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魔法少女まどか☆マギカ 劇場版

制作;日本

制作年度;2012年

総監督;新房昭之

 

(1)あらすじ

鹿目(かなめ)まどかは、優しい両親と可愛い弟と友人たちに恵まれた中学2年生。幸福に満ちたそんなある日、まどかのクラスに暁美ほむらという謎めいた美少女が転校して来た。ほむらは「これから起きる、どんな誘惑にも負けてはならない」と、まどかを諭す。

やがて、まどかの前に現れたヌイグルミのような奇妙な生物キュゥべえが、「どんな望みでも叶えてあげるから、ボクと契約して邪悪な魔女と戦う魔法少女になって欲しい」と契約を持ちかける。一見すると魅力的な提案だったが、これは純情な少女たちを騙す罠だった。キュゥべえは、少女たちの魂の堕落と絶望をエネルギーに変えることを目的とした、邪悪な宇宙生命体インキュベーターだったのだ。

魔法少女たちは次々に破滅していき、まどかは絶望と悲嘆に暮れる。

まどかと世界を救える最後の鍵は、謎の少女ほむらであった。

 

(2)解説

私の周囲の知的な大人たちが、なぜか熱心に薦めるので、半信半疑ながら映画館に見に行ったアニメ作品。

私は、日本映画に何度となく騙され続けてドラウマを抱えていた上に、子供のころから「少女マンガっぽい絵」が大嫌いなのだった。だから、そんな物を見るために高い映画料金を支払うなんて愚の骨頂だと考えて、長いこと躊躇っていたのだが、「食わず嫌いは良くないし、もしかすると私の将来の創作活動にとって有益なヒントが得られてブレイクスルーになるかも」と、自分に言い聞かせて心を必死に奮い立たせたのだった。

映画館では、案の定、冒頭から「少女マンガ絵」に気持ち悪くなって不愉快になったのだが、やがてその絵が「仕掛け」の一環であることに気付くと、とたんに気にならなくなった。そう。このアニメでは、信じられないくらいに高度に知的な作劇術が駆使されているのであった。私は、スクリーン全体から、知の突風が吹きつけて来るような感覚を味わったのである。

『まどマギ』という作品の本質を端的に言えば、「戦闘美少女もの」+「美少女嗜虐もの」+「世界系」である。この3要素は、全世界のアニメオタクが大好きなストーリーであるから、この3つを融合させれば、間違いなく世界的な大ヒット作品になることだろう。この映画のスタッフは、おそらくそこまで計算しているのである。

なお、この3要素の融合に成功した先行作品は、かの『新世紀エヴァンゲリオン』である。ただし、これはおそらく「結果的に偶然に」3要素が結合されただけであり、したがって、その作劇術は粗削りで洗練されておらず、テレビ版は最終回に行きつけずに(結論が出せずに)行き倒れになってしまった作品であった。それにもかかわらず大ヒットとなった『エヴァ』は、まさに恐るべき作品なのであり、『まどマギ』のスタッフは、だからこそこの作品を徹底的に研究し、その欠点を克服した上で、このテーマを拡張進化させたのであろう。

「戦闘美少女もの」+「美少女嗜虐もの」+「世界系」の3要素を結合させるのは、至難の技である。なぜなら、要素それぞれが現実社会に有り得ないものであるだけでなく、要素同士が互いに矛盾し打ち消し合う関係だからである。まずは、この点について解説しよう。

最初に「戦闘美少女もの」だが、世間一般の常識では、美少女はそもそも戦闘をしない生き物である。一般的に「戦う女」といえば、吉田沙保里とかミラ・ジョヴォビッチ(バイオハザード)だろうけど、アニメオタクは、そんなのには萌えないのである(笑)。華奢で、いかにも弱そうな可愛い子ちゃんが武装して戦うんじゃないとダメなのである。そんなのは現実には有り得ないのだが、だからこそアニメオタクはそれが見たいのである。

「美少女嗜虐」について言うと、世間一般の常識では、美少女とは嗜虐を受けない生き物である。イジメの対象となるのは、だいたいブサイクちゃんであって、美少女は性格が悪かろうが頭が悪かろうが、みんなにチヤホヤされるのが相場である。でも、アニメオタクは、だからこそ美少女が泣いたり喚いたり怪我したり惨殺されたりするのを見たいのである。私見だが、AKBに代表されるアイドルブームも、消費者の潜在心理の根っ子にあるのはそういった「嗜虐趣味」ではないかと思うのだが(「恋愛禁止」というのが、そもそもイジメだと思うし)、論点がズレるのでここでは深く突っ込まない。キュゥべえが秋元康に似ているなんて言わない(笑)。

最後に「世界系」について言うと、これは古くから世界的に伝わる作劇テーマの一種である。具体的には、「平凡な主人公が、それまで何の野心も持たず努力もしなかったくせに、ある偶然のきっかけで、世界の中心人物に成り上がってしまう物語」を言う。『指輪物語』や『スターウォーズ』が、まさにそんな作品だが、最近の日本のアニメでは『サマーウォーズ』などがこの型だろうか。個人的には、P・K・ディックの小説『宇宙の操り人形』が好きであるが、いずれにせよ、そんなシチュエーションは現実には有り得ないだろう。野心も抱かず努力もしない者が、世界の中心になれるわけがないからだ。逆に、だからこそ、オタクはそういう安直な物語に憧れるのである。

さて、この3要素は互いに矛盾する関係にある。「戦闘美少女」は、敵と戦って勝つのがその役割だし強いはずだから、「嗜虐」の対象に成りにくい。また、「嗜虐」されるような女の子は、世界の中心に成りにくい。そして、「世界系」の主人公には、「戦闘美少女(そもそも平凡な存在じゃないし、日頃から努力しているはず)」は似合わないのだ。

以上、この3要素をリアルに成立させた上で、しかも矛盾なく互いを融合させるのは非常な難事業なのである。

『新世紀エヴァンゲリオン』は、難事業をこうやって克服している。すなわち、「謎の敵・使徒の攻撃から人類を救うためには(=世界系)、14歳の特定の少年少女しか乗れないロボット兵器エヴァ(=戦闘美少女)を出撃させるしかないのだが、実は主人公たちが守ろうとしている世界には暗い闇や欺瞞が溢れていて、少女たちはそれらに触れることで苦しみ傷つく(=美少女嗜虐)」。

『まどマギ』のストーリーも、基本的にはこれと同じである。「魔女の攻撃から人々を救うためには(=世界系)、女子中学生が魔法少女になって戦うしかないのだが(=戦闘美少女)、だけどその背景には陰湿な欺瞞が満ちていて、少女たちはみんな苦しむ(=美少女嗜虐)」。

ただし、この3要素は、成立させた上で矛盾なく繋ぎ合わせればそれで良いと言うわけではない。こうして出来上がった無理やりな世界観に、きちんと説得力を持たせて観客の思い入れを誘った上で、さらにストーリー全体をうまく転がして起承転結を付けなければならないのだ。『エヴァ』は、残念ながらこの作業に失敗と限界があった。しかし、『まどマギ』は、完璧にこれをこなしているから、恐るべきスタッフの知性なのである。

冒頭で述べた『まどマギ』の作画の「仕掛け」は、このことと密接に関係している。すなわち、いかにも嘘っぽい「少女マンガ絵」を全面展開することで、「絵柄がこうなんだから、世界観やストーリーがいくらか現実離れしていても仕方無い」と観客に思わせているのである。つまり、「わざと幼稚な絵柄にすることで、物語に説得力を与える」という高等技法が使われているわけで、逆に考えると、この作品を劇画タッチで描いていたり、あるいは実写化していたら、全てが崩壊していたことだろう。

他にも、様々な細かい仕掛けがある。

全部は語り切れないが、たとえば日本人の観客に、このアニメの世界観を納得・共感させるため、『おくりびと』でも述べた「穢れ」の要素を入れている。

この作品の敵役である「魔女」の概念は、「恨みを持った魂が転生する」という設定なので、日本民族の伝統である「穢れ」の思想を踏襲しているようで興味深い。そして、魔法少女になった主人公まどかが、巫女のような行動(破魔矢のようなものを放ったり)をして浄化に努めるのは含意が深い。しかもこの作品は、「魔女(穢れ)」問題に正面から逃げることなく向き合って一定の解決に導いていたのだから、この映画のスタッフは、『おくりびと』のスタッフより、遙かに賢くて勇敢で誠実だと思う。

また、「少女たちの魂に強いエネルギーがあって、そのエネルギーで世界を救済できる」というメッセージは、物語の背景にヘーゲル哲学(精神現象学)を置いているようで、哲学畑の人々が強く共感するところである(私は、あんまり哲学は得意じゃないが)。こういった仕掛けが仮に無かったとしたら、たとえば、キュゥべえが展開する「第二次性徴期を迎えた少女の絶望の魂のエネルギーが・・・」といったウンチクなど、アホらし過ぎて爆笑&失笑は必至だったことだろう。この映画のスタッフは、物語構造の脆弱さを、知性と教養で巧みに補完しているのだ。

なるほど。最近は、アニメの製作現場の方に、頭が良くて教養が深くて勇気のあるクリエイターが多く集まっているのだった。これも、時代の流れというものだろうか?

考えてみると、今の日本では、世界に通用する価値は、アニメかゲームに限定されてしまった。換言すれば、アニメかゲームでしか、質の高い作品でカネを稼げなくなってしまったのだ。だったら、優秀で知性溢れるクリエイターが、実写映画やテレビドラマの現場から逃げ出して、『まどマギ』のようなアニメ映画を作っている現象は、正しい経済法則に基づいていると言えよう。日本文化のために貢献していると言えよう 。

私は、アニメ美少女にまったく思い入れ出来ない性格の人なのだが(アイドルは、たまに好き(照))、それでも『まどマギ』は面白いと心から思った。アニメ美少女が大好きな人なら、その感動と興奮は、きっと筆舌に尽くし難いものになっただろう。

日本映画の最後の希望。それは、アニメ映画なのかもしれない。私も、これからはアニメ映画を見るために劇場に通うことになるだろう。「少女マンガ絵」に生理的嫌悪感を抱きながらも(苦笑)。

ただ、最後に少々、苦言を呈したい。それは、過剰な「美少女虐め」についてである。『まどマギ』の映画は、ほとんどのシーンが、アニメ美少女が落ち込んだり悩んだり泣いたり喚いたり傷ついたり死んだりの繰り返しである。むしろ、この物語が提供したかった最大のテーマは「嗜虐」にあるのではないかと疑った。

私見では、健全な社会とは「子供がいつも笑っていられる社会」なので、『まどマギ』で描かれるのは明らかに不健全な社会である。これはもちろん、今の日本の病的な姿を戯画的に作品に反映させているのだろうけど、映画製作者も観客も、どこか「心を病んでいる」のではないだろうか?

今の日本社会は、全体的に知性が劣化した上、例外的に知性が高い人も、実はどこか心を病んでいるのかもしれない。「そうじゃない!」と反発する人は、一度胸に手を当ててじっくり考えてみてください。

(我ながら、辛口評論のオンパレードだったね。不愉快になった方は、本当にごめんなさいね。これも、日本を真剣に思う愛国心から出ているのです)。