歴史ぱびりよん

第2章 コーカサス戦線

 

閑話休題して、暦の話をする。

いわゆるイスラム暦(ヒジュラ暦)は、西暦と異なり太陰暦である。太陰暦は、月の満ち干を基準にして暦をつける。新月から次の新月までが、一ヶ月なのである。

これに対して、西暦(グレゴリオ暦)は、すなわち太陽暦である。太陽の公転速度を基準に1年を365日とし、これを12ヶ月に割り振るのだ。これだと、4年に1度の割合で日数に誤差が生じるので、閏(うるう)年というのを設ける。2月の最終日が28日だったり29日だったりするのは、こういった誤差の調整作業なのである。

日本は、明治維新まで太陰暦を用いていた。太陰暦は、月の満ち干を基準に1年を354日とする。これだと、太陽暦に比べて誤差が大きくなる理屈だが、東洋の太陰暦は数年に一度、この誤差を一気に調整するのである。すなわち、閏月というのを設ける。その結果、閏月が置かれた年は1年が13ヶ月になるのである。昔の年表で、1月の次に閏1月が来たりするのは、こうした誤差の調整結果なのだ。なお、閏月を設けて太陽暦との調整を図る太陰暦を「太陰太陽暦」という。

それではイスラム暦はどうかというと、やはり1年を354日と考える。しかし、太陽暦との誤差調整をまったく行わないのである。イスラム世界の暦は、閏年とか閏月という概念を持たない純粋な太陰暦なのだ。その結果、西暦とイスラム暦は、月や日付どころの話ではなく、年単位で数百年もの誤差が生じてしまっていた。

トルコでは、本編の主人公ケマル・パシャの改革で、1925年から西暦(太陽暦)を用いるようになった。したがって、第一次世界大戦(1914~18年)の時点では、トルコ側が記述する事件の年月日は、西暦とまったく噛み合っていなかったわけだ。

しかし、それではあまりにも煩雑で、読者のみならず筆者も混乱する。そこで、本編で触れられる年月日は、すべて西暦に統一して記述することを了承願う。

 

 

話を元に戻すと。

オスマントルコ帝国は、コーカサス地方で唯一、ロシア帝国と陸続きになっていた。

コーカサスは、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、その中央部には峻険な山脈が東西に聳え立ち、北のロシアと南の中東を地理的に隔てている。ここに住むのは、主としてアゼルバイジャン人やグルジア人といったアジア系民族であった。

この地域の重要性は、交通路や連絡路というより、むしろその豊富な鉱物資源、中でも石油にあると言える。そして、石油の重要性が飛躍的に増した20世紀初頭、この地域は全世界の垂涎の的であった。大戦前夜の時点では、17世紀のピョートル大帝以来の南下政策によってトルコ領をしきりに蚕食したロシアこそが、コーカサスの主である。

そして、第一次大戦の勃発によって、この地は再び戦場となった。オスマントルコ帝国は、同盟国のドイツと仇敵ロシアを挟み撃ちにすることで、この重要地域を奪還できると踏んだのである。

1914年冬、イスマイル・エンヴェル陸相率いるトルコ軍10万は、一気呵成にコーカサス山脈を北に越えてロシアに攻め込んだ。「サルカムシュ作戦」である。これは奇襲となり、準備不足のロシアを苦しめた。しかし、峻険なコーカサス山脈越しでは補給が続かない。敵地深く疲労困憊したトルコ軍は、1915年春からのロシアの反撃によって大敗を喫し、壊滅状態となってしまった。遠征軍10万人のうち、生還したのは1万人に過ぎない。そしてこの年が暮れるころには、この山脈を大きく南に越えたロシア軍によって、トルコの東部領土はむしろ400キロも蚕食されていたのだった。

ガリポリの英雄ケマル・パシャの困難な新任務は、このロシア軍をトルコ領から駆逐することであった。

 

 

「ひどいな」

ディヤルバキル市の東郊に立つケマル少将は、ハンカチで鼻を押さえながら言った。彼の背後に立つ副官アリフ中佐や師団長カラベキル大佐も、不快感を隠そうとしない。

この村も、やはり無人だった。いや、野犬なら山のように居る。こいつらが嬉しそうに咥えているのは、人間の死体の一部だ。この無人の村には、死体だけは潤沢にそろっている。生き埋めにされ焼かれた老若男女の群れ。

罪の無いアルメニア人たちを追放し虐殺したのは、侵略者ではなかった。同胞であるはずのトルコ軍なのであった。

首都イスタンブールに噂が流れた。コーカサス南部に住むアルメニア人キリスト教徒たちが、ロシア軍に寝返る密約を交わした、と。これに過剰反応した陸相エンヴェル・パシャは、この地のアルメニア人200万人を直ちにシリアに追放する命令を下した。逆らうものには容赦しない。その結果が、この大殺戮と言うわけだ。

アルメニア人は、実はトルコ人よりも古い民族で、彼らに関する最古の記録は、ヒッタイト王国の年代記(紀元前14世紀)に出て来る。アルメニア最初の統一国家は、紀元前9世紀に成立したアララト王国だ。その後身であるアルメニア王国は、古代ローマ帝国とパルチア王国(あるいはペルシャ王国)の間の緩衝地帯として、歴史書に頻繁に記録が出て来る。しかし彼らは、紀元後9世紀以降は独立を失い、ビザンチン帝国とペルシャ王国により分割されてしまった。そして20世紀初頭の現在では、トルコとロシアとペルシャによって三分されている民族なのであった。彼らの運命は、なんとなく東欧のポーランドに似ている。地政学的に、常に大国に挟まれてしまう生活圏の場所が悪すぎたとしか言いようがない。

そんな彼らを虐殺する命令を下したエンヴェル・パシャは、肩書きこそ陸相でしかないが、老いた皇帝メフメット5世を背後で操る帝国の最高実力者であった。そしてこの人物は、トルコ民族を愛するあまり、少数民族の立場にはまったく不寛容なのであった。

19世紀末から20世紀前半は、異常なまでに先鋭化した「民族主義」の時代であった。他民族に対する不寛容の嵐が地球全体を覆った。

ともあれ、この拙劣な政策によってアルメニア地方の民衆の支持を失ったトルコ軍は、ろくに戦火を交えることもなく退却を繰り返し、ロシア軍にその座を明け渡すばかりだったのである。

ケマルは、この戦争の何もかもが嫌だった。

リビア戦争(1911年)、そして2度にわたるバルカン戦争(1912年~13年)の時、ケマルは精魂こめて戦った。なぜなら、あれは侵略者から祖国を守るための防衛戦争だったからだ。結局、リビアはイタリアに奪われ、バルカン半島の領土はブルガリアやギリシャに奪われてしまったが、それでもあの戦争には大義があった。

しかし、この第一次世界大戦は違う。いったい、何のための戦争なのだろう。おそらく、互いに殺し合うイギリス人もロシア人もフランス人もドイツ人も分かっていない。そこには、大義が存在しない。

ケマルは、ガリポリ半島の死体の山を思い起こした。トルコの青年とイギリス連邦やフランスの青年が、あの狭い土地で合わせて40万人も死んだ。しかし、トルコの青年はまだ幸せだったと思う。なぜなら彼らの多くは、祖国の危機を救おうとして誇りを抱いて死んだのだから。イギリスやフランスの青年たちはどうだっただろうか。ましてや、自治領から徴発されて来た若者たちはどうだっただろう。彼らは、読めない文字で表記された見ず知らずの土地で、意味も分からず赤痢と銃弾と砲弾と銃剣によって殺されたのだ。

もっと酷いのが、コーカサスで犬死にした9万人のトルコ兵だ。エンヴェルら「青年トルコ党」のお偉方は、ドイツの勝利を当て込んで、勝ち馬に上手に乗ればロシア領コーカサスや中央アジアを領有できるものと思い込み、欲得で戦争に踏み切った。9万人の青年は、夢想のために死んだのだった。

そして、戦争を口実にして、罪のない少数民族が大量に殺害された。

ここには、何一つとして大義がない。

無意味だ。

廃墟を歩くケマルの心は、怒りと悲しみと虚しさで張り裂けそうになっていた。

「勝てるわけが無いんだ」軍団長は、副官アリフに向かって吐き捨てるように言った。「民衆の支持を得られない軍隊は、どんなに頑張っても無駄だ。私はこの任務を降りる!」

アリフ青年は、反骨精神溢れる上官が、短気で癇癪持ちであることを良く知っていたので、そんな言葉を聞いても別に失望はしなかった。

「お気持ちは分かります。しかし、当地の軍勢の士気は最悪で、英雄ムスタファ・ケマル・パシャの激励を必要としております。それに、あなたの力が無ければ、祖国は外敵に蹂躙されてしまうのですぞ。多くのトルコの良民が、野蛮なロシア人の餌食にされるのですぞ」

「そうだな」ケマルは、気を取り直した。「ロシア人に、これ以上の前進は許さない」

彼は、アルメニア奪回を諦め、むしろ守勢に入った。彼の第2軍は、アナトリア東部にドイツ式の防御陣地を築き、ロシア軍と対峙したのである。自ら『ドイツ歩兵操典』を翻訳出版したことがある彼は、ヨーロッパの最新の近代兵制を完全に知悉していたのだ。また、彼は各部隊を熱心に視察し、激励の演説を精力的に行った。カラベキル大佐ら配下の師団長たちや兵士たちは、伝説的な英雄の雄姿に大きく心を動かされ、士気を高揚させたのである。

対するロシア軍は、コーカサス山脈越えの補給が続かず疲労困憊で、積極攻勢に移れない状態であった。もともとロシアの専制政治は末期症状を来たしており、ただでさえ兵士に十分な給養を行えない有り様だったので、彼らの厭戦気分は今では看過しえない水準に達していたのである。そう考えれば、指揮官がケマルでなくてもトルコの東部戦線は守りきれたかもしれない。

しかし、トルコの民衆はそう考えなかった。民衆は、ケマル・パシャだからこそロシアの侵攻を防ぎえたのだと解釈した。

こうして、ケマルは再び英雄となった。

 

 

「気に入らんな」イスマイル・エンヴェル陸相は、口ひげをしごきながら呟いた。「どっちを向いてもケマル、ケマル」

「民衆には、トルコ人の英雄が必要なのだ」アフメット・ジェマル海相は応えた。「国民の継戦意欲が増すのなら、ケマル人気も大いに結構ではないか」

ここはイスタンブールのドルマバフチェ宮殿。政府の実権を握る「青年トルコ党」の要人たちは、広壮な会議室でコーヒーを飲んでくつろいでいるのだった。

ところで、ジェマルは海相という肩書きだが、トルコには海軍と呼べるような存在が無かった。「海相」というのは、いわば権威付けのためのお手盛り人事であった。このことからも分かるように、トルコ政府は一部の要人によって私物化されていたのである。

「青年トルコ党」は、正式名称を「統一と進歩委員会」という。これは、時の皇帝アブドルハミト2世の強圧的専制政治に対抗するべく生まれた民間の政治結社である。初代リーダーは郵便局員あがりのメフメット・タラートだったが、ジェマルやエンヴェルといった軍人エリートを多く加えたことにより、急激に先鋭化し、ついに1908年にクーデターを起こして皇帝を退位させた。彼らは、皇帝専制を打破して立憲君主制を確立したのである。

しかし、立憲君主制とは名ばかりで、実際には「青年トルコ党」による一党独裁の専制政治が開始されただけだから、相変わらず戦争には負け続け、経済は悪化の一途であった。

三巨頭と言われるタラート、エンヴェル、ジェマルは、それぞれの派閥を率いて、それぞれが勝手な政策を行っていた。その上で、お互いの顔を立てるためにタラートを内相(後に大宰相も兼任)、エンヴェルを陸相、ジェマルが海相という具合に政府の要職を平等に分け合っていたのである。ポストは、あくまでも「権威付け」の道具に過ぎない。そして、陸軍の軍事力を総覧するエンヴェルこそが、結局はこの国の真の実力者なのだった。

このように私物化された政権与党の中で、ケマル・パシャは党員番号322番の平党員に過ぎなかったから、政治的にはまったくの無力であった。

しかし、エンヴェルは複雑な心境だった。

実は、彼とケマルは古くからの知り合いなのだ。共に憂国の思いを胸に刻み、「青年トルコ党」で同じ飯を食った間柄だ。リビア戦争のときは、共に砂漠の奥地でイタリアの侵略軍と戦った間柄だった。しかし、二人の政見はまったく違っていた。そして、二人とも他人に折れるということを知らない性格なので、いつしか両者は不仲になっていた。

エンヴェル・パシャは、「汎トルコ主義」という独特の思想を持っていた。彼は、ユーラシア大陸に散らばる全てのトルコ民族を糾合する巨大国家へと、オスマン帝国を成長させたいと願っていたのだ。

トルコ民族は、もともと中央アジアに住んでいた遊牧民族である。たとえば、7世紀に大唐帝国と対立した突厥は、トルコ民族の国家であった。この民族はいくつもの集団に分かれ、馬や羊を追いながらユーラシア大陸全土に散らばった。その中で、オスマン・ベイと名乗る族長に率いられた一団が、小アジアとヨーロッパに侵入して樹立した国家が、今のオスマントルコ帝国なのである。つまり、オスマン帝国に住むトルコ人は、ユーラシア大陸に住むトルコ人の中の一部にしか過ぎなかったのである。しかし、20世紀初頭の現在、独立を維持しているトルコ民族国家は、オスマン帝国ただ一つであった。それ以外のトルコ民族は、全てイギリスかロシアか中国に支配されていたのだ。

エンヴェルの抱く夢は、ユーラシア大陸のトルコ人全体の理想郷の樹立である。そのためにはまず、ロシアや中国やイギリス植民地に住んでいるトルコ人を「解放」しなければならない。彼がこの帝国を、英露を敵とする第一次世界大戦に参戦するよう仕向けたのはそのためであった。だからこそ、トルコ人解放を叫びながら、国境の西側をがら空きにして開戦劈頭にロシア領コーカサスに大軍を送り込んだのである。だからこそ、不仲のケマルを、戦略的重要性の乏しい(と思われた)国境の西側に配置したのである。しかし、そのことがケマルを逆に「英雄」にしてしまったのは皮肉な結果であった。

「まあ、たいしたことではない。『戦場の英雄』は、あくまでも兵隊野郎だからな」

エンヴェルは淡い笑みを浮かべ、同い歳の白皙の顔を思い浮かべた。

ケマルはかつて、エンヴェルの思想「汎トルコ主義」を「非現実的な夢想だ」と評して非難した。彼はむしろ、オスマン帝国内のトルコ人居住地域、すなわち小アジアとバルカン半島東南部を固有の領土と見なし、この中に住むトルコ人だけを一つに纏めるべきだと主張したのだった。だから、エンヴェルはケマルを嫌った。ケマルの卓抜な才能を知りつつも。

そのとき、侍従武官が電報を持って駆け込んできた。

「一大事です。ロシアで革命が勃発しました。敵の首都ペトログラードは大混乱に陥り、コーカサスのロシア軍は、浮き足立って全面壊走に入りました。ケマル・パシャの軍が、これを追撃し、我が軍は大戦果を挙げておりますぞ」

喜びのあまり真っ赤な頬をした武官に向かい、エンヴェルは吐き捨てるように言った。

「ケマルは、クビだ!」

侍従武官は、呆然と立ち尽くした。事情を知らぬ彼には、どうして首都の最高権力者が激怒したのか理解できなかった。

エンヴェルは、ケマルをこれ以上の英雄にしたくなかったのである。

ケマル・パシャが、コーカサス方面軍を解任されて、シリアに転出させられたのは、その直後のことであった。