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プリンセストヨトミ

制作;日本

制作年度;2011年

監督;鈴木雅之

 

(1)あらすじ

大阪を訪れた会計検査官・松平元(堤真一)は、同地に配分されたはずの巨額の予算が消えていることに気付き、「財団法人OJO(大阪城址整備機構)」の謎に迫って行く。

そこには、滅びたはずの豊臣家の子孫を擁する「大阪国」の存在があった。

 

(2)解説

「日本映画も、ここまで堕落してしまったか!」と、別の意味で深い勉強になった一本。とにかく作劇技法上の悪例のオンパレードなので、「まさか、わざとやっているのか?これは何かのギャグなのか?」と、いろいろ勘ぐってしまった。 細かく突っ込んでいくとトンデモないことになるので、重要な点に絞り込んで解説する。

まず、導入部からダメである。主人公たちは「会計検査院の調査官」という、一般人には馴染みの薄い仕事をしているプロフェッショナルのエリートである。ならば、その仕事の説明とプロフェッショナルの魅力を冒頭で際立たせないと、後のストーリーが展開できなくなる。ところが、映画はいきなりそれに失敗しているのである。

そもそも、この映画のスタッフは、「会計検査官」という職務について、ちゃんとリサーチしているのだろうか?それさえも怪しい雲行きであった。いちおう説明すると、「会計検査官」というのは、都道府県、市町村や学校法人などの諸団体に配分された国家予算について、その使途が適正かどうかチェックする地味な国家公務員である。ともあれ、こういう職業の人を主人公に選んだ以上、映画はその線に沿ってストーリーを転がす必要があるはずだ。

ところが、この映画の調査官は、本来の仕事を真面目にやっている形跡が無いのである。したがって、優秀に見えないのである。

これは、そもそも論だが、主人公を何らかの職業のプロフェッショナルに設定する場合、その主人公は、少なくともその道において優秀でなければならない。『七人の侍』が面白いのは、勘兵衛たち7人が極めて優秀な侍だからである。『砂の器』が面白いのは、今西刑事らが極めて職務熱心な警官だからである。『おくりびと』が面白いのは、大吾が熱心に修行して優秀な納棺師になったからである。これは、作劇上の最も大切な「セオリー」である。

もちろん、ギャグやコメディなら話は別だ。すなわち、『シャーロック・ホームズ』はシリアスなストーリーであるから、主人公は探偵として優秀でなければならないのだが、『ピンク・パンサー』はギャグ映画だから、クルーゾー警部は無能で良いわけだ(幸運に助けられて事件は解決するけど)。

しかるに、『プリンセストヨトミ』の会計検査官は、(いちおう)シリアスなストーリーにもかかわらず、まったく優秀に見えなかった。 そのせいで、物語の展開が無茶苦茶になった。

中盤で、「大阪国総理大臣」の真田幸一(中井貴一)が、いきなり何もかも諦めて、松平にカミングアウトを始める。真田総理は、「この人には、何も隠せない」と感じたらしいのだが、映画の中の松平は、勝手に出張を延泊して街をウロウロしていただけである。なんで、無能にしか見えないこいつに告白しなければならなかったのか、理由がさっぱり分からない。せめて、会計検査官を冒頭で優秀に描くことに成功していれば、まだしも救いがあったのだが。

だいたい、松平らは、会計検査の仕事を真面目にやらないくせに、映画の後半でいきなり「大阪国」と外交交渉を始める。言うまでもないことだが、「大阪国」の存在を突き止めたり、その国を承認するか否かは、内閣総理大臣ないし外務大臣の仕事なのであって、一介の会計検査官がどうこう出来る問題ではないだろう。ピントが大きくボケているし、真田総理は、そもそもカミングアウトする相手を間違えているのだから、まったく救われない。

そういうわけで、この真田という人物も、劇中の設定では松平にその優秀さを恐れられる存在なのだが、実際には「バカで無能な売国奴」にしか見えなかった。

どうも、この映画の制作者は、会計検査院の描写うんぬん以前の問題で、「優秀な人間と無能な人間の描き分け」が出来ないのかもしれない。もしかすると、この映画の脚本家は、実生活の中で優秀な人間に出会った経験が無いので、人間の優秀さを表現する方法が分からないのかもしれない。

それ以上に深刻な問題は、「物語のメインテーマが途中で切り替わる」点である。 物語というものは、「起承転結」という明確なセオリーによって成り立つのだから、せめてメインテーマは首尾一貫していなければならない。それが途中で切れてしまったら、全てが台無しになってしまう。 もちろんこれには例外もあって、たとえば『三国志演義』や『太平記』のような超絶的大長編の場合は、いくつもの「起承転結」を重ねて続けることで、途中でのテーマ切り替えは可能であろう。しかし、2時間程度の映画でそれをやっては絶対にいけない。

ところが、この映画は平気でそれをやってのけるのである。 具体的には、最初はミステリーとして始まったくせに、途中から家族の感動物語になってしまう。すなわち、ミステリーの要素は、真田の唐突なカミングアウトで一方的に投了されて、「大阪国は家族の絆を守るために存在する」とか、その存在を正当化するための物語に変化する。そして、視聴者を無理やり泣かせにかかる(苦笑)。だけど、その主張は意味が分からない。東京や名古屋などの大阪国以外の地域では、家族の絆は維持できないとでも言うのだろうか?仮にそうだったら、「大阪国でなければ守れない家族の絆」というのを具体的に劇中で提示して貰いたいところだが、それは無かった。これでは泣けない(むしろ失笑)。

いずれにせよ、物語のメインテーマを途中で切り替えるのは、作劇の邪道どころか、絶対にやってはならない愚行なのである。この映画の制作者は、気の利いた小学生でさえ知っている作劇のセオリーを知らないのだ。

それでも、切り替わったテーマに説得力があれば、多少は救いにもなるのだが、「家族の絆」を守るために「大阪国だけ」が巨額の国家予算を遣い込むことに果たして正当性があるのだろうか? 大阪国が、そのシンボルとして密かに守っている豊臣家の子孫は、見るからに貧乏そうで、少なくとも金銭的に恵まれていなかった。それどころか、彼女が危険に遭って死にそうになっていても(それも、会計検査官の活動とはまったく関係ない偶発事件によって)、大阪国の要人たちはみんな無視していた(笑)。実は、プリンセストヨトミはどうでも良かったんかい?だったら、何のための「大阪国」なんだ?

そう考えていくと、35年間にわたって遣い込まれたという175億円もの国家予算は、いったいどこに消えたのだろうか?原作小説では、スーパーコンピュータの維持管理費ということになっているらしいけど、説得力皆無だ。実は、真田や長宗我部が、キタやミナミの高級キャバクラで、毎晩ドンペリを開けていただけじゃないの?どうして、会計検査院はそこを突っ込まないのだろう?松平はそのために、わざわざ延泊して調査していたはずじゃないのかい?

松平は結局、真田の「家族の絆」攻撃に丸め込まれて職責を放棄したわけだが、それって公務員失格ではないのか?それはすなわち、真面目に税金を払った上で、爪に火をともすように家族の絆を地道に紡いでいる、東京や他の地域の国民に対する裏切りじゃないのか?そもそも、真田と松平の2者会談だけで全てが隠密理に済まされたけれど、あれほどの大事件で、そんなことが物理的に可能なのか?その際、大阪にたまたま来ていた観光客や出張ビジネスマンや外国人、マスコミ関係者をどうやって全部誤魔化したのか? 映画では、まったく説明が無かったけれど。

などと、ちょっと考えただけでも矛盾と疑問百出の、すさまじい映画だった。ここまでグチャグチャにするのなら、コメディとして作れば良かったのにね。それならば、スラップスティック系(『天才バカボン』とか『こち亀』とか)の作品として、一定の面白さを獲得できたかもしれない。私も、ケタケタと笑いながら楽しめたかもしれない。だけど、この映画は徹頭徹尾、シリアスな造りになっていた。やれやれ。

「こんなものを作って人からカネを取って見せようだなんて、物凄い根性だなあ」と悪い意味ですごく感心するのだが、おそらく制作スタッフはそうは思っていないのだろう。自分たちが駄作を作ったことにさえ、気づいていないのかもしれない。 それにしたって、セオリーどころか常識まで外しまくるストーリーが出来るのは、一体どういうわけだろうか?どうして、誰も事前にチェックしてあげないのだろう?

製作中に「誰も気づかない」なんてことは 常識的に有り得ないので、制作サイドに「やる気がない」としか思えない。金儲けさえ出来れば、映画の品質など低くても良いというのだろうか?もしそうなら、それは観客に対する最悪の侮辱であって、犯罪行為に値する。

もっとも、制作者側から見れば、広告宣伝にカネを掛けさえすれば映画自体の品質が低くても客を呼べるので、品質なんかどうでも良いのかもしれない。すなわち、最近の映画は「製作委員会」が一手に引き受けるのが普通であるから、大型書店、出版社、テレビ局などの大資本が続々と参加し、しかも電通や博報堂ら大手広告代理店が全面協力するので、それが「超絶的駄作」であっても「名作」だと偽って、全国的にとんでもなくカネのかかった売り込み方が出来る。そうすると、純朴な日本国民は、みんな騙されて映画館に足を運ぶから、製作委員会の皆様はどう転んでも大儲けが出来るのだった。

これは、往年の角川映画が裸足で逃げ出すほどの悪質さだと思うのだが、どうしてマスコミがそれを批判しないのかと言えば、マスコミもみんなグルだからである。

製作委員会システムに限らず、こういった日本型組織が最悪なのは、「責任の所在が完全に曖昧になる」点である。考えてみれば、「福島原発」の真の責任者はもちろん、「太平洋戦争」の仕掛け人でさえ、未だに具体的に明らかになっていない。おそらく、未来永劫、明らかにならないことだろう。

日本型組織のこの在り方は、権力を行使する側(個人)にとって好都合だ。なにしろ、「戦場で数万人を餓死させても、数十万の子供たちを放射能汚染させても、数百万の観客から映画料金を詐取しても」絶対に自分は安全だからである。だったら、どんな非道な犯罪でも、鼻くそをほじるような気楽さでゴーサインを出せるだろう。失敗した場合、ぜんぶ「組織のせい」で「自分も被害者の一人」にしてしまえるのだから。 この日本型組織の悪弊(無責任体質)を改善しない限り、この国は何度も何度も同じような過ちを繰り返して劣化を続けて行くことだろう。製作委員会は、駄作を増産し続けることだろう。あたかも、誰も責任を取らないまま、拙劣な戦略戦術を繰り出すことで敗北をズルズル続けて崩壊した大日本帝国のように。

さて、こうした製作委員会の悪行の当然の帰結として、これから日本文化の担い手になるであろう若い世代が、駄作を名作と勘違いして成長してしまうだろう。日本人の知性は 、どんどん劣化していくだろう。クリエイターのレベルも減退することだろう。幼いころから不味いものばかり食べさせられた子供が味音痴になるのは有名な話だが、文化の世界でもまったく同じことが言えるのだ。すなわち、知性低下のデフレスパイラルである。

たとえば、『踊る大捜査線』の映画シリーズとそのスピンアウト作品は、『プリンセストヨトミ』に負けないくらいに酷い内容だと思うのだが、なぜか大ヒットしている。『相棒』の映画シリーズは、『踊る…』よりは多少マシだけど、やっぱり酷いよね。なんで、観客の皆さんは気づかないのだろう?みんな、ありとあらゆる意味で麻痺しちゃったのだろうか?

『東京物語』や『七人の侍』から早60年。日本映画は、落ちるところまで落ちてしまった。だが、もはやこれ以上、落ちようが無いのは救いである。 せめて、そう考えていたいのだが、まだまだ落ちていくのだろうか?それはそれで、どうなるのか興味深いところではあるが(笑)。

世界史上で最低最悪の映画が生まれる国があるとすれば、それは間違いなく今の日本だろう。

もっとも、ミニシアター等を戦場にして、必死に日本文化の灯火を守り続ける誠実な映画人もまだ多いので、そちらに希望を繋ぎたいところではある。