歴史ぱびりよん

第十三話 近代の父ヤン・コメンツキー

さて、ハプスブルク家による狂気の弾圧の中、急進フス派の「チェコ兄弟団」は国外追放処分となってしまいます。このときの首長は、ヤン・コメンツキー(1592~1670)という人物でした。

この温厚篤学な徳人は、「チェコ兄弟団総領及びターボル軍最高司令官」という荘重な肩書きの持ち主でした。いまだにターボル軍を引きずっているのが微笑ましいですね。ともあれ、ターボル軍の司令官である以上、祖国の奪還に尽力しなければなりません。

でも、「兄弟団」には軍事力がありませんから、コメンツキーは各地のプロテスタント諸侯に働きかけ、チェコの窮状を訴えて回ったのです。これがどれほどの効果があったかは不明ですが、結果として、チェコはプロテスタントとカトリックの草刈場となり、一面の焼け野原になってしまいました。これは、コメンツキーにとって不本意なことだったでしょう。

祖国に帰る事を夢見続けたこの人物は、結局、そのささやかな夢を適える事が出来ずに、アムステルダムで客死します。その間、各地で様々な講演活動を行い、また、様々な著作を残しました。この人の事績で重要なのは、むしろこちらです。

ヤン・コメンツキーは、ヤン・フス、そしてペトル・ヘルチツキーの思想をより深く追求し、独自の神学を確立した人物でした。彼は、神の名の下における人類の平等、すなわち民主主義について深遠な考察を巡らし、さらに、民主主義を効果的に営むために最も大切なのは「教育」であることを鋭く喝破し、子弟教育をいかに強化するかについて具体的な提言まで行っているのです。彼が著した地理の教科書『世界図絵』は、その後数世紀にわたり、ヨーロッパの社会科教科書のスタンダードになりました。

彼の思想『汎知論』は、様々な形でヨーロッパの思想家たちに影響を与えました。また、文化の保護や子弟教育に関する提言は、今日のユネスコ活動の基礎となっています。さらに、ヨーロッパの近代教育は、その全てがコメンツキーの理論に準拠していると言っても過言ではありません。

日本の民主主義や教育が、欧米に比べて立ち遅れているのは、コメンツキーのような偉大な先生に恵まれなかったからかもしれません。

ともあれ、チェコの寒村で人知れず暖められていた深遠な理論が、三十年戦争という悲劇の中で、初めて外界に飛び出して全ヨーロッパに広まり、そしてヨーロッパの近代化を促進させたのは皮肉なことです。

祖国を夢見て涙ぐむコメンツキーの不幸は、こうして人類の幸福になったのでした。

なお、「チェコ兄弟団」の一部はアメリカに渡り、「モラビア兄弟団」として今日も活動しています。

フス派の思想と組織は、今日の世界にまで大きな影響を与えているのです。