリウンも、せっかくの帰省なのだから、往復とも我々と別行動で早めに日本を起つことになった。もちろん、彼女もモンゴル航空の直行便を用いる。

残された俺と宮ちゃんは、日ごろから望月さんと仲良くしていることもあり、ずっと彼と同一行動(ソウル経由プラン)を取ることにした。

なんだか、出発する前から心がバラバラのメンツという気もするな(笑)。どうなることやら。

モンゴル大使館でのビザ申請に手間取ったり(受付の姉ちゃんたちが、パスポートごと失しそうになった。すごい大使館だな)、航空券の発券が異常に遅れたり(名古屋観光、ふざけんな!)、望月さんが体調を崩したり、実にトラブル続きの日々ではあったが、なんとか準備は整った。

こうして、出発の日を迎える。