歴史ぱびりよん

第16章 非常大権

 

イノニュ高地における戦勝は、アンカラ政府の国際的威信を高め、大きな果実をもたらした。

ソビエト連邦は、1921年3月、アンカラ政府を「トルコ民族国家」と正式認定し、そして友好条約を締結したのである。「モスクワ条約」である。

この条約では、懸案となっていた領土問題もトルコ側に有利な内容で決着した。新生トルコは、カルスやアルダハンなど、かつてオスマン帝国がロシア帝国に割譲した地域まで領有を認められたのである。すなわち、「国民誓約」の第二条は、住民投票を経ることなく認められ、この結果トルコの東部国境は、第一次大戦前よりも東側に大きく広がったことになる。

これは、誠実なアリー・フアト大使の活躍に加えて、モスクワの実力者スターリンがケマルの実力を非常に高く評価した結果である。スターリンはケマルの活躍を見て、新生トルコの歓心を買うことがソ連の長期的な国益になると確信したのであった。

「ところで、エンヴェル・パシャは、何をしておるのだ?」スターリンは、側近ベリアに尋ねた。

「最近まで、ベルリンとモスクワを往復して闇金融と武器の調達に励んでいましたが、近ごろはアナトリアとの連絡を強化しているようです。彼は、なんとかして祖国に復帰したいようですな」

「ふむ」スターリンは口髭を撫でた。「もしもケマルが無能なら、エンヴェルをアナトリアに送り込んで取って代わらせようと考えた時期もあるが、それは取り越し苦労だったな。エンヴェルは、もはや我が国の対トルコ政策には役に立たぬ」

こうして、次第にソ連邦要人たちの白い目にさらされるようになったエンヴェルは、ケマルの卓抜な政治工作によってエトヘムらトルコ国内の同志たちを失って意気消沈したものの、それでも英雄として祖国に帰還する夢を捨て切れずにいた。妹婿が勤務するカラベキル軍団が、アナトリア東部に健在だったからである。

しかし、そんな彼の元に悲報が届いた。

ベルリンで、同志タラートが暗殺されたというのだ。

 

 

「青年トルコ党」の三巨頭の筆頭は、郵便局員あがりのメフメット・タラート・パシャだった。この革新政党の草創期からのメンバーで、教育改革や憲法改正など、様々な政策を立案したのも彼だった。

ビア樽のような小太りの容姿の上に、大きな丸い顔が座る。その黒目勝ちの両眼は、とても愛嬌があった。そして、客を愛する社交的で陽気な人物だった。

彼は、エンヴェルやジェマルと違い生粋の政治家で、栄耀栄華や贅沢な暮らしには全く興味がなかった。構造改革にかかわる仕事をすることこそ、自分の人生の意味なのだと固く信じる愛国者だったのだ。彼は、大宰相になってからもパシャの位を固辞し続け、ようやくそれを受けたのは大戦末期の1917年であった。

彼の才能は、「戦犯」として捨て去るには惜しかったかもしれない。しかし、1915年のアルメニア人大虐殺を承認したのは他でもない彼だったのだから、祖国を逃れてベルリンの片隅でひっそりと生活する境遇も、やむを得なかっただろう。

彼は、祖国で命がけの苦闘をするケマルを心から応援していた。何とかして力になりたいと願ってカラコルに協力を命じたのだが、何度かの不協和音の後、その組織はイギリスによってほぼ壊滅させられた。大幹部のカラ・ヴァースフやヒュセイン・ラウフは、未だにマルタ島の牢獄にいるようだが、彼らはいつ出て来られるのだろうか。

そういえば、仲間たちの多くは異郷にいる。エンヴェルは、家庭も顧みずベルリンとモスクワとコーカサスを行き来して、武器の買い付けやら汎イスラム運動やら奔走している。ジェマルは、アフガニスタン国王に招かれて、首都カブールに軍事指導に行っているようだが、戦争下手のジェマルに戦争を教える能力なんてあるのだろうか?

タラートは、含み笑いを浮かべた。

こうして見ると、世界中でバラバラに活動しているかに見える仲間たちだが、その目標はたった一つに集約されていた。それは「帝国主義の打倒」である。

ケマルのアンカラ政府も、エンヴェルの「汎トルコ主義」も、ジェマルのアフガニスタン支援も、手段は違っているけれど、みな邪悪な「帝国主義」を倒すための活動なのだ。

一部の国家が、自分の欲望を満たすために弱者を支配し差別し搾取する。そのような世界は、絶対に間違っている。世界中のみんなが、自由に平等に平和に生きられる社会。それを築き上げることこそが、我々の人生の意味なのだ。そして、その夢は一歩ずつ確実に実現に近づいている。

薄暗い街路を歩きながら、タラートはそんなことを考えていた。なんだかとても嬉しくなって、右手の指が動き出す。

郵便局に勤めていたころの彼は、超一流の電信係だった。みんな、彼の素早く正確な指さばきに驚嘆したものだ。タラートは、政治家になった後も、あのころの誇りに満ちた生活を忘れることがなかった。亡命者となった今でも、電信の指さばきを実演して客を楽しませるのが常だった。彼は、素敵な技術を持つ自分を感じる瞬間が、とても誇らしい。

足音を感じて振り返る。

全身黒ずくめの青年が、目の前に立っていた。

ピストルの銃声が狭い街路にエコーし、それを目撃したドイツ人の婦人が「人殺し!」と叫んだのは1921年3月15日午前11時。

逮捕されたのは、アルメニア人の暗殺組織に属する青年だった。アンカラ政府の攻撃によって祖国を失い夢破れた彼らは、世界中に散ってかつての大虐殺の責任者たちの命を狙っていたのだ。

タラート・パシャの葬式に立ち会ったのは、ドイツ政府の関係者とトルコ人の亡命仲間である。遺体は、ベルリンの共同墓地に葬られた。

こうして、三巨頭の一つは異国の地に斃れたのであった。

知らせを受けて、アフガニスタンのジェマルは悲しみの涙をこぼした。そして、アルメニア人の怨念の強さに恐怖した。

モスクワのエンヴェルは、それとは逆に、ベルリンから彼を監視する視線が消えたことに安堵した。ケマルと同様に我の強い彼は、常に完全なフリーハンドが欲しかったのだ。

5月、エンヴェルは、アンカラ政府を支援に行くとの名目で、叔父とともにコーカサスに向かった。その真意は、ケマルから実権を奪い取ることにある。

しかし、彼が希求するトルコの大地は、今やギリシャ軍によって席巻されるかに見えていた。

 

 

1921年6月、捲土重来を期すギリシャ軍は、総力を挙げて兵力を結集した。

総人口500万人のこの小国は、バルカン戦争以来、すでに10年近い歳月を戦争に明け暮れている。その結果、国内経済は疲弊し、若年人口も残り少ない。しかし、だからこそ国内の不満をそらし派閥対立を解消する目的でトルコに挑む必要があった。銃を持てる者は、老人でも少年でも虚弱体質でも徴兵し、総兵力を10万とした。彼らが掲げるスローガンはヘレニズムの再興であり、ビザンチン帝国の再建だ。

・・・なんとなく、戦前の大日本帝国の悲壮な姿を彷彿とさせる。

しかし「夢想」は、それがどんなに非現実的であろうとも、人間集団のエネルギーを倍増させる。ギリシャ軍の戦意と団結力は、異常なまでに高揚していた。

ギリシャ史上最大規模の軍勢はスミルナ市に勢ぞろいし、そしてこの「新たな領土」にやって来た国王コ ンスタンディノス1世は、忠勇なる兵士たちを激励した。今度の戦いは、国王自らが最高司令官として前線に立つことになっていたのだ。

「今こそ、新ビザンチン帝国を築くのじゃ!」

7月10日、イギリス製の大砲、戦車、飛行機、 機関銃で武装した10万名は、粛々とアナトリアの高原地帯を目指した。

急造で資質の低いギリシャ兵は、いたるところでトルコ系住民に対する虐殺と暴行を働いた。男を惨殺してから電信柱に吊るし、女を陵辱した上で壁に磔にして殺し、家屋を容赦なく焼き払った。

これを見たイギリスの従軍記者は、「我が国の予算で、狂犬を養うのは間違っている」との社説を書いた。しかし、戦争とは本質的にそういうものである。特に、ギリシャとトルコの間には歴史的な恨みが積み重なっているし、異教徒同士ということもあったから、その憎悪と偏見が増幅するのは当然であった。それに加えて、「ヘレニズム再興」などという狂信的なイデオロギーは、容易に他者に対する蔑視と冷酷さの土壌となる。第二次大戦時の、ナチスや日本の蛮行を想起してもらえば分かるだろう。

猛る「狂犬」たちは、飛行機から爆弾の雨を降らしつつ装甲車を先頭に立てて進撃した。そして7月19日、3度目の激戦が予想されていたイノニュ高地を無抵抗のまま落とし、そのまま交通の要衝エスキシェヒル市を無血占領したのである。

彼らは、当然ながら拍子抜けした。

「これは、どういうことだろう」「アンカラで政変でもあったのだろうか?」

兵士たちは首をかしげながらも、戦略拠点を労せずして奪い取った勝利の余韻に浸った。

そして、その知らせを受けたロンドンのロイド=ジョージ首相は、勝ち誇って陸相エヴァンズに向かい快哉を叫んだ。エヴァンズは、ギリシャ軍の能力に悲観的だった人物である。

「見たか!トルコ人は全面的に退却中だ!東方の行方はこれで決まるのだ!陸軍省は何をしている?軍の連中は我々政治家をバカにしているが、その政治家の調べによれば、両国が有する兵力と戦闘能力に関する参謀本部の情報は、みんなデタラメであることが判明した!まったく、貴重な国家予算を遊興のために浪費しているだけなのかね!」

エヴァンズは、怒りを押し殺して退席した。

しかし、ギリシャ人の中には冷静な視点もあった。

バルカン戦争の名将イオアニス・メタクサスは、現役を引退してアテネで悠々自適の生活を送っていたのだが、政府に連戦連勝に対する意見を求められて一言つぶやいた。

「これは、罠だ」

「えっ?」政府の報道官は、首をかしげる。

「国王に言ってくれ。今すぐ、ケマルと和平を結ぶように」

「なぜですか?我が軍が勝っているのに」

「これ以上進撃するべきでない。我が軍は必ず敗れる」

「でも、連戦連勝なんですよ!」

「・・・ケマルの作戦だよ」老将はため息をついた。「今のトルコ人は、偉大な指導者の下で民族意識に燃えている。自由と独立のために戦うトルコ人は犠牲を厭わない。小アジアが自分たちの国土であること、我々が侵略者であることをトルコ人は良く認識している。彼らにとって、ギリシャが主張する歴史的権利など戯言でしかない。肝心なのは、愛国心に燃えるトルコ人の気持ちなのだ」

メタクサスは、そう言って沈黙の中に閉じこもった。

やがて、国王からメタクサスに出馬を要請する書状が届いたが、老将はこれを謝絶した。負け戦の指揮官になる気はまったく無かったからだ。

その間、国王自らが率いるギリシャ軍10万は、さらに東へと進撃していた。

「今こそアンカラを陥落させて、ケマルの息の根を止める時が来た!」

コンスタンディノスは、勝利を疑わなかった。

 

 

それに先立つ7月16日 。

「エスキシェヒルを守り抜くことが出来るだろうか?」

不安を感じたケマルは、行政視察という名目で最前線イノニュ高地を訪れた。

「パシャ、良く来てくれました」

イスメットは、先頭に立って戦場を案内した。イノニュ高地は、等高線に沿って縦深陣地が掘られた見事な要塞と化していた。しかし、そこに張り付く兵士たちは疲労困憊し、銃器の多くが整備も受けられずに破損し、そして銃砲弾はほとんど枯渇していた。

「イスメット、本当に良く頑張ったな」

心労続きで真っ青な顔をしたケマルは、目を潤ませて親友の両肩を掴んだ。

「パシャを見習ったのです。自ら陣頭に立って兵士に模範を見せました。一緒に死んでくれと兵に叫びました」

真っ黒に日焼けした小柄で痩身の英雄は、やはり涙を両目に溢れさせながらケマルを見つめる。

「もう十分だ。後は、私が引き受ける」

「と、言いますと」

「分かっているだろう」ケマルは吐息をついた。「ここを放棄する」

「し、しかし」

イスメットは戸惑った。イノニュという地名は、今やアンカラ政府の栄光のシンボルである。ここを放棄することは、これまで勝ち取ったアンカラ政府の、いやケマル自身の威信失墜に繋がるのだ。

「責任は、すべてこの私が引き受けるよ。だから君は、しばらく休んでくれ」

寝不足と涙とで赤くなった目を、優しく盟友に注ぐ。

イスメットは、議長の胸のうちを悟って心を痛めた。

しかし、もはやイノニュでの3度目の正直が有り得ないことは、ある程度熟達した軍事家の目には明らかなことだった。武器弾薬が枯渇しているのみならず、敵に地形を知りつくされたからだ。

弱い人間は、自分の過去の栄光に固執し、自らの弱点に目をつぶる。しかし、真の勇気とは、未来への栄光のために自らの弱さを認めそれを克服することなのだ。

そして、ケマルとイスメットは、真の勇気の持ち主であった。

ケマルは言った。「アンカラの前面に新たに防御陣地を築こう。そうすれば、敵の補給線は伸びきり、我が軍のそれは短縮される。そして、兵力を立て直す貴重な時間が稼げる」

こうしてトルコ軍は、イノニュ高地とエスキシェヒル市を放棄し、アンカラへと撤退したのであった。

・・・ギリシャ軍は、こうしたケマルの深慮遠謀に気づくことが出来なかった。

 

 

しかし、ギリシャ軍の快進撃を前に、アンカラの議会は混乱状態に陥った。

エスキシェヒル陥落が、大問題となったのである。

軍事に疎い国会議員たちは事態の表面しか見ないから、「戦略的後退」という概念が分からない。彼らには、ケマルとイスメットが「臆病風に吹かれた」としか思えなかったのだ。

もともと保守的な議員たちは、社会主義ソ連と手を組み、しかも年頭の「基本組織法」で皇帝の存在を無視するようなケマルの独善的な姿勢に不信感を募らせていた。彼らの知能では、トルコが資金と武器を得るためにはソ連に頼る必要があり、また、ギリシャとの総力戦に備えて議長が強権を握る必要がある、という高度な政略が理解出来ないのである。彼らには、現況が国家存亡の危機にあるとの認識が欠けていたのだ。

そんな議員たちを、背後から煽る人物がいた。

「私なら、エスキシェヒルは捨てなかっただろうな」

そう言って胸を張るのは、エルズルムから軍団を率いてやって来たカラベキル将軍だった。

アルメニアとクルドを立て続けに打ち負かし、しかもソ連のスパイ団(トルコ共産党)を皆殺しにしてのけた常勝将軍は、アンカラ市民や保守的な議員たちから大歓声で出迎えられたのである。そんな彼は、今やケマル以上の名将と思われていた。

「ケマル・パシャは、心労のあまり毎晩のように酒を呷り、しかもろくに食事も睡眠も取らないと聞く」カラベキルは、議員たちに悲しそうに語る。「私が、その激務を肩代わりしたい。ケマル・パシャには、しばらく休んでもらって良い」

「そうですとも」副官キャーズムが調子を合わせる。「ギリシャとの決戦は、我が東部軍集団にお任せあれ。無敗を誇る我が軍団なら、一歩も退かずに敵を追い返して見せますぞ」

カラベキル自身は、ソ連のドグマを信じていないし、祖国への帰還をしつこく求めるエンヴェルの能力についても懐疑的だった。しかし、彼自身がケマルに取って代わろうという野心を抑え切れなかった。そして、今がその最大のチャンスである。

議員たちは、そんなカラベキルの健康で快活な笑顔と自信満々な態度に、大いに勇気付けられた。何しろケマル議長といえば、もともと無愛想で暗い雰囲気の男なのに、ここ1年でますます怒りっぽくなり、隈のある真っ赤な目で睨みつけて来るわ、色白の頬は青白くなるわ、まるで亡霊のような有り様なのだった。

「確かに、彼に任せてはおけませんな」

「次の議会で、議長に不信任案を提出しましょう」

「そうしましょう」

「それがいい」

議員たちの会話を聞いて、カラベキルは満足だった。

トルコは、間もなく俺のものとなるだろう。

しかし、カラベキルには理解できていなかった。

ギリシャ軍10万に対し、これに当てられるトルコ軍は5万に過ぎない。この2倍の兵力差に加えて、イギリス製の武器を持つギリシャ軍は、質的にも圧倒的に優れていた。

ここは、政争などやっていられる局面ではなかったのだ。国家が二つに割れた状態では、確実に敗北する。そして、この局面でのアンカラ政府の敗北は、セーブル条約の発効を意味した。すなわち、祖国の死だ。

カラベキルは、墓場の主になりたいと言うのだろうか?

いや、東部で弱敵ばかりを相手にしてきたカラベキルには、この事態の深刻さが理解できていなかったのである。

アンカラ政府は、ここに最悪の危機を迎えようとしていた。

 

 

明敏なケマルは、保守派議員たちが、カラベキルを抱き込んでクーデターを目論んでいることを察知していた。そして、その背後にエンヴェルがいることも承知していた。

5月、アナトリア北東のトラブゾン市にエンヴェルの叔父ハリルが潜入し、社会主義者勢力の残党を結集させる工作に着手した。彼らは、エンヴェルをこの地に迎え入れる手はずだったのだ。それに気づいたケマルは、ハリルに国外退去命令を出して、7月にようやく彼をロシアに追い払ったのだった。

エンヴェル自身は、コーカサスのバツーミ市から、しきりにケマルに帰国許可を求める手紙を書いて、こう主張した。

「私は地位や役職への未練は持っていないし、祖国に党派対立をもたらすつもりもない」

しかしエンヴェルは、その存在自体が党派対立の元なのだった。

そこでケマルは、「あなたの入国は、絶対に認められない」との冷たい返事を書き、そして東部国境に向けて逮捕命令を出した。なんとしても、ライバルの越境を阻止しなければならない。

「生意気なムスタファ!」エンヴェルは、手紙を読んで激怒した。今や、彼らの力関係は第一次大戦のころとは完全に逆転していた。プライドの高いエンヴェルには、そのことが気に入らない。

アンカラに潜伏させておいた同志ムスタファ・ナイール議員は、しかし、次のような手紙をエンヴェルに書いた。

「ムスタファ・ケマルは尊敬に値する人物です。彼はもはや、あなたがご存知の一匹狼の軍人ではありません。そして祖国も、あなたが亡命したころとは大きく変わりました。人々は皆、輝く瞳で希望を胸に抱きながら愛国心に燃えています。彼らは、今やスルタンの家臣でもなければイスラム教徒でもありません。トルコ『国民』へと成長を遂げたのです。エンヴェル・パシャ、あなたが周囲の雑音に惑わされないことを祈ります。あなたに帰国をうながすのは、ムスタファ・ケマルから利益を引き出せない者だけなのです」

エンヴェルは、これを読んで沈思した。

「ナイールの言うことが本当なら、俺は祖国にとって無益な存在ということだ」

彼は、宿舎に使っている粗末な廃棄貨車の汚い鉄の壁を見つめた。夜になると薮蚊に覆われる悲惨な環境は、アルメニア人の刺客から逃れるための止むを得ない措置であった。

「よし決めたぞ。もしもムスタファがギリシャに勝つなら、俺は永遠に祖国を去ろう。逆にムスタファがギリシャに敗れるようなら、国内の社会主義者と旧『青年トルコ党』を団結させるために帰国しよう。祖国を守るために」

エンヴェルは、あくの強い男だが、彼の愛国心は本物だった。

彼は錆びた貨車の中で、心からケマルの勝利を祈った。

 

 

8月4日の夜、ケマルは私室にイスメット、アリフ、レフェトら、心を許せる仲間たちを集め、いつものようにラク酒で乾杯した。

「4人が勢ぞろいするのは久しぶりですね」議長付き護衛武官を勤めるアリフは、嬉しそうだ。「シシリーの家以来じゃないかな」

「いや、私はシシリーの家にはお邪魔したことがないな」西部軍集団で師団長を勤めるレフェトは笑った。「パシャとはいつも、ペラパレス・ホテルか居酒屋で会っていたから」

「そうか、4人目はフェトヒ少将だったな」アリフはうなずいた。「彼は、まだマルタ島だろうか・・・」

「俺たちが会えるのは、これが最後になるかもしれないよ」イスメットはつぶやいた。「現状では、とてもギリシャに勝てない。生き残るのは、フェトヒさん一人かもな」

一同はうなだれた。

兵員も物資も、あまりにも足りなかった。

フランスやイタリアが提供してくれるはずの武器は、未だに届かない。ソ連から送られてくる資金と兵器は、ドイツ製が多かったとはいえ、どれも使い古した中古品で、とてもイギリスの最新兵器には及ばなかった。

そればかりか、その武器を前線に送る輸送手段はアンカラ政府には存在しなかった。現状では5万の兵員に支給する食料すら調達できないのだ。

勝算は、あまりにも乏しい。

「政府内に、敗北主義者が増えているのも無理はないな」アリフが言った。「ホジャ・ライフ議員は、シヴァスへの遷都を提案している。それも、もっともな意見だ」

ここで、ケマルが口を開いた。

「私に最後の策がある」

一同は、議長の顔を希望に燃えた眼差しで見つめた。

「明日の議会を見ていてくれたまえ。この策が破れたら、全ては終わりだ。俺は、この策に命を賭ける」

そうつぶやくと、ケマルは右手のグラスに目を落とし、そして自分の世界に入ってしまった。

三人の友人は、悲しそうに頭を振ると、部屋を辞去した。

臨時大国民議会の開催は、いよいよ明日である。

 

 

8月5日の大国民議会では案の定、エスキシェヒルを放棄したイスメットの無能と、彼を登用したケマルへの非難が渦を巻いた。日ごろの人望の無さが、こういうところで響く。

その様子を、傍聴席からカラベキルとキャーズムが満足そうに眺める。

「間違いなく、ケマルは解任されるだろう」

「いよいよですな」

やがて、議長の登壇となった。

疲労と心労で蒼白になったケマルは、よろよろと野外にしつらえた壇上に上がった。

彼は、敵意に満ちた議会をゆっくりと見回した。

この中の2割が社会主義者であり、3割がイスラム教と皇帝の権威を重んじる保守主義者であり、それ以外の多くの者が「青年トルコ党」の息がかかったエンヴェルシンパである。いずれも、程度の差こそ異なれ、ケマルに対して含むところを持っていた。

ケマルは、勇気を奮い起こし、渇いた唇を開いた。

「まず、エスキシェヒル市の放棄について説明する。あれは、再三にわたって言っているように、ギリシャ軍の補給線を伸ばし、味方の戦略要地に誘い込むための戦略的撤退に他ならない。この件を決めたのは議長である私であって、イスメット・パシャには何の咎も無いことを強調する」

「議長に質問です」保守派のホジャ・ライフ議員が挙手した。「戦略的撤退の結果、戦地に取り残された民衆についてどうお考えですか?彼らは今、野蛮なギリシャ人によって残酷な暴行を受けております。議長は、自分の不可思議な軍事理論のために、無辜の民を犠牲にしたというわけですかな?」

もちろんケマルは、ギリシャ軍の進路の住民に疎開を呼びかけていた。しかし、あえて占領地域に残留し、あるいは逃げ切れずに犠牲になる民衆も多かったのである。

「そうだ、そうだ!」「責任を取れ!」「辞任しろ!」

無責任な野次が飛び交う中、ケマルは重々しく口を開いた。

「私に、3ヶ月の猶予を与えて欲しい」

議会は静かになった。議長が何を言おうとするのかと、耳をそばだてた。

「私は、非常大権を要求する。3ヶ月の間、大国民議会政府の全軍を指揮する権限と、議会が保有するすべての権限を私に委ねてもらいたい。すべての責任は、私一人が負う」

意外な提案に、議会は騒然となった。

「期限付きの独裁者になろうとは、まるで古代ローマの独裁官みたいだ!」「近代国家トルコで、そのような野蛮は認められない!」「でも、事実上の辞任表明じゃないのか?」「責任を感じているのなら、回りくどいことをせず、直ちに辞任するべきだ!」

口々に言う議員たちに向かい、議長は叫んだ。

「トルコは滅亡の危機に立たされている!今は演説や議論の時ではない、行動の時だ!そして私は、諸君にお願いしているわけではない。それを要求し、そして必要としているのだ!」

ケマルの背筋はピンと張り、そして白い頬に赤みが差した。そして、印象的な鋭い瞳が激しく銀色に輝き出した。

「諸君が拒否しても、私は行動するだろう!私の選択はすでになされているし、兵士たちもそれに賛成してくれるだろう!」

満場は、議長の放つオーラに圧倒された。ほとんど脅迫に近い弁舌だったのだが、それを難詰できる者はいなかった。

カラベキルは、冷ややかにつぶやいた。「3ヵ月後には辞職するんだろう?だったら、好きなようにやらせてみれば良い」

「そうだな」「確かに国家の危機だし」「近代国家にも例外は付き物さ」「3ヶ月の辛抱だ」

やがて議会は、満場一致でケマルの「非常大権」を認めたのである。

「賭けに勝った・・・」議会を見回すケマルの眼光は、再び銀色に光り始めた。

いよいよ、これからが本当の勝負である。