歴史ぱびりよん

第十四話 海軍ろ号事件

さて、マリアナ沖海戦の詳説をする前に、あの戦いが日本の大敗に終わった本当の原因を究明しましょう。

まず、トラック島大空襲の話から。

1944年の初頭、アメリカ軍の大攻勢に恐れをなした日本海軍は、長らく艦隊の泊地として使っていたトラック島を放棄しました。ただ、奇妙なことに、戦艦大和をはじめとする軍艦は全て西方に避難させたのに、大型タンカー5隻を含む輸送船34隻を全て置き去りにしたのです。そして、アメリカ艦隊の大空襲で、これらの輸送船は全て撃沈されてしまいました。

当時の日本は、アメリカ潜水艦によって民間船を片端から撃沈されていたので、輸入食糧が激減し、日本国民の間に飢餓が広がりつつありました。 もちろん、石油も日本本土に届かなくなっていました。ですから、海軍は何が何でも輸送船を失ってはならなかったのです。それなのに、この不始末。補給軽視の伝統ゆえでしょうか?

さすがに海軍内部でも問題となって調査委員会が設立されました。しかし、日本型組織の体質は、「身内同士の庇い合い」にあります。調査委員会の結論は、「敵が強かったんだからしょうがない」というものでした。

何のために仕事してんだ!と突っ込みたくもなりますが、現代の大多数の企業の監査役さんも、この程度の仕事ぶりで高給を貰っているわけです。

東条首相は、さすがに怒り狂いました。彼は、参謀総長や軍令部長の首をきって、自らがこれらを兼務したのでです。ようやく、戦争をお役所任せに出来ない事に気付いたのでしょう。しかし、時、既に遅しです。また、日本人は独裁者が嫌いですから、東条は閣内に多くの敵を造ってしまいました。これが、後に彼の失脚に繋がるのです。

さて、いよいよ海軍最大の不肖事、「海軍ろ号事件(乙号事件とも)」に迫ります。

1944年初夏、連合艦隊司令部はパラオ島に置かれていました。山本長官の後任は、古賀峯一大将です。この人は、本拠地をフィリッピンに移そうと考えて、二機の飛行艇で幕僚ごと移動しようとしていました。

しかし、そこに敵機動部隊接近の誤報が入ったのです。驚き慌てた古賀長官たちは、燃料補給の終わらぬ飛行艇に飛び乗って、台風の中をフィリッピンに向かいました。

どうなったか?

古賀長官機は行方不明になりました。おそらく、台風に翻弄されて海面に叩き付けられたのでしょう。これはこれでトホホな話なのですが、問題は2番機です。台風は何とか突破できたのですが、燃料が足りなくて目的地に辿り着けなかったのです。そして、海上を漂流しているうちにフィリッピン諸島の南岸に着いたのですが、そこでアメリカに懐柔されたフィリッピン人ゲリラの捕虜になってしまったのです。

幕僚たちは、運良く捜索にきた日本のゲリラ討伐隊によって救出されましたが、その前に、ゲリラたちに、一命と引き換えに、海軍の軍事機密や暗号書を全て引き渡してしまったのでした!

日本軍の情報は、こうしてアメリカ軍に全て筒抜けとなってしまったのです。

しかし、海軍首脳部は、この事件を「無かったこと」にしちゃいました。

日本軍は、『戦陣訓』という通達で、兵士に捕虜になることを禁じていました。ですから、幕僚が土民ゲリラの捕虜になったなんて、恥ずかしくて人に言えないわけです。

「無かったこと」というのは、軍事機密の漏洩も「無かったこと」という意味です。ですから、暗号も変更されず、作戦計画も部隊配備も当初のままでした。アメリカ軍は、日本軍の状況を100%知りぬいた状態でマリアナ沖海戦を戦ったのです。ただでさえ強いのにねえ。

もちろん、「情報漏れ」の事実は、日本機動部隊を率いる小沢中将をはじめ、下々の将兵には知らされることがありませんでした。彼らは、お偉いさんのメンツを守るために見殺しにされたのです。

「身内同士の庇い合い」は、いまや数十万のマリアナ諸島の将兵や民間人のみならず、日本の国運も壊滅させようとしていたのです。

この体質は、今でも変わりません。いい加減、こういう見っとも無いことは止めるべきではないでしょうか?