歴史ぱびりよん > 長編歴史小説 > アタチュルクあるいは灰色の狼 > 第4章 ベルリン来訪
1
オスマン帝国の首都イスタンブールは、人口120万人を超える大都市である。アヤ・ソフィアに代表される美麗な建築物は、訪れるものに、あたかもこの都市が地上の楽園であるかのような錯覚をもたらす。
しかし、第一次大戦末期のこの街にひとたび入ったなら、こうした幻想は瞬時に打ち砕かれるであろう。旅人を出迎えるのは、路上にうずくまる飢えた貧民の群れであり、路上に撒き散らされた汚物の山であり、その中を凶悪な相貌で漁りまわる野犬の群れだからだ。
帝国の首都は、皇帝一族が奢侈に使うための重税に加え、数百年にわたる外国資本の搾取を受け、さらには今次大戦における重税に圧迫され、見る影もなく衰えていたのである。
ムスタファ・ケマルは、外国人居住区であるペラ地区にやって来た。この地区だけは、夜でも明るいし退廃的で華やかな雰囲気を保っている。しかし外国人地区といっても、今では大手を振るって街を歩くのはドイツ人とユダヤ人だけだ。他の外国人は、戦争勃発とともにほとんど退去してしまったのである。
なお、トルコ人と外国人を見分けるのは、この当時は極めて容易なことだった。なぜなら、オスマン帝国臣民の男性は、外出時にフェズと呼ばれる独特の帽子の着用を義務付けられていたからである。これは、映画やテレビで見た事のある方も多いだろうが、赤茶色で円筒形のフェルトの帽子である。皇帝マフムート2世の時に、オスマン帝国の雑多な民族たちの同朋意識を覚醒させるため、それまでのターバンを禁止し、全国民にこの画一的なファッションを義務付けたのだった。もちろん政治的な効果はあまり無かったが、なぜか20世紀初頭まで残存している男性の身だしなみなのである。
女性はどうかといえば、他のイスラム諸国と同じである。外出時は、分厚い黒い布(チャルシャフ)をすっぽりと被って目だけを露出させる。イスラム教の戒律で、親や夫以外の男性には顔や体を見せてはならないのである。
ケマルは、西欧式の教育を受けた合理的な男だったから、こういったしきたりをバカらしく思っていた。特に、若い女性の顔を往来で見られないのが気に入らない。なにしろ彼は、女好きの独身男性なのだ。
そういうわけで、彼は女性の顔が見られる場所が大好きだった。内地勤務で非番の時は、外国人街の色町や酒場に良く顔を出す。
「日本人は立派だ」ケマルは、低くつぶやいた。「彼らは、窮境をはね返したのだからな」
彼は、なじみの酒場キリムに入って、いつものようにラク酒を飲んでいる。
「また、その話なの」テーブルの向かいに座る若い女性は、葉巻から紫煙をあげながら笑った。「あなた、どうせ戦場でも、フランス語版の日本の書籍を読んでいるんでしょう」
「さすがに、そんな余裕はないさ」ケマルは唇の端をあげた。「ザラ、日本はあのロシアを負かしたんだ。西欧に押し付けられた不平等条約を、完全に撤廃させたんだぜ。俺たちと同じ、アジア系の有色人種なのに」
「その話は、耳タコよ」彫りの深い顔立ちの美女は、薄いショールを肩に纏い黒髪を両耳の左右に揃えている。西洋風に、顔を露出させているのだ。彼女は、男の鼻面を人差し指で弾いた。「日本は、トルコとは違うわ。地図で見た感じじゃ、ヨーロッパからもアメリカからも遠いし、そもそも島国じゃない。だから出来たのよ」
「それは違う」ケマルは目を伏せた。「彼らは、欧米からの距離にもかかわらず、必死に勉強して彼らの技術を身につけたのだ。島国で資源に乏しいのに、必死にやり繰りして国を豊かにし、ついにはロシアを打ち負かせるようになったのだ。我々は、日本人を見習わなければならないよ」
「あなたがそう言うなら、きっとそうだね」ザラと呼ばれた女性は、艶然と微笑んだ。「あたしも、戦争が終わったら日本のことを勉強したいな」
「本気で言っているのかい?・・・遅かれ早かれ、戦争は終わるだろう。俺が協商国軍首脳なら、ギリシャを味方につけてこの地に兵力を集中し、ブルガリアに侵攻する。ブルガリアが落ちれば、ドイツとトルコの連絡線が分断されるから、我が国は武器弾薬や資金、それに援軍を得られなくなって力尽きる。これで、負け戦だ」
「あなたは、トルコ帝国が誇る無敗の英雄なんだから」ザラは、男の肩を優しく叩いた。「そんなことを口にしちゃ駄目だよ」
「もちろん、他では言わないさ」ケマルは、グラス一杯のラクを一気に呷った。「君にだけだ、こんなことを喋るのは」
「うふふ、あたしが敵のスパイだったらどうするの?安酒場で、ベリーダンスを踊っている女だよ。おカネ次第で、外国に機密を売るかもよ。ケマル・パシャが、『トルコ必敗の策を建言』ってね」
「お前は、そんな女じゃない」
ケマルは、空のグラスを拳の中で回しながらザラを見つめた。黒目勝ちの美しい瞳と浅黒い肌、高く張った鼻梁。トルコの女性は世界一美しい、とケマルは考える。
「でも、オスマン臣民はみんな、あたしのような稼業を軽蔑するわ。人前で素顔や肌をさらすなんて、イスラム教徒の面汚しだってね」
「バカな話だよ」ケマルは、運ばれてきたお代わりを、再び一気に呷った。世界一の美貌を世界から隠すなんて。「それを言うなら、俺だって面汚しだ。敬虔なイスラム教徒は、酒を飲むべきじゃないんだからな。俺は、戦場でも毎晩浴びるほど飲んでいる。酒がなければ、バカらしくてやってられないんだ」
「あなた、本当に強いよね。どんなに飲んでも少しも変わらないんだもん。でも、そういえば、戦場からは病気で帰って来たんじゃなかったっけ?大丈夫なの?」
「大した病気じゃないんだ。だからこうして、酒を呷っているのさ」
「強い男って、あんまり可愛くないよね」
「36歳にもなって、女に可愛いと思われたくないね」
「女はね、男のやせ我慢を可愛いと感じることがあるの」
ザラは、白い手のひらでケマルの無精髭まみれの顎を撫でた。そのとき、ボーイが呼びに来た。彼女の出番だという。
「自慢のグラマラスボディで、ドイツの狒々爺どもを喜ばしてくるかな」ザラは伸びをした。「あなた、今夜はどうするの?うちに泊まってもいいよ」
「遠慮するよ、ホテルで副官が待っているからね。明日の早朝、宮殿に参内しなきゃならないのだ。大臣に噛み付いてやる」
「がんばってね、英雄さん。あたしたちのために」
「任せておけ」
ケマルは、席を立ってザラに素早くキスをした。
勘定を済ませて店の外に出ると、悪臭をまとった浮浪少年たちが物乞いに群がってきた。
「バクシーシ(お恵みを)!バクシーシ!」
「どけ!」ケマルは、一喝をくれるとコートを翻して足早に歩き去った。
少年たちには罪はない。けれど、幼い子供を飢えさせるような祖国の実情が、ただひたすらに悲しかったのだ。
2
ドルマバフチェ宮殿は、ボスポラス海峡に向かって聳え立つヨーロッパ様式の白亜の豪壮な宮殿である。
皇帝アブドルメジド1世が、19世紀半ばに大量の外債を発行して10年の歳月をかけて建設したものだ。皇帝は、この宮殿で権勢を誇示し、もって上からの構造改革(タンジマート)の嚆矢としたかったのだが、肝心の改革が大失敗に終わったのだから目も当てられない。国に残されたのは巨額の借金だけで、結局、それが原因で19世紀末に国家が破産宣告する羽目に陥ったのだ。
今ここは、皇帝メフメット5世が住み「青年トルコ党」大臣たちが集う、オスマン帝国政庁の事実上の所在地であった。なるほど、こんな立派な宮殿で働いていれば、外界の深刻さに無関心にもなろう。そこには、戦時中にあるべき緊張感が存在しなかった。
それでも、政権与党の幹部たちは、戦後の産業改革や教育改革について議論を戦わせる日々を送っていた。彼らは、この国が数年の後に滅亡することなど、想像すらしなかったのである。彼らは、最後まで必死にこの国を改革しようと考えていたのだから、その志は尊敬に値すると言えようか。
ケマル・パシャは今、そんな人々が集う宮殿に立っている。
彼は、副官アリフを廊下に待たせ、エンヴェル陸相の執務室に入った。
左右に衛兵が立ち並ぶ広壮な執務室の真ん中に、大理石の執務机の後ろでマホガニーの椅子の上に胸を張る小柄な陸相がいた。
「ムスタファ、君は相変わらずだな」精悍な美男子のエンヴェルは、執務机の後ろから精一杯の愛想笑いを浮かべた。「青白いその顔から、酒気が抜けてないぞ。どうせ、昨日も酒場に行ったんだろう」
やはり、こいつは俺を監視しているのだ。ケマルは、怒りをぐっとこらえ、そして言った。
「私には病気静養など、必要ありません。ここが祖国の正念場です。飼い殺しにするくらいなら、私を戦場に行かせてください」
「ふん、どこに行ってもドイツ将校と喧嘩するだけだろうが」エンヴェルは、うんざりした口調で言った。「私と君の最大の違いは、ドイツのことが好きか嫌いかだな」
「ドイツとは、早く手を切るべきです」ケマルは、同い年の権力者に向かって吐き捨てるように言った。「彼らの狙いは、戦後のトルコの鉄道網であり、その先にあるイラクの油田です。閣下は、奴らに利用されているのです」
「君は分かっていない」エンヴェルは右手を顔の前で振った。「トルコ国民は、みなドイツのことが好きなのだ。そして、立憲君主制を志向する我が党の立場からは、国民の声を無視することはできないのだ」
前皇帝アブドルハミト2世に『トルコ最後の希望の星』と謳われた陸相からは、常に人を惹き付ける強力な磁場が溢れ出ている。しかしケマルは、それに抗した。
「・・・国民がドイツのことを好きだとすれば、それは、ドイツが過去にトルコ領を侵略したことがないという、それだけの理由でしょう。閣下は、彼らによる新手の侵略、すなわち経済侵略が、今まさに行われているのに気づかないのですか」
「私はバカじゃないぞ」エンヴェルは声を強めた。「こっちだってドイツを利用してやれば良い。奴らにカネを出させて鉄道や油田を整備すれば、それがトルコのためにもなる。産業が発展すれば、抜本的な構造改革に必要な資金だって捻出できるだろう。我々は、そこまで遠大なプランを考えているというのに、お前は一匹狼の戦争屋だから、そこまで頭が回らないのだな」
「なんだと」ケマルの銀色の目は光を増した。この瞬間、軍人としてのケマルは、政治家としてのケマルへと変化を遂げた。「はっきり言わせて貰うが、あんたのプランには大きな穴がある。それは、ドイツがこの戦争に勝つだろうと信じきっていることだ。もしもドイツが負けたらどうなるのだ」
「負けるはずがない!」ケマルの変貌に動揺しつつ、エンヴェルは叫んだ。「西部戦線でも東部戦線でもドイツは優勢だ。今や帝政ロシアは崩壊し、ドイツ全軍が西部に殺到しつつある。彼らの勝利は時間の問題なのだ」
「あんたは、ドイツ人の『宣伝』に乗せられているんだ」ケマルは、負けずに怒鳴り返した。「自分の目で前線の実情を見るが良い!最前線の兵士たちは、ドイツ人もトルコ人も、給養不十分で立つのがやっとの有り様なんだぞ!今や我が軍の戦線は、四方八方から圧倒的物量の敵に押されているのだぞ!」
「ふん、それで貴様は私にどうせよと言うのだ」
「ドイツと手を切って、戦争を終わらせるべきだ。英仏に、和平の使者を送るのだ。今なら、まだ間に合う」
エンヴェルは、穴が開くほどケマルを見つめた。戦場の英雄のくせに、戦争が嫌いなのかこいつは。それとも、病気のせいで頭が変になったのか。
「このままでは、国が滅びます」政治家としてのケマルは、じっと陸相の目を見つめた。「万が一、戦争に勝ったとしても、ドイツの経済植民地にされるだけだ。閣下は、そんな祖国がお望みなのか」
「俺をバカにするのか!」
エンヴェルは、執務机から立ち上がり、そしてケマルの胸倉を掴んだ。部屋の隅に控えていた2人の衛兵が、緊張感を漲らせながら身構える。
陸相は、やっとの思いで気を落ち着けると、胸倉を掴んだ手を離して首を左右に振った。
「ムスタファ、お前と話すといつもこうだ。俺は忙しいし、いつもストレスを抱えている身だ。少しは考えてくれよ」
「・・・すみません」ケマルは、唇から押し出すようにこの言葉を発した。政治家としてのケマルは、忠実な軍人に戻った。しょせん、今の彼はエンヴェルの部下でしかない。どんなに足掻いても、無駄なものは無駄なのだ。
「話題を変えよう。今日、お前を呼び出したのは他でもない」エンヴェルは、執務机の表面をコツコツと叩きながら言った。「皇太子を護衛しながら、ベルリンに行って欲しいのだ」
「私に、皇太子の儀礼訪問に付き合えというのですか、この非常時に・・・」軍人としてのケマルは呆然とした。
「これは、単なる儀礼訪問ではないぞ。慧眼を自認する君に、今のドイツの実態を見て来て欲しいのだ。きっと、私の言ったことが理解できるようになる。きっと、ドイツの勝利を確信し、私の戦争政策に賛同できるようになるだろう」
「しかし・・・」
「これは命令だ!」エンヴェルは、机を拳で叩いた。「これ以上、俺に口答えするな!」
忠実な軍人は、踵を合わせて執務室を後にした。
3
オリエント急行。それは、当時の人々の憧れだった。
パリとイスタンブールを繋ぐヨーロッパの大動脈は、ようやく近代化の時代を迎えた人類みんなの希望の象徴だった。
しかし、この鉄道は、歴史の中で何度も不通になった。線路が経由する国々の政治事情のせいである。
第一次世界大戦の勃発は、この路線にとって悪夢以外の何物でもなかった。パリ(フランス)とイスタンブール(トルコ)が敵同士になっただけではない。経由地のバルカン半島の国々が、それぞれ敵味方に分かれて殺し合いを始めたので、同時に何箇所でも寸断されたのである。
だが、1915年11月に中央同盟軍がセルビアを攻略したことで、ようやくドイツとトルコを結ぶ路線が再開された。こうして、中央同盟国の人々だけが、再びオリエント急行の旅を楽しむことが出来るようになったわけだ。いや、楽しむという言葉は不謹慎かもしれない。戦時下のこの路線を走るのは、兵員や事務官僚や軍需物資ばかりだったからである。
そんな中では、特等席に座すオスマン帝国の皇太子メフメットも、同盟国同士の友誼を繋ぐための「軍需物資」の一つに過ぎなかったであろう。でも、本人にはそんな自覚がなかった。皇太子は、イスタンブールを出られることが嬉しくて仕方なかったのである。
前述のとおり、トルコ民族はもともと中央アジアにいた遊牧民族であった。遊牧騎馬民族は、特定の土地に縛られることなく、牧草地を求めて部族ごとに各地を移動し、そして過酷な自然や農耕民族と戦い続ける。そんな彼らが求めるのは、常に実力のある強いリーダーであった。そのため、彼らの文化には、農耕民族特有の「長子相続」という概念はない。最も有能な者が、実力で地位を確保するのが当たり前なのである。そのため、オスマントルコ帝国の皇室では、血で血を洗う内紛が頻繁に起きた。兄弟同士の殺し合いなど日常茶飯事である。近代に入ると、さすがに暗殺の頻度は減ったものの、現皇帝の対抗馬になりそうな王族の前には、遠島に流されるかハレムの一角に生涯軟禁されるかのどちらかの運命が待っていた。
そういうわけで、皇太子メフメットは、今や57年になる人生の大半を、宮殿の一角(カフエス)に軟禁されて生きていたのである。彼は、常に暗殺の影に脅え、小さく気弱に生きてきた。従兄から皇太子に指名され、宮殿からようやく外に出られたときほど、アラーに感謝したことはない。そして今、彼はドイツへの旅路を、憧れのオリエント急行に揺られているのである。
「余は、親善大使としての使命を立派に果たしてみせるぞ」
皇太子の胸には、前途への希望が溢れんばかりであった。
そんな彼にも、今回の任務については不満がないこともない。それは、侍従武官が変人だということである。祖国をたびたび救った戦場の英雄だというが、無口で不機嫌そうに黙り込み、たまに口を開けばドイツの悪口ばかり言う奴だ。皇帝も大臣も、どうしてあんな変人を余に同行させようと考えたのか理解に苦しむわい。
件の変人ケマル・パシャは、皇太子の人間的資質に絶望しながらも、この人物を休戦の切り札だと考えていた。なぜなら、現皇帝メフメット5世は病気がちで、余命いくばくも無いと思われていたからである。ここで次期皇帝を味方につけることが出来れば、それはエンヴェルを出し抜くことに繋がる。この絶望的な戦争の終結に繋がる。
4
しかし、ベルリンで、ケマルの目算は完全に崩れた。
彼らを出迎えたのは、絢爛豪華で贅沢極まりない接待攻勢だったのだ。経験の乏しい皇太子は、美しく着飾った金髪ゲルマン美女と見たこともない美食に囲まれ、すっかり有頂天になってしまった。
「戦時下でこんな贅沢が出来るなんて、ドイツ帝国の大勝利は間違いない。やはり、何もかもエンヴェル大臣の言うとおりなのだ」皇太子は、大きく頷いた。
我々日本人には、メフメットを笑う資格はない。太平洋戦争の前夜、ナチスドイツを訪れた軍人官僚たちは、これと同じ手管でヒトラーに篭絡されてしまったのだから。
ケマル・パシャは、貴人たちが踊り狂うダンスパーティーを、壁際から軽蔑の篭った眼差しで睨み続けた。ダンスを求める美女たちや社交辞令と作り笑いを並べる将官たちを、すげなく睨んで追い返す。
「なんと下品な連中だろう。貴族と称し、美しく着飾ってはいるけど、その性根は男も女も娼婦以下の連中だ。こうしている間にも、戦場では多くの若者が、塹壕の中で飢えと寒さと砲弾の雨に打たれて苦しんでいるのだぞ。彼らは、一瞬でもそれを考えたことがあるのだろうか」
彼は、ワインを舐めながら、故郷に思いを寄せた。
「イスタンブールの女たちが懐かしい。踊り子のザラは元気にやっているかな。こんな茶番は早く終わって欲しい。祖国に帰りたい」
ケマルの抑圧された怒りと不満は、翌日の晩餐会で炸裂した。
主催者のヒンデンブルク元帥は、東部戦線のタンネンベルクでロシア軍主力を撃破した大英雄として、国中で持てはやされる人物だった。彼は、トルコ軍の武勇を褒め称え、そしてシリア戦線のファルケンハイン中将の「電撃軍団」が近々、スエズ運河を奪い取るだろうと荘重に予言した。
ケマルは、立ち上がって反論した。
「閣下は、トルコの戦場のことを何一つ分かっておられません。スエズ運河の奪取など夢物語です。現状のままでは、シリア戦線は却ってスエズ運河から攻めてきた敵によって、間もなく崩壊するでしょう」
細長いテーブルを囲んだ満座は静まり返り、ナイフとフォークの音も途絶え、そして華やいだ空気は一気に重くなった。
ヒンデンブルクは、ケマルにちらっと投げた視線をそのまま逸らした。しばらくして、何事も無かったかのように晩餐は再開された。ナイフとフォークとお喋りの音が、元通りに部屋を満たしていく。
無視されたケマルは、仕方なく席についた。視線を感じて顔を向けると、二つ隣の席にいた皇太子が、怒りの篭った目で睨んでいた。
「また、やってしまったか」
ケマルは、自分の不器用さが情けなくなった。
なお、ここに登場したヒンデンブルク元帥は、後にワイマール共和国の最後の大統領となる人物である。彼もパーペンと同様、ヒトラーにその座を譲り、そしてドイツを紅蓮の炎に包む狂言回しとして歴史に名を残す運命にあった。
5
この当時のドイツ帝国の事情は、実際にはお寒い限りであった。
イギリスの海上封鎖によって貿易を止められた上、四方を強敵に囲まれた長期戦は、辛抱強いドイツ人の忍耐の限度を超えつつあった。ドイツ経済は、実際には破滅の淵に立っていたのである。
しかし、ドイツ軍は戦場で大きな敗北をしていないし、強敵ロシアも革命によって転覆し脱落した。そういう表面的な状況を見るなら、確かに、第一次大戦の戦況は中央同盟軍が優位に立つように思える。そういうわけで、社交ダンスに浮かれる貴族たちには、自国が置かれた苦境がほとんど理解できていなかったのである。
さて、ケマルは、ヒンデンブルク元帥に対する無作法が問題とされたため、皇太子の配慮によって、その三日後に開催されたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との晩餐会の随行者から外されてしまった。
「かえって、気楽で良い」
暇になった彼は、フェズ(トルコ帽)を脱ぎ、市場で見つけた鳥打帽を斜めに被ると、お忍びでベルリンの街を歩き回った。美麗な大都会は、イスタンブールの状況よりは随分とマシだが、ケマルの天性の洞察力は、ドイツの首都が疲弊していることを見抜いた。
夕暮れのブランデンブルク門の彫刻は、気のせいか不吉な暗褐色を帯びている。市井からは、あらゆる娯楽が姿を消して久しい。暗い顔の民衆は、行進する軍隊や松葉杖をつく傷病者の群れを力なく眺めている。ここにあるのは、全てが軍事一色に染め上げられた余裕の無い世界だ。ケマルは、ドイツが過酷な総力戦体制を採らざるを得ないこと、そして、接待攻勢でトルコごとき(と、白人は内心で思っているはず)のご機嫌を取らねばならぬ事情を思いやった。
「やはり、エンヴェルは騙されているのだ。いや、彼ならば、今のベルリンを見れば俺と同じ見識に至るだろう。エンヴェルが、駐在武官として赴任していた10年前のベルリンと今のベルリンは、全く異質な世界のはずだから。・・・この都市には俺ではなく、エンヴェル自身が訪れるべきだったのだ」
彼は、色町に向かって歩きながら、今ごろドイツ皇帝にお世辞を言われて美食を貪っているであろう皇太子を思った。
あの人は、祖国の希望になれるだろうか。
いや、あの人しかいないのだ。あの人しか祖国の希望はないのだ。
最終日の夜、彼はホテルで皇太子に会見を求め、二人きりで腹蔵なく語り合った。
皇太子は、ドイツの頽勢についてのケマルの見解については意見を保留したが、「青年トルコ党」、特にエンヴェル一派の横暴と無為無策については共感を示した。
「パシャ、あの連中を国政から排除するには、どうしたら良いと思うかね」
「殿下は、帰国されたら第一に、首都の防衛を担当する第5軍の司令官に立候補してください。まずは、軍事力を掌握することが肝要です。それから、私を参謀長に任命してください。二人が組めば、エンヴェル一派にも十分に対抗できますぞ」
「ふむ」皇太子は物憂げにうなずいた。「考えておこう」
ケマルは、この言葉に希望を抱いた。
しかし、根本的なところに齟齬があった。
皇太子が「青年トルコ党」を嫌った本当の理由は、彼らの戦争政策に懐疑的だからではなく、彼らが皇帝権力を阻害し政権を壟断しているからだった。メフメットは、政党政治そのものを否定し、前時代的な封建君主として君臨したかっただけなのである。
ケマルはまだ、そのことを知らない。
今の彼は、首都での成功を確信して、祖国へ向かうオリエント急行の一等座席に揺られているのだった。