歴史ぱびりよん > 世界旅行記 > モンゴル旅行記(附韓国旅行記) > 7月13日火曜日 ウランバートル市内観光
(1)ホテルとの別れ
(2)ザイサンの丘
(3)ボグドハーン宮殿博物館
(4)モンゴルの歴史について
(5)昼食を求めて
(6)自然史博物館
(7)国営デパート
(8)馬乳酒
(9)モンゴリアンホテル
(10)空港へ
(1)ホテルとの別れ
いつものように、7時30分に起床して朝食に行った。 空は、快晴だ。
今回は、宿泊棟が変わった関係で中華バイキングに行ったのだが、料理はあまり変わりばえ無かった。キムチチャーハンは、ちょっと美味かったけどな。
この中華バイキングの食堂は、洋食バイキングと違ってガラガラだった。フラワーホテルは、混雑を避けるため、東棟の宿泊客には洋食バイキングの食堂を、西棟の宿泊客には中華バイキングの食堂を選ばせるシステムになっていた。しかし、食堂の入口で誰もルームキーをチェックしないので、好きなほうに勝手に行ってしまう客が多い。洋食バイキングがいつも混んでいるのに、中華バイキングが空いていた理由は、要するにそういうことなのだろう。一事が万事、こういうところが、モンゴルのシステムの杜撰さである。
食事の後、俺はホテル内の「ゴビ」でカシミアのマフラーを買おうと思ったのだが、なぜか店が開いていなかった。まあ、今日は市内観光だから、いくらでも買う機会はあるだろうと思って諦めた。
それにしても、疲労がたまって体調が良くない。便も、やや緩い。さすがに、慣れない環境で無理をしたツケが回りつつある。仲間たちも何かしら体調が弱っていたので、約束の時間まで、各自の部屋でウダウダして過ごした。
10時になって、チェックアウトを済ませてホテルの前で車を待つ。ここともお別れかと思うと、なんだか寂しいな。
10時20分ごろ、仲良し親子を乗せたKIAが現れた。「モンゴル時間」というわけだな。バトボルドさんは、今日は会社がお休み(国民の祝日)なので余裕があるらしい。チェックアウトだと知らなかった彼は、我々の膨大な荷物を見て驚いた。いったん、これをどこかに預けようと思案して、まずは自分の会社に我々を連れて行くことにした。
バトボルドさんが勤めるロシア系資本の石油商社は、ナイラルダム公園の北側、チョイジンラマ寺院博物館の正面にあった。リモコンの自動シャッターで地下駐車場に入った車は、そこの係員と交渉して、ここの地下倉庫に我々の荷物を預けてもらったのである。
(2)ザイサンの丘
身軽になって車上の人となった我々は、バトボルドさんやハリウンと相談した結果、まずは市街南郊のザイサンの丘に向かうことにした。3日前にも立ち寄ったけど、あのときは真っ暗で夜景しか見られなかったのだ。
KIAは、結婚式宮殿の前を通ってから市街を南下した。結婚式宮殿というのは、国民のための公営結婚式場である。最近、朝青龍がここで結婚して話題になった。いちおう、教会のような形をしているが、なんだかお役所っぽい雰囲気の建物だぞ。
モンゴルは、社会主義時代に宗教を徹底的に弾圧した。そのため、結婚まで国が面倒を見るシステムになったのだ。そういった知識を持つ俺から見れば、実に馬鹿らしい施設なのだが、わかなちゃんやハリウンは、こういうのにも惹かれるらしい。女の考えることは、良く分からん。結婚なんて、そもそも戸籍にサインするだけで十分じゃねえか(笑)。
ちなみに、社会主義政権が無血革命で崩壊してからは、この国でも信仰の自由が保証されるようになった。そのため、近頃ではチベット仏教が復活し、キリスト教も浸透しているというから、結婚式宮殿もいつかその役割を終える日が来るのかもしれない。
カーオーディオでポール・モーリアを流しつつ、KIAはピースブリッジ下の給油所に立ち寄った。ここの軽油は満タンで30,000トウグルクだった。つまり3,000円程度だから、あまり日本で買うのと変わらない。やはり、ロシアから長い距離をパイプラインで引いているからだろうな。もちろん、ここの御代は我々で支払った。これくらいは、させてもらわないと。
栄養満タンになったKIAは、美しい青空の下を疾走し、やがてザイサン丘の麓に到着した。真っ青な空を背景に黄緑色に輝く小高い美しい丘陵は、下から眺めるだけでも楽しい。バトボルドさんは車に残り、5人で頂上を目指した。
麓から頂上までは、コンクリート造りの階段が続く。少し階段を登ると、左横に立派な台座があって、その上にソ連のT34戦車が載っていた。これは、第二次大戦でドイツを打ち負かした主力戦車なのだが、なにしろソ連の偉大さの象徴なので、旧社会主義国の至るところに置いてある。そういえば、2年前にもプラハで見かけたな。コンクリート造りの台座を良く見ると、おそらくこの戦車の戦跡なのだろうが、モスクワからベルリンまでの紆余曲折の道のりが彫ってあった。でも、モンゴルとは全然関係ないじゃんか!(笑)。
頂上までの階段は、意外と険しい。女性3人は見る間に後方に引き離され、俺と望月さんで一番乗りを競った。丘の中腹にはヤギの群れがいたりして実に楽しい。
しかし、階段脇の電灯は、その多くが壊れていた。修理するだけの予算が付かないのだろうか?モンゴルのインフラ整備は、その多くを外国のODAに頼っているので、古くなったり壊れたりしたときに、迅速に対応できない場合が多いのだろう。
階段脇の露店の土産屋を冷やかしつつも、一番乗りは俺だった。
ザイサンの丘の頂上は、初日にバトボルドさんが教えてくれたように、ソ連の偉業を称え、モンゴルとソ連の友情を称揚するモニュメントになっている。
頂上は、直径20メートル程度の石造りの円盤状に整地されている。その中央に烽火台みたいのがあって、焦げ臭い煙を吹いていた。本当は、ここには炎が灯っていなきゃいけないんだろうな。円盤状の整地の周縁部は、出入口を除いて、大きなコンクリートの壁にグルっと囲まれる構造になっている。この内壁全体に、ソ連とモンゴルの友好の歴史を物語るモザイクが張られているのだった。出入口から見て左側から、時計回りに歴史が進む。1921年の革命における共闘から、1960年代の宇宙開発(モンゴル人も宇宙飛行をした)までの物語だ。その時代ごとに、ロシア人とモンゴル人が握手をし、背景には民衆や飛行機や戦車や宇宙ロケットが活写される。
モザイクの中ごろで、人々の足元に日章旗や黒十字(ドイツ)の旗が踏まれているのは、ノモンハン事件や第二次大戦の象徴なのだろう。
俺がハリウンに、「ほれ、君の先祖が、うちの旗を踏んづけてるぜ」と言ったら、「あれは、きっと日本の旗じゃない」と返しおった。彼女は、日本とモンゴルが両方とも大好きなので、あまりこういうことを認めたがらないのだ。
そういえば、ハリウンと13世紀の元寇について話したことがある。俺が「お前の先祖は2度も攻めてきやがって、残虐非道のひどい奴らだな」と言ったら、彼女は「あれはきっとモンゴル人の仕業じゃない。モンゴル人はそもそも海が怖くて船に乗れないし、海の魚だって食べられないんだから、日本まで行けたはずがありません」と返した。彼女が言っていることは、あるいは歴史的事実に反しているのかもしれないが、元寇がモンゴルの大敗に終わった本質的理由を衝いているような気がして興味深かった。
モザイク観賞に飽きると、いよいよ眺望を楽しむ番だ。頂上を円状に取り囲む壁には、ちょうど顔の高さに大きな隙間があり、ここからウランバートルの全景を望むことが出来る。
プラハには及びもつかないが、実に美しい街だ。この美しさは、日本や中国の都市では考えられない。ウランバートルは、ロシアの影響を受けて築かれたヨーロッパ風の都市だから、機能性ばかりを追及する日本の都市と違って、「美観」の素晴らしさを大切にしているのだろうな。そういうわけで、ひとしきり記念撮影と洒落込んだ。
(3)ボグドハーン宮殿博物館
階段脇の露店を冷やかしつつザイサンの丘を中腹まで降りると、バトボルドさんが車をここまで回してくれていた。
さて、次の目的地は、鉄道駅に近いところにある民芸品店だ。ここは、バトボルドさんが2日目に推薦してくれた場所で、2階建てのシックなビルに、様々な民芸品店が入っている。俺の財布は、さすがに空っぽになりかけていたのだが、残念ながらここではカードが使えない。それに気づかなかった俺は、カシミアのマフラーを「ゴビ」で見つけて、包装までしてもらってから、「ごめん、キャッシュがありません」と店の姉ちゃんに英語で謝る羽目になった。それでも、別の店で安価なカシミアの帽子を見つけ、なんとか残りのトウグルクで買うことに成功した。これは、吉祥寺の行きつけの「お店の姉ちゃん」へのお土産である。おっと、これは、同行している女性陣には内緒にしとかないとなあ(笑)。
噂の女性陣は、ハリウンの助けを借りて、皮製の小物をたくさん買っていた。どうやら、職場の同僚たちへのお土産にするらしい。望月さんはといえば、奥さんに頼まれたブランド品を探したのに、見つからなかったようだ。
店を出た我々は、再び車に乗ると、元来た道を引き返す形で、「ボグドハーン宮殿博物館」に行くことになった。
ボグドハーンというのは、20世紀初頭に一時的に「モンゴル帝国」を再興した人物である。この人の宮殿が、そのままチベット仏教や当時のモンゴル文化を伝える博物館になっているのだ。ここは、沿道から何度も見かけているのだが、濃緑色の美しい寺院の屋根が印象的な場所である。俺は緑色が大好きなので、どうせ寺院系を見るならここが良いと、ずっと主張していたのだった。
KIAは、博物館の駐車場に滑り込んだ。バトボルドさんは、娘に携帯電話を渡して、いったん自宅に帰ることになった。しばらく、徒歩で自由に行動するべし。俺としては、望むところである。
ハリウンの力を借りてチケットを購入した我々は、ゲートを潜って広大な野外博物館に入った。ここは、大きく分けて寺院エリアと宮殿エリアから成るのだが、寺院部分はボグドハーンの夏の住居で、西欧風の宮殿部分は冬宮だったらしい。たまたま、団体観光客が我々のすぐ前にいたので、多少の情報はガイドの声(英語だったけどな)を盗み聞きしてゲット出来たのだ。まあ、いつも行使する「得意技」である。
団体さんを追い抜いた我々は、拝観順序に従って寺院エリアから見て回った。チベット仏教の寺院といっても、基本構造は日本のお寺と変わらない。いくつかの荘厳な門を潜って奥の院に入るのだが、門の中には強そうな仏様が2体、仁王立ちしている。緑の屋根が印象的な建物は、その全てが木組みだけの、独特の建築技術の産物なのだそうだ。
本道の左右にはいくつもの厨(くるわ)があり、その中は、仏像や悪魔像や曼荼羅の一大博物館になっていた。我々は、様々な美術品を見て大いに楽しんだ。それにしても、作者不明の彫像や絵画が多いのに驚くが、これはボグドハーン没後のモンゴルの政治文化の大混乱に関係があるのだろうか。
チベット仏教の仏像は、人間的というか生々しいものが多い。明らかに、女性の裸身を象ったものまである。その理由は、チベット仏教がセックスを奨励する教義だからであろう。
司馬遼太郎さんは、この状況を指して、「モンゴル人がチベット仏教に嵌ったのは、彼らを惰弱な民族に変えようとする中国人の謀略だ」と評したが、それはちょっと穿ちすぎだと思う。なぜなら、モンゴルとチベット仏教の関係は、モンゴルが世界最強の民族であった13世紀に、チンギスハーン一族が、民族文化の発展のためにこれを積極的に取り入れたことに始まるからである。
なお、チベット仏教がセックスを礼讃すると言っても、我が国の「真言密教立川」みたいな怪しい内容ではないので、誤解しないように。
ひととおり見学を終えた我々は、順路に従って寺院裏手に回り、ゲルの形をした土産屋を冷やかしてから、グルっと正門の方に回り、来るときに見かけた冬宮に入った。ここは、寺院とは打って変わって、西洋風の真っ白な宮殿だ。ロココ様式に近いかな?
この白い宮殿の中は、ボグドハーン夫妻の豪華絢爛な遺品を中心としたモンゴル文化の博物館になっている。中には、世界中の珍しい動物の剥製も置いてあって興味深かった。ボグドハーンは、世界中の文化に興味を示し、しかも多彩な外交活動を展開した人だから、モンゴルとは思えないバラエティー溢れる品々が満載なのだ。
興味を引かれたのは、モンゴルの風物を全て1枚で表現する絵巻物である。ハリウンも、この作者の大ファンだというから、本屋で見かけたら入手することに決める。結局、本屋には行かなかったんだけどな。
我々は、大いに楽しんで博物館を後にした。
(4)モンゴルの歴史について
ボグドハーンの話が出たついでに、ここでモンゴルの歴史を振り返るとしよう。
ユーラシア大陸のスーパーパワーであったモンゴルは、13世紀以降、中国とロシアの最強のライバルであった。
チンギスハーンを中心とした無敵の騎馬軍団の成功は、必ずしも軍事力に任せた結果ではない。占領地域の制度や文化や宗教を積極的に受け入れ、その長所を有機的に結合させた結果なのだ。イタリア人のマルコ・ポーロが、元帝国の重臣になれたことなど、まさにその典型である。
その元帝国は、明によって滅ぼされたことになっているが、それは不正確な理解である。明の朱元璋は、モンゴルの仲間割れに乗じて、彼らから中原(元帝国の植民地であった南半分)を奪い取ったに過ぎないのだ。このとき北方に退去した元は、その後も数百年にわたって中国とロシアを脅かす大勢力で在り続けた。
しかし、モンゴルの最大の弱点は、「モンゴル民族」としての団結力が弱く、身内(部族)同士ですぐに対立することである。チンギスハーンの大帝国が分裂したのも、その後のモンゴルがついに中国やロシアに屈服したのも、全て身内争いの結果である。そういえば、ハリウンには在日モンゴル人の友人が少ないし、朝青龍は旭鷲山と不仲だ。日本人の感覚では実に奇妙な話なのだが、遊牧民族は、「土地」に基づく結びつきが弱いから、「同じ民族」という同胞意識がどうしても弱くなるのかもしれない。
さて、中国の明朝は、17世紀に女真民族の清に乗っ取られた。モンゴルは、以前から女真族と親しかったため、清朝との仲は当初は極めて円満であった。しかし、相変わらず身内同士の殺し合いに狂奔するモンゴルは、仲裁に入った康熙帝(3代皇帝)の言うなりになるうちに、いつの間にか、清の植民地になってしまったのである。それでも、清のおかげでモンゴルはしばらく平和になった。不仲だった各部族の上に、活仏(かつぶつ)と呼ばれるチベット仏教の大僧正(ゲゲーン)が君臨する形で争いが止んだのである。この活仏の信任については、しばしば清朝の思惑が絡んだので、司馬遼太郎さんから見れば、これこそまさに清の植民地政策ということになる。でも、この間、平和になって幸福を感じたモンゴル人も少なくなかっただろうと思う。
清の立場からすれば、モンゴル地域の政治的安定は重大な課題であった。なぜなら、この大国は、東進を続けるロシアとの間でしばしば国境紛争を起こしていたからである。モンゴルが、チベット仏教の下で大人しくしていることは、清がロシアとの力関係を維持する上で極めて大切だったのだ。
もちろん、搾取もあった。モンゴルに赴任した中国商人たちは、しばしば毛皮目当てでモンゴル人を使役したのである。当時フレー(中国語で「庫倫」)と呼ばれたウランバートルは、もともとは中国商人が毛皮の取引をするために築いた駐屯地であった。
しかし19世紀末、西欧勢力の襲来によって、清朝はガタガタになった。孫文の辛亥革命は、かえって中国の政治的混乱を増す結果となり、無法地域となった中国北部では、武力に任せてモンゴル人から遊牧地を奪う漢民族が勢いを増すばかりであった。こうして放牧地を失い、各地を放浪せざるを得なくなったモンゴル人が、すなわち「馬賊」である。
この状況を憂えたのは、第8代活仏であったボグド大僧正(ジェブツンダンバ8世)である。チベット生まれでチンギスハーンの転生活仏(てんしょうかつぶつ)だと信じられていた彼は、モンゴル人以上にモンゴルを愛する人物だった。彼は、志を同じくする部族長を集め、ついに清からの独立を宣言した。モンゴル帝国の再興である。ボグド大僧正は、ここにボグドハーン(皇帝)を名乗った(1911年12月)。
外交を得意とするボグドハーンは、ロシア、日本さらには西欧諸国に使節を送り、モンゴル帝国の国際的威信を高めようとした。この過程で世界各国から寄せられた宝物こそ、我々が博物館で見た展示物である。
しかし、袁世凱や張作霖の率いる中国軍は、武力に物を言わせて新生モンゴルを潰しにかかった。さらには、ロシア革命(1917年~)の混乱に際して、シベリア出兵の日本軍やロシア白軍の残虐将軍(セミョーノフやらウランゲルやら)たちが乱入し、収拾がつかない状況になった。
これには、さすがのボグドハーンも弱気になり、モンゴルの独立を取り消す寸前になったのである。このとき彗星のように現れたのが、若き英雄スフバートルとチョイバルサンであった。彼らは「極東共和国」(シベリアに日本が建てた傀儡政権。後に、ソ連に吸収される)の支援を受けて1万の兵を集め、そして中国軍とウランゲル軍を撃破し、フレー(ウランバートル)を解放した(1921年7月)。しかし、中国の圧力は未だに弱まらない。そこで、モンゴルの勇士たちが、最後に期待をかけたのはソ連であった。
この当時、ロシアは社会主義革命の成功直後にあった。国際的に孤立していたレーニンやトロツキー率いるソビエト政府は、中国政府の意向を慮るくらいなら、むしろ自分たちの忠実な同志を増やそうと考え、モンゴルを全面的に支援したのである。ここに中国軍は後退し、ついにモンゴルの完全独立が達成されたのであった。
フレーは、ウランバートル(「赤い英雄」という意味)に改称され、ボグドハーンの病没後、モンゴルは「社会主義人民共和国」となった(1924年11月)。これは、世界史上第二番目の社会主義国である。その後、満州事変とノモンハン事件、中国共産革命、中ソ冷戦などを通じて、モンゴルはますますソ連に組み込まれていった。その過程で、多くの弾圧や虐殺が起きたのだが、それでもモンゴル人の「中国嫌いロシア好き」は、こういった歴史の流れ抜きでは説明できない。
そして、冷戦崩壊に伴う無血革命で「モンゴル国(モンゴル・ウルス)」となったこの国は、今では全方位外交で資本主義経済を発展させようと尽力しているのだ。
しかし、モンゴルほど「民族分断」されている国は、実は珍しいのである。中国領内に「内蒙古自治区」というのがあるが、あそこにはモンゴル国と同じ民族が住んでいる。ロシア領内にも、「ブリヤート共和国」に代表されるように、数多くのモンゴル人居住地がある。しかし、モンゴル人はあまりこの状況を問題にしていない。前述のように、あまり「身内意識」を持たない民族だからであろう。
こういった知識をもとに、民族英雄にちなんだボグドハーン宮殿やスフバートルの銅像を見ると、また違った感興が得られるのだ。
これこそ、海外旅行の醍醐味である。
(5)昼飯を求めて
時計を見ると、もう1時だ。
午後の目玉は「自然史博物館」だから、閉館時間を考えるとモタモタしてはいられない。ボグドハーン宮殿を出た一同は、市街中心に向けてブラブラ歩く。
陽光は高く、肌にジリジリ照り付ける。特に、ピースブリッジの歩道の上はきつく、疲労がたまった我々は憔悴の色を濃くしていた。望月さんは、一人でどんどんと早足で行ってしまう。疲労のせいで、B型人間の本性(マイペース)が出始めているようだ。逆に、二人の日本女性は、疲労のせいでペースがどんどんと落ちて行く。A型人間の典型である俺は、両者に気を遣わざるを得ないから、両者のちょうど中間を歩いた。どちらかにトラブルが起きたら、駆けつけてやらねばなるまい。A型人間は、いつも損な役回りだなあ。
沿道を見ると、ピースブリッジ脇には、大きな太い鉄管が併走している。これは、市街全体を冬季にセントラルヒーティングするための設備である。ウランバートルという都市はこういった面白さに満ちているのだ。出来れば、一日中、一人で散歩したいくらいのものである。なにしろ、俺のような散歩好き人間が、今回は車で移動してばかりだものな。
ハリウンが、気を利かせて俺と並んで歩き、いろいろと幼いころの思い出話をした。少女のころ、ピースブリッジの近くにある彼女の家からは、ザイサンの丘に代表される南郊の山々が一望できたのだそうだ。しかし、近年の宅地造成によって郊外に高いアパートが立ち並んだ結果、今では丘が見えるどころか、彼女の家の日照は極めて悪くなってしまったのだという。
「あたしの故郷が、どんどん無くなっていくんだ」と悲しげに呟くハリウンの横顔を見つつ、日本もほとんど同じことになっていることに気づく。
都市の稠密化と地方の過疎化に伴う異常な宅地造成は、日本でも昔の話ではない。俺の実家も、周囲の山々を全て破壊され、今では醜い人家の谷間に埋もれてしまった。資本主義や自由主義は、果たして本当に人々を幸せにするのだろうか。アメリカ型のグローバリゼーションは、本当に人類全体の正義と言えるのだろうか。
モンゴルの陥っている状況は、日本の縮図に他ならない。
こうして、いつもの調子で壮大な妄想に浸っていると、ハリウンが鋭い声で「ちょっかい出されないように、女の子たちを守らないと!」と言った。
驚いて振り返ると、モンゴル人の青年二人が、宮ちゃん&わかなちゃんに近づくように見えた。「『ちょっかい』なんて日本語を、良く知っているなあ」と妙に感心しつつ、急旋回して女性陣を救助に向かったのだが、まあ、これは杞憂だった。青年二人は、普通に女性陣とすれ違っただけだったので。
客観的に見て、モンゴル人女性は日本人女性より美人が多い。うちの女性陣が不美人だと言うつもりはないが、モンゴル人男性が、わざわざ言葉の通じない日本女性に絡む確率は、極めて低いとは言えるだろう。
安心してハリウンのところに戻った俺は、昼飯の相談をした。しかし、彼女も故郷を離れて10年になるので、まったく食堂の要領がない。そこで、彼女が携帯電話でお父さんに相談したところ、お父さんはたまたま職場に用があるし、職場の入っている外資系のビルにはアメリカンレストランがあるそうなので、そこまで歩くことになった。
ちなみに、モンゴルでの携帯電話の普及率は大したものである。ある程度の所得水準の人はみんな持っているから、後進国だと思って馬鹿にしてはいけない。「草原の国」は、良くも悪くも、せわしないグローバリズムの波に着実に洗われているというわけだ。
さて、ピースブリッジを渡り終え、ナイラルダム公園の北端を右折し、展覧会会場の裏手で北上すると、午前中に立ち寄ったバトボルドさんの職場があった。
いくつもの外資系企業の入った綺麗な雑居ビルの正門に行くと、バトボルドさんが笑顔で待っていた。受付の金髪女性に「私の友人たちです」と言って許可を貰うと、我々を1階右翼のアメリカンレストランに招き入れた。
この小奇麗な食堂は、アメリカ人が経営している店だった。奥のカウンターにいる黒人女性が店長らしい。アメリカさんが、何をしにモンゴルに来ているのかといえば、観光とかカシミアとか、あるいは油田探索とか、いろいろあるのだ。
バトボルドさんは、居合わせた職場の同僚と一緒に、我々とは別の小さなテーブルに座った。
我々は、最奥の広いテーブルを占拠し、ビールやコーラやチーズバーガーを注文した。ハンバーガーの命は肉だ。そして、モンゴルは肉の国だ。そういうわけで、このハンバーガーはすこぶる美味であった。
レストランの正面には、チョイジンラマ寺院博物館が広がる。その正門の前に、巨大な衝立(ついたて)があるのが目に付いた。食事を終えて窓外を眺めていた望月さんが、「さっきのお寺(ボグドハーン寺院)にもあったけど、あの衝立はなんだろうね」と聞くので、俺が「東洋の悪魔は直進 しかできないので、ああやって魔よけを立てて寺院への侵入を防ぐのでしょう」と答えた。日本人一同は、これにすっかり納得したのだが、ハリウンは脱兎のごとくテーブルを飛び出すと、お父上にご注進に及びおった。でも、バトボルドさんの答えは俺と全く同じだったので、俺を虐めることを生きがいにするハリウンは、実に残念そうな顔で戻って来やがった。ザマーミロ!
まあ、雑学博士を売りにしている俺としても、こういう意地悪なライバル(?)は望むところだ。「レオパルド」の失敗もあるしな(泣)。
さて、時計を見ると、もう2時を回っている。余裕があれば、チョイジンラマ寺院博物館にも寄りたかったのだが、どうせボグドハーン寺院と同じだろうし、自然史博物館の所要時間が読めないので、こっちは断念することにした。そういうわけで、次の目的地は自然史博物館に決定。ここの食事代は、アメリカンレストランと言えど「モンゴル料金」だったから安く済んだ。
バトボルドさんが博物館まで送ってくれるというので、ロビーの前でしばし待つ。望月さんは、金髪の受付嬢に冗談で手を振ったりしたが、受付嬢は我々を睨んで、英語で「邪魔だから、さっさと外に出て行ってください!」と甘い言葉を開陳。望月さんの恋は、一瞬にして粉砕されたのであった(泣)。俺はロリコンだから、厚化粧の成人金髪女性には興味ないので、どうでも良かったけどな。
(6)自然史博物館
なんだかんだで、結局、KIAの世話になる。
自然史博物館は、スフバートル広場の北端にあるから、その気になれば、歩いても余裕で行ける距離なのだ。それなのに甘えっぱなしで、バトボルドさんには本当に悪いと思う。
KIAは、5分程度で目的地に到着した。バトボルドさんは、娘に携帯を渡して走り去る。
モンゴルの自然史博物館は、恐竜化石が充実していることで世界的に有名だ。特に、「卵の化石」は希少である。俺は、物心ついたころから、モンゴルといえば恐竜化石だとずっと思い込んできたのである。その夢が、とうとう叶う時が来た。
博物館は、3階建ての石造りの立派な建物だ。ハリウンを頼りにチケットを購入し、奥へと進む。
順路どおりに進んでいるはずなのに、展示物はバラバラだ。古代微生物の展示の次の部屋が、隕石や宇宙飛行の展示だったり、なぜかシャガア(モンゴル独特の双六)まで置いてある。また、展示物の保全状態もあまり良くない。どうも、予算不足のようだな。想像したより、面白い博物館ではなさそうだぞ。
そのためか、望月さん、わかなちゃんの疲労が極限に達した。望月さんは歩きながらウトウトしていたが、わかなちゃんの場合は、もっと深刻だ。なにしろ、腹を壊して体調が最悪の状態に陥っていたので、しょっちゅう休憩を取らざるを得なくなったのだ。
わかなちゃんは、健康志向の元気娘で、いつも家の周りを走り込んだり、ボクササイズに精を出したり、また仲間(俺もその一員)でハイキングに出かけるような女性だ。「体力には自信があったのになあ」と、脂汗に苦しみながら、本当に無念そうな様子である。
「八甲田山、死の彷徨」モードになりつつも、一行はとうとう恐竜の展示コーナーに到達した。なるほど、世界的に有名な化石が目白押しである。モンゴルでは、ゴビ砂漠から極めて保存状態の良い化石が採れるのだ。興奮状態の俺は、ウンチク大魔王と化して仲間たちに解説しまくった。
プロトケラトプスの卵の化石。俺は、小学校低学年のとき、親に買ってもらった恐竜図鑑でこれを見て、いたく感銘を受けたのだ。実物を見られる日が来ようとは夢にも思わなかったなあ、あのころは。
ヴェロキラプトルの闘争化石。映画「ジュラシックパーク」で有名なこの恐竜が2体、争って絡み合った状態で出土したものだ。本物のラプトルって、実は小さいんだな。映画のあれは、怖さを増すために体長を誇張したのに違いない。
タルボサウルスの全身化石。全長10メートルにも及ぶこの肉食恐竜が、ほぼ丸ごと発掘されたのは他に前例がないのだ。
上野の博物館でレプリカを見たものも多いが、やはり本物の迫力は違うな。我々は、ハリウンの力を借りて係員に交渉し、5ドルで化石の撮影許可を貰った。それから、タルボサウルスの前で写真三昧である。
恐竜コーナーの次は、生物の進化コーナーだ。こっちの大型哺乳類の展示にも、貴重な化石が多かった。
しかし、全体的に保全状態が良くない。展示ケースが壊れていたり、解説表示板が取れて無くなってしまったものも多い。せっかく貴重なものばかりなのに、どうしてだろう。やはり、予算の関係だろうか。望月さんは、日本のODAは、こういった文化面でも必要だと言ったが、確かにそうかもしれない。
こうして、2階までの展示を見終えたところ、前方に休憩室を発見。望月さん&わかなちゃんは、ここで休憩タイムとなった。
俺とハリウンと宮ちゃんは、根性を出して3階に挑む。
3階は、動物の剥製が多かった。それも、モンゴルに住む珍しい動物が多くて、ある意味、恐竜よりも楽しかった。ジオラマも、砂漠とかツンドラとか良く出来ていた。
最後のコーナーは、原始人の展示だ。我々は、原始人の人形を見るたびに「三浦さん発見!」「宮ちゃん発見!」「ハリウン発見!」とか言い合った。まったく、小学生かっつーの!
それにしても、俺は海外旅行に来るたびに、必ずこういう博物館に来ている気がするぞ。まあ、俺はもともと「博物館大好き人間」だからね。
その後、2階休憩室で合流した5人は、しばし椅子に座って休んでから、再び次の旅程を煮詰めた。その結果、わかなちゃんが友人に絵葉書を出したいというので、まずは中央郵便局へ、それからお土産を探しに国営デパートに行く手順となった。
(7)国営デパート
博物館を出た我々は、スフバートル広場沿いを南下する。
途中で、民族歴史博物館の横を通ったら、今しもルーマニアの国旗を飾ったリムジンが出発するところだった。これは、ルーマニア大使の国際親善活動だろうな。実を言うと、俺もこの博物館には興味があったのだが、日程的にきついので断念した。
ハリウンいわく「また、一人ででもモンゴルに来ればいいじゃない。困ったら、あたしの親父に電話すればいいんだし」。
さすがに、そこまで図々しいことは出来ないだろう。お前にとっては親父でも、俺にとっては他人だろうが。まあ、バトボルドさんが俺のことを「友人」だと思ってくれていれば嬉しいけどな。
そう思いつつ広場の沿道を見ていると、おお、アイスクリーム屋を発見。ハリウンの力を借りて、ヨーグルト味のアイスバーをゲット。しかし、なんだこのマズさは。いったんドロドロに溶けたやつを、また固め直したとしか思えない。ここまで不味いアイスを食ったのは生まれて初めてだ。
失望した俺が、「モンゴルのアイスは世界一不味いって、全世界に言いふらしてやるからな!」とハリウンに言うと、「わざとモンゴルで一番マズいアイスを宛がってやったんだよー、ザマーミロ!」と憎まれ口を返しおった。いつか、ぶっ殺す!(笑)
まあ、『歴史ぱびりよん』の威力を知る彼女としては、気が気ではなかったろうけどな。
さらに進むと、遊牧民が馬乳酒を売る露店を発見。心を惹かれたが、ハリウンが「あれは不潔だから」というので断念した。
そうこうするうちに、中央郵便局に到着した。
我々は、ついでだから記念切手を買おうと思ったのだが、担当者が早退していたために買えなかった。どうも、モンゴルの官僚システムは、事務レベルでも完成しているとは言いがたいなあ。
しょうがないから、みんなでハリウンにお金を渡して、他日に買ってもらうことにした。俺は、日本で待つ岳夫のために、彼が大好きな「オオカミ」の切手を買ってあげたかったのである。
さて、郵便局を出た我々は、財布の中身が不如意なので、両替所に向かった。俺は、25ドルを25,000トウグルクに替えた。
ちなみに、この国には「硬貨」が存在しない。全てが「紙幣」なのである。ハリウンの説明によると、モンゴルは国力が低いから、硬貨を鋳造する設備を持てないそうな。でも、旅行者の立場からは楽チンである。慣れない貨幣を使うと、お釣りの硬貨が膨れ上り、財布とポケットがジャラジャラになって、かえって不便になるからだ。紙幣しかない国だと、そういう面倒が起こらないから良い。
なお、お札の顔は、チンギスハーンとスフバートルの2種類しかない。他にも、たくさん偉人がいるだろうになあ。
ぶらぶらと歩きつつ繁華街に入ると、ウランバートルがヨーロッパ風のお洒落な街だということが実に良く分かる。ヨーロッパの街が大好きな俺は、何か不思議な懐かしさを感じてしまうのだった。
ハンガリー大使館とトルコ大使館を過ぎて西進すると、立派なビルが見えてきた。これが国営デパートだ。すると、バトボルドさんからハリウンの携帯に電話があって、「あそこは泥棒が多いから、皆さんに荷物に気をつけるよう伝えてくれ」とのこと。やはり、繁華街だと治安が悪いのだろうな。
各自、手荷物を体の前にガッチリ抱えてデパートに入った。1階は化粧品と食料品売り場だ。まずはCDを買おうと思って、みんなで3階まで階段を上った。なんで階段かと言うと、前述のように、この都市にはエスカレーターが存在しないからである(唯一の例外が、チンギスハーンホテル)。
狭いCDショップは、最右翼がモンゴル音楽コーナーだった。望月さんは、 K先生のためにホーミー(モンゴル歌謡)のCDを探し、女性二人は家へのお土産にモンゴル民族音楽のCDを選んだ。俺は、モンゴルのポップスに興味があるので、ハリウンの助けを借りて、オムニバス盤とサラーの新作の2枚をゲットした。通りかかった店員の女の子に英語で値段を聞いたところ、いやあ、純情そうな可愛い娘さんだったので萌えたぜ。周囲に邪魔者どもがいなければ、ナンパしたところだが(こればっか)。CDは、国に帰って聴いたところ、実に良かった。日本や欧米のポップスは、もうダメダメだから、今の俺は、ロシアや東欧やモンゴルの音楽に嵌る日々なのである。
目的達成後、各自、デパート内を自由行動することになった。1時間後に、デパート入口集合になったので、俺は大急ぎで最上階の民芸品売り場に向かった。ゼミ後輩の川口くんが、モンゴルの民族衣装(デール)を買って欲しいと言っていたので、それを探しに行ったのである。もっとも、本物のデールは上下揃いの着物なので、持ち帰ったとしても日本では着られる機会はないだろう。そこで、デール風のジャンパーを買ってやることにした。しばし物色しつつ、色合い寸法ともにベストなものを選定。
民芸品売り場は、奇妙な料金システムになっていた。おおかた万引き対策なのだろうが、買いたい品物を店員に示すと、いったんその品を取り上げられて、代わりに商品番号と値段の入った紙札を渡される。それを持って出入口に位置するレジに行って金を払う。それから、レシートを持って店内に帰って、預けておいた品物と引き換えるのだ。レジの姉ちゃんが不慣れなもので、ちょうど俺の時にレシートを切らし、しかもレジスターのロール交換がなかなか出来ずに難渋していた。ううー、時間の無駄だぜー。
ようやくレシートを手に入れて、店内に戻ったところでハリウン登場。「もう買っちゃったの?あたしも一緒に選ぼうと思ったのに!」。まあ、こいつのファッションセンスはあまり頼りにならないので、俺一人で選んだのは大正解だったはず。でも、川口くんに土産を渡すときは、「ハリウンと二人で選んだ」ことにしておいた。まあ、ちょっとした親心(?)である。世の中、ちょっとしたことで、何がどう転ぶか分からないからな。
俺の次なる標的は、食料品売り場である。まずは行きつけの飲み屋2件のために酒を買い、次に岳夫に頼まれていた馬乳酒を買わなければならない。
酒はすぐに手に入った。ウオトカにしようかウイスキーにしようか悩んだのだが、ウオトカの酒瓶が洒落ていたので、こっちを2本買った。しかし、馬乳酒については残念なことになった。ハリウンが数日前にデパートを訪れたときは、乳製品売り場に馬乳酒のパックがたくさんあったとのこと。そこで、彼女に案内されて乳製品売り場に行ってみたところ、なんと、全品が売り切れなのであった。残念だなあ。もっとも、乳製品は賞味期限が短いから、ここでゲット出来たとしても、岳夫の腹を破壊する結果に終わったかもしれないが。仕方ないので、彼には「オオカミの切手」だけで我慢してもらおうか。
こうして、荷物の山を抱えながらデパートの入口を目指す。ちなみに、このデパートの食料品売り場も、入口で手荷物を全てロッカーに預けさせるシステムになっていた。きっと、万引き被害が、たいへんなことになっているのだろう。
デパート入口の雑誌売り場の前で、望月さんと歓談していると、ハリウンが駆けて来た。ロシアのアイスを見つけたから、食料品売り場に帰って来いという。せっかくなので、ロシア製アイスキャンディーをゲットした。
全員が無事に集合し、デパート前でバトボルドさん(ハリウンが携帯で呼び出した)の到着を待った。ガラス張りのビルの前で、ペロペロとロシア製アイスキャンディー(チョコレートコーティングのバニラ味)を舐める。我ながら、良い歳してかっこ悪いなあ。女性陣の「お菓子」を馬鹿にできる立場じゃないぞ。すると、隣のハリウンが「それは、おいしいでしょ?」と心配そうだ。さっきのモンゴルアイスのことを、気にしているらしいが、ロシアのアイスが美味だからって、モンゴルアイスの不味さが帳消しになるわけではないと強く言っておこう(笑)。
デパート前は広場になっていて、その前を大通りが交わっている。遥か前方に見える国営サーカスの美しい青屋根が印象的だ。
アイスを食べ終えたころに、物乞いの少年が現れた。泥まみれのTシャツと短パンで裸足だ。俺の前をウロウロし、自分の口を指差して「うー、うー」と言う。悪いけれど、食べ物は何も持っていないよ。俺ではなくて、お菓子を大量に持っている女性陣のところに行けよ。
「どうしたら良いかな」と、子供に目を合わせないようにハリウンに聞く。「知らん振りしてください」と、平静を装った答えが返ってくる。
子供は、諦めて望月さんの前に行き、彼が持っていた空のペットボトルをしきりに指差した。心を動かされた望月さんがペットボトルを渡すと、子供はゆっくりと去って行った。空のペットボトルをどうするのだろう。気になるところだ。
それにしても、嫌なものを見てしまった。ハリウンもバトボルドさんも、きっと、こういうのを見て欲しくはなかっただろうな。
デパート前の広場を見渡すと、こういった少年は他にもいた。国営デパートは、外国人や高所得者が集う場所だから、絶好の「仕事場」なのだろう。
自由主義になってから、この国の貧富の差は、加速度的に開いているのだ。
(8)馬乳酒
やがて、馴染みのKIAが現れた。みんな、物乞い少年を振り払うように、大急ぎで車に乗り込んだ。
時計を見ると、まだ5時だ。
俺と望月さんと宮ちゃんは、今夜の飛行機で韓国に向かわなければならないのだが、出発時刻は深夜1時半である。それまでの時間をどうするか?まずは、夕食をどこで摂るか考えなければならない。
バトボルドさんが、ウランバートル東郊に最近出来たリゾートホテルを提案した。もちろん、我々に異存があるわけがない。
東に向かって走るKIAの中で、俺はこのままでは馬乳酒を全く飲めないことに気づいた。せっかくモンゴルに来たのに馬乳酒を飲めないなんて。
「うー、馬乳酒、うー、馬乳酒、うー、馬乳酒」と、麻薬中毒患者のようになった俺を見かねたハリウンが、「お父さん、何とかしてあげて」と進言した。すると、バトボルドさんは、リゾートホテルへの途中で遊牧民の部落に寄ってあげると言ってくれた。
ウランバートル市街を出たKIAは、テレルジへ向かう観光道路を1本北に入った。しばらく進むと、左側の丘一帯に遊牧民の部落が見えてきた。その中に乗り入れたKIAから、バトボルドさんが先頭きって降りると、ゲル群の端で屯していた老人たちに交渉を開始した。我々は、後ろのほうで首尾を見守る。
ここは、観光用ではなく、本当に遊牧生活をしている人々のエリアなのだ。少し離れたところには木の柵で囲われた馬の牧場があり、その真ん中で中年夫婦が一頭の馬の乳を搾っている。目を反対に向けると、いくつものゲル(移動式住居)があり、生活の臭いがする。すると、一頭の子牛がゲルの中に入り込んだ。それを見た若いオッカサンが、外から拳を振りながら駆けて来て、留守宅に侵入したアホウな子牛を外に追い出した。なかなか、ほのぼのとして優しい光景だな。
一棟のゲルの前に、小さな子供が三人屯っていた。気を利かせた宮ちゃんとわかなちゃんが、持参していたお菓子(ハイチュー)を「仲良く分けてね」と、ハリウン通訳経由で言いながら進呈したところ、物凄い勢いで食うわ食うわ。子供は、やはり可愛いな。子供は人類の財産だ。ロリコンだから言うわけじゃあないけどな。
そうこうするうちに、バトボルドさんの交渉は成立した。いくらか、心づけを渡したみたいだが。
バトボルドさんが「三浦さん」と呼ぶので行ってみると、赤銅色に日焼けした遊牧民の老人が差し出すお椀に、並々と注がれた白い液体の嬉しさよ。
馬乳酒(アイラグ)は、その名のとおり、馬の乳を発酵させて作る飲料である。デパートの乳製品売り場にあることから分かるように、酒というよりは清涼飲料水である。アルコール度は、3%もないくらいだ。ただし、栄養満点なので、夏場はこれだけ飲んで生活する人もいるらしい。
ガイドブックなどによれば、これは一気飲みするのが礼儀だという。望月さんが、「僕にも分けてね」と言うのを耳にして、どうしようかと思ったが、礼儀のために2/3までは一気飲みすることにした。
もちろん、俺にとっては初体験である。なにしろ、馬乳酒はモンゴルでしか飲むことが出来ないのだ。ぐーっと呷ったところ、味はヨーグルトみたい。あえて言うなら、これはつまり「ヨーグルト風味の甘酒」かな。喉越しは、とても爽やかだ。
無謀な一気飲みを見て、心配した望月さんが「おい」と声をかけるので、飲むのを止めて彼に椀を回した。この椀は、望月さんが一口呷ってから、「あたしもー」とのたまう宮ちゃんに、さらには、わかなちゃん、最後に「えー、あたしは別にー」とか言うハリウンのところに行った。結局、残ったやつは全てハリウンが始末することに。ああ、もったいないな。
すると老人は、もう1杯お代わりをついでくれた。今度はハリウンからだ。彼女は、多少は一気飲みのポーズをして少しだけ飲んでから、わかなちゃんに回した。宮ちゃん、望月さんと回って、半分ほど残った奴を、今度は一気飲みした。
すると、バトボルドさんが「これ以上飲むと、お腹を壊すからね」と笑顔で俺に言って打ち止めにした。日本人は、ここまで栄養価の高い乳製品を飲み慣れていないので、腹を壊す者が多いのだそうだ。
老人たちと記念写真を撮って、お別れとなった。ついでに、馬乳搾りの現場を撮影しようと牧場に行ったら、作業中の中年夫婦に「邪魔するな」と怒られた。まあ、怒られる前に目的は達成できたのだが。このとき、またしても馬糞を踏んづけてハリウンに馬鹿にされた。うむむむー。
(9)モンゴリアンホテル
馬乳酒を体験できて、もう思い残すことは無い感じである。気分は、まったりだ。
疾走するKIAは、草原の真ん中の立派な施設に到着し、駐車場に滑り込んだ。ここが、目的地のモンゴルアンホテルである。昨年10月にオープンしたばかりのここは、モンゴル文化を前面に出したニューウェーブなリゾートホテルで、ドイツ企業との合弁の産物だ。
モンゴルの経済を見ていると、意外とドイツの影が見え隠れする。何年か前にハリウンにもらったモンゴルウオトカのラベルは、ドイツ語表記だった。ザイサンの丘でモンゴル人に国旗を踏みつけられている日本とドイツが、今ではモンゴルと大の仲良しなのだから、歴史は本当に奥が深くて面白いと思う。
さて、このホテルは、実にユニークな造りをしている。広い敷地全体を、東洋風の高い城壁(カラコルムのエルデニ・ジョー寺院を参考にしたらしい)でグルっと囲み、その中にいくつもの独立した家屋(半数はゲルの形状)を並べ、そこに宿泊客を泊めるのだ。端的に言えば、「壁に囲まれたコテージ付きキャンプ場」である。ただし、敷地の中央には立派な東洋風の屋敷が屹立し、それがあたかも「天守閣」のようなインパクトを与え、施設全体に締りを与えている。この天守閣が、そのままレストランになっているのだ。
それだけではない。壁の外には、車道を挟んだ向こうに美しい丘があり、その頂上には展望施設がついている。また、ホテルの裏側には綺麗な小川があって、釣りや水遊びも楽しめるようになっている。実に楽しく素晴らしい観光施設だ。
これは、日本のガイドブックには、まったく載っていない超穴場である。次にモンゴルに来るときは、ここに泊まりたいと心から思った。
さて、バトボルドさんは、我々にレストランの場所を教えると、自分は「邪魔になるから」と言って車に戻ろうとした。俺と望月さんは、「最後の夜だから、ご一緒に」と言って無理やり引き止めた。もしかすると、余計なことをしちゃったのかな?バトボルドさんは、食事の合間にしょっちゅう携帯で誰かと話をしていた。本当は、すごく忙しかったのかもしれない。
ともあれ、6名でレストランに入る。外資系だけに、小奇麗で落ち着いた雰囲気の店だ。お客さんも、そこそこには入っている。
英語入りメニューを眺めつつ、バトボルドさんとハリウン(食が細い一族?)とわかなちゃん(体調悪い)は、サラダとかスープとか簡単なものを頼んだ。望月さんと宮ちゃんは、ヒレステーキにした。俺は、しばし悩んでから「ヌードル入りスープ」というのを注文した。
その後、ここの地ビールを頼んで乾杯した。もっとも、体調の悪いわかなちゃんと超甘党で酒が嫌いなハリウンは、ジュースやお茶にしたのだったが。バトボルドさんは、「チンギスビールとここの地ビールでは、どちらが美味しいですか?」と聞いて来たので、俺はすかさず「地ビール」と応えたが、後の3人は「チンギスビール」に票を投じた。なんか、納得いかないな。どうせ、俺は味音痴ですよーだ。
その後の話題は、どういうわけかモンゴルの住生活になった。バトボルドさんいわく、都市生活のモンゴル人は、都心に狭いアパートを構えて通勤するのだが、余暇に備えて郊外にセカンドハウスを持つのが普通なのだという。「いわゆるダーチャですね。それは、ロシアやチェコでも同じだから、彼らの影響ですか?」と俺が聞いたら、「モンゴル独自の慣習です」とバトボルドさんは応えた。もっとも、モンゴル人が都市生活を始めるようになったのは、そもそもソ連の傘下に入ってからの話だから、ロシア人の影響を受けてそうなった可能性は非常に高いと思う。まあ、それ以上、突っ込むのは止めておいたけどな。
そうこうするうちに、料理が出てきた。ドイツ系ホテルだけに、早く出てきたのはラッキーだぜ。望月さんと宮ちゃんのヒレステーキは、一皿に巨大なのが3切れも入って600円。少し分けてもらったが、牛肉も柔らかくて美味でとてもジューシーだった。望月さんと宮ちゃんが狂喜したのは言うまでもない。
俺の料理はというと、意表を衝かれて「カレーラーメン」だった。どうして、「ヌードル入りスープ」がカレーラーメンになるのさ!訳が分からねえ!それも、日本風のコテコテのカレー味だったので、かなり食いきるのがたいへんだった。何しろ熱いから、顔中を汗まみれにしている俺を見て、バトボルドさんは何度も「(日本語で)大丈夫ですか?」と聞いてくれた。さすがの俺も、スープ全部は飲みきれなかった。
仲良し親子の御代は我々が持って、こうしてモンゴルでの最後の晩餐は終わりを告げたのである。しかし、最後の晩餐がカレーラーメンとはな!(しつこい)。
その後、みんなでホテルの中を散歩した。
敷地を囲う城壁は、人間が3人すれ違えるほどの厚さで、その上を歩いて一周できるようになっていた。もちろん、城壁そのものの中にも施設があって、お土産屋や宿泊施設になっている。我々は、夕焼けの中を城壁の上に出た。四角い城壁の四隅には綺麗な鐘楼が立っていて、それぞれに休憩所が用意されているのが楽しい。
俺は望月さんに「互いに逆の方向へ一周し、どこで落ち合えるのか競争しましょう」と言って、時計回りに歩き始めた。望月さんは、反時計周りに歩き出す。でも、出会えたのは、俺がほとんど一周し終わった後だった。もっちーってば、途中で休憩したらしい。もう、つれないんだから。
その後、6人が合流し、城壁の上を散歩した。
宮ちゃんの顔を見ると、疲労の色が濃くなってゾンビみたいになっていた。明日の韓国はハードスケジュールだが、大丈夫なのだろうか。わかなちゃんも顔色が悪かったけど、彼女は、明日の早朝に日本に帰るだけだから、むしろ安心なのだ。
まあ、ここで俺が心配しても仕方ない。後は、現地で勝負だな。
すると、宿泊客だろうか。城壁の上で親子3人連れとすれ違った。父親は白人、母親はモンゴル人だ。俺がハリウンに、「白人男性が女性にモテるなんて、日本と同じだね」と言ったら、「あれは、生活のために仕方ないんです」と憮然と応えた。モンゴル人女性は、いろいろと経済的にたいへんなので、白人に頼らなければやっていけない人が多いのだという。もっとも、モンゴル人女性は美人が多いから、白人男性にとって望むところなのかもしれないが。
考えてみれば、我らがハリウンは、物価水準が母国の10倍を超える日本で給料を稼いでいるのだから、実は世界でもっとも富裕なモンゴル人女性の一人なのだ。ぜんぜん、そんな風には見えないけどな(笑)。 今度、おごってもらおう(笑)。
時計を見ると7時なので、そろそろホテルを出ることにする。
ロビーでお勘定とトイレ休憩をするうちに、レセプションの反対側の壁にモンゴルの帝王像が並んでいるのに気づいた。フビライハーンとかダヤンハーンとか。でも、不思議なことにチンギスハーンの胸像が無い。このホテルはドイツ系資本だから、ヨーロッパ方面を攻撃したモンゴル皇帝はタブーにしているのだろうか?
(10)空港へ
我々は、再びKIAに乗る。
いよいよ、この国とのお別れの時が近づいてくる。
美しい夕焼けを浴びながら、6人組はウランバートルに帰ってきた。
まずは、荷物を受け取るためにバトボルドさんの会社に行った。
ガレージの中で、 女性陣が余ったお菓子をハリウンに渡すと、こいつは嬉しそうにその場でチョコレートを食い始めおった。まったく、どいつもこいつもお子ちゃまなんだから。人のことは言えないんだがなー。
わかなちゃんは、これからハリウン弟の家にハリウンと共に一泊し、それから早朝のモンゴル航空で東京に帰る予定である。当初は、俺もそのプランに乗ろうかと思ったのだが、ハリウンが「三浦さんを泊める場所なんかないわよ!夏だから、野宿しても死にはしないから外で寝な!」と、暖かい言葉を吐いたので断念したのであった。別に、おかしな下心なんか持っていないけどなあ。だって俺は、 超絶的なメンクイ男なんだもん。なんで、お前らなんかに。がは、げへ、がは、ごほ、冗談ですー。
ともあれ、わかなちゃんは、他の凶暴な二人と違って引っ込み思案で大人しい娘だから、いろいろと心配になる。何かしてやれることはないかと思案して、韓国製品が大好きな彼女のために化粧品を買ってあげることにした。彼女からパックもののサンプルを受け取って、宮ちゃんにも現場で助けてくれるようお願いして準備完了。
やがて、ハリウン弟を乗せたタクシーが現れた。俺の弟に良く似た雰囲気の好青年にモンゴル語で挨拶したら、ちゃんと通じたので嬉しいな。わかなちゃんとハリウンは、このタクシーに乗って手を振りながら去って行った。
バトボルドさんは、残った3人に「飛行機まで十分に時間があるので、コーヒーでも飲みますか?」と尋ねたが、これ以上迷惑をかけるのは心苦しいので、空港まで直行してもらうことにした。
KIAの後部座席は、宮ちゃんと二人きりだと快適だ。ここに3日間、4人で座っていたんだものな。考えてみたら、この旅行にもう一人参加者がいたらどうなったんだろう。また、誰か一人がデブだったらどうしたんだろう。ある意味、薄氷を踏むような状況だったのだな。
やがて、車はボヤント・オハー空港に到着した。日本人3人は、バトボルドさんと堅い握手を交わし、「また今度」と再会を約して別れを告げた。
それにしても、バトボルドさんには、本当にお世話になりっ放しで感謝の言葉もないくらいだ。いつか、恩返しが出来る日が来ると良いのだが。
がら空きの空港ロビーに腰掛けて、しばし、まったりする。今回の唯一の心残りは、星空が見られなかった点である。そこで、3人は交代で空港ビルを出て空を眺めたのだが、曇っていて星がほとんど見えなかった。これは、次回の課題になるだろう。
出国手続きを経て免税品店を物色し、さらにはカフェで生ビールを飲んで時間を潰した。やはり、生のチンギスビールは美味いなあ。仲良し3人組は陽気に歓談しまくった。
ところが、俺は飲み会の途中で腹具合がおかしくなって、何度も便所に駆け込んだ。どうも、馬乳酒が効いてきたらしいな。正露丸をガバガバ飲んで、ようやく小康状態を保つ。ううむ、前途が不安だ。
望月さんの心配そうな声を聞きつつも、搭乗手続きが始まったので列に並んだ。すると、またもや所持品検査で捕まった。係員は、俺のバックから乾電池(20個入りのやつ)を取り出すと、問答無用で没収したのであった。乾電池のどこが悪いのだ?どうも、モンゴル人には俺の顔が犯罪者に見えるらしいな。いや、俺の美貌に嫉妬しているのかもしれんぞ。きっとそうだ。そうに違いない!
納得いかないままに飛行機に乗り込み、シートに座った俺は、臨席の宮ちゃんに「寝るから」と言い置いて、こてっと眠りに落ちた。ソウルまでの3時間、なんとしても睡眠を取らなければならない。なぜなら、明日のガイド付きツアーは、まったく睡眠を取れないプランになっているからだ。ひえーー。
こうして、俺が寝ている間にモンゴルは背後に去って行ったのである。