歴史ぱびりよん

第3章 シリアの砂漠にて

 

オスマントルコ帝国は、多民族国家であった。

支配民族であるトルコ人は、総人口の4割程度しかいない。アラブ人が、残りのうち4割で、後はユダヤ人にペルシャ人にギリシャ人が比較的多く、それ以外はクルド人やアルメニア人といった少数民族であった。

何しろ、帝国お膝元の小アジアとバルカン半島東南部でさえ、アレクサンドロス大王以来ギリシャ人が多く住む土地であるから、トルコ人は商工業の多くを彼らに委ね、自分たちは官僚や軍人としてその上に乗っかる立場なのであった。

そのような状態にもかかわらず、この国家が600年以上の歳月を分裂せず乗り切れた理由は、その寛容な異民族政策にあった。征服者であるトルコ人は、被征服者の文化と宗教や言語をそのまま存続させたのである。地域によっては、貨幣すら既存のまま流通させた。

このように寛容な国家は、成長期には無類の強さを発揮する。トルコの攻撃にあった国々は、むしろ喜んでその支配を受け入れたからである。

しかし、成長期が過ぎて成熟期、そして停滞期に入ると、こうした寛容な在り方はマイナスのベクトルに振れる。地域ごとに勝手に行われる経済活動や軍事行動は無駄が多いし、官僚の腐敗や汚職を食い止める手段も見つからない。

これを憂えた歴代皇帝は、西欧を見習ってしばしば中央集権化を目指して改革を行った。しかしこれは、これまで自治を認められていた他民族の怒りを徒に煽るだけの結果となり、そのたびに皇帝は抵抗勢力によって失脚させられるか暗殺されてしまったのである。

端的に言えば、多民族国家であるオスマン帝国は、西欧諸国のように共通言語や共通文化に基づく国家アイデンティティーを涵養することが出来ず、「国民」を成立させることが出来ず、そのために近代化に乗り出すことが出来なかったわけだ。

それでは、共通言語や共通文化以外に、多民族国家を束ねる手段はないのだろうか。一つだけある。それは「宗教」だ。オスマン帝国に住む雑多な民族は、おおむねイスラム教を奉じていた。そして彼らは、自分たちを「オスマントルコ国民」ではなく「イスラム教徒」として認識していたのである。

そこでトルコ皇帝は、19世紀半ば以降、スルタンカリフ制(皇帝が教祖を兼ねるというオスマン帝国の制度)を前面に出して、イスラム世界の代表としてのオスマン国家を纏めようとした。

しかし、これが曲者であった。

イスラム教は、近代化を否定する宗教だったからである。

この宗教は、信者に「政教一致」を強要する。信仰上の教義や戒律を、政治、経済、軍事の全てに優先的に適用しなければならないのだ。

イスラム教というのは、宗教というよりはむしろ人生のルールであって、儒教に近い性質を持っている。あらゆる人間は、生きている限り、常に「聖典コーラン」と律法に従って行動しなければならないのである。具体的には、豚肉はどんなときも口にしてはならず、過度に飲酒してはならず、女性は夫以外の男性に顔を見せてはならず、一日5回はお祈りしなければならず、金曜日(安息日)には絶対に仕事をしてはならず、断食月(ラマダーン)の間、日中は水すら口にしてはならない。

「聖典コーラン」とそれに基づく律法は、日常生活の些細なことまで規定した人生のルールである。しかし、これが制定されたのは1300年も昔の話だ。たとえば、イスラム経は一夫多妻制を認めているが、これは偉大な預言者マホメッドが活躍した当時、戦争で男性人口が大幅に減少したため、結婚にあぶれた女性たちを救済するために必要な措置であった。豚肉を食べてはいけないのも、マホメッドの時代に豚が疫病の原因になったから(異説もある)だ。要するに、「聖典コーラン」の内容は、1300年前の特殊な時代背景を下敷きにして書かれているのである。しかし、マホメッドの後継者たちは、この時代遅れのルールの厳守を20世紀の信者たちに義務付けているのだった。

当然の帰結として、オスマン帝国のシェイフェル・イスラム(イスラムの長老)やウレマー(宗教顧問団)は、近代化や工業化を「理論的に」全否定した。イスラム世界では、皇帝や大臣が何か新しいことを始めようとするたびに、病的なまでに保守的なイスラムの長老やウレマーに、いちいちお伺いを立てなければならないのだが、彼らは「聖典コーラン」に記述されていないものは、とりあえず否定することから入るのが常であった。

その結果、オスマン帝国は自前の工場すら持つことが出来ず、ほとんどの工業製品を外国から買っている始末だった。国政の全てに宗教が関与するこの国の体質は、ほとんど致命的ですらあった。

そもそも、西欧の近代化は、「政教分離」を大前提にして成立した。ヨーロッパ人やアメリカ人は、古臭いキリスト教の教えよりも、現世での社会効率や経済的豊かさを最優先したために、近代国家となって世界の覇者へ成長できたのだ。この辺りの経緯については、マックス・ヴェーヴァーの著作に詳しい。

以上のことから分かるように、イスラム教のもとに固く団結したオスマン帝国は、そのために却って近代化から遠ざかる結果となったのである。

それでは、トルコを近代国家に生まれ変わらせるにはどうするべきか。

第一に、トルコ「国民」による単一民族国家を造ること。

第二に、政教分離を行うこと。

「青年トルコ党」の急進派は、この2点を念頭に置いた構造改革を模索していた。確かに、当初はそのはずだった。エンヴェルの唱える「汎トルコ主義」は、あまりにも夢想的に過ぎるが、まさに単一民族国家を目指す思想である。しかし、実際に政権を握った連中は理想を見失ってしまった。

1908年に革命を起こして皇帝のクビを挿げ替え、憲政を施行したまでは良かったが、保守的な宗教勢力は従来どおりに温存された。抜本的な構造改革までは、恐くて行えなかったというわけだ。しかも、彼らの単一民族志向は「国内の少数民族に対する差別や弾圧」という最悪の形で現れたため、かえって国内の混乱を深めたのだ。それどころか、実権を握るエンヴェル一派は、オスマン帝国の領土をさらに東側に拡張しようと考えて、無謀にも第一次世界大戦に踏み切ったのである。

そんなエンヴェルは、皇帝の従姉妹(ナジエ内親王)を娶ることで、皇室の利権集団に取り込まれてもいた。

彼と同い年のケマル・パシャは、悲しくもあり腹立たしくもあった。

自分が政治家になったら、祖国の地に平和な単一民族国家を樹立し、政教分離を徹底させる決意があった。決して利権集団に取り込まれないという強い自信があった。

しかし、今の彼は一介の将軍に過ぎない。それも、いけ好かないドイツ軍人に指図される弱い立場に過ぎなかった。

シリア戦線のケマルは、第7軍の司令官に任命された。しかし、第7軍は、ドイツのファルケンハイン将軍が編成した「電撃軍団」の補助戦力に過ぎないのだった。

 

 

オスマン帝国は、もともと地勢的に四方八方を敵に囲まれる立場であった。

ダーダネルス海峡は英仏海軍の射程距離だし、コーカサスはロシアとの係争地域。ペルシャ(イラン)からは、この国の南半分に宗主権を持つイギリス植民地軍がイラクに攻めてくる。

エジプトも同じだ。何しろこの地は、イギリスの委任統治領なのだ。1917年、メッカのアラブ人酋長フサインを抱き込んだイギリス軍は、彼と歩調を合わせて地中海沿いにパレスチナを目指したのである。

これに対するトルコは、ドイツ軍人エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン中将が、ルーマニア戦線から引っ張ってきた新軍団を切り札にしようと考えていた。ファルケンハインは、これを「電撃軍団」と呼んでいたが、その戦力はお寒い限りだった。何しろ彼は、中東の政治情勢や地勢をまったく理解しようとしないのである。ヨーロッパの森林で戦闘してきたドイツ兵には、砂漠で戦う準備が出来ていなかったのだ。それならば現地事情に通じたトルコ軍に頼れば良いのに、ファルケンハインはたいへんな人種差別主義者だったから、トルコ軍などドイツ軍の露払いとしか思っていなかった。

激怒したケマルは、作戦会議の場で、堂々と上官を批判した。

彼はもともと、トルコ軍の中枢にドイツ軍人が入り込むことに懐疑的だった。このままでは、この戦争がドイツの勝利に終わった場合、祖国はドイツの植民地にされてしまうだろう。いや、もう手遅れかもしれない。何しろ、トルコの戦争資金全てがドイツからの借款で賄われている現状では、戦後の軍事も政治も経済も、全てがドイツに牛耳られてしまうことは必定だった。ケマルは、そのことが悔しくてたまらない。

それだけが、ケマルの怒りの原因ではなかった。目の前にいるドイツ将軍は、ケマルの第7軍を補助戦力に位置づけたのみならず、これを捨石あるいは囮にして作戦全体を進めようとしていたのだった。

「貴官は、私の指示に黙って従えば良いのだ!」ファルケンハインは、豊かな口髭を震わせて激怒した。

「間違った作戦には従えません!」ケマルの銀色の瞳は、少しも悪びれない。

ファルケンハインの参謀は、フランツ・フォン・パーペンという名の温厚な紳士だった。彼は、むしろケマルの言い分の方が正しいと感じていた。ファルケンハインは、ドイツ貴族としての権威を振りかざしトルコ人をバカにしすぎる。彼は、両者の間に入って調停を試みること数度に及んだが、頑固な二人は決して歩み寄り折れようとはしなかった。

二人が言い争っているうちに、イラクに侵攻したイギリス軍はバクダッドを落とし、エジプトのイギリス軍とアラブ軍はシナイ半島に侵攻した。こうして敵の戦線は、徐々にトルコ本土に近づいていく。

「お前のせいだ!」ファルケンハインは、ケマルに指を突きつけた。

 

 

ケマルは、幕営で一人、酒を煽った。ストレスが溜まると、それを深酒で晴らそうとするのが彼の欠点である。しかし、たいへんな酒豪である彼は、どんなに飲んでも酔うことが出来ない。これはある意味、不幸なことだったかもしれない。

「俺は、どうしても他人に折れることが出来ない性質の持ち主だ」ケマルは、愛飲しているラク(トルコの地酒。ブドウを蒸留し、アニスで香りをつけたもので、度数45の火酒である)のボトルの中身を喉に一気に流し込んだ。

「俺には、何が正しいか何が間違っているかを瞬時に見分ける能力がある。そして、間違ったことに対しては、相手が誰であろうと屈することが出来ないのだ。俺は、相手がスルタンであろうとも必ずハユル(ノー)を言うだろう。だから俺は、36歳にもなってこんな辺地で酒を飲んでいる」

ケマルは、既成組織の中では決して成功できないであろう自分のことを自虐的に考えた。

そのとき、衛兵が部屋に入って踵を合わせ、そしてパーペン参謀の来訪を告げた。

そそくさと入ってきたドイツ紳士は、机の上で3本ものボトルに囲まれ赤い目をしているケマルの様子にたじろいだが、力強くフランス語で切り出した。「たった今、本国に打電して、ファルケンハイン将軍の更迭を要請しました。これが受け入れられた場合、後任はおそらくザンデルス将軍になりますぞ」

「本当ですか」ケマルは机から立ち上がった。「ザンデルス将軍は、ガリポリ半島で共に戦いましたが、見事な指揮を見せる本物の軍人です。彼は、我々トルコのことを良く分かってくれています。それなら、味方も一致団結して戦えるでしょう。ありがとう、パーペンどの」

「礼には及びません」パーペンは微笑んだ。「しかし、貴官ももう少し他人と折れることを学ぶべきではないでしょうか」

「お言葉、ありがとうございます」ケマルは苦笑した。

それが出来れば、苦労はいらない。

このパーペン参謀は、後に意外な縁でトルコと結ばれる。

後年の彼は、ドイツ・ワイマール共和国の最後の首相となるのだが、政局を安定させることが出来ず、独裁者ヒトラーにその座を譲り渡すことになる。その後、ナチス転覆を策動したためにヒトラーに憎まれた彼は、副首相の座を退いてトルコ大使となることで粛清を免れ、そして戦後も戦犯となることを免れるのであった。

パーペンを幕舎の外まで見送ったケマルは、冷え込みが厳しい真っ暗な砂漠地帯を満足げに見渡し、久しぶりに安眠できそうな自分を発見した。

しかし数日後、ケマルを待っていたのは、彼自身の解任命令なのであった。

 

 

イスタンブールでは、エンヴェル陸相が憂慮していた。

前線のファルケンハイン中将から、軍規を乱すケマル・パシャを処罰するよう幾度となく要請が来ていたからだ。

エンヴェルは、シリア戦線を視察したことがあるので、ファルケンハインが二流の人物だということを知っていたし、ケマルに好きなようにやらせたほうが良いことも知っていた。しかし、ドイツに心酔しきっている彼は、ドイツ人の機嫌を損ねるようなことは絶対にしたくなかったのである。

「この人事は失敗だったな」スタンブル地区の陸軍省に構えた執務室で八の字髭を撫でながら、首都の主権者は沈思した。「ケマルは、野生の狼だ。絶対に、飼いならすことは出来ない奴だ。だが、あの軍事的才能は目を見張らんばかりだから、捨て去るには惜しすぎる。ケマルを慕う国民感情も考慮しなければならぬ。だが、ここは仕方ない。ケマルをイスタンブールに引き取ろう。病気療養という名目にすれば、国民も納得するだろう。後任は、従順なフェヴジ少将が妥当なところか」

ケマルが、深酒と心労で腎臓と肝臓を壊していたのは事実であった。

 1917年7月、こうしてケマル・パシャは第7軍の指揮官を解任され、首都に召還されたのである。