歴史ぱびりよん

ナポレオンとの対決

アレクサンドル1世

エカテリーナ大帝の病没後、その息子パーヴェル1世が即位するのですが、母と不仲だった彼は、貴族たちの既得権益を踏みにじる法令を次々に出し、あるいは進歩的すぎるフランス革命への共感を示したことから、多くの憤激を買います。パーヴェルは、天才将軍スヴォーロフのことも大嫌いで、フランス革命軍を壊滅寸前に追い詰めていた彼を、最前線で解任してしまいます(スヴォーロフは、失意のうちに憤死)。こうした悪政が続いたために、パーヴェルはミハイロフ宮殿に押し掛けた大貴族たちによって、集団リンチ(!)を受けて撲殺されてしまうのでした(1801年)。

替わって、その息子アレクサンドルが即位するのですが、暗殺現場で父の砕かれた顔面を見たことが彼の一生のトラウマになったようです。それでも、後に大帝クラスの大活躍をするのだから、トラウマも何かのプラスエネルギーに転化することがあるのでしょうか?ただし、彼が開明的なことをよく口にするくせに、最後には保守的な行動を取ってしまう理由は、父を保守派貴族たちに殺された恐怖感が原因だった可能性がありますね。

即位の行きがかり上、アレクサンドル1世(在位1801~1825年)の施政方針は、反フランス革命に傾きます。対仏大同盟に加わり、皇帝自ら最前線に出陣。オーストリアやプロイセンと同盟を組んで、アウステルリッツ、アイラウ、そしてフリートラントの戦場でフランス革命軍と激突するのでした。

しかし、フランス革命軍を率いるのは、かの軍事的天才ナポレオン・ボナパルト!ロシアら連合国は、連戦連敗の末にナポレオンに屈服します(1807年)。今やヨーロッパ全土で、フランスに対抗する大国はイギリス1国のみという有り様でした。

ロシア帝国は、表向きはナポレオン帝国の同盟国となり、イギリスに対する大陸封鎖の一員となりました。しかし、イギリスに対する経済制裁は、もともと脆弱なロシア経済に深刻に跳ね返るのです。そこで、こっそりと封鎖を破ってイギリスと交易を続けたものだから、これがナポレオンの憤激を買います。これ以外にも、様々な政治的軋轢が重なったことから、ついにナポレオン率いる70万人の大軍によるロシア侵攻が開始されるのでした(1812年6月22日)。

いわゆる「1812年戦争」、ロシアでは誇りを持って「祖国戦争」と呼ばれる大事件の勃発ですね。

ナポレオンは、興味深いことですが、100年前のカール12世と類似の過ちを犯します。敵を過小評価し、会戦で何度か勝利すれば自動的にロシアは内部崩壊するだろうと勝手に思い込んだのです。そしてロシア軍は、100年前のピョートル大帝と類似の戦略で立ち向かいました。会戦を避けて、広大なロシア奥地にフランス軍を引きずり込んだのです。

ナポレオン・ボナパルトは、この時点で天下無敵の軍人でしたが、その勝利には定型的なパターンがありました。敵国の首都を目指して攻め込んで、敵軍の主力に否応なしに決戦を強要する。その決戦に勝利することで、敵国首脳の心を折って、屈辱的な和平条約を押し付ける。「1812年戦役」も、明らかにこの定石を狙っていたようです。その割には、ロシアの首都ペテルブルクではなく旧都モスクワを目指したのは解せません。彼は、まさかとは思うけど、ロシアの首都の場所と名前を間違えていたのでしょうか?

そういうわけで、フランス軍がスモレンスクを突破してモスクワ近郊に迫っても、首都ペテルブルクに座す皇帝アレクサンドル1世には、一切のプレッシャーが掛かりませんでした。皇帝とロシア帝国の中枢が安全圏にいたからこそ、ロシア軍は気楽にどんどん奥地に逃げて行けたとも言えますね。

それでも、クツーゾフ将軍率いるロシア軍主力は、さすがに無血でモスクワを明け渡すわけにはいかなくて、そこで旧都の手前でナポレオンと対戦するのですが(ボロディノの戦い)、惜しくも敗退して撤退します。念願の決戦に勝利して、大満足でモスクワに入城したナポレオンですが、直後に大火災が起きて、現地調達するつもりだった物資のほとんどを失ってしまいました(モスクワ市長ロストプチンが、逃げる直前に自ら放火したという説が有力)。典型的な「ピュロスの勝利」ですね。

それでも、ナポレオンはアレクサンドルが降伏するものだと思い込んで、モスクワという名の廃墟の中で、ペテルブルクから使者が来るのをずっと待っていたというから、過去の成功体験に毒された独裁者の頑迷さは恐ろしいですね。アレクサンドル皇帝は、遠く離れたペテルブルクで高みの見物をしていましたが(笑)。

そうこうするうちに、ロシアの冬が来ます。廃墟の中に閉じこもったフランス軍に、飢えと寒さが襲い掛かりました。こうなると、過去の成功体験の繰り返ししか知らないナポレオンは思考停止します。「もう一度決戦だ!」と叫んでモスクワを飛び出したけど、もはやフランス軍には戦う力など残っていないのです。結局、元来た道をそのままフランスへと引き返し、追撃するロシア軍と飢えと寒さに襲われて、これまで彼を支えてきた精鋭将兵のほぼ全てを失ってしまうのでした。これも、カール12世の末路に良く似ていますね。

奇しくもロシアへの侵攻は、スウェーデンのバルト帝国とナポレオンのフランス帝国の両国にとって、決定的な致命傷となったというわけです。同じことを、約100年後に、ヒトラーの第三帝国が繰り返すわけですが。

命からがらパリに帰還したナポレオンは、再び若者たちを徴兵して大陸軍の復活を図るのですが、さすがにヨーロッパ列強がそれを阻みます。「諸国民の戦争(1813年)」で、対仏大同盟の主力となったのは、アレクサンドル1世率いるロシア軍でした。ドイツ各地を転戦するロシア軍は、「ライプチヒの戦い」でついに宿敵ナポレオンを完全に撃破。ロシア軍は勢いに乗ってパリに進軍し、ナポレオンは万策尽き果てて退位するのでした。

もしかすると、この瞬間こそがロシア帝国の栄光の絶頂だったのかもしれません。

「ウイーン会議」を主催し、ヨーロッパの盟主となったロシア帝国。しかし、その存在はあらゆる進歩を阻む保守反動の象徴と見なされました。この認識は、西ヨーロッパの若者のみならず、ロシア国内の進歩派にも共有されました。

これが、19世紀のロシア帝国にとって厳しい試練となるのです。