歴史ぱびりよん

第十二話 「白山の戦い」

カトリック派のマティアス皇帝は、プラハに議員を派遣し、「ボヘミアの信仰告白」を撤回する旨を伝えました。先王ルドルフ2世の政策を反故にしたのです。

プラハ城に議員を迎えたプラハ市議会員たちは、これを聞いて怒り心頭に発し、200年前の先輩と同じ行動を取りました。すなわち、皇帝の使者たちを城の窓から放り出したのです(第二次窓外放擲事件)。地表に落ちた使者たちは、奇跡的にかすり傷で済んで、命からがらウイーンに逃げ戻りました。

もはや、後戻りは出来ません。ハプスブルク家とカトリックに叛意を示したチェコの貴族や市民たちは、プロテスタントのファルツ公フリードリヒを、新たなチェコ王として迎え入れたのです。

マティアスは、この事態を話し合いで解決しようとしたのですが、交渉が纏まらないうちに病没してしまいます。その跡を継いだのは、イエズス会の洗脳教育を受けて育ったフェルディナンド2世です。彼は、プロテスタント(フス派含む)に対し、病的な憎しみを抱いている人物でした。直ちに軍勢を召集し、プラハ目指して進軍を始めます。

これが、あの「三十年戦争(1620~1648年)」の幕開けでした。事の起こりや性質からすると、「第三次フス派戦争」と言い換えても良いかもしれません。

チェコのフス派は、直ちにプラハに軍勢を集めるのですが、肝心のフリードリヒ王と意見が合わず、しかもプラハ市の財政が窮乏していたため、傭兵に満足に給料を支払えない状態でした。

足並みが揃わず士気も低いチェコ軍は、プラハ郊外で巨大な敵を迎え撃ちます。「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」(1620年)です。

結果は、チェコ軍の大敗でした。

プラハを占領したオーストリアの軍隊は、過酷な弾圧を加えます。「陰謀」に加担したチェコの貴族や市民27名を八つ裂きにして殺し、その死体を鉄籠に入れて、カレル橋からぶら下げて、腐るに任せたのです。

また、狂信者のフェルディナンドは、フス派そのものの撲滅に乗り出しました。カトリックに改宗しない者は、強制的に国外追放となったのです。この残酷な政策によって、15万人を越えるチェコ人が祖国を追われ、その多くが飢えと寒さの中で倒れていきました。「チェコ兄弟団」も、組織ごと国を追われます。

さらに、驚くべきことに、フェルディナンドは、チェコの文化を抹殺しようとしました。公用語をドイツ語とし、チェコ語を話すことを実質的に禁じたのです。また、学校でチェコの歴史や文化について教えることも禁止したので、心あるチェコの文化人は、身をやつして官警の目が届かない地方に逃げるか、国外に亡命するしかありませんでした。

チェコ人の苦難は、これだけに留まりません。チェコとプラハは、言わばプロテスタントの聖地です。この地をカトリックの魔手から奪還するべく、プロテスタントの王侯諸侯が立ち上がり、大挙して攻めてきたのです。こうしてチェコは、プロテスタントとカトリックの草刈場となりました。数知れぬ無辜の民が、家を焼かれ略奪にあい、虚しく命を散らしていったのです。

いつ果てるともしれぬ殺し合いは、延々と30年も続き、ドイツの総人口の3割が失われたと言われています。

チェコは、もっと悲惨でした。戦争と疫病、それに宗教上の粛清と弾圧によって、チェコの総人口は、戦前の450万人が、90万人にまで減ったのです。もはや再起不能とも言える大打撃です。ああ、何という悲劇でしょうか!

戦争末期、プロテスタントの精鋭を率いるスウェーデンの王族カール・グスタフが、プラハ城に入ったとき、彼はヴルタヴァ川越しに、オーストリア軍が立てこもるプラハ旧市街のチェコ人たちに内応を呼びかけました。しかし、プラハ市民たちは、耳を塞いでうずくまったままでした。「もう沢山だ」と思ったのでしょうね。

三十年戦争は、その直後に終結しました。ウエストファリア条約の締結です(1648年)。

ここに、プロテスタントによるプラハ奪還の夢は消えました。

疲弊しきったチェコは、ハプスブルク家率いるオーストリア帝国の植民地と化したのです。