オーロラ号
ペトロパブロフスク要塞
ペトロパブロフスク大聖堂
ニコライ2世と亡国の君主
簡易食堂シトローヴァヤ
ネフスキー大通り散策~チフヴィン墓地
Yandex Taxi
没収騒動
モスクワ空港からホテルへ
朝7時に起きた。相変わらず天気は悪いし、サンクトペテルブルクは散歩して楽しい街ではないことが判明しているので、朝飯まで部屋でウダウダして過ごした。
朝飯バイキングは、まったく代わり映えしないメニューなので、美味なるスイカとメロンを優先的に腹に入れてお茶を濁した。どうも、ロシアのバイキング飯は、俺の趣味に合わなかったようだな。
いずれにせよ、今日の夕方の飛行機でこの街を去る予定なので、チェックアウトの手続きをしなければならぬ。荷物を預かってもらえるかどうか、受付のオバサンに英語で尋ねたところ、1階の階段最下層に設営された鍵付きの柵で囲まれたエリアに案内されたので、そこにボストンバックを収納して貰ったのである。
さて、いつもの肩掛けカバンで出発だ。外は雨。馴染みの「アレクサンドル・ネフスキー広場」駅から4号線で「センナヤ広場」駅に出て、今回はそこから2号線の「ネフスキー大通り」駅に乗り換えて北上した。今日は月曜日とあって、地下鉄構内は通勤客がウジャウジャしている。この光景は、世界中のどの国でも一緒なのだろうか?ラッシュの波に洗われながら、ネヴァ川を北に越えてすぐの、「ゴーリコフスカヤ」駅で降りた。
昨日ほどではないが、相変わらずの暴風雨。この街は、いつもこんな調子なのかね?駅前は小ぶりな公園なので、そこを抜けてネヴァ川方面に南下すると、いきなり中央アジア風の美麗なモスク登場。これは、テンション上がるわ。共産主義政権が崩壊して以来、この国は宗教に寛容になったようだね。
そういえば、この近所に「オーロラ号」があるはずだ。スマホ地図を起動して、最短ルートを左折する。雑貨屋やレストランが多い華やかなクーイヴィシェヴァ通りを東に抜けると、ネヴァ川の支流があり、そこに旧式の巡洋艦が停泊していた。これが、高名なオーロラ号(ロシア語ではアヴローラ号)だ。
ぱっと見が、横須賀の戦艦三笠によく似ている理由は、同じ時代に活躍した船だからだね。艦種が巡洋艦だから、さすがに三笠よりは小ぶり。だからと言って、舐めてはいけない。
この娘は、1905年5月にバルチック艦隊の一員として、はるばる対馬沖までやって来たのだ。いわゆる「日本海海戦」の大惨事を辛うじて生き残り、逃げ落ちたフィリッピンでアメリカ海軍に保護されたのである。こうして、サンクトペテルブルクまで奇跡的に帰還出来たわけだが、その後も数奇な運命に見舞われる。1918年の「ロシア十月革命」の際、レーニン率いるボルシェビキの先兵となって、現エルミタージュ美術館であるところの冬宮を砲撃したのがこの子なのだ。だからこそ、記念艦として冬宮に近いネヴァ川に飾られているというわけだ。
そう考えると、なかなか歴史の年輪を背負った物凄い軍艦である。戦艦三笠同様に、有料で内部を見学できる仕様なので、中に乗りこんでみたかったのだが、どうやら月曜日は休館日らしい。仕方がないので、雄姿をあちこちから眺めていると、中国人の小団体が現れて記念撮影を始めた。さすがはオーロラ号。中国人にも大人気なのである。
なんとなく気が済んだので、オーロラ姫に別れを告げて通りを南下し、ネヴァ川の本流(北岸)に出た。すさまじい暴風雨だ。必死に耐えながらペトロフスカヤ河岸通りを西進し、ペトロパブロフスク要塞に辿り着いた。これは、ウサギ島と呼ばれる中州に設営された近世の軍事基地で、サンクトペテルブルク発祥の地である。上から見ると、五稜郭のような形の城壁(突角堡)に囲まれているようだから、チェコのテレジーン要塞を思い出す。
前述の通り、サンクトペテルブルクの街は、ピョートル大帝がスウェーデンに戦争を仕掛けて、この地を奪うことで成立した。つまり、ここはいつスウェーデンの逆襲を食らうか分からない場所だったので、とりあえず最初にこのような軍事要塞を築く必要があったわけだ。ネヴァ川を天然の濠とするこの中州は、確かに絶好の要塞設営ポイントであっただろう。
中州なので、要塞に入るためには橋を渡らなければならない。しかし、なぜか守衛さんがイオアンノフ橋を渡った先のゲートで通せんぼして、入れてくれないのだ。後で気づいたのだが、この施設は午前10時開館なので、単純に俺が来たのが30分ほど早すぎたのだった。そこで、開館時間まで要塞城壁外側の島部分をぶらぶらと散策した。河原に降りて、ネヴァ川の水を手ですくって飲んだりする。
そこから遠望すると、北岸には「砲兵博物館」などの面白そうな施設が並んでいた。いずれも、月曜休館日なので入れないのが残念である。
なんとなく、この島に来る途中で見かけた「ピョートル大帝の小屋博物館」について解説する。ピョートル大帝という人は、大きな宮殿や庭園をやたらに造営したくせに、自分は木造の掘っ立て小屋に住むのを好むという奇癖があった。エストニアのタリンにも、同じような小屋があったわけだが、いずれも博物館になっているのが面白い。まあ確かに、巨大宮殿は、権力アピールには最高のアイテムかもしれないが、実際に住むとなるといろいろ不便かもしれない。ピョートルのような、ADHD傾向が強い活動的な人物は、諸事万事においてイライラしそうである。
などと考えながらウサギ島内を散策しているうちに、ようやく開館時間になったので、数組の白人観光客小集団とともに要塞内に入った。ここペトロパブロフスク要塞は、城壁の中に入るだけなら無料の施設なのだが、暴風雨でしかも寒いせいで(おまけに月曜日だ)、お客さんが少ないようだ。俺は人混みが嫌いだから、かえって好都合。レストハウスで用を足すと(有料20ルーブル)、要塞中央部に聳え立つ「ペトロパブロフスク大聖堂」に向かった。
さて、大聖堂だ。外観はキンキラキンなのに、全体的に意外と地味な建築物。プラハの聖ヴィート大聖堂やブダペストの聖イシュトヴァーン大聖堂より、遥かに小さいしシンプルな造作である。ここは本当に、ロシア帝国を率いた歴代ロマノフ王家の墓所なのだろうか?
首を傾げつつ、付近の売店に入って拝観チケットを買った(550ルーブル)。大聖堂の中は、白人系の外国人観光客で一杯だったのだが、どうやら俺とは別の出入口から観光バスに乗って来た人たちらしい。そして、大聖堂の内装は驚くほどに絢爛豪華だった。普通、この手の教会施設は、外観は派手でも、内装は地味だったりするのだが、ロシアは常識の逆を行くらしい。
しかし、狭い。これなら、東京にある結婚式用いんちきチャペルに毛が生えた程度ではないか?そして、床に棺桶が並んでいる光景はシュールとしか言いようがない。この棺桶の中身は、言わずと知れた歴代ロマノフ王家のご遺体なのである。初代ピョートル大帝から数えて全員分あるのだが、狭いところに詰め込まれているから、当然ながら窮屈だ。その隙間を、観光客が歩いたり写真を撮ったりするのだから、なんとも不思議な光景である。
ピョートル大帝以下数代までの棺桶は、さすがに祭壇の柵の内側に置いてもらっているのだが、それ以外は普通の床に無造作に置かれている。彼らは、世界最強の帝国の君主たちだったのだから、もう少し何とかならなかったものか?
唯一の例外が、最後の皇帝ニコライ2世の墓で、聖堂右後方の内室の中に、家族や召使たちと一緒に祀られていた。この人と家族のご遺体は、棺桶の中に入っていないからだろう。有名な話だが、この人たちは、ロシア革命の際に、エカチェリンブルクでボルシェビキによって皆殺しにされたのである。
大聖堂の祭壇裏側スペースが、簡素な博物館になっていたので、じっくりと見学した。歴代ロマノフ王家の系図や肖像画、遺品など貴重な展示が興味深い。ニコライ2世一家全員の写真を見ると、有名な公女アナスタシアもあり、痛々しくてたまらない気分になって来る。せめて、革命後に先祖の墓所に祀られて良かったね。
ニコライ2世に対して、良い感情を持っていない日本人がかなり多いようだが、それはおそらく、司馬遼太郎のせいだろう。
彼は、自作小説の中で、「日露戦争が起きたのはニコライ2世の悪意のせいで、その悪意の原因は、彼が日本視察中に巡査に斬り付けられた(大津事件)ことをいつまでも恨んでいたからだ。陰湿なニコライは日本人のことを深く憎み、『マカーキ(猿)』呼ばわりして悪口を言いまくった」などと書いた。『坂の上の雲』はあくまでも小説なのだし、司馬さんは勢い余って筆を滑らせる悪癖を持つ作家さんなのだが、なぜかこれを読んだ日本の自称エリートは、これを史実であり真実であると安直に思い込むのである。
俺が調べた限りでは、大津事件が穏便に解決されたのは、ニコライが寛容に赦してくれたからである。彼は、これを事件ではなく事故だと解釈してくれて、急遽帰国することもなく、包帯から滲む血を隠しつつ、笑顔で公式訪問日程を予定通りにこなしてくれたのだ。つまり、怒りや恨みを抑えた上で、近代日本に対してとても大きな貢献をしてくれた人物なのだ。そのような人が、いつまでも日本と日本人のことを憎み続けるものだろうか?
だいたい、戦争勃発の原因を、一人の人間の悪意のせいにするのは、皮相的で乱暴すぎる物の見方である。確かにロシア皇帝は、表面的には強大な権力を持つ独裁者だったかもしれないが、それだけでは戦争は起きないのである。これは、「第二次大戦が起きた理由は、ヒトラーが狂人だったからだ」と考えて、それ以上の考察を拒否するのと同様の反知性主義であろう。そのような態度では、温故知新にならず、歴史の教訓から何も学ぶことが出来ない。そんなことだから、世界から戦争が無くならないのである。
また、司馬史観に無批判にひれ伏すような日本の自称エリートは、幼いころから詰め込み式の受験勉強(実質は洗脳教育)を受けて来たせいか、自分自身の頭で懐疑的に物事を考えない傾向が強い。その上に、日本人特有の「権威に弱い」性向が付け加わるから、明らかに間違った論理や事実認識に盲従してしまうのである。約70年前の大敗に終わった戦争や福島原発事故が好例なのだが、日本人が今でも失敗を続ける理由は、権威に盲従して間違った状況に流されやすいところに原因があるのではないだろうか?
いずれにせよ、亡国の君主は、後世から悪意のバイアスを掛けられることが多い。「あの国が滅亡した理由は、最後の君主がバカないし暴君だったから」と短絡的に結論づけられることが多いのである。しかし、これもやはり皮相的で乱暴すぎる物の見方であろう。我々が住んでいる社会は、そんなに単純ではない。多様な事象や突発的事故、大勢の人間の思惑や過去の因果などが複雑に絡まって、歴史的大事件は起きるのである。どんなに頭が良くて高潔な人間であっても、リアルタイムでその全てを掌握しコントロールすることは出来ない。戦争の勃発や国家の滅亡は、そうやって起きるのだ。
歴史から本当に学ぶためには、かなりの労力を要するとしても、事件が起きた要因の全てを一つ一つ丁寧に紐解いて行かなければならない。すなわち、安易で分かりやすい結論(それは、高確率で間違っている)に飛びついて安心するのは、愚者の選択なのである。
ニコライ2世を、悪人ないしバカ殿扱いして思考停止の満足に浸るのは、すなわち反知性主義である。
大聖堂から出ると、空に晴れ間が出来て気温が上がって来ていた。どうやら、昨年訪れたエストニアやフィンランドと、全く同じ天候サイクルなのだね。考えたら、地政学的に見て同じエリアだし。
この要塞内には、大聖堂以外にもいろいろな施設があるのだが、サンクトペテルブルクには他に見るべきものがありそうなので、この地は打ち止めにすることにした。
そこで、ぶらぶら散歩しながら街の中心部に戻ることにした。特にこれからの予定は決めていないが、せっかくエルミタージュ美術館の2日有効チケットがあるのだから、どこか別の関連施設に入れたら良いな。
などと考えながら、ウサギ島西側のクロンヴェルク橋から陸地に戻る。そこから通り沿いに証券取引所橋を南に渡ると、ストリェールカという謎の施設に出た。ここは、奇妙な形の柱オブジェが立ち並ぶ公園で、意外と大勢の観光客で賑わっていた。どうやら、観光バスが立ち寄る場所らしい。コーヒーやお菓子の屋台も出ているし、晴れていればきっと楽しい場所なのだろう。公園自体は何の変哲もないのだが、川越しに眺めるウサギ島やエルミタージュ美術館がとにかく美しいのだ。
この付近にあるメンシコフ宮殿やクンストカメラ(ロシア初の総合博物館)にも惹かれるものを感じたのだが、たぶん入館してしまうと時間が足りないので、それらの前をウロウロすることでお茶を濁した。
しばしこのエリアの景色を楽しんでから、宮殿橋を南に渡ってエルミタージュの前まで来た。すると、英語を話す謎のコスプレおじさんに捕まった。昔の貴族やシカやクマのコスプレをした人たちは、観光客と一緒に写真を撮って、それを売りつけることを生業としているらしい。彼らを適当にあしらった上で宮殿広場を抜けて、旧参謀本部の建物前にやって来たところ、ここはエルミタージュ美術館の新館になっているはずだが、扉は固く閉じられていた。どうやらここも、月曜休館らしい。ガイドブックを紐解くと、どうやらこの街の博物館施設は、そのほとんどが月曜休館のようである。我ながら、どうにも段取りが悪い。
時計を見たら、もう12 時に近い。仕方ないので、次の予定を考えるついでに腹ごしらえをすることにした。日本で、馴染みのロシア人女性(夜の店の子だが)に、美味いパン屋さん「シトーレ」の場所を聞いていたので、そこを目指す。しかし、ネフスキー大通り沿いのその場所には、「シトローヴァヤ」と書かれたレストランがあるだけで、「シトーレ」は全く存在しなかった。潰れたのか移転したのか?せっかくなので「シトローヴァヤ」に入ってみよう。
ロシア語の「シトローヴァヤ」は、簡易食堂を意味する固有名詞だ。日本の学食や社食にもよく見られるスタイルなのだが、客はトレーを持って列に並び、カウンターに並べられた料理やドリンクを手に取ったり、店員に指示して取り寄せたりしてトレーに積んでいき、最後に会計をするシステムのレストランである。これは、ロシアの庶民向け食堂では、一般的な形態らしい。
俺は、トマト味のパスタとパプリカの肉詰め、黒パンとトマトジュースをトレーに載せたのだが、お勘定はなんと150ルーブル。思わず、レジの金額表示を何度も見返してしまったぞ。このボリュームで、約300円は有り得ないだろう。サイゼリアより遥かに安いぞ。
店内のテーブルで、さっそく有りついたところ、料理は少し冷めていたものの、味はなかなかだった。つまり、驚くほどにリーズナブルである。周囲のお客は、定年退職した老人や学生風の若者が多い。教科書やノートを持ち込んで、勉強している学生さんも散見された。
ロシアは、おそらくは社会主義時代の伝統で、庶民向け食堂や公共交通機関の料金を、意図的に非常に安く抑えているのだろう。これは、日本も見習うべき点だと思われる。日本の貧富格差は、おそらくロシア以上に深刻に開いているからである。
すっかり満腹したので店の外に出てみると、空は晴れていた。これは、絶好の散歩日和であるから、ネフスキー大通りを散策する。
じっくり見ると、個性的なユニーク建築が目白押しの通りなのである。そこで、いろいろな店や建物に冷やかしで入ってみる。Facebookの友人に勧められた「ソヴィエト・カフェ」を探したのだが、なぜかガイドブックの住所にもスマホマップの住所にも見つけられなかったのが残念である。
モスクワ駅付近に来たところで、付近に「ドストエフスキー博物館」があることを思い出した。スマホマップを起動して行きかけたところで、ガイドブックをチェック。ああ、今日は休館日だったか。前述のように、この街はほとんどの施設が月曜日休館なのだ。仕方ないので、元通りの当てもない散歩だ。さて、次はどうしよう?
ふと気づいて、ガイドブックでアレクサンドル・ネフスキー広場近辺の名所を調べてみた。実は、ここの偉人墓地は意外と充実しているのではないか?しかも、月曜日でも入れそうだぞ。そこで、3号線の「マヤコフスカ」駅から地下鉄で1駅分移動した。
とりあえず、おなじみの「アレクサンドル・ネフスキー広場」駅の駅ビル内を冷やかしつつ小用する。ここは、手狭ではあるが、意外と充実した商業ビルではないか。TOKYO CITYという名の日本レストラン(おそらくチェーンだが)もあって、ロシア人たちが店内で天ぷら食っているぞ。
やがて散策に飽きたので、この駅ビル地下の食料品売り場で、好奇心でチョコレートなど買ってみた。ロシアでは、アリョンカちゃんというマスコットの少女が描かれたチョコレートをどこでも売っているのだが、これがなかなか美味なのである。残念なことに、大好きなクワスジュースは相変わらず、家族用の巨大ペットボトルでしか売られていなかった。
戸外に出ると、空模様がまたもや怪しくなって来たのだが、めげずにアレクサンドル・ネフスキー修道院付属の偉人墓地を目指す。自動車がバンバン通る広場をぐるっと迂回して、広場南側に位置する修道院に入ると、通路の右側にあるのがチフヴィン墓地で、左側にあるのがラザレフ墓地だ。ガイドブックによれば、チフヴィン墓地の方がメジャーな偉人が多そうなので、こっちに入ろう。いちおう、入口付近に小さな歩哨所があって、太ったオバサンが待機しているのだが、俺が軽く会釈すると仏頂面で頷いて、お金を取らずに中に入れてくれた。
ここは、ガイドブックによれば有料のはずなのだが、例によって例のごとく『地球の歩き方』の嘘情報かもしれない。チェコの偉人墓地(ヴィシェフラト内)も無料だったし、こういうのは普通、お金を取らないんじゃないかな?
雰囲気は、まさにチェコの「ヴィシェフラト偉人墓地」にそっくりだった。美しい樹木に囲まれた居心地の良い美しい庭園のあちこちに、瀟洒な墓石が並ぶ。おお、ドストエフスキー!こっちはチャイコフスキーか!ムソルグスキーにリムスキー・コルサコフもいるぞ!すごい、すごい!
実は俺は、中学生のころ、チャイコフスキーの音楽に嵌まり狂っていたことがある。当時は貧乏だったので、親が持っているレコードを聴いたり、NHK-FMラジオのエアチェック(死語)をしたりだったが、俺の少年時代の感受性は、ことごとくチャイコフスキーによって形成されたと言っても良い。チェコのドヴォルザークやスメタナも大好きだったけど、チャイコはそれとは完全に別格で、まさに神のような存在だった。その墓参が出来るとは、当初の旅行予定には無かったことなので、感動もひとしおである。墓地内を何周もしつつ、何度も少年時代の神のお墓の前で、「会えて嬉しいです。いろいろ、ありがとう」と挨拶してしまった。
この場所に、ロシアを代表する世界的偉人の墓が密集している理由は、ここがロシアの聖地だからであろう。前述のように、多くのロシア人は、英雄アレクサンドル・ネフスキーが祖国を数度にわたって守り抜いたこの地こそがロシアのスタート地点だと信じていて、だからこそこの地に眠ることを夢見るのである。これは、チェコ人の「ヴィシェフラト」に対する思いと同じなので、そこはスラブ民族同士、考え方が似ているのかもしれない。
墓地を出た後は修道院を外から見学し、サンクトペテルブルクの最後の旅程を、このように終えられて大満足なのであった。
ぶらぶら歩いてホテルに戻る。いつのまにか夕方4時なので、そろそろ空港に向かった方が良いだろう。
カールトンホテルで預けていた荷物を受け取ると、その前の路地でYandex Taxiの手配を行った。この場所から、地下鉄やバスを迂回しながら乗り継ぐのが面倒くさくなったこともあるけど、ここでロシアのネットタクシーを試してみたくなったのだ。
Yandex Taxiとは、要するにUBERの一種である。例の、ロシア好きのクライアント社長から、ロシアでもUBER Taxiは便利であると事前に教えて貰っていたので、日本にいる間にUBERに会員登録したのであった。ところが、ロシア滞在中のつい数日前、スマホにサービス停止のお知らせが。その英語版の案内によると、UBERはロシアでは活動停止なので、代わりにYandexを使えとのこと。
このYandexとは、どうやらロシアローカルのネットタクシーらしい。世界中で、UBERから地場産業を守る戦いが始まっているということだろうか?仕方がないので、とりあえずYandexに登録したものの、知らない会社でしかもロシア資本だと何だか怖いので、クレジットカード情報を教えずに現金払いすることにした。どうせ、この短いロシア滞在中でしか使わないからね。
さて、知っている人も多いだろうけど、UBER Taxiは、自分の現在地からスマホで呼び出しを掛けると、それに反応した付近のドライバーが、最短距離でどこへでも迎えに来てくれる(迎車料なし)サービスである。接近中のタクシーの現在地は、スマホ地図上に表示され、そのナンバープレートと運転手の顔や名前の情報と一緒に、タクシーがどの道を使って残り何分で到着するのかすぐに分かるようになっている。料金もおおむねリーズナブルで、しかも顧客アンケートが半強制なので、質の低いドライバーは排除される仕様である。
Yandexも、まったく同じ仕組みだった。呼び出しを掛けてから5分もしないうちに、1台の自動車が俺の前に現れた。ドライバーは、明らかに中東系の風貌のチャラそうな青年で、大音量でトルコ音楽を流しまくっている。Yandexって考えてみたら、中東っぽい響きがする名前だから、これは中東系の会社なのかな。と、ちょっぴり不安になる。
しかしながら、トルコ系青年の運転はとても上手で、渋滞を避けつつ、空港までかなり効率的に移動してくれた。料金も1,000円程度でリーズナブルだ。ただし、彼は現金のお釣りを持ち合わせておらず、現金払いした俺はお釣りを貰うことが出来なかったのである。まあ、お釣り部分はチップと思えば良いわけだが。
別れ際に、「あなたはトルコ人ですか?テシェッケレ・エデレム!」とトルコ語でお礼を言ったところ、青年は戸惑いつつ笑顔を返してくれた。ただし俺は、降車直後にスマホに送られて来るアンケートには何も書かなかった。あの青年は、運転は上手だったけど、カーオーディオの音楽流しまくりで、しかも現金のお釣りを用意していなかったわけで、そんなドライバーにさすがに高評価を与えるわけにはいかないと思ったからだ。かといって、ダメ出しをしたいわけでもない。アンケートというのは、なかなか難しい。
ともあれ、夕方5時前にプールコヴォ空港に到着である。
18:40発のモスクワ行き飛行機までかなり時間があるので、空港構内を散歩した。しかしながら、ここプールコヴォ空港は、天下のサンクトペテルブルクの空港の癖に、妙に小さいのである。やはり、街で俺が感じたような、人口の少なさを反映しているのだろうか?そういうわけで、あっという間に構内を数周して散歩に飽きてしまった。
小腹が空いたので、バーガーキングに寄ってみる。俺様は、海外一人旅で必ずバーキンに行くポリシーの持ち主なのだよ。すると、この空港内のバーキンは、完全な自販機注文システムになっていた。すなわち、客がタッチパネルを操作しつつ、現金かカードで食べたいものを指定して入金すると、その情報が厨房に行き、後は番号で呼ばれるのを待つシステムだ。日本でも、富士そばや松屋などで良く見かけるシステムだけど、バーキンでは初めてだ。さすがロシア。バーキンも世界最新のAI仕様なのだね。ただし不慣れな俺は、自販機のロシア語表記を英語に切り替える必要があったし、いろいろと戸惑いながら端末操作したので、うっかりドリンクを買い損ねてしまった。まあ、雑貨屋で水くらい買ってあるから、チキンバーガーとフライドポテトだけで十分だけどね(総額802円)。
その後は、1時間ほど読書で過ごすと、ようやく搭乗手続き開始。この空港の身体検査と荷物検査は、なぜか過去最高レベルに厳しかった。まずは、全身が映るような巨大スクリーンの前に横向きに立たされると、足元の床が勝手に横にスライドして全身にX線を浴びせかける仕組み。急な動きに驚いた俺が「おおー」とか声を上げると、係官の女の子は大爆笑していた。
続いての荷物検査では、担当の女の子が俺のカバンに不審を抱き、中身を全部開けて見せろと言う。案の定、例の「ナチュラ・シベリカ」の巨大容器を次々に出して詳細吟味。規格外に大きいものは、全てゴミ箱に捨てられてしまった。お店で購入した化粧品の約8割が、こうして消滅してしまったのだ。うぎゃあ!依頼人に殺される!
もっとも、係の女の子の必死の形相を見ると、彼らは本気でテロに怯えているのだろうから、怖がらせてしまって申し訳ないような気もする。その際に、女の子が「電子機器を、カバン内のどこかに隠していないか?」を、しきりに聞いて来たのが不思議だった。俺は海外にはスマホしか持っていかない主義なのでそういうものは元々持っていないのだが、あるいは爆弾点火用デバイスの存在を疑われたのかもしれない。
ともあれ、カバンが軽くなったのは明るい材料である(前向き!)。18:40発のSU39に無事に乗り込み、モスクワへの旅に出たのであった。
往路と同様、漆黒の低空を驀進したアエロフロート機は、約2時間でモスクワ・シェレメチェヴォ空港に到着した。これから、モスクワの旅が始まる。
往路は、長距離の乗り換えで面倒くさい思いをしたのだが、今回は降りたゲートのすぐ外が出口だった。ただし、いきなりホテルに向かうのも詰まらないので、空港構内の雑貨屋を回って水とお菓子(Laysのカニ味)を買った。
さて問題は、シャーストン・ホテルまでタクシーを使わなければならないことだ。
日本で旅行会社から情報を貰った時、宿泊場所が位置する「アクルジナーヤ」駅が、市街から空港寄りにかなり離れた場所にあることに気が付いた。そして、『地球の歩き方』によれば、空港からアクルジナーヤまでの公共交通機関のルートがかなり複雑であることにも気付いた。
何しろ、初めての街に夜に到着するわけだし、これはタクシーを使うのが賢明だろうと判断。それで、予行練習の意味を兼ねて、サンクトペテルブルクでYandexタクシーを試してみたのだった。
当然、モスクワ空港でもネットタクシーを呼ぶつもりだったのだが、タクシーレーンで端末を操作したところ、なぜか上手く繋がらない。その理由は、俺がバッテリーをケチって、GPSの位置情報をオフにしていたため、俺がまだサンクトペテルブルクにいるものだと誤解したスマホが、サンクトペテルブルクのネットタクシーへのアクセスを試みたために起きた混乱であった。
その事に気付くまでに時間がかかってマゴマゴしたため、通りすがりのオジサンドライバーに声を掛けられてしまった。オジサンが、「私は良心価格で適正にやっているよ」と英語でしきりに言うので、疲れていたせいもあるけど、この運ちゃんに任せることにしたのであった。
適正価格というのは、たぶん嘘では無かった。ただし、このオジサン基準の適正価格という意味で。
オジサンは、iPadのような端末を車に接続して、1キロ100ルーブルとして料金計算を始めた。そして、目的地まで45キロだったので、締めて4,500ルーブル。これはたぶん、相場の2倍くらいだったのではなかろうか?若干納得いかなかったのだが、タクシーは初めての街で周囲が真っ暗な中、シャーストン・ホテルの正面玄関まで付けてくれたのだから、結果的には悪くなかったと考えるべきだろう。なかなかの安全運転だったし。そこで、オジサンにお礼を述べて、タクシーを降りた。
シャーストン・ホテルは、昔の社会主義時代の官舎を改造したような小さなホテルだった。それでも、フロントには女性スタッフが3名常駐しているし、エレベーターはしっかりしているし、部屋も意外と広くて心地よかった。バスタブもちゃんとあるし。
チェックインは、サンクトペテルブルクの時と同様に簡単に済んだので、529号室に入って荷物を置いた俺は、とりあえずLaysカニ味を試してみたところ、これが無茶苦茶に美味かった!カニ味って、他の国では見たことないけど、ぜひ日本でも発売して頂きたいところだ。
考えたら、今日もまともな夕飯食わなかったな。
ともあれ、無事に着いて安心したので、風呂に入ってすぐに寝た。