歴史ぱびりよん

第十九話 T・G・マサリクの登場

20世紀は、明るい時代になるものと誰もが夢見ました。しかし、その夢は無残に砕かれます。20世紀前半は、悲惨な戦争の世紀だったからです。

しかし、チェコにとっては明るい要素も無いわけではありませんでした。それは、第一次世界大戦の結果、ハプスブルク帝国が壊滅し、チェコは晴れて独立国になれたからです。その立役者こそ、T.G.マサリク(トマーシュ・ガーリッグ・マサリク、1850~1937)でした。

スロヴァキアの貧しい農奴の子として生まれたマサリクは、教育熱心なチェコ人の母親の薫陶を受け、またその才能が多くの人に支持されて、チェコのプラハに進学します。彼は、プラハ大学で哲学を習得し、やがて哲学博士になるのですが、自らを「歴史哲学者」と呼んでいました。彼が着目したのは、ヤン・フスやヤン・コメンツキーなどの、チェコ史上の偉大な哲人たちでした。彼らの思想に深く触れたマサリクは、現在のチェコで繰り広げられている「民族復興運動」が、あまりにも「チェコ」という概念に縛られすぎて、異常に狭くなっている点を憂慮したのです。

彼が主宰した独立運動を目指す政党(=レアリスト党)は、スロヴァキアとの合併や、ドイツ人やユダヤ人との和解と協調を謳った点で、たいへんに斬新でした。

そんな彼の真骨頂は、いわゆる「ヒルスナー事件」で発揮されます。この事件は、プラハでチェコ人の幼女が惨殺された際に、たまたま第一発見者だったユダヤ人青年が、『邪教の儀式のために少女を殺したのだ』などと警察に邪推されて逮捕されたというものです。狭い民族意識や異人種への偏見に縛られた当時の一般世論は、警察の見解を支持しました。しかし、マサリクは戦います。彼は、ユダヤ教にそのような殺人儀式が存在しないことを論理的に証明し、哀れなユダヤ人青年を冤罪から救ったのです。

また、マサリクは、プラハの歴史学者たちが「チェコ人の優秀性を証明する歴史資料」を捏造するのを、強く非難しました(手稿論争)。彼は、歴史を在りのまま、正しく受け止めるように主張したのです。

こうした活動によって、マサリクは、偏狭な民族主義者たちから「非国民」と呼ばれる苦しい時期を経験したようです。しかし、彼の指導力溢れる政治活動は、少しずつ支持者を増やしていくのでした。

運命の1914年8月、サラエボで、オーストリアの皇太子フェルディナンドが、セルビア人青年によって暗殺されました。オーストリアは、直ちにセルビアに宣戦布告。セルビアと同盟関係にあったロシアが参戦すると、今度はオーストリアと同盟していたドイツが、続いてロシアと同盟していたフランスが宣戦しました。やがて、イギリスとアメリカも、フランス側で参戦します。第一次世界大戦の勃発です。こうして、ヨーロッパは、泥沼のような全面戦争に陥ったのです。

チェコの兵士は、当然ながら、オーストリア軍の一員としてロシアと戦うことを強要されました。しかし、民族意識に目覚めたチェコ人は、オーストリアよりも、むしろ同じスラヴ民族であるロシアに親近感を感じていたのです。そのため、チェコ兵の多くは、東部戦線で戦わずにロシアに投降していったのです。

プラハのマサリクは、この戦争が「オーストリア側の敗北で終結する」と正しく予想しました。これは、チェコとスロヴァキアの独立を目指す彼にとって、千載一遇の機会でした。彼は単身チェコを抜け出すと、スイスで「チェコスロヴァキア独立政府」を立ち上げたのです。プラハに残された彼の妻は、オーストリアの警察の拷問を受けて発狂しました。娘たちも投獄されました。しかしマサリクは、鉄の意志を変えることがなかったのです。

マサリクは、妻がアメリカ出身だったため、新大陸に多くの知己がいました。明敏な彼は、戦後世界がアメリカを中心にして動くだろうことを洞察していたので、アメリカ人のコネクションを活用して、「チェコスロヴァキア」独立の正当性を全世界に訴えたのでした。

しかし、口先で叫んでいるだけでは事態は動きません。マサリクは、新生チェコを、連合軍側(フランス、ロシア側)で参戦させることによって、その存在を全世界に強く印象付けようと考えました。ロシアに飛んだ彼は、ロシア軍の捕虜となっていたチェコ兵とスロヴァキア兵を纏めて、「チェコスロヴァキア軍団」を結成したのです。この精鋭軍は、ロシアとともにオーストリアと戦う手はずでした。

しかし、予期せぬ事態が発生します。

ロシアで、革命が勃発したのです。