グランバザール
デジカメ騒動
ボスポラス・クルーズ
メトロシティ
ペラパレス・ホテルとテュネル
マントウ
グランバザール
今日は7時に目が覚めた。どうやら、アザーンの声にも慣れたということらしい。
部屋でテレビを見て時間を潰してから、地下の食堂に朝飯に行った。今日のヨーグルトは、桜桃入りだったが、他のメニューは代わり映えしない。まあ、パンとチャイとヨーグルトが美味ければそれで良いのだ。
ヨーグルトといえば、昨夜部屋で飲んだ「ITIMET」のアイランは美味だった。甘さ控えめのあの酸っぱさは、まさに俺好みである。また今日も買うことにしよう。
8時になったので、朝の散歩に出かける。今日は、旧市街の中央部に足を向ける心積もりである。そこで、トラム沿いにアヤ・ソフィアの横を通ってスルタン・アフメット地区に入る。そこからヒポドロームの「ドイツの泉」を眺めながら進路を西に取り、トラム沿いにバヤジット地区に向かった。
トラムが行きかうオルドウ通りの沿道には、土産屋やレストラン、雑貨屋、パン屋、銀行が並び、実に賑やかだ。まだ早朝だから、開いていない店も多かったのだが。
大通りから左右に伸びる路地は、すべて海へと向かう下り坂になっている。前述のとおり、イスタンブール市の中央は小高い丘陵になっているので、稜線に沿って伸びる大通りの左右は、全て下り斜面なのである。簡易食堂が多そうな狭い路地の彼方に、かすかに輝くマルマラ海を眺めるのも楽しい。
ウキウキしながらオルドウ通りをまっすぐ西に向かって歩いているうちに、トラムのバヤジット駅に到着。アクビルのブースがあったので行ってみたが、受付のオジサンはやはり売ってくれなかった。今回のアクビル入手は、本気で諦めたほうが良さそうだな。
さて、バヤジット駅の北側に広がるのが有名な「グランバザール」だ。日本風に言えば、国営市場である。国家が大きな屋根つきのスペースを提供し、その中に数多くの小売店が割拠して自慢の商品を売るのである。グランバザールは、もともとは市民のためのスーパーマーケットだったのだが、最近は観光客向けの土産物屋になってしまった。
興味に引かれて、ブラブラとグランバザールに入ってみた。朝8時半なので、多くの店がまだ開店準備中だったが、実に豊かな「地霊」が五感を圧倒する。久保田早紀が『異邦人』の中で歌った「市場のざわめき」の魅力、この歳になってようやく理解したぞ。
幅1キロにもなる広大な方形のグランバザールは、様々なエリアに区分けされていて、絨毯コーナー、貴金属コーナー、陶磁器コーナー、革製品コーナーなど実に多彩だ。呼び込みの声(中には、日本語の声もある)をかわしつつ、お土産用の小物を物色した。いちおう、ナザール・ボンジュー(魔よけの目玉)をいくつか買って帰る予定だが、結局、グランバザールでは単なる品定めに終始してしまった。
さて、9時を大きく回ったので、「BLUE ART」に行って、リコンファームをするとしよう。そう思いつつバヤジット方面の出口を出たら、ちょうど入れ違いに白人の団体観光客の大群が入ってきた。朝早くから、ご苦労様である。きっとお昼時には大混雑になるのだろうな。だから、こういう名所は早朝に訪れるに限る。
デジカメ騒動
元来た道を引き返して、スルタン・アフメット地区に帰りつき、「BLUE ART」を訪れた。ラマザンはまだ来ていなかったが、最初はメスート、その次にメフメットが相手をしてくれて、カタール航空に電話を繋いでくれた。航空会社のお姉さんは流暢な英語を話したので、用件は簡単に済んだ。土日も受け付けてくれていれば、もっと早く済んだのになあ。
これで、「BLUE ART」への義理は済んだ。今日はこれから「ボスポラス・クルーズ」をやる予定だったので、店を出て海に向かおうとしたところで思い出した。「ラマザンに海水浴に誘われたのだけど、その話ってどうなったんでしょう?」。
メフメットもフェイヤス(もう一人の店員)も、その話は知らなかったので、かぶりを振るばかり。まあ、良いか。
店を出て、エミノニュ桟橋に向かいかけたところ、ヒポドロームの北側でメスートに会った。彼は、これからフェイヤスに言いつけられてバヤジット地区にお使いに行くところだという。
彼は、しばらく前から俺のデジカメに興味を持ち、暇があれば触りたがる。そして、俺のXDカードが切れかけていることに気づき、「補充のためにカメラ屋に行くべきだ、自分が案内するから」と俺を誘うのである。どうやら彼の真意は、俺にデジカメを奢らせることにあるようだ。それで少し距離を置くようにしていたのだが、早朝から店の「パシリ」に使われて疲れ気味の彼をここで見て、急に仏心を起こした。
「一緒にカメラ屋に行こうぜ。良いものがあれば、買ってあげるよ」。
メスートは子供のように目を輝かせて、俺を先導してオルドウ通りのカメラ屋に入った。意外なことに、カメラ本体もXDカードの類も、日本で買うより安いのである。これは、どういうカラクリでそうなっているのか謎である。ともあれ、2万円も出せば良質な日本製のデジカメをゲットできるのだから、ラマザン一族への恩返しの一つとして、メスートにカメラを馳走するのも悪くない。
しかし問題は、クレジットカードが使用不能状態だと言うことである。俺の隠し財布の残金は4万円だから、ここで2万円のキャッシュを使うのは自殺行為である。XDカードを買うことすら冒険である。そこでメスートに、「クレジットカードでキャッシュを引き出せたなら、カメラを買ってあげる」という約束をした。
そういうわけで、二人でチャンベリルダシュやバヤジットの銀行を回ってATMを使ったのだが、結局、キャッシュを引き出すことが出来なかった。やはり、カード会社に電話を入れるしかないのかな。
メスートは、たいそうがっかりしていたが、気を取り直して公共料金を銀行で払ったり、絨毯屋の叔父たちのために朝飯のパンを買ったりした。その間、ラマザンからメスートの携帯に電話が入って、彼は俺を店に連れて帰れとの指示を貰ったのであった。
こうして二人で「BLUE ART」へ向かう路上、若いカップルが抱き合ってキスをする場面を目撃した。朝っぱらから精が出ますなあ(笑)。するとメスートが激怒して、「あいつらはイスラム教徒の面汚しだ!トルコでは、あんな不道徳は犯罪行為だ!」と叫んだ。彼の言葉には嫉妬も感じられたのだが、おそらく言うとおりなのだろう。トルコは、昔の日本のように公衆道徳を重視する社会なのである。それに引き換え、今の日本は・・・。
などと暗く考えていると、メスートがいきなり言い出した。「ねえ、今日のことはラマザンには内緒にしてよ」。
「今日のことって?」
「俺が、あんたにデジカメをねだったことだよ」
「怒られるのかい?」
「怒られるなんてものじゃない。トルコ人の恥だ!ってことになって、半殺しの目に遭わされるよ。もしかすると殴り殺されるかも。だから、絶対に言わないで!」
話しているうちに、メスートはガタガタと震えだし、声も涙声になっていた。ラマザン一家の躾は、どうやら異常に厳しいらしい。でも、本来はこれが当然なのだ。今の日本の方が異常なのだ。
そういえばミニアチュルクで、玩具の汽車に悪戯をして横転させた幼児に対して、施設の係員が往復ビンタを食らわせて泣かせる場面を目撃した。その後、離れた場所から駆けつけて来たその子の両親は、子供を殴られて怒るどころか、むしろ係員に手間をかけさせたことを詫びたのである。日本以外の国では、これが当然なのだ。どうして日本は、子供を無意味に甘やかすダメな国に堕落してしまったのだろうか?本当に情けない。
などと考えつつ、俺はメスートにデジカメのことは内緒にすると約束してあげた。すると、調子に乗ったメスートは、「せめて、別れる前に靴代をおごってくれ」というので、20YTL(2000円)を渡してやった。まあ、こんなものでしょう。
店の入口で少年と別れ「BLUE ART」に入ると、ラマザンが待っていた。一緒にチャイを飲みながら、しばしの歓談をする。どうやら海水浴の話は、プリンシィズ諸島の天気が崩れるとの予報があったのでお流れになったらしい。ベシクタシュで海水パンツを買ったのは、無駄になったわけか。
ラマザンは、またもや高級絨毯の営業を始めたのだが、俺には他に買いたいものがあったので、そっちの話に切り替えた。「絨毯よりも、女物のハンドバックをくださいな。ただし、私のカードが使えなくなっているので、先にそっちを何とかしなくちゃなりません」。
するとラマザンは、俺のカード会社にいきなり電話してくれた。俺が日本の受付嬢に、自分の生年月日を伝えて本人であることを証明すると、「高額の買い物を海外でなさったので、警戒して取引をストップさせてもらっていたのです。本人確認が出来ましたので、今から口座の凍結を解除いたします」と応えられた。なるほどね。
これで、俺のカードは自由になった。
店の2階でハンドバックを買った後で、ラマザンに半ば皮肉で「あなたは仕事熱心ですね」と言うと、彼は「正しいイスラム教徒は全力で働かなければなりません。働かずに稼ごうとする人間は恥さらしです」と肩をいからせた。なるほど、メスートが怖がるわけだ。俺が少年の顔を思い浮かべつつ「最近は、トルコでも楽をして稼ごうとする人間が増えているのでは?」と聞くと、ラマザンは「そのとおりです。悲しいことです」と呟いた。
それにしても、ラマザンがそういうポリシーの持ち主だとすると、メスートに馳走することは、かえって恩を仇で返すことになるのではないか?少年に、靴代の2000円をあげたことを強く後悔した。
「これから、どうするんです?」とラマザンが聞くので、「ボスポラス・クルーズに行きたい」と応えると、彼は「スーパー!」と叫んだ。そして「後で、うちの小僧に桟橋まで案内させるので、しばらく裏の宝石屋を見て回ってください。グランバザールよりも安価で良い物がありますよ」と薦めた。俺が、女物のハンドバックなんか買ったからかな?
こうして、ラマザンに案内されて、ブルーモスクの裏庭を抜けてラマザンの馴染みの宝石屋に入った。優しそうな老人が経営している小さな店だったが、なるほど、綺麗なトルコ石がたくさんある。しかも、確かに安い。老人と英語で世間話をしているところにメスートが迎えに現れた。もう少しでトルコ石を買う気になったのに(?)間が悪い。老人よ、恨むならメスートを恨んでくれ(笑)。
二人で、エミノニュへの坂道を下る。とりあえず、ハンドバックをホテルの部屋に置きたかったので、メスートとともに沿道のホテル・イルカイに入った。彼は、俺の部屋のツインベッドを見て、「どうして片方のベッドに女を連れ込まないんだ。もったいない。俺なら昼間から女を連れ込んでやりまくるぜ!」とまくしたてた。
俺が笑いをこらえつつ、「メスートは彼女とかいるの?」と尋ねたところ、「いないよ・・」と応えてしょんぼりする少年は、やはりまだまだ「子供」なのであった。
荷物を軽くして、再び二人で海を目指した。
「メスートは、どの外国人が好き?」
「日本人は好きさ。中国人と韓国人は、下品で悪食だから嫌いだ。あと、オーストラリア人とイギリス人の・・・女が好きかな。オーストラリア人の女は、トルコにエッチするために来ているんだぜ」
「それは勘違いだろう。オーストラリア人が良く来るのは、ガリポリ戦争の慰霊のためだと思うぜ。エッチ目的でトルコに来る白人女は、ロシア人かウクライナ人だろう?」
「・・・そうかな」
実際、アタチュルク空港でも、明らかに水商売と思われるロシア系の女性が大勢いた。事実、昨日拉致されたギリシャ人の店も、キャストはみんなウクライナ人だった。貧しいトルコ人はドイツなどに出稼ぎに行く。そして、貧しいロシア、ウクライナ人はトルコに出稼ぎに来るのだ。それだけで、世界の経済水準が容易に判別できるというものだ。つまり、トルコに来る白人女はカネ目当てで入国するのである。決して、男に飢えているとかではないだろう。だが、俺はあえて言ってみた。
「トルコにわざわざ白人女がエッチに来るってことは、トルコ人のチン○ンってデカいのかな?メスートのはデカいの?」
「そういうあんたは、どうなんだよ」
「俺のは、まあ、普通サイズじゃないかな」
「俺のはデカいぜ!最大に勃起したら、ここから金角湾を跳び越すぜ」
「そんなデカいの、普段、どこにしまって置くんだよ?」
「しぼんでいるときは、右足にグルグルと巻きつけておくのさ!」
・・・この手のギャグって、全世界共通なのだろうか?
などと、教養に溢れた知的な会話(笑)を交わしつつ、沿道のカメラ屋でXDカードを首尾よく入手し、イエニ・ジャーミーの裏側に達した。おりしもの炎天下ゆえ、メスートは手近な噴水でジャバジャバと頭に水をかけた。
「そういうのを、日本では『水も滴る良い男』って言うんだよ」と教えてやったら、少年は小躍りして寺院の前を跳ね回り、「俺はイスタンブールで一番のハンサムだぜ!」と叫んだ。
どうもメスートは、17歳という年齢の割には幼いように見える。そういえば、トルコ社会は、あまりにも家族愛が強いため、子供がいつまでも幼いまま成長できない傾向があると、何かの本で読んだことがある。そういえば、メスートは明日、両親と一緒に海水浴に行くと言っていた。日本人なら恥ずかしくて、17歳にもなって親と一緒に海へ行かないだろう。これも、文化の違いというやつかな。
ボスポラス・クルーズ
いよいよ、桟橋が見えてきた。メスートは、おずおずと切り出した。「俺を、あんたの召使にしてくれないか?これからずっと、ガイドをするよ。海に行きたいなら海に連れて行くし、地方都市に行きたいなら引率するよ」。
「そんなの必要ないよ。俺は単独行動が好きなんだ。メスートは、絨毯屋の仕事を頑張って、両親との休暇を楽しみな」
「でも、それじゃカネにならない」
「結局、俺のカネが目当てなのか。なんでそんなにカネが欲しいんだ?」
「誰だってカネは好きだよ」
「だったら働きな。ラマザンは、働かずに稼ぐ人間は嫌いだと言っているだろ?」
「でも、カメラを買ってくれるって約束したじゃないか」
「ラマザンの話を聞いて、考えが変わったんだよ」
などと議論をしているうちに、ガラタ橋の西側に位置するボスポラス・クルーズの桟橋に到着した。メスートは係員と交渉して、比較的安い料金のツアーに申し込んでくれた。
「どうだい、俺は役に立つだろう」
「まあね」
「俺を召使に・・・」
「いらない」
「じゃあ、せめてここまで案内したチップをくれよ」
「しょうがないな。でも、これが最後だぞ」俺は呟くと、20YTLを彼に渡した。「これで、さっきのと合わせれば上等な靴が買えるだろう?」
こうして、笑顔と握手で別れた。うるさいガキから解放されて、ほっとしたぜ。俺は個人主義者だから、旅先で誰かと一緒にいるのは精神的苦痛でしかないのだ。もっとも、メスートが俺好みの萌え系美少女だったなら、話はまったく別だけどな(笑)。
遊覧船に乗り込んで時間表を見ると、出発まで後1時間もある。周囲はトルコ人の家族連ればかりで、外国人は滅多に見かけなかった。遊覧船自体、客席が後部デッキに一層あるだけの小型船だった。さすがは、安いツアーだぜ。でも、トルコ人の家族愛を至近で観察できるとあれば、かえって嬉しいことだ。メスートに感謝である。
しかし、トルコ人の若い娘は綺麗である。綺麗というだけでなく、多種多彩な顔立ちなので実に興味深い。おお、あの東アジアとアラブの顔の微妙な配合度合いの美少女!近くにいる母親(こっちは、小太りで金髪の白人風)が邪魔でナンパできないじゃねえか!振り返ると、こっちの白人とアラブの顔が絶妙に配合された少女もナイスですねえ!
俺は今まで、大きな勘違いをしていた。白人(特にスラヴ系)の少女こそ世界最高だと信じてきたが、それは完全に誤った思い込みであったのだ。本当の美少女は、トルコにこそいる。俺は今日から、トルコ専門のロリコン(略してトルロリ!)になろう。そう固く決意したのであった(笑)。
そうこうするうち、時間が来たので遊覧船は動き出した。後ろ向きに桟橋を離れ、方向転換してガラタ橋の下を潜り、ボスポラス海峡に向かう。
そういえば、海外で船旅をするのは、オーストリアのヴァッハウ渓谷以来である。首を回せば、旧市街、新市街、アジア側の陸地が次々に眼に入るし、陽光に照らされた青い海面もすこぶる気持ち良い。甲板の上を飛び回るトルコ人の子供たちも超絶的に可愛い。昨日訪れた白亜のドルマバフチェ宮殿を、沖から眺めるのも一興だ。反対側の陸地(アジア側)には、海に突き出した珍しい形の家屋が多くて興味深い。
遊覧船は、マルマラ海からボスポラス海峡に入ると、進路を北東に変えてアジア側のウシュクダル桟橋に着いた。ここで、多少は客が入れ替わったようだ。アジア側か。ううむ、そういえば今回の旅行では、まだ足を踏み入れていない。ここで降りちゃおうかと思って大急ぎでガイドブックを開いたところ、ウシュクダル付近には特に見るべきものが無いことが判明。しょうがないので、今回はクルーズに専念することにした。
ウシュクダルを離れた船は、アジア側の陸地近くでまっすぐ北上を続け、ファティーフ大橋の下を潜ってボスポラス大橋に達した。この辺りは、海峡の最狭部らしい。多くの白いカモメが、獲物を求めて低空飛行を繰り返す様子が楽しい。
船の中には色黒で小柄な口ひげのウェイターがいて、ジュースやお菓子を載せたお盆を持って熱心に船内を回る。目と目があえば、近づいて商談を持ちかけられるので、ついついジュースやチャイを買って飲んでしまった。安かったけどね。
遊覧船は、ボスポラス大橋の手前でグルっと方向転換し、今度は新市街側に沿って南下を始めた。ここが折り返し地点というわけだ。
すると、右手に見えてきたのが「ルメリ・ヒサル(ヨーロッパ城砦)」だ。これは1453年、オスマン帝国のメフメット2世がコンスタンチノープルを攻撃する際、橋頭堡として築いた城だ。最晩年のビザンチン帝国の国民は、さぞかし屈辱を感じ無念だったことだろう。首都の目と鼻の先で、敵の軍隊にこんな立派な城を易々と造られてしまったのだから。
時間があれば、ルメリ・ヒサルの城壁の上をのんびり散歩したいところだが、ちょっと市街中心部から遠いので無理だろうな。
船は、やがてオルタキョイやベシクタシュ、ドルマバフチェ宮殿の前を通って再びウシュクダル桟橋に寄り、それからマルマラ海に入った。
そこには、かつて灯台を勤めていたクズ塔があった。小さな島の上に、島の幅よりも高い塔が立つ様子は、なかなか興味深い。そういえば、この島は最近、007シリーズの「ワールド・イズ・ノット・イナッフ」で、クライマックスの舞台として使われていた。
目をそこから左にズラすと、大成建設の工作機械が筏の上で作業をしている現場が分かった。なるほど、旧市街とアジア側を結ぶトンネル工事の真最中というわけだ。例によって例のごとく、日本お得意のODAという奴だろう。いい加減、税金の無駄遣いは止めて欲しいものだが。
遊覧船は、元来た水路を通ってガラタ橋の下を潜り、エミノニュの桟橋に帰還した。1時間程度の船旅だったわけだ。
メトロシティ
時計を見ると、もう午後2時近い。どこかで腹ごしらえをしないとな。
ガラタ橋の入り口付近をウロウロしていると、どこからともなくサバの塩焼きの臭いがする。実は、昨日の夕方も気になったんだよな。
臭いを追跡しつつ、ガラタ橋下のシーフードレストラン街へと続く階段を下りると、そこに「サバサンド(バリク・サンドイッチ)」のレストランがあった。店の左右にサバの塩焼き機があり、それぞれの前に立つお兄ちゃんが、美味そうな臭いをさせながらサバを大量に焼いている。出来上がったサバは、要領よくパンにサラダと一緒に挟まれていく。なるほど、これが臭いの正体だったのか。思わず見とれて立っていると、若いウェイターに見つかって店の中に招き入れられてしまった。しかし、店内を見回しても、壁に貼ってあるのはドリンクのメニューのみだ。肝心のサバサンドの料金は、いくらなんじゃい?
ウェイターに聞こうと思ったら、先にドリンクのオーダーを聞かれてしまった。とりあえず、いつものようにエフェス・ビールを注文したら、ビールグラスと一緒にサバサンドが来て、ビールの分だけその場で支払わされた(6YTL)。どうやら、ドリンクを頼めばサバサンドは無料になるようだ。実にユニークなシステムだが、食に溢れている豊かな国ならではの計らいであろうか。
次なる問題は、どうやってサバサンドを食べるかだ。
周囲を見回すと、家族を連れたトルコ人の初老のオジサンが、卓上のレモン汁を大量にサバサンドに振り掛けてから、一気にパクつく様子を目撃。なるほど、ああやって食べるのか。
俺も真似をして、レモン汁をかけてから大口を開けて噛み付いた。いやあ、美味い。生ニンニクとレタスとサバとレモン汁のコンビネーションは、まことに絶妙だ。途中で、口内で引っかかるサバの骨を引っこ抜くのがたいへんだが、これも一興である。これが無料とは、とても信じられない。
大満足して店を出ると、レストラン街を突っ切る形で新市街に向かった。カラキョイ駅からカバタシュ駅までトラムを使い、再びタクシム行きの地下鉄に乗り込んだ。今回の目的地は、新市街北郊の大型デパートである。
タクシム駅で、新市街北郊行きの地下鉄に乗り込んだ。駅のホームは、日本より遥かに大きくて快適である。地下鉄車両も、車内にLED掲示板が常設されていて、日本の山手線の新型車両並みの先進振りである。ううむ、トルコ経済の躍進はバカに出来ないなあ。
レヴァント駅まで乗って、エスカレーターを乗り継いで地表に出た。ここにある「メトロシティ」というデパートに用があったのだ。お土産と、ついでにアタチュルク関係の書籍が目当てである。
ここは、高層オフィスビルの下層3フロアをデパートとして利用しているもので、日本でも良く見られる形態のビルである。デパート内は、まさに横浜ランドマークタワーと瓜二つの構造だった。ビルの中央部に巨大な吹き抜けがあり、その左右を綺麗な回廊が走る。階と階を繋ぐのはエスカレーターだ。マクドナルドなどもあるが、店舗数は意外と少なく、トルコにしては地味で小ざっぱりした印象だった。また、平日の夕方のせいか人出も少なく、これで採算が取れるのか疑問に感じた。
偏見かもしれないが、グランバザールやエジプシャン・バザールみたいなのが「トルコ風」であるのだから、こういった西欧資本の猿真似的なデパートは、あまり普及して欲しくないと思う。
で、メトロシティは、売り物も洋物ブランド品や高級化粧品が多くて、期待したようなトルコ風の土産はあまり置いていなかった。また、本屋もイスティクラル通りにあるのと同様の品ぞろえだった。
そういうわけで、足早にビルを出た。買い物の目的は満たされなかったわけだが、トルコの郊外型デパートと地下鉄を経験したことに意味がある。
思い返せば、チェコのプラハのほうが、デパートも地下鉄も個性豊かで楽しいことに気づいた。やはりアジアは、西欧の猿真似に流されやすく個性を失いやすい文化圏なのだろうか?
ペラパレス・ホテルとテュネル
などと考えつつ、再び地下鉄に乗って、タクシム駅から地表に出て、イスティクラル通りに入った。そして昨日と同じ店で、首尾よく「英語版」のアタチュルクの漫画と、セゼン・アクスのCDを買った。トルコ人歌手のCDは、実は日本でも簡単に手に入るので、わざわざこちらで買う必要も無いのだが、まあ何かの記念になるだろう。
それから、イスティクラル通りの散策を楽しみつつ、昨日行き忘れていたペラパレス・ホテルを目指した。この由緒正しいホテルは、イスティクラルを西に一本入った場所にある。
ここは、かつてオリエント急行の旅客専用のホテルとして栄え、多くの有名人や偉人を宿泊させたことで有名だ。ロカンタが並ぶ狭い路地を抜けると、威風堂々とペラパレス・ホテルが聳え立っていた。ああ、なんだか感無量である。ロビーに入って、そこに飾られている巨大なアタチュルクの肖像画やアガサ・クリスティの写真などを眺めていると、ホテルマンが「御用ですか?」と近づいて来た。「ちょっと見学させてください」と応えると、彼は笑顔で「どうぞ」と言ってくれた。
そこで、ロビーや食堂や有名なラウンジを見て回った。このラウンジは、アタチュルクの故事でも有名である。第一次大戦後、トルコを占領した西欧列強の将軍たちに姿を認められたケマル・パシャは、彼らの同席の誘いを断り、「あなたたちは我が国の『客』なのだから、あなたたちこそ、私のところに飲みに来るべきだ」と言い放ったのである。かつては、大勢の外国の貴賓たちがダンスに興じたであろうラウンジは、歴史の「地霊」を濃厚に漂わせているのだった。
甘えついでに、上階で「クリスティの部屋」とか「アタチュルクの部屋」も見せてもらおうかと思ったけど、有料だと面倒くさいので、今日のところは退散することにした。ホテルマンに礼を言ってから戸外に出て、付近に屯する観光バスの群れを眺めながら路地を抜け、イスティクラル通りに戻った。
さて、今度はテュネルを試す番だ。通りの最南端でテュネルの駅に入った。改札で、駅員にここ専用のジェトンを買わねばならないことを教えられ、あわてて財布を出す。その間に、居合わせていた列車は発車してしまった。まあ良い。10分間隔だ。
テュネルは、要するにケーブルカーである。新市街の丘の上から、ガラタ橋北端のカラキョイまでを結ぶ世界最短の地下鉄なのだ。昨日はガラタ塔に寄る都合上、利用を見送ったのだが、今日は遠慮はいらない。2分間の地下の旅を、存分に楽しんだのだった。
マントウ
カラキョイに出ると、再びガラタ橋を南に歩き、エジプシャン・バザールの「ITIMET」でアイランを買う。それからホテルで少し休んでから、ガイドブックを開いて「マントウ」を食べられる店を探した。英語学校で同じクラスになったトルコ通のTokoさんが、この料理を薦めていたので、滞在中に一度は食べてみなけりゃなるまい。
どうやら、「ジェンネット(天国)」という店が良さそうだ。場所はチャンベリルダシュなので、オルドウ通りを朝と同様に西方向に行けば良い。途中でジェトンを買い足したりしつつ、夕焼けの中をチャンベリルダシュまでトラム路線沿いに歩いた。
チャンベリルダシュとは、「鉄の柱」という意味である。ビザンチン時代の記念柱なのだが、あいにく補修中で、建築材に覆われた柱らしきものが、通りの北側に見えるだけだった。
チャンベリルダシュは、有名なハマム(浴場)があることでも有名だ。柱の近くにある風呂屋の入り口まで様子を見に行ったら、おりしも外国人観光客集団が列を作っていた。そういうツアーがあるのかな?ともあれ、行列してまでして風呂に入ろうとは思わないので、トルコ風呂体験は明日の早朝に回す事にした。
そこで、浴場近くのレストラン「ジェンネット」に直行した。広いフロアに簡素な丸テーブルを置いた大衆的な店だ。フロアの中央に小麦をこねる場所があり、大勢のお婆さんがせっせと働いている。厨房が店の真ん中にあるとは、なかなかユニークな店だな。
席に着いた俺は、ビールかラクを注文しようと思ったが、メニューを見るとアルコール類を置いていないことが分かった。イスラム圏は、基本的にはアルコール禁止なので、観光客専用の店に行かない限り、しばしばこういうことがある。そこで、チャイとマントウを注文した。
チャイの味を楽しんでいるうちに、マントウが到着。綺麗な幅広の皿の上に、水餃子がたくさん並んでいる。マントウは、おそらく中国語の「饅頭」から来た言葉なのだろう。さすがトルコは、東西文化の交差点である。しかし、水餃子にかかっているソースの白さが気になる。ああ、やっぱりヨーグルトだ!トルコ料理は、ドレッシングやタレの代わりにヨーグルトを用いるのが得意なのだった。そしてマントウの味は、完全に想像通りだった。水餃子に、酸っぱめのヨーグルトをかけた味を想像してみてください。美味いかって?美味いわけないでしょ(笑)。
まあ良い。とりあえず満腹したし、チャイは相変わらず美味かったので、チップ込みで10YTL支払って店を出た。空はそろそろ暗くなりかけている。付近のデパートを冷やかしたりしているうちに、日本語の出来るトルコ人青年に声をかけられた。「時間があるなら、僕の店に寄ってね」と言うから、おそらくは絨毯の営業だろう。こういうパターンには懲り懲りなので、「急いでいるから」と言ってトラムの駅に入った。一種の緊急避難である。そのまま、ギョルハネ駅までトラムで移動して、ホテルに帰った。
「ITIMET」で買っておいたアイランの味を楽しみつつ、ようやく手に入れた「英訳版アタチュルク漫画」をベッドの中で読みふけった。ううむ、面白い。やっぱり漫画は読みやすくて良いなあ。
たかが漫画と侮る無かれ。内容は、大人向けの極めて高度なものであった。フランス革命の勃発から説き起こし、民主主義の発展と帝国主義の伸長を解説しつつ物語は進む。主人公ケマル・パシャの活躍よりも周辺勢力の動きを克明に描くことで、当時のトルコが陥った絶望を浮き上がらせる。この描き方は、拙著「アタチュルク」とまったく同じなので好感を持った。アタチュルクの生涯の本質を描くためには、この方法しか無いのである。
ただし、この漫画はアタチュルクを褒めることを主目的にしているため、彼の残虐行為(スミルナ大虐殺など)や失策(民族問題など)については綺麗にオミットしてある。もしかすると、トルコの出版界には言論統制があって、アタチュルクの失策については書けないのかもしれない。それ以外は、基本的に拙著「アタチュルク」と同じことが書いてあったので、自分のリサーチ能力と情報分析能力に自信を持った。トルコ人の専門家が書いたトルコの出版物と同じ内容なら、拙著の内容を「真実」と見なして良かろうと思う。
ただ、漫画の中の感動的なエピソードで、拙著の中に書き落としたものが何点かあった。死病を患った後のアタチュルクが、むしろ積極的にダンスパーティーに参加して踊ることで周囲を安心させようとして、かえって周囲の涙を誘ったという話。イスタンブールに公務で訪れたアタチュルクが、病を推して激務に励むのを憂慮した側近たちが、彼に国費でヨットをプレゼントしたところ、喜んだアタチュルクが養子の男の子との最後の交歓をマルマラ海の洋上で楽しんだという話。
まあ、仕方ない。世の中には「完璧」は存在しない。拙著では、ギリシャ人の居酒屋や踊り子のエピソードで、十分に感動を演出できたはずだと信じている。
そのうちに眠気に誘われたので、シャワーを浴びてから眠りについた。