歴史ぱびりよん

第15章 西部の砲火、東部の策謀

 

1921年のアンカラ政府は、ギリシャとの戦闘に明け暮れたと言っても過言ではない。

これから、いわゆる「希土戦争」について描かなければならない。

そこで、ギリシャの情勢についてしばらく書く。

前にも少し書いたが、ギリシャ王国は、1832年にオスマン帝国から独立した若い国家である。

それまでのギリシャ人は、15世紀にオスマン帝国に征服されて以来、帝国領内の各地に分散し、主として商業を営む民であった。

オスマン帝国というのは奇妙な国家で、支配者であるトルコ人は官僚や軍人となって被支配民族の上に君臨するわけだが、商業はギリシャ人に一任し、金融はユダヤ人に委ねるといった具合に、民族ごとの個性によって適材適所の分業をさせる仕組みが出来ていた。また、イスラム教が本来持つ寛容の精神により、人種差別はほとんど存在しなかったので、臣民は比較的安心して生活することが出来たのである。

しかし、しばしば問題となるのが宗教であった。イスラム教は異教に対して寛容なのに、キリスト教は不寛容だ。そして、ギリシャ人の多くがギリシャ正教(東方正教会)の信者である。そんな彼らは、しばしば外国勢力を語らって、オスマン帝国内のキリスト教徒の社会的地位を高めようと企んだ。そこを、同じくギリシャ正教を信仰するロシア帝国が、トルコ領への進出を狙って積極的に煽ったのである。

こうした下地の上に、フランス革命から輸入された自由と平等の思想が花開いた。1821年3月、支配者であるトルコからの独立を求めて、バルカン半島南部のギリシャ人たちが蜂起したのである。しかし脆弱な反乱軍は、圧倒的なトルコ軍によって包囲され、鎮圧は時間の問題であった。

ここで、ロシアと西欧列強が介入したのである(1827年7月~)。

ロシアはともかく、西欧列強が介入した理由は、当時の西欧で熱烈な「ギリシャブーム」が起きていたことが関係する。イギリスやフランスの知識人たちは、ギリシャ哲学や古典文学に心を揺さぶられ、そんな素晴らしい世界が今では異教徒に支配されている現実がどうしても我慢できなかったのだ。イギリスの詩人バイロンが、一介の義勇兵としてギリシャ軍に加わった事がその典型である。こうして、英仏露三国の軍隊がギリシャに救援に向かった。小規模な「反乱」は、いつのまにか「ギリシャ独立戦争」となったのだ。

三つの強国に攻め立てられたトルコは、ついに屈服。ここにギリシャは、バルカン半島南部の突端を領有する独立国となったのである。その後、ドイツから王族(バイエルン公オットー)がやって来て、ギリシャ国王に即位した。

これが、ギリシャ王国の誕生だ(1832年)。

しかし、文化大国であるはずのギリシャの栄光は、すでに紀元前の話であった。文明に限らず、人間自身や経済にも同じことが言えるのだが、活動にはライフサイクルというのがある。そして、西欧を熱狂させたギリシャ文明のライフサイクルは、とっくの昔に衰退期に入っていた。中世最後のギリシャ人国家であるビザンチン帝国が滅亡した後、アテネやスパルタなどのギリシャの旧領は、急激に過疎化した。商才を持つ活動家は、むしろイスタンブールやスミルナなどのトルコの大都市に移住したからである。

そういうわけで、新しいギリシャ王国を構成するのは、過疎化地域の貧しい農民と漁民ばかりであった。彼らが西欧のエリートに提供できるのは、「知恵の詰まったオリーブの葉」ではなく、特産品である「タバコの葉」に過ぎなかったのである。

しかし、イギリスのエリートは、それでも「ギリシャ」に対してロマンを抱き続けた。この感情は、かつてギリシャを苦しめたトルコに対する悪意へと直結する。そして、この感情に最も濃厚に支配された人物こそ、英首相デヴィッド・ロイド=ジョージに他ならない。

彼は、夢想した。

トルコの跡地に、「新ビザンチン帝国」を作り上げるのだ。

新聞記者に、「セーブル条約は失策ではありませんか」と質問されたとき、ロイド=ジョージは笑ってこう応えた。

「トルコ人は、極悪非道の盗賊の群れで、世界平和に対する最悪の脅威だ。第一次世界大戦で、我が国を大いに苦しめた悪人どもだ。それに引き換え、ギリシャの人々は向上心に溢れる尊敬すべき立派な人々だから、彼らへの支援はイギリスの国益になるだろう」

・・・平和への脅威というのは、このような偏見そのものなのではないだろうか?

 

 

ギリシャ人は議論が大好きで、党派精神が旺盛である。

紀元前の栄光の時代においても、同じギリシャ人同士で何度も殺し合って勝手に衰退したところを、マケドニア王国やローマ帝国に征服されているくらいだ。

20世紀初頭においても、その国民性は少しも変わらない。ギリシャ王国は、慢性的に激しい政権闘争に洗われていた。

第一次世界大戦の当時、政権を握っていたのは、コンスタンディノス1世国王とデメトリオス・グーナリウス首相であった。このころのギリシャ政府は、むしろトルコと協調してドイツに学ぼうとする「親独派」であった。そのため、彼らは第一次世界大戦でトルコ寄りの中立を守ったのである。

しかし、英仏ら協商国は、なんとしてでもギリシャを味方に付けたかった。そこで、反対派を率いる大物エレフセリオス・ヴェニゼロスに援助を行い、彼にクーデターを起こさせたのである。この結果、1917年に「親英派」政権が誕生し、新王アレクサンドロスを擁立するヴェニゼロス首相は、イギリスに対する恩義から、直ちにドイツとトルコに宣戦布告した。ここから出撃した軍勢がブルガリアを降伏に追いやり、第一世界大戦を終わらせた事情はすでに述べた。

イギリスとギリシャの親密な関係は、こういった特殊な背景に負うものが大きい。

ヴェニゼロスは、クレタ島出身の苦労人だけに、卓越したバランス感覚を持つ現実的な政治家であった。人間的な魅力にも恵まれた彼は、アメリカやフランスの要人の心も上手に捉えた。セーブル条約が、ギリシャにとって非常に有利な内容となったのは、この首相の才覚による部分が大きかったのである。彼は、必ずしもイギリスの操り人形ではなかった。

そんなヴェニゼロスは、ケマルの逆襲に苦しむロイド=ジョージにうまく取り入り、ギリシャの領土をセーブル条約以上に広げることに成功した。今やギリシャ軍はスミルナを超えて東へと進撃し、ブルサ市を初めとするアナトリア西部の平野部に侵入していた。

そして1920年10月、ギリシャ軍はまたもや大戦果を挙げた。

ヨーロッパ(トラキア地方)のギリシャ軍2万は、イスタンブール方面に向けて進撃を開始。これに呼応して、ブルサ市のギリシャ軍3万も北上した。

この当時、トラキア地方のジャファル・タヤル将軍はケマル派に転向して、イスタンブールを西から衝こうと狙っていた。そこを、背後からギリシャ軍に襲われたのである。タヤル将軍はじめ、トラキアのアンカラ政府軍は、あっさりとギリシャの捕虜となってしまった。

そのころアジア側では、アリー・フアトの第20軍団が、タヤル将軍に呼応してマルマラ海を望むイズミトに進出していた。しかし、海軍を持たないアンカラ政府軍には、それ以上の進撃は無理な相談だ。そして、駆けつけたイギリス海軍の猛烈な艦砲射撃を受けて後退した第20軍団の横腹に、ブルサから出撃したハジアネスティス将軍のギリシャ軍が襲い掛かったのである。アリー・フアトには、大勢の部下を置き去りにしてアンカラに敗走することしか出来なかった。

こうしてギリシャ軍は、あっという間にアナトリア西部とトラキア全土を完全に掌中に収めたのである。そして今、ギリシャ軍の東側にあるのは、平均標高1132メートルの、コーカサス山脈に向かって延びる赤茶けた高原地帯だけだ。

 

 

しかし、1920年終盤のアルメニア独立国の崩壊は、ギリシャにも深刻な脅威と映った。

トルコに挟み撃ちを仕掛けるはずの計算が狂い、西欧列強が大規模な援軍を送ってくれない以上、今やケマルとの一騎打ちになりそうな形勢だからだ。

現実家のヴェニゼロスは悩んだ。あの名将ケマルを相手に、これ以上の軍事力の行使は、危険な冒険に他ならない。ここは、外交でアンカラ政府を押さえ込むべきではないだろうか?

しかし、悩んでいられる時間の余裕は無かった。予想外の奇妙な事故から、政変が勃発したからである。

1920年9月30日、若き国王アレクサンドロスは、いつものようにアテネの王宮の庭を散歩していた。そのとき、庭園で飼っていた一匹の猿が、何かの拍子に国王の指に噛み付いたのである。この猿は、どうやら悪い病原菌を持っていたらしく、高熱に冒された国王は1ヵ月後にあっけなく逝去してしまった。

この「猿の一咬み」が、政変の引き金となった。独裁的なヴェニゼロスの親英政策を危ぶむ国会議員たちが立ち上がり、12月、総選挙に訴えたのである。この結果、ヴェニゼロスは大敗を喫し、彼の最大の政敵であったグーナリウス(フランスに亡命していた)が首相に返り咲いたのだった。国王の位には、亡きアレクサンドロスの父であるコンスタンディノス1世が再び即位した。

新政権を率いるグーナリウス首相は、自分の政権を強固にしたいと願った。そのためには、在野で巻き返しを狙うヴェニゼロスを圧倒するほどの威信が必要である。

彼は、東の高原地帯をじっと見つめ、そして軍部の要人たちに語った。

「ケマルの首が必要だ」

1921年1月6日、アナトリア西部のギリシャ軍は、隊伍を整えて高原地帯へと進撃を始めたのである。

 

 

「ギリシャとの決戦が、全てを決める」

ケマルは、拳を硬く握り締めた。

彼は、1920年の終盤いっぱいをかけて西部戦線の再編成を行った。

まず11月、イズミトから敗走して来た第20軍団を「西部軍集団」と改め、軍団長のアリー・フアトを親友イスメットに替えた。副官として、レフェトを付ける。軍務から外された前軍団長は、その直後にモスクワ大使として同盟国に赴任することになった。

盟友アリー・フアトに対するこの処遇の理由は、彼が西部戦線で失敗したことに加えて、モスクワ情勢が微妙だったことにあった。

外相ベキル・サミは、領土問題でモスクワ政府に譲歩する傾向があった。それを案じたケマルには、梃入れのために信頼できる人物をモスクワに送り込む必要があったのである。

新任の西部軍団長イスメット大佐は、積極的に部下たちを掌握し士気を高めた。第一次大戦のシリア戦線で場数を踏んだ彼は、心からケマルを尊敬しており、ケマルに従っていれば間違いないと信じている人物だった。この苦しい時期のケマルにとって、イスメットは最も心を許せる人物だったのである。

ところで、西部戦線の複雑さは、非正規軍(ゲリラ)の集団の多さにある。これらは、しばしば皇帝軍についたりケマル派についたりと離合集散を繰り返し、まったく信用が置けなかった。かつてアリー・フアトが苦戦を強いられたのは、こうしたゲリラ群の動向に翻弄された結果だった。そこでイスメットは、まずはこうした集団を討伐し、あるいは「国民軍」に取り入れようと努力したのである。

最も強力なゲリラ組織は、エスキシェヒル市に本拠を置くチェスケス・エトヘムの兵団であった。彼は、ケマル派を標榜してはいたが、始末の悪いことに社会主義思想に共鳴していた。彼は、アンカラ政府内の社会主義者たちと連絡を取り合い、トルコを社会主義国家に改造しようと狙っていたのである。そんな彼は1920年8月以来、「イスラム的ボリシェビキ主義」と題する全国新聞を発行していた。しかも、もともと「青年トルコ党」の民族浄化特殊部隊を率いていたエトヘムは、モスクワのエンヴェルとも連絡を取り合っていたのである。

トルコ領内における社会主義の伸長は、実に深刻な問題であった。なぜならイスラム教徒は、宗教を否定する社会主義を本能的に憎悪したからである。アンカラの閣僚の中でも、敬虔なイスラム教徒は保守派として結集し、社会主義者たちと対立していた。このままでは、アンカラ政府が社会主義者と保守主義者によって二つに分裂してしまう。

窮したケマルは、イスラム教徒たちの怒りを逸らすために、こうした社会主義者のゲリラ集団を総称して「緑軍」と呼んでいだ。「緑」は、イスラムの偉大な預言者マホメッドが最も好んだ色である。これは、保守派議員や国民に「イスラム教と社会主義は、必ずしも矛盾しない」ことをアピールするための苦肉の策であった。

しかし、こんな姑息な策で解決できる問題ではない。社会主義者たちの背後にはエンヴェルやハリルがいて、さらにその背後にはソ連のトロツキーがいた。このままでは、トルコがソ連の衛星国にされてしまうかもしれないのだ。

ケマルとイスメットとフェヴジは、眉間に皺を寄せながら知恵を出し合った。

ソ連との友好を保ちながら、社会主義勢力を押さえ込むにはどうしたら良いのか。

1920年10月、ケマルは、政権内に「トルコ共産党」を立ち上げた。社会主義者たちをこの中に押し込めて、政府の厳重な監視下に置こうと考えたのである。しかしこの底意は見破られ、この政党に加入する者は少なかった。政権内の社会主義者たちは、むしろ「人民社会主義党」というのを勝手に立ち上げて、そこに入党したのであった。しかも、このイリーガルな政党の党員は、80名にも上った。今や、国会議席の4分の1が社会主義者で占められている計算だ。

「こうなったら、仕方ない」ケマルは、勇気を奮って決断した。

ギリシャとの決戦に備えて、政府を一枚岩にしなければならないのだ。

1921年1月初頭、彼は「人民社会主義党」に解散を命じ、また、イスメットに命じてエスキシェヒルのエトヘム兵団を攻撃させたのである。「非合法な軍事組織は認めない!」との声明を発しながら。

イスメット軍は激戦の末、エスキシェヒル市を占領した。敗れたエトヘムは、西方に逃れてギリシャ軍を頼った。しかしギリシャは彼を信用しなかったので、エトヘムはさらに西に走り、結局、イタリアに亡命することとなる。

その間、「人民社会主義党」のメンバーは軍の監視下に置かれていた。彼らは「ソ連と通謀し内乱を企てた」容疑で、2月に独立法廷で裁きを受け、指導者ナージム議員らは懲役15年の実刑判決を受けることとなる。

しかし、社会主義者の脅威は、それだけに止まらなかった。

1920年12月28日、ソ連がコーカサスで独自に結成させた「トルコ共産党」の幹部たち17名が、トルコの大地に共産革命を成就させるべく、黒海経由でアナトリアに侵入していたのである。この人たちは、大戦後に祖国を追われたオスマン帝国の亡命者たちである。彼らが、コーカサスのバクー市で、ハリルとともに「トルコ共産党」を立ち上げた真意は、ソ連の威を借りて祖国に返り咲くことにあった。その背後にいるのは、エンヴェルでありトロツキーである。

「奴らを、なんとかしてくれ」ケマルは、東部一帯を統括するカラベキルに依頼した。

 

 

「どうしたものかな」エルズルム市に本営を置くカラベキルは、ケマルの手紙を副官キャーズムに見せた。

「何を迷うのですか?」エンヴェルの妹婿は、意外そうな顔を上司に向けた。「今ここでソ連の力を借りて蜂起すれば、ケマルを追い落とすことが出来るのに」

「その後、どうなるのだ」カラベキルは笑った。「君の義兄エンヴェル・パシャが政権を掌握し、イギリスやギリシャと戦うのか?」

「義兄が指導者になって社会主義を振興させれば、ソ連の全面的な支援が期待できます。少なくとも、今のような孤立状態から脱出できるから、勝算は高まりますぞ」

「その後で、ソ連の属国になるわけだ」

「属国ではなく、同盟国として・・・」

「それは有り得ないぞ」カラベキルは、語気を強めた。「ロシアは、トルコの歴史的な宿敵だ。社会主義だろうが帝国主義だろうが、そんなスローガンは関係ない。貴官は、祖国をロシアの奴隷にしたいのか?」

「・・・」キャーズムには、天才肌の上官に反論する才能は無い。

「だいたい、今のトルコに社会主義が必要かな」

「と、言いますと?」

「マルクスが提唱した社会主義革命は、搾取をする資本家階級と、搾取を受ける労働者階級の対立によって生じる。つまりマルクス思想は、高度に発展した資本主義の存在が前提なのだ。しかし、今のトルコでは、国民の90%が農民と牧童だ。残りの10%は、ユダヤ人やギリシャ人の商人だ。我が国は、そもそも資本主義に達していないのだ。こんな国のどこに、社会主義を行う理由がある?」

「そ、それは」

「ケマル・パシャは、同じ理由で、いずれロシアの社会主義が崩壊すると見ている。ロシアは、資本主義経済という点では、トルコ同様の後進国だからな。私もケマルと同じ考えだ」

「・・・」

「我が国の当面の目標は、外敵を追い払ってから、資本主義国家へと成長することだ。社会主義うんぬんは、それ以降の課題だろう」

「それでは・・・」

「キャーズム大佐、君には悪いが、ここは私の判断でやらせてもらうよ」

カラベキルは、刺客を放った。

1921年1月29日、「トルコ共産党」指導者ムスタファ・スプヒを筆頭とする17個の死体が黒海に浮かんだのである。

アンカラ政府は「彼らは、嵐に巻き込まれて溺死した」との公式声明を発したが、それを信じるようなお人好しは、ソ連にはいなかった。

「ケマルめ、ついに本性を顕したな!」軍事人民委員のトロツキーは、モスクワで激怒した。「奴は、やはり社会主義の高邁な理想が理解できない愚物だったのだ!我々をペテンにかけた代償は高くつくぞ!」

このころ、アルメニア独立国の消滅によってトルコとソ連は陸路で接することとなったため、ソ連が提供した資金と軍需物資は、すでにエンヴェルの手引きで安全にアナトリアに搬入されつつあった。ケマルは、それを見極めた上で「社会主義」だけを慎重にシャットアウトしたというわけだ。

しかし、それを知ったスターリンは哄笑した。

「わははは、やりおったな、ケマル・パシャ。我々に一杯食わせるとは、やりおるわい。これからのギリシャとの一戦、お手並み拝見といこうか!」

スターリンことヨシフ・ジュガシビリは、レーニンやトロツキーのような「思想家」ではなかった。グルジアの貧農から身を起こした彼は、したたかな現実主義者である。トルコがソ連に代わってイギリスを苦しめてくれるのなら、トルコで社会主義が否定されたとしても一向に構わないと考えていたのだ。

そんな合理主義者が、後にトロツキーを倒してソ連の実権を握ったのは、むしろ当然だったかもしれない。

 

 

欧亜の境界で熾烈な謀略戦が戦われているころ。

イスメット大佐は、エスキシェヒル市の手前でギリシャ軍を待ち伏せしていた。

アナトリアの高原地帯は、世界遺産のカッパドキアを思い浮かべてもらえば分かるが、赤茶けた荒地が延々と連なる土地柄である。このような土地を押さえるためには、鉄道や道路網伝いに、都市を数珠繋ぎに落としていくしかない。そうしないと、兵士が補給を受けられないからである。

そして、東進を続けるギリシャ軍は、どうしても鉄道の分岐点であるエスキシェヒル市を占領しなければならなかった。これを迎撃する側としては、戦場が簡単に特定できるから有利である。

油断しきって行軍隊形のまま歩いていたギリシャ軍の先陣は、1921年1月10日、イノニュ村前面の高地に堅陣を張るイスメットの待ち伏せ攻撃を受けて四散した。小競り合い程度の戦闘ではあったが、これはアンカラ政府の正規軍による西部戦線での初勝利であったから、この一戦で政府の国際的威信は一気に高まったのである。

「不毛の荒地に立てこもる山賊どもが、ここまでやるとは」

ロイド=ジョージ英首相にとっては、まさに誤算続きだった。彼は、トルコ軍が戦わずして崩れると思っていたのである。まさか、ギリシャ軍の挑戦を正面から受けて立つとは思わなかった。

彼の政策は、ロンドンの議会で激しく非難された。多くの政治家や議員たちは、首相のトルコ政策を誤りだと考えていて、これ以上追い詰めればトルコが社会主義に走る結果となり、世界の一大ターミナルがソ連の手に落ちてしまうことを危惧していたのだ。

「和平を結ぶべきだ」ウインストン・チャーチル植民地相は言った。「ケマルのトルコは手ごわい。これ以上の悲劇を招く前に、トルコを味方につけるべきだ。そして、共にソ連の脅威に立ち向かうべきなのだ」

保守党の大物ボナー・ローもチャーチルの見解に同意したので、ロイド=ジョージは不承不承うなずいた。保守党を敵に回したら、彼の率いる自由党連立内閣は議席を維持できなくなるのだから。

彼は、ロンドンでセーブル条約を改定するための平和会議を開催することにした。

 

 

1921年2月21日、ロンドン平和会議に、アンカラ政府代表、イスタンブール政府代表、ギリシャ政府代表、そして英仏伊の外務大臣が集結した。

アンカラ政府の代表は、ソ連から召還された外相ベキル・サミであった。彼は、イスタンブールから皇帝政府代表のテヴフィク・パシャとともに汽船に乗って、はるばる肌寒いロンドンにやって来たのである。

練達のベキル・サミは、流暢なフランス語で堂々とアンカラ政府のための論陣を張った。

「我が政府の目標は、セーブル条約を破棄し、『国民誓約』に基づいた新たな国際条約を結びなおすことにあります。皆さんがそれを承知してくれるなら、いつでも和平に応じますぞ」

フランスとイタリアは、すでにトルコの立場に共鳴していた。「大義」は、明らかにトルコの側にある。彼らは、愚劣なセーブル条約など紙くず同然だと思っていた。しかし、イギリスに面と向かってそれを言い出すのは気が引けるので、両国の代表は何となく覇気を失った様子で大人しくしていた。

皇帝政府のテヴフィク・パシャも、セーブル条約にすでに調印してしまった手前、傍観者に徹するしかなかった。

そういうわけで、会議の主導権を握ったのは、ギリシャからやって来たグーナリウス首相だった。彼は、ベキル・サミに向かって言い放った。

「ギリシャは、実力でセーブル条約を履行させる用意がある。小アジアに集結した我が軍は、いつでもケマル派を掃討できるのだ!」

「・・・貴国は、いったいどこまで我が国を憎むのだ」ベキル・サミは、歯軋りしてグーナリウスを睨みつけた。

「憎むわけではない」ギリシャ首相は、涙目になって顎鬚を震わせた、「これは摂理なのだ。我が栄光のギリシャ民族は、450年前、中央アジアの砂漠から馬に乗って来た野蛮人どもによって汚された。世界に冠たる偉大な文化が失われた。だが、今は違う。野蛮人どもを駆逐して、再び偉大な文化と東方正教の光でアジアを照らす時が来た。それこそが、我がギリシャ民族の使命なのだ!そうとも、ビザンチン帝国は復活されなければならないのだ!ヘレニズム文化は再建されるのだ!これぞメガリ・イデア(偉大な理想)だ!」

ベキル・サミ外相は、唖然として黙り込んだ。

ギリシャ人は、危険な妄想の虜になっている・・・。

ロイド=ジョージ英首相は、この演説を聞いて楽しそうに笑った。

「残念だが、ギリシャ代表がそう言うのでは仕方がない」

ロンドン平和会議は、こうして決裂した。

 

 

会議に先立って、ロイド=ジョージは、グーナリウスと密約を交わしていた。

「イギリスは、反戦感情に溢れる国内世論に抑えられたため、トルコに対する直接的な軍事行動は出来ません。その代わり、先の大戦の終結で余剰になった飛行機、戦車、機関銃を安価でギリシャに提供します。だから、思う存分にやってください」

ロンドン会議でのグーナリウス首相の強気の発言は、こうした事情に影響されていたのである。

しかし、彼らの知らないところで別の密約があった。

フランスとイタリアの外相は、ベキル・サミと個別に会見し、そしてアンカラ政府と直接的に平和交渉を行う用意があると告げたのである。彼らは、自分たちの余剰な兵器をアンカラ政府に提供すると申し出た。その代わり、戦後の特別な権益を認めて欲しいのだと。

ここに「希土戦争」は、アナトリアの大地を巡る英仏伊の代理戦争の様相を呈した。

「大英帝国」の全面支援を保証されたギリシャは、闘志に燃えた。これは、建国以来最大のビッグチャンスだ。この賭けに勝てなければ、ギリシャは過疎化した農民と漁民の国として歴史を終わるだろう。そうとも、今こそビザンチン帝国を再興する時だ!

3月30日、パプラス将軍が指揮する完全武装のギリシャ軍4個師団4万は、再びエスキシェヒルに迫った。

イスメット将軍が指揮するトルコ西部軍集団1万5千は、イノニュ高地を要塞化してこれを迎え撃つ。

再び戦場になったイノニュ高地は、険しい山岳地帯がエスキシェヒルの盆地部に降りて行く最後の難所である。西からの侵入者は、この関門を避けては通れないのだ。

この重要拠点を巡る激烈な攻防戦の後、戦場に残ったのはイスメット軍だった。ギリシャ軍は、再び西方に退却したのである。

「みんな、良くやってくれたな」

イスメットとレフェトは、塹壕の中でアラーに感謝の祈りを捧げる兵士たちを激励して回った。無傷の者は、ほとんどいない。多くの死体が散乱する弾痕だらけの陣地には、もはや武器弾薬がほとんど残っていなかった。ギリシャ軍は、トルコ軍が崩壊寸前になっていたことを知らないで退却したのだった。

この勝利にはケマルも大いに喜び、イスメットに祝電を打った。

「貴君の勝利は、一戦場での勝利ではなく、国家の勝利を意味するものだ。心からの感謝を捧げる」

そして、歓声に包まれたアンカラの国会は、満場一致でイスメットにパシャの称号を進呈したのであった。

しかし、ギリシャ軍は一時退去しただけであり、彼らが得られるイギリスからの武器支援は無尽蔵であるから、これは完全な勝利とは言えなかった。

「奴らは、きっとまた来る」ケマルは、執務室でアンカラ政府の財政報告を読んで頭痛をこらえた。「我が軍には、もはや必要な物資が残っていない。兵員の数も足りない」

幸い、フランスとイタリアは裏ルートから武器弾薬を安価で提供すると約束してくれた。また、意外なことに、ソ連も「トルコ共産党」の壊滅後も変わらず援助を続けてくれている。モスクワで、現実主義者スターリンの発言力が増していたからである。これらの援助物資が間に合えば、かろうじて戦えるかもしれない。

さらに、政治レベルの総力戦体制も整備されつつあった。

1月20日の国会で、ケマルは憲法に相当する「基本組織法」を成立させていた。その骨子は、

一、トルコ国家の主権は国民にあること。

二、立法権と行政権は、大国民議会にあること。

三、トルコ国家は、大国民議会によって統治されること。

四、大国民議会議長に議会と内閣を統括する権限があること。

重要なのは、四である。大国民議会議長、すなわちケマルに国政の実権が集まることになったのである。

着々と、戦機は整いつつあった。