歴史ぱびりよん

第17章 サカリア川の決戦

 

期限付きの独裁官になったケマルは、さっそく非常大権を活用した。

「国民税」の創設である。

支配下の民衆から、兵士のための服や靴下や寝具の供出を求め、さらに食糧と燃料と商品の40%を代金後払いで強制徴収した。民間の武器弾薬や馬匹は、その全てが供出させられた。職人はすべて「軍需品生産要員」として動員される。また、アンカラ政府に輸送能力が無いことから、荷車などの輸送手段を持つ者は徴発した物資を前線に運ぶことが義務づけられた。そして、戦える男はすべて兵士として前線に送られることとなった。

まさに、総力戦である。

国民は、この過酷な施策に良く従った。みんな喜んで物資を提供し、そして進んで兵士になりたがった。連日のようにアンカラにやって来る人々は、女性や子供も看護婦ないし伝令としての従軍を志願した。

再び軍服を纏った最高司令官ケマルは、馬上からこうした民衆に激励の言葉をかけた。

「みんな、ありがとう!ありがとう!」

「ケマル・パシャ!」「国のためなら、何でもします!」「お願いしますよ!」「必ず勝ってください!」「あたしたちの国を守って!」人々の歓声は、街中を揺るがせる。

ケマルの後ろから馬を進めるカラベキルは、この様相に呆然としていた。彼は、過酷な徴発によってケマルが人望を失うものと期待していた。いや、必ずそうなるだろうと決め込んでいたのだ。だが、これはいったいどういうことだろう。

「俺は、ケマルに負けたのだろうか」カラベキルは自問した。「いや、最初から負けていたのか・・・」

富裕な名門家庭出身のカラベキルは、民衆というものを軽んじて生きて来た。というより、民衆なんて眼中になかったのである。考える必要すら感じていなかった。いや、彼だけではない。国会議員のほとんどがそうだった。

社会主義。イスラム教。スルタンの政治的地位。「青年トルコ党」の再建。

政治家たちは、本当に民衆のことを考えてこうした議論をしていただろうか?しょせんは、己の利権を交えた議論のための議論だったのではないだろうか?

青白い顔で酒臭い息を吐きながら、苦しみ悶えながら、それでも地に足をつけて民衆のために歩み続けた男はたった一人だけ。

「ケマルだけだ。ケマルだけだったのだ」

カラベキルは、路傍の民衆からほとばしる熱いエネルギーを全身に受けて、ようやくそのことを悟ったのである。

市中視察を終えたケマルは、国防相フェヴジ、カラベキル、イスメット、レフェト、キャーズム、ヌルディン、ケマルディーンといった歴戦の将星たちを従え、学校講堂の中にしつらえた作戦会議室に入った。

彼は、机に広げられた兵棋図上の一点を指差した。そこは、アンカラの西方80キロ地点である。地図の上には、青い線が南北に蛇行して引かれていた。

これは、アンカラ西方の最後の天然の障壁であった。

「サカリア川だ」ケマルは言った。「ここに陣地を築いてギリシャを迎え撃つ!」

将軍たちは、大きくうなずいた。

サカリア川は、オスマン帝国の発祥の地であった。

700年前、中央アジアの草原から、初めて小アジアに足を踏み入れたトルコ部族の英雄エルトゥールルは、サカリア川の岸辺に立って「ここが、お前たちの故郷となるだろう」と宣告したのであった。

そして今、この宿命の地がトルコ民族の運命を決める。

 

 

8月13日、ギリシャ軍はエスキシェヒルを進発した。目標はアンカラである。

しかし、策源地スミルナからアンカラまでの距離は、ゆうに400キロを超える。補給担当官は、「とても兵站を維持できません」と悲鳴をあげた。しかし、兵站事務に疎い司令官は、「あっという間に勝利して敵の兵糧を奪うのだから、補給の心配はいらない」と豪語した。こういうところも、太平洋戦争中の日本軍の悲壮さを彷彿とさせる。

ギリシャ兵は、エスキシェヒルからの200キロもの距離を、炎天下の荒地を歩かされて疲労困憊した。それだけではない。隊列が山岳地帯に入ると、トルコ人ゲリラが前触れもなく彼らに襲い掛かる日が続いた。こうしたゲリラの多くは、かつての「カリフ擁護軍団」からケマル派に寝返った者たちである。こうして、ギリシャ兵の中には、少しずつ厭戦気分が蔓延を始めた。ところが、指揮官連中は勝利を確信し、こうしたことにまったく鈍感であった。

そんな彼らの前に、突然、巨大な壁が立ちはだかったのである。

ギリシャ兵は瞠目した。

サカリア川の東岸は、切り立った崖になっている。その崖全体が、鉄条網や塹壕が幾重にも張り巡らされた要塞と化していたのだ。

この川は、アンカラ市の西方80キロ地点を南北に湾曲しながら流れている。トルコ軍はここを天然の堀として、南北95キロにも渡る長大な陣地を築いたのである。これは、敵の大軍による迂回や包囲を防ぐためである。また、ここからアンカラ市までは、東に向かうにつれて次第に標高が増していく地勢だ。5万のトルコ兵は、この天然の要害に東西へと幾重にも塹壕を掘り、頑強な縦深陣地を形成したのであった。

コンスタンディノス国王と将軍たちは、しばし口をポカンと開けて眺めていた。

やがてハジアネスティス将軍は、斥候隊を派遣して敵情視察に努めるとともに、後方を移送中の砲兵隊に速やかな集結を命じた。この壁を破らなければ、アンカラには辿り着けないのだ。これから、あの陣地を一つ一つ潰して行かなければならない。

一方、ケマルも将軍たちを引き連れて前線に到着していた。

川岸に立って西方を見やると、10万人の将兵が雲霞のごとく集う赤茶けた大地は、壮観の一言だ。しかし、ケマルはこのような光景を前にも目にしたことがある。ガリポリ半島に殺到した協商国軍の威容は、こんなものじゃなかった。

前線に近いアラゴス村の村役場に本営を定めたケマルは、将軍たちに具体的な作戦計画を伝えた後で、会議をこう締めくくった。

「確保すべきは防御線ではなく防御面だ。防御面とは国土全体のことだ。国民のことだ」

将軍たちは、趣旨を悟って大きくうなずいた。

個々の塹壕の戦術的な確保よりも、総合的な戦略的勝利を目指すべき。守るべきなのは、サカリア川ではなく国土と国民。これが、この決戦の眼目なのだった。

 

 

サカリア川の決戦に投入された両軍の兵力は、次のとおり。

ギリシャ軍:兵員は、戦闘部隊9万人に補助部隊3万人の計12万人。重機関銃876丁、大砲284門、飛行機8機。

トルコ軍:戦闘部隊4万6千人、重機関銃515丁、軽機関銃255丁、大砲167門、飛行機2機。トルコ軍の補助部隊は、近在の民衆全員が務める。

兵員の数と兵器の量と質で圧倒的に劣るトルコ軍だが、それ以外の点ではむしろ優位にあると言えた。

まず、トルコ軍はサカリア川周辺の地形を知り抜いているし、気候にも慣れている。その上、戦場が本拠地の近くなので、疲労していないし補給も受けやすい。

ギリシャ軍は、まったくその逆の立場であった。

それ以上に重要なのは「情報」である。

トルコは、潜在的な同盟国ともいえるフランスとイタリアから、敵に関する詳細な情報を貰うことが出来た。しかし、ギリシャは誰からも正確な情報を貰うことが出来なかったのである。その結果、トルコはギリシャ軍の兵数、戦備、士気、補給、指揮官の資質についてかなり詳しく知っていたのに、ギリシャはトルコ軍の能力について、ほとんど無知だったのである。

こうしたハンデは、やがてボディブローのように効いてくる。

そんな中、ギリシャ軍の総攻撃は8月23日に開始された。サカリア川の西岸に並べられた大砲の列から、塹壕陣地へと巨弾が降り注ぐ。無尽蔵とも思える砲弾の雨に、急造のトルコ軍陣地は一面の砂ぼこりと硝煙に覆われ、もはや鎧袖一触かと思われた。

「突っ込め!」

ギリシャ兵は、サカリア川の浅瀬から遮二無二突進し、ずぶ濡れになりながら対岸の陣地に乗り入れた。そのとき、塹壕深くに身を潜めていたトルコ兵が一斉に身を起こし、機関銃の斉射と銃剣突撃で迎え撃った。大砲と砲弾を多く持たないトルコ軍の防衛手段は、敵を手元に引き寄せてから白兵戦で勇気を示す以外になかったのだ。

全ての前線で、激しい白兵戦が展開された。

「父なるイエス!」「アラーのご加護を!」「ヘレニズムの理想!」「祖国のために!」「野蛮人ども!」「侵略者め!」

兵士たちの激しい怒号は、まさに「文明の衝突」というのにふさわしい。

それでもトルコ軍は、情勢が不利に傾くと、前線を捨てて後方の陣地へと退却した。アンカラまでの80キロのどこかで敵の戦意を挫けば、それが勝ちだから。

こうして、ギリシャ軍は1日あたり約1.6キロのペースで占領地域を拡大した。

しかし、トルコ兵の抵抗力はまったく衰えを見せなかった。ギリシャ軍が、悲惨な犠牲の末に敵陣を突破しても、その向こうにはまた新たな陣地があり、闘志溢れるトルコの若者が、再び白兵戦を強いるのである。

占領した陣地で体を休めるギリシャ兵たちは、敵味方の無数の死体に囲まれながら、日増しに乏しくなる糧食のパンを、生気をなくした目をして齧り、そしてつぶやくのだった。

「これは、何のための戦争なのだろう・・・」

「ビザンチン帝国の再興のためだ」

「それが、何の役に立つんだ?」

「・・・国のためになるのさ」

「嘘をつけ。権力争いが大好きな偉い人たちの自慢の種になるだけだ」

「ああ・・・故郷に帰りたい」

「死ぬ前に、もう一度だけ子供の顔が見たい」

「どうせ死ぬなら、故郷の土になりたい。こんな異国の砂の中に埋もれたくないよ」

次第に、厭戦気分が蔓延する。

対するトルコ兵は、強敵によって日増しに圧迫されながら、それでも健気に耐えていた。彼らの糧食は、1日1個のトウモロコシパンだけである。しかも、砲兵の援護がほとんど期待できない状況下で、毎日のように積極的に白兵戦を戦わねばならない。しかし、彼らの瞳は輝いていた。これは祖国のための戦いなのだ。愛する家族や未来の子供たちのための戦いなのだ。そして、我々にはケマル・パシャがついていてくれる。

ケマル総司令官は、ガリポリ戦の時と同様に、積極的に前線を回り部隊を激励した。

「みんな、良く聞いてくれ!事態は、すべて当初の計画どおりに推移している。これもみんなのお陰だ。みんなの頑張りに感謝する。勝てる、これなら必ず勝てるぞ!」

銀色の眼光に射られ、兵士たちは必勝の信念を燃え上がらせるのだった。

「勝てるぞ、ケマル・パシャがそう言うのだから」

「そうとも、一度も戦いに負けたことがない人だからな」

「仮に命を落とすにしても、勝って死ねるなら本望だ」

「家族は、俺たちの名前を祖国の英雄として、いつまでも子孫に伝えてくれるだろう」

「そうとも、俺たちはみんな英雄なんだ!」

トルコ兵には、祖国のために侵略者と戦うことに一点の迷いも無かったのである。

戦闘開始後1週間もすると、士気の落ちたギリシャ兵は、しばしば突撃をためらうようになった。これを案じた部隊では、しばしば師団長自らが模範を示して先頭に立って突撃した。その結果、師団長の戦死者が13名にも上ったと言われる。これは、ほとんど負け戦に近い損耗率だ。

対するトルコ軍の損耗率も高く、師団長クラスは7名が戦死していた。

血で血を洗う激闘は、なおも続く。

 

 

ギリシャ軍の誤算は、せっかくイギリスに支給してもらった戦車や飛行機の多くを、後方に置いて来たことであった。彼らには、これらの壊れやすい兵器をサカリア川周辺まで持ってくる輸送手段が無かったからだ(この当時、戦車や飛行機はすぐに故障した)。それでも、砲兵戦力は優勢だったのだが、ケマルの熟練の築城技術は、堅固な塹壕を用いて、その優位性を簡単に相殺してしまったのである。

窮したギリシャ軍は、トルコ兵を塹壕から誘き出すために、わざと敵の目の前で捕虜を虐殺したり女性たちを陵辱したりした。しかし、忍耐心と克己心に溢れるトルコ兵たちは、ぎゅっと目をつぶってこの屈辱を耐え忍ぶのであった。

結局は、白兵戦で勝負を決める以外にない。ギリシャ軍の兵員数はトルコ軍の2倍なのだから、2人で1人を倒せば良い勘定だ。しかし、白兵戦の勝敗を分けるのは兵員の闘志であり体力である。そして、戦争の大義に不信を感じ、しかも慣れない環境下で攻勢限界点を超えて戦うギリシャ兵には、闘志も体力も欠けていた。

コンスタンディノス国王は、自分と10万人のギリシャ人が、ケマルの仕掛けた恐ろしい巨大な罠に嵌ったことをようやく悟った。

「そうか、メタクサス将軍は、このことを予見して警告したのだ・・・」

臍を咬んだギリシャの最高司令官は、この瞬間、モスクワの廃墟に佇むナポレオンの心境が理解できたように感じた。

しかし、彼には突撃を号令するしかなかった。祖国がイギリスの支援を受けて10万の兵力を動員できるのは、おそらくこれが最後の機会となるだろう。このチャンスを逸するわけには行かなかった。

何としてでも、ケマルを倒すのだ。それしか道はない。

9月5日、ギリシャ軍の先鋒は左翼を突破し、アンカラまで50キロの地点に達した。彼らが撃ち出す大砲の音はアンカラに達し、市民は恐怖に震えた。

トルコの運命は、今や風前の灯かと思われた。

 

 

トルコ軍の野戦病院は、傷病兵でいっぱいだった。

3週間にもわたる凄惨な白兵戦の連続は、両軍兵士に破滅的な犠牲を与えていた。それでも、首都から近い位置で負傷したトルコ兵は、まだ幸せだったろう。

ボランティアの看護婦たちは、患者のために全力を尽くした。

女性市民の中には、従軍志願する者も続出していた。厚生大臣アドナン博士の妻ハリデ・エディブなどは、「あたしも戦います」と言い張って、結局、司令部付きの伍長として前線で働いている始末だった。

彼女たちは、イスラムの戒律を捨て、人前でも素顔をさらして奔走していた。チャルシャフを纏ったままでは仕事にならないからだ。彼女たちは、もはや「イスラム教徒」ではなく「トルコ国民」に成長していたのである。

ケマルは、野戦病院で働く女性たちを労いながら、心から思った。

「女性は、本当に偉大な存在だ。看護婦に手当てを受けながら、安心して涙ぐむ兵士たちの顔を見れば良く分かる。女性は男性に劣らず立派なのに、イスラム教はそれを否定する傾向がある。昼間から家に閉じこもり、人前で顔を見せないように奨励する。実にバカな話だ。これからの社会は、女性の力を生かせるように大きく開かれなければならない。それができて、初めて近代国家と呼べるのだ」

ケマルは、カールスバートのテレザのことを思い出した。彼女は、今ごろどうしているかな。独立を達成した自由な祖国チェコスロバキアで、今でも元気に看護婦を続けているのだろうか?

やがて、彼の想念は現実に戻った。

彼の前に4人の婦人が立っていた。1年前の夏、彼の客間で涙に浸ったあの4人だった。最初は誰だか分からなかった理由は、彼女たちがチャルシャフを脱いで素顔を見せていたからだった。看護婦の腕章をつけた彼女たちは、見違えるほど生気に溢れていた。

「パシャ」

「あたしたちは決めました」

「自分のためじゃなく、国のために生きたいって」

「ようやく分かったんです」

ケマルは、目に涙をいっぱいに浮かべて婦人たちにうなずいた。

この戦いは、絶対に負けられない。

そして、戦局は正念場を迎えようとしていた。

トルコは、あたかも大風の前の柳のようだった。激しく揺れながら、それでも折れることなくしっかりと立っている。サカリア川の陣地も、上空から見ると風の中の柳のようだったろう。各所でギリシャ軍に食い破られながら、それでも芯は折れていない。

しかし、時間の問題だった。2倍の兵員差がじわじわと効いて来て、損耗を重ねるトルコ軍は、深刻な戦力不足に陥っていたのである。

ただし、情報不足のギリシャ軍は、おそらくその事実に気づいていない。

ここに付け目がある。

ケマルは、最前線の高台に愛馬サカルヤを走らせ、そして敵陣を俯瞰して霊感が訪れるのを待った。

敵陣の厚さは、明らかに左翼(北)に偏っている。人馬の動きを見るに、左翼からの突破に賭けるつもりなのだろう。しかし、400キロの距離を超えて続けられる彼らの補給は、これ以上は維持できないはずだ。また、激戦の連続で兵員の体力も神経も磨耗しているはず。

奴らの芯は、折れる寸前にある。

歴戦の戦巧者であるケマルは、これらのことを瞬時に読み取った。

その夜、彼は将軍たちを集めて作戦会議を開いた。

「いよいよ決戦だ。攻勢に出る」

「攻勢ですって!」カラベキルは叫んだ。「もはや、我が軍には攻勢に使える予備兵力はありませんぞ!」

「私は、これと同じ状況で、ガリポリ半島のジョンクバユル高地を奪回した」ケマルは、有能な軍団長をじっと見た。「比較的余力のある中央陣地から、戦力を引き抜けば良いのだ」

「しかし、それだと中央陣地が手薄になりますが」

「ここは賭けだ」ケマルは兵棋図を指差した。「ギリシャ軍は現在、最も突破深度の深い味方右翼(北)に戦力を結集している。我が軍が右翼にわざと隙を作れば、すかさずそっちに飛びつくだろう。本当に隙が出来る中央は、これで安全になる」

「なるほど」カラベキルは素直に感心した。これがケマルか。

「そして我が軍は」司令官は指を南にずらした。「左翼(南)から攻撃を仕掛ける。これは奇襲となるだろう」

「しかし、敵の南翼を突破して、その戦線を維持するだけの兵力は・・・」

「必要ないよ」ケマルは笑った。「これは心理戦だ。この決戦が、土地を確保するための戦いではないと、あらかじめ言ってあるだろう?」

「奇襲と同時に、温存してあった騎兵隊を放ちましょう」イスメットが目を輝かせて叫んだ。彼には、ケマルの戦略の狙いが分かったのである。

「それは良い」ケマルは白い歯を見せた。「敵の補給路を絶つように機動させるのだ」

トルコ軍は、暗夜に紛れて編成を変え始めた。

今、ケマルの軍事的天才が炸裂する。

 

 

9月12日、ギリシャ軍の本営に衝撃が走った。

「まさか、トルコ軍に反撃を仕掛ける余力が残っているとは・・・」

「敵の実数は5万程度かと思っていたが、実際にはもっと多かったということか」

この日の早朝、彼らは右翼に思わぬ奇襲攻撃を受けた。このトルコ軍は一撃離脱方式ですぐに引き上げたので、ギリシャ軍の物的損害は軽微だったのだが、蒙った心理的衝撃は極めて大きかった。

「・・・今朝入った報告によると、トルコの騎兵隊2個旅団が味方の背後で確認されました。敵が、あんなものを隠し持っているとは夢にも思いませんでした」

「騎兵隊に後方に回り込まれて、脆弱な補給路をいったいどうやって守ればいいのだ!」

ギリシャの国王と将軍たちは、鳩首して悩んだ。どんなに考えても、有効な打開策を打ち出せる者はいない。

やがて、もっと深刻な報告が入った。

今朝の奇襲に対処するため、左翼から右翼に部隊を引き抜いたところ、その部隊のほとんどが退却と勘違いして集団脱走したのだという。前線に残った部隊の士気は、その報を受けて大いに低迷中だ。中には、パニックに陥った部隊もあるらしい。

「もはや、これまでか・・・」国王は、涙目で天を仰いだ。

「残念です。ここまで頑張ったのに」ハジアネスティス将軍も、うなだれて唇を噛んだ。

9月13日。こうして、退却が始まった。

今や、損耗と脱走の続出で7万人にまで減ったギリシャ軍は、陣地を引き払って西へ向かって去って行く。

メガリ・イデア(大いなる理想)は、サカリア川に散った。ビザンチン帝国再興の夢は、粉砕された。ギリシャ軍の突進は、頑健無比なトルコの愛国心によって塞き止められ、そして反対方向に弾き返されたのである

「あれを見ろ!」「やった!ついにやった!」「勝ったぞ!」「アラーよ!感謝します!」

トルコ兵たちは、逃げ行く敵の背中を指差しながら、互いに抱き合い感涙にむせんだ。

ケマルは、前線に愛馬を飛ばした。そして高台の上から、ギリシャ軍が半ばパニック状態で我さきへと無防備に逃げて行く様子を観察した。

「ここで追撃を仕掛ければ、全滅させられるところだが」

彼は、塹壕の上で踊り狂う自軍の兵士たちを見た。攻勢に使える残存兵力は3万名弱で、しかも弾薬は枯渇寸前だった。いくらなんでも、これでは無理だ。

ケマルは、追撃を断念した。

しかしトルコは、最大の脅威を雄々しく迎え撃ち、そして過酷な試練に見事に打ち勝ったのであった。

この戦いでの損耗は、ギリシャ軍が戦死1万5千名、負傷2万5千名を数えたのに対し、トルコ軍は戦死3千名、負傷1万3千名であった。トルコ軍の戦死者の少なさに、野戦病院の努力を見るべきなのだろう。

カラベキル、イスメット、レフェト、キャーズム、フェヴジら勇敢な将星たちは、その両眼を嬉し涙で真っ赤にしながら、ケマルに握手を求め抱擁した。

この勝利は、ケマル・パシャの天才的な戦略によるものであった。リスクを覚悟で敵を首都の前面まで誘き寄せ、そしてトルコ人が最も得意とする塹壕戦に持ち込んで敵の消耗を誘った。そして、敵の消耗が破断界に達したときを見計らって奇襲攻勢に出た。

孫子いわく「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」。

ケマルが無敗の名将となったのは、決して偶然ではなかった。

9月16日、アンカラに帰還したケマルを待っていたのは市民の大歓声だった。反対派の議員たちも前非を悔い、そして尊敬に満ちた輝く瞳を惜しみなく捧げた。

この日、大国民議会は満場一致の上、ケマル・パシャに「元帥(ミシェル)」と「ガージー」の称号を与えた。「ガージー」は、トルコ民族勃興当時の「民族英雄」ないし「信仰守護者」を意味するたいへん名誉な称号だ。オスマン帝国の初代オスマンと二代目オルハンも、その称号はスルタンではなくガージーだった。実に、700年ぶりに復活した歴史的な称号なのである。

「灰色の狼だ」議会を望見していた市民の一人がつぶやいた。「ガージーは、灰色の狼なんだ。きっとそうだ、そうに違いない!」

「そうか」「パシャは、灰色の狼の生まれ変わりなんだ」「神の贈り物だ」

人々は、感動の口ぶりで叫んだ。

遊牧騎馬民族には、「先祖が狼だった」という神話がある。孤高で気高い狼は、個人主義的な価値観を尊ぶ遊牧民にとって憧れの対象だったからだ。

モンゴル民族には、彼らが「青き狼」の子孫だという伝承がある。そして、民族英雄チンギス・ハーンは、「青き狼」の再来とされていた。

トルコ民族の場合、先祖が「灰色の狼」だったという伝承がある。なるほど、精悍で鋭利な風貌を持ち、瞳を銀色に光らせるケマルは、確かに「灰色狼」に良く似ているのだった。

民衆は、ケマルを救世主と見て神格化し、その威信は最高潮に高まった。

しかし、彼は軍服を脱がない。脱ぐことができない。

退却したギリシャ軍は、なおもエスキシェヒル周辺に陣地を築いて居座っていた。彼らは、アナトリア占領を未だに諦めきれないのだ。それにしても、スミルナ周辺ならともかく、ギリシャ系市民の少ないエスキシェヒルに居座るのは「民族自決」の理念に反する。ギリシャは、イギリスに毒されて「帝国主義」の野望に狂っているのだろう。

「愚か者ども、素直に祖国に引き上げれば良いものを」ガージーは、憎悪に燃えた。「一人残らず、エーゲ海に叩き落してくれる。その時に悔やんでも遅いぞ」

灰色の狼は、最終攻勢への作戦計画を練るのであった。