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硫黄島からの手紙 Letters From Iwojima

制作;  アメリカ

制作年度;2006年

監督;  クリント・イーストウッド

 

(1)あらすじ

太平洋戦争の戦局が日増しに悪化する中、小笠原諸島の硫黄島に一人の将校が降り立った。その男、栗林忠道中将(渡辺謙)は、同僚たちから「厄介者」と白眼視されながらも、独自の戦略眼でこの重要拠点の防備を固めて行く。アメリカ駐在の豊富な海外経験を持つ彼は、頑迷固陋な官僚化した軍人たちより、はるかにアメリカ相手の戦い方を知っていたのだ。

1945年2月、ついにアメリカの大軍が硫黄島に上陸を開始した。栗林は、味方全軍を巨大な地下壕に立て篭もらせることで敵の艦砲射撃と空爆を空振りに終わらせ、そして、地下に巧みに隠蔽した大火力で反撃を開始したのであった。彼は、「一人十殺」を兵たちに命じ、そして一日でも長く生き延びて持久戦を戦うことを訓示した。彼らが生きる一日が、母国の妻子が生き延びる一日に繋がると信じて。

しかし、圧倒的物量を誇るアメリカ軍によって、守備隊はジワジワと追い込まれていく。また、陸軍と海軍の不和はこの期に及んでも解消されず、海軍の伊藤中尉(中村獅童)は陸軍の栗林の命令に背いて自殺的な反撃を行ったりする。

そんな中、西郷兵卒(二宮和也)は、愛する妻のために母国に生還しようと苦闘していた。栗林の本隊に合流した彼は、栗林から、将兵たちの家族宛の最後の手紙の束を地下に埋めるよう命じられる。この間、もはや弾薬も食糧も水も尽き果てた最後の守備隊は、栗林を先頭にして、アメリカ軍の陣地に最後の突撃を敢行したのだった。

 

(2)解説

イーストウッド監督の「硫黄島2部作」のうち、「日本側から見た硫黄島」がこの作品である。   私の知る限り、太平洋戦争の日本軍を描いた最高の映画である。アメリカ人監督にお株を奪われたという点で、日本の映画監督は恥じ入るべきなのかもしれない。もっとも、アメリカ人監督の作品ゆえに、日本国内の様々な「タブー」から自由であったという点も考慮に入れるべきであろうか。

キャストのほとんどが日本人俳優で、劇中の言語も日本語がそのまま使われる。それなのに、物語が完全な「イーストウッド節」なのに驚かされた。

イーストウッド作品が放つメッセージは、「人生は暗くて重くて辛い。死んだほうがマシかもしれない。だけど、その中で希望を捨てずに生きることこそが尊い」というものである。彼は、こういった主題を、親子(ないし擬似親子)の視点から語らせるのが得意だ。多くの場合、主人公はマイノリティであり、周囲から差別や迫害を受けている。こういった作品の代表格が、アカデミー賞に輝く 『ミリオンダラー・ベイビー』である。

太平洋戦争中の日本は、まさに世界のマイノリティであり、圧倒的に絶望的な状況に置かれていた。これはまさに、イーストウッドが好きなテーマである。栗林中将と西郷兵卒が一種の「擬似親子」の関係であることは、誰もが容易に気づくであろう。 『硫黄島からの手紙』は、まさにイーストウッド監督お得意の作劇術が全開された映画なのである。

イーストウッドはまた、アメリカ人の視点から日本の戦争をリベラルに観察している。アメリカの知識人が理解に苦しむのは、日本の兵士が「特攻」や「玉砕」のように簡単に死に急いだことである。今日でも、日本国内の自殺者の数は欧米に比べて圧倒的に多い。これはもちろん、宗教的死生観に原因があるのだが、イーストウッドはアメリカ人の立場からこれを批判する。すなわち、安易に死を選ぶのは「現実逃避」であり「卑怯」な行為であると指摘するのだ。

劇中の栗林は、周囲の幕僚の多くから白眼視され孤立している。彼の理解者は、同じくアメリカ滞在経験のある西竹一中佐(伊原剛志)のみ。彼らは、「死」を無責任だと感じ、「生」の責任を直視するアメリカ思想を共有する2人なのである。

彼らに真っ向から対立する海軍の伊藤中尉は、彼らを臆病だと考えているが、実は、死に急いで突撃を焦る彼こそが、生の重さに耐えかねた臆病者なのである。対戦車地雷を抱えて戦場を彷徨う伊藤は、結局、疲れてへたり込んでいるところをアメリカ軍の捕虜となる。

西郷兵卒は伊藤と違って、劇中でひたすら逃げ回っている。しかし、栗林(=イーストウッド)は、そんな西郷を暖かく慰めて励ます。「生きること」こそが尊いのだと。イーストウッドの眼には、栗林中将や西中佐が、アメリカ文化を理解しつつ日本文化に殉じるしかなかった悲劇の人物に見えたのだろう。彼らに対する視線は、とても優しく暖かい。

西郷ら個々の日本兵の人物像も、型破りであった。これまでのアメリカ映画では、日本兵といえば「ゾンビ」みたいな存在であった。人間らしい感情を持たず、ひたすら自殺的な突撃を繰り返すサイボーグみたいな怪生物であった。ところが、「硫黄島からの手紙」に登場する日本兵は、とても人間的で好感の持てる人々である。西郷は、映画の冒頭から愚痴を言いまくり、愛妻に文句だらけの手紙を書き綴り、なるべく仕事をサボろうとしている。地下道を逃げ回る西郷の姿は、ダンテの「神曲」のイメージである。日本兵を、このように人間的に描いてくれたことに、我々は深く感謝するべきであろう。

戦場の描写もユニークである。戦闘シーン自体がそれほど多くないし、英雄的な勇ましい場面も出て来ないのである。戦闘シーンでは、唯一、噴進砲(日本軍初のロケット砲)の発射シーンが印象的であった。噴進砲が映像化されたのは、これが史上初めてだったのではないだろうか?ただ、いきなり戦車に直撃弾を与えて粉砕していたのには違和感を覚えた。当時のロケット砲は命中精度が非常に低かったので、あのような用法は実際にはされなかったのではないだろうか?

アメリカ兵が、日本の捕虜を虐殺する場面が描かれていたのも印象的だった。これはテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』でも描かれていたことだが、実は戦争中の日本兵の捕虜が少なかった理由は、日本兵の狂信もあるが、それ以上にアメリカ兵による投降者への虐殺に原因があったことが明らかになっている。当時のアメリカ人は、日本人を「サル」扱いしていたので、捕虜虐殺にも罪悪感を覚えなかったようだ。しかし、それは日本側も同じであって、日本兵は捕虜にしたアメリカ人を容赦なく殺戮していた。この場面も、映画の中できちんと描かれる。

イーストウッドは、日本とアメリカのどちらかが善で、どちらかが悪という皮相的な見方ではなく、戦争そのものが悪だというリベラルな視点に立っている。これは、絶対的に正しい。

この映画によってアメリカ人の、いや全世界の「日本の戦争」観が、大きく修正されることを願う。