歴史ぱびりよん

第18章 大義に生き、夢に死す

 

サカリア川の戦いは、全てを変えた。

フランスは、ついにアンカラ政府と正式に休戦条約を交わした。

10月20日に締結された「アンカラ条約」は、フランスの「セーブル条約」からの一方的離脱を意味する。そして11月に入ると、フランスの全軍がトルコ領から撤退を開始した。このときドフイ将軍は、祖国と関係ない地で多くの若者を戦病死させたことを悔やみ、落涙しながら撤退の指揮を執ったと言われる。

イタリアは、サカリア川決戦の前にアナトリアから完全に兵力を撤退させていた。

その結果、ケマルは、南部戦線に貼り付けておいた兵力3万を、西方に対する攻勢に振り向けることが可能となったのである。

「アンカラ条約」の効果は、軍事面だけではない。トルコとの間に正式な国交を開くことになったフランスとイタリアは、今や堂々と、アンカラ政府に武器弾薬を提供したのである。しかも、代金は後払いで良いと言ってくれた。

こうして、次第にトルコの国力は増して行く。

これに対して、サカリア川で敗北したギリシャは、お家芸の内紛にさらされていた。失脚中のヴェニゼロス派の威信が回復したため、ギリシャ全土が再び政争の渦に覆われたのである。国王が母国に引き上げた後、残されたアナトリアの軍勢は5万人。しかも、この5万人は、互いに党派対立を起こして憎みあっていたのだ。

危機感にさいなまれたグーナリウス首相は、ロンドンに飛んだ。今度こそ、本当にイギリス軍の助けが必要だったからだ。

カーゾン外相とともに会議室に賓客を迎えたロイド=ジョージ首相は、満面の笑顔でこう言った。

「個人的には、私はギリシャの友人です。しかし、閣僚が批判的だから、お力になれません。どうしても駄目なのです」

「しかし、このままではセーブル条約が陶器のように壊れてしまいますぞ。ギリシャ軍だけでなく、西欧列強も力を合わせなければ、あのケマルには勝てません」ギリシャ首相は潤む目で語る。

「ギリシャは、諦めずに戦い続けるべきです」英首相は、にこやかに応えた。「事態が好転することに望みを持ちましょう。いずれ、国際的に人気のないコンスタンディノス国王が亡くなれば、きっと国際世論も再びギリシャびいきになるでしょう。今が、ギリシャの試練の時です。この試練を乗り切れば、あとは栄光が待っています」

無責任なことを言い終えると、ロイド=ジョージは懐中時計を気にしながら会議室を去った。カーゾン外相も、咳払いを一つくれてから部屋を後にした。

取り残されたグーナリウスは、しばし呆然とした。

「我が国は、見捨てられたのだ」

彼は、絨毯の上に膝から落ち、そして泣きながら笑った。

「いったい、何のための戦争だったのだろう。何のために、トルコ人をあんなに殺したのだろう。何のために、ギリシャの若者があんなに殺されたのだろう」

ヘレニズムの再興という狂気の夢が覚めた今、彼の心を埋め尽くすのは「絶望」の二文字だけだった。彼の祖国は、イギリスの操り人形として代理戦争をやらされたに過ぎなかったのだ。それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。

アナトリアのギリシャ軍5万は、トルコ軍の来襲を恐怖に震えながら待った。そして彼らは、1年間、この恐怖を抱き続けることとなる。

ケマルは、最終攻勢まで1年の準備期間を設けたからである。

 

 

サカリア川で希望を奪われたのは、ギリシャだけではない。

トルコの東部国境では、エンヴェル・パシャが祖国への帰還を断念せざるを得なかった。

「もはやアナトリアは、ケマルのものだ。俺の介在する余地はない」

寂しげにつぶやいた彼は、バツーミを出てバクーに入った。ここから、カスピ海越しに中央アジアに入ろうというのである。

エンヴェルのこの行動の背景には、ソ連の思惑もあった。アンカラ政府から、「エンヴェルをトルコ国境から遠ざけてほしい」との要請を受けていたソ連は、今やサカリア川で絶大な威信を獲得したケマルの歓心を買おうと考え、政治委員オルジョニキゼを介して、エンヴェルに中央アジア行きを吹き込んだのである。ソ連首脳部には、「カリフの妹婿」であるエンヴェルを中央アジアの赤軍司令官に任命すれば、ソ連に対して反抗的な中央アジアのイスラム諸部族が従順になるだろうとの計算もあったのだ。

実は、エンヴェル自身、アナトリア入りが失敗に終わったら中央アジアに渡ろうという計画を持っていた。何しろ中央アジアはトルコ民族発祥の地だから、彼の「汎トルコ」思想にとって欠かせない聖地なのだ。

しかし、叔父ハリルは反対した。彼は、エンヴェルの理想の追求が、いずれ「反ソ連」の形を取り、それが自分たちトルコ人亡命者たちの利益を損なうことを恐れたのである。

「エンヴェルよ、考え直せ。トルキスタンの状況は、流動的で不透明だ」

「だからこそ行きたいのだ」

「妻子はどうするんだ。もう会えなくなっても良いのか」

エンヴェルは、この言葉を前に沈思した。愛妻家の彼は、家族のことを一瞬たりとも忘れたことがない。

彼の妻は、オスマン帝国の内親王ナジエである。最近、太り気味だが、気品に溢れたすこぶる付きの美女だ。二人の可愛い娘もいる。

この妻子は、敗戦後に夫がベルリンに亡命した後も、イスタンブールに留まった。内親王一家だから、祖国に残ったほうが安全で快適だと思われたからである。しかし、占領軍の横暴は激しく、ナジエと2人の娘はデスペレイ将軍に住処を奪われ、縁者を頼って市街を放浪する羽目に陥った。これを見かねた縁者が、カラコルを使って妻子を海外に亡命させたのが1919年末。彼らがイタリア経由でベルリンに到着したとき、エンヴェルはモスクワにいた。彼はベルリン在住の弟キャーミルに家族の世話を頼み、後ろ髪を引かれながら闇金融や武器密輸の仕事に邁進したのだった。

エンヴェルが妻子に再会できたのは、1920年の秋である。ベルリンに帰ってきた彼は、愛する家族との2年ぶりの交歓に心を暖めたのだった。しかし、再びモスクワに発った彼は、やがてアナトリア侵入を試みてバツーミに入った。そして、今にいたる。

風の便りでは、ナジエは懐妊したという。今度こそ、男の子が生まれるだろう。

家族のことを想うと、エンヴェルの心は張り裂けるように痛む。しかし、家族のためにも人生の理想を捨てることは許されない。エンヴェルは、そのように考える男だった。

「俺の事業が成功すれば、家族にも再び会えるだろう」エンヴェルは、長い沈黙の後で叔父に言った。「俺の運命は、ガージー(信仰守護者)となるか殉教者となるか、もはやどちらかしかない」

甥の固い決意を前に、ハリルは沈黙せざるを得なかった。

1921年9月末、エンヴェルはハジ・サミと砲兵大尉ムヒッディンという2人の同志とともにカスピ海を東に越えた。クラスノヴォツクの港から鉄道に乗り換え、ペルシャとの国境沿いに不毛な高原地帯を抜けて、ウズベキスタンのブハラの街に入る。

華麗なモスクが540も立ち並ぶブハラは、華麗な城壁に囲まれ、イスラム文化に満ちた深みのある美しい街だった。

当初の予定では、この街で、アフガニスタンでの軍務を終えてモスクワに戻る途中のジェマルと落ち合う予定だったのだが、なぜか行き違いになって会えなかった。実はジェマルは、このころからしきりにアンカラのケマルに接近を図っており、むしろエンヴェルを避けていたのであった。エンヴェルは、そのことを知らない。

エンヴェルの心の中に、社会主義に対する敵意がいつ生まれたのかは定かではない。少なくとも、ケマルを打倒してアナトリア入りを策している時は、政略的要素が多分にあるとしても、かなり熱心な社会主義シンパであった。ハリルとともに、バツーミで「人民ソビエト党」を立ち上げたほどである。ケマル一派に取って代わるべきこの党の威信は、サカリア川で粉砕されてしまったのだが。

おそらく、エンヴェルの心を動かしたのはトガンとの出会いであろう。

1921年10月上旬、エンヴェルはブハラの街で「汎イスラム」の闘士トガンと会見し、彼の口から中央アジアで繰り広げられるソ連の「侵略」の実態を知った。表向きは「民族自決」や「信仰の自由」を唱えながら、裏で強制的に「ソビエト」を設けて人々を隷属させるというソ連の体質を知ってしまったのだ。

バシキール人のゼキ・ヴェリディ・トガンは、もともと赤軍の名将だったのだが、この嫌悪すべき実態を知ってソ連から離反した人物である。彼は、ソ連のお尋ね者になりながら、トルキスタン各地のゲリラを糾合して、ソ連の勢力を中央アジアから追い出してやろうと策していたのであった。

エンヴェルは、敬虔なイスラム教徒であり高名な学者でもあるトガンを敬愛した。そして、彼とともにソ連と戦う決意をしたのである。

二人は、ブハラに置かれたアフガニスタン大使館で密談を重ねた。

エンヴェルは、ブハラ汗国のバスマチ(山岳ゲリラ)を結集し軍事化するというプランを考案した。しかし、トガンはこれには懐疑的だった。彼は、ブハラ汗国の政治事情は非常に複雑なので、むしろアフガニスタンに移ってアマヌッラー国王の助けを借りたほうが良いと主張したのである。

エンヴェルは大いに迷ったが、常に自分がリーダーでなければ気がすまない彼の性質は、アフガニスタン国王に頭を下げる立場に身を置くことに我慢できなかった。そこで、トガンの反対を押し切ってブハラ汗国で活動することにしたのである。

1921年11月8日、ソ連の監視者たちに「カモシカ狩りに行って来る」と告げたエンヴェルは、ハジ・サミとムヒッディンを連れて猟銃を片手に馬にまたがり街を出た。

そして、二度と戻らなかった。

 

 

中央アジアの政治情勢は、非常に複雑だった。

トルクメニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギスという呼称は、ヨーロッパやロシアが与えた呼称である。

見渡す限りの草原や砂漠が広がるこの地では、サマルカンドやタシュケントやブハラといったシルクロード都市に集う商人が特産品の宝石の商いに励むかたわらで、街の郊外では遊牧騎馬部族が馬乳酒(クミズ)を酌み交わしてお祭りをした。

そんな彼らには、国とか民族とか国境という概念は乏しかった。おおむねトルコ語を話すイスラム教徒であればそれで良かった。しかし、西欧列強やロシアや中国が、勝手に線引きをした残りの土地が、彼らの「国」ということにされたのである。

やがて18世紀以降、帝政ロシアの侵略の波がこの地を襲った。トルキスタンでは、「ブハラ汗国」と「ヒヴァ汗国」以外は全てロシアに滅ぼされた。残った2国も、実質的にはロシアの傀儡政権であった。

1917年のロシア革命の混乱に乗じて、ブハラ汗国は独立宣言を行った。しかし、国王アーリム・ハーンは暴君だった。民衆から膨大な税を取り立て、自身は大勢の美少年をハレムに侍らせて荒淫にふけり民心を失った。

1920年8月、ソ連赤軍は、この情勢に付け込んで反撃を開始。アーリム・ハーンは、美少年たちを大型馬車から道にばら撒きながらアフガニスタンに亡命し、ブハラに「ソビエト」が誕生したのである。しかし、「革命は成功した」と口々に言うロシア人たちが行ったのは、アーリム以上に過酷な収奪だった。また、ソ連の出鱈目な計画経済は、それまで豊かだったブハラの農村を荒廃させ商業を衰退させたのである。

当然ながら、ブハラのソビエト政権は多くの反抗分子を抱える不安定なものとなった。山岳地帯では、バスマチと呼ばれるゲリラが数を増やし、いつしか総勢2万と言われた。

ソ連は、彼らを沈静化させるため、イスラム教徒の間で人気が高いエンヴェルをブハラに招いたのである。

ところが、エンヴェルは山岳地帯に分け入った。自らがバスマチになったのだ。

ソ連の目論みは、完全に裏目に出たのだった。

 

 

ソ連は、エンヴェルの裏切りを知ると、国内の亡命トルコ人たちに即時の国外退去を命じた。そして、直ちに討伐軍の編成を開始した。

しかしこの当時、ソ連とポーランドの戦争はまだ続いていたので、ソ連は近代装備の主力部隊をヨーロッパ戦線から転用することが出来なかったのである。ここに、エンヴェルの付け目があった。

タジキスタンの山中に分け入ったエンヴェルは、自ら「大トルコ革命軍司令官にして中心中の中心の議長」という肩書きを名乗り、そして全世界に向けて反ソ連闘争を呼びかけたのである。ただし、この時点で彼に従う兵士はわずか30名である。

エンヴェルを慕うかつての「青年トルコ党」員や亡命トルコ人たちは、自弁で武装を整え、そして続々とタジキスタンに向けて出発した。

その間、エンヴェルは各地のバスマチの頭領たちの間を渡り歩き、彼らを大同団結させようと図った。まさに「汎トルコ」のための活動である。タシュケントに移ったトガンも精力的に動き、アフガニスタン国王の援助を取り付けることに成功した。

前途洋々に思えた瞬間。

ここで椿事が起きた。総大将エンヴェルが幽閉されてしまったのである。

バスマチの一群であるロカイ族の頭領イブラヒム・べクは、亡命した前国王アーリム・ハーンの心酔者だった。そしてアーリムは、エンヴェルの活動によってブハラ汗国での既得権益が奪われることを病的に恐れていたので、イブラヒムに命じてエンヴェルを幽閉させたのであった。

山中の砦に軟禁されたエンヴェルと仲間たちは、武器や金品を全て奪われ途方に暮れた。

ロカイ族のバスマチは、実は反ソ闘争にも「汎トルコ」にもまったく興味を持たない無頼漢の群れだった。彼らは、戦場周辺をウロウロし、略奪行為に勤しむのが関の山の連中だった。そんな者たちを頼って、のこのこと捕まりに行った己の愚かさをエンヴェルは悔やんだ。

軟禁生活は3ヶ月も続いた。その間、エンヴェルは、「トルコ民族」が一枚岩ではないことを痛切に思い知った。ロカイ族は、確かにトルコ語を話すトルコ民族なのだが、実に汚い方言を用い、極めて粗野な礼拝をする。鼻水でガビガビになった袖口にしきりに接吻しながら、「アーミェン、アーミェン!」と叫び続けるのである。彼らは、エンヴェルから身包み剥いでおきながら、「おらが尊敬する大将さまん」と呼んで馴れ馴れしくするのであった。

危険を感じたエンヴェルは、大切にしていた妻子の写真を焼き捨てた。イスラム教は、もともと偶像や写真を否定する。人間の模造品を作ることは、アラーに対する重大な冒涜だからである。もっとも、オスマン帝国などの都市部では、そのような古い考えはとっくに廃れていたのだが、タジキスタンの山中ではどうなるか分からない。暗闇の中で妻子の写真に別れを告げながら、英雄はすすり泣いた。

「汎トルコ」の理想は、甘いものではなかったのである。

 

 

エンヴェルを軟禁から救ったのは、アフガニスタン国王アマヌッラーからの外圧であった。

精悍な国王は、国境を北に接する中央アジア情勢を注意深く見つめていた。第3次アフガン戦争(1919年)でイギリスを打ち破り祖国の独立を達成した傑物は、可能ならばタジキスタンを併合し、あるいは衛星国にしたいと願っていた。そんな彼にとって、ソ連の存在は邪魔でしかない。まさにその点で、ソ連との戦いを決意したエンヴェルとの利害は一致する。

外圧を受けたイブラヒムが、少しずつ虜囚に対する待遇を改善させていた最中の1921年12月10日、ブハラで一斉蜂起が開始された。ブハラ共和国中央執行委員会議長オスマン・ホジェエフと東ブハラ行動軍司令官アリ・ルザ率いる反乱軍は、ソ連赤軍を一掃してブハラ市を占拠したのであった。しかし、反乱軍は一枚岩ではなかった。政府内にはソ連シンパも多かったため、ソ連軍の反撃によってブハラはあっという間に奪還され、オスマンらはやむなくエンヴェルに合流すべく山岳地帯に逃れたのである。

その間、タシュケント近郊で、トガンがゲリラを率いて立ち上がった。彼は、中央アジアを社会主義から救い出すのは今しかないと思い切ったのである。

この情勢を前に、イブラヒム・べクが、しぶしぶエンヴェルに所持品を返還し、虜囚の身分から解放したのが1922年2月下旬。

いよいよ、事態は風雲急を告げる。

自由になったエンヴェルは、ようやくその本領を発揮した。崩れかけた反乱軍を立て直すと、アフガニスタンからやって来た援軍も交えて一斉に総攻撃を行ったのである。バスマチを糾合した彼の軍勢は、2万人を遥かに超えると思われていた。そして、「カリフの妹婿」でありオスマン帝国の宰相でもあったエンヴェルの声望は高く、イスラム教を奉じる反乱軍の士気は大いに高まったのである。

これに対するブハラ駐留のソ連軍数千は、訓練不足で資質が低く、しかも折からの疫病の流行によって著しく弱体化していた。

勢いに乗るエンヴェルは、3月初旬に連戦連勝の末にタジキスタンの首都ドウシャンベを占領。さらにはウズベキスタンの要衝バイスンに襲い掛かった。

しかし、この戦場でエンヴェルが近代戦の戦力として頼りに出来たのは、実際にはアナトリア出身のトルコ人から成る一個大隊200名だけだった。イブラヒムは、ロカイ族の騎馬隊を引き連れてエンヴェルに付いてきたが、戦場に出ないで周辺の民衆から略奪を働くだけである。

総勢2万と言われた「大トルコ革命軍」は、実際には烏合の衆だったのである。

バイスン攻防戦の最中、ソ連軍の指揮官はエンヴェルに私信を放った。

「どうして、オスマントルコ人の貴君が中央アジアで戦うのです。祖国に帰って祖国を守るべきではありませんか?」

エンヴェルは、返事を書いた。

「我が祖国の守りは、信頼すべき同志たちがしっかりと行っているから心配はいらない。本当の祖国は、トルコ民族の聖地トルキスタンに他ならない。だから、俺はこの地で戦うのだ」

エンヴェルは、ケマルのことを憎みながらも、『信頼すべき同志』だと考えていたのである。

良いときには良いことが重なるもの。ベルリンからの頼りは、エンヴェルが男の子の父になったことを知らせていた。

「でかしたぞ、ナジエ!」英雄は、手紙にキスをした。

この時期のエンヴェルの声望は、まさに中央アジアを覆い尽くさんばかりだった。インドの高名な独立運動家バラカトゥッラーは、エンヴェルを「太陽のような偉人」と褒めちぎり、「彼の能力ならインドも解放できる」と断言している。

この情勢に窮したモスクワは、エンヴェルに休戦を求めた。彼が望むなら、アフガニスタンとの国境沿いに王国を築かせてあげるとの提案であった。

エンヴェルは激怒した。

「俺は、私利私欲のために戦っているのではない。俺の望みは、アジアのトルコ民族の解放だ!ロシア人は、一人残らず中央アジア全土から出て行け!その日が来るまで、俺は戦いを止めないぞ!」

1922年5月、モスクワではレーニンが重病に陥っていた。そのため、ソビエト委員会の書記長であったスターリンが政権を掌握しつつあった。スターリン書記長は、エンヴェルからの和平拒絶を前にして、苦渋に満ちた表情で宣言したのである。

「エンヴェル・パシャを、東方人民の敵と見なす!」

ようやくポーランドとの戦争を終えて東部に転用された精鋭10万は、名将カーメネフに率いられ、トロツキーが手配した騎兵師団も加え、凄絶な威容を見せ始めた。

また、ソ連は巧妙にアフガニスタンに外交的恫喝を加えた。エンヴェルとアマヌッラー王の仲を裂くための離間策である。

「ソ連は、いよいよ本気だ」アマヌッラーは眉間に絶望を浮かべた。「ソ連の正規軍が相手では分が悪い。エンヴェルにこちらに亡命するよう伝えよう」

そして国王は、タジキスタンに派遣していた援軍を無情にも引き上げさせたのである。

タシュケントで奮戦するトガンも、事態を悲観的に考え、アフガン亡命を盟友に勧めた。しかし、エンヴェルは首を縦に振らなかった。

そして1922年6月、中央アジア全土でソ連の反撃が開始された。

ソ連はエンヴェルの実力を過大に見積もっていたが、それはエンヴェルの巧みな宣伝工作によるもので、その実態はお寒い限りであった。総勢2万と言われるバスマチは、部族ごとに分散しているのみならず、ロカイ族のイブラヒムのように資質が低い者が多く、銃の持ち方も知らない彼らは、近代戦の戦場ではほとんど役に立たなかったのだ。

それでも、ブハラ政府の反乱軍とエンヴェルの私兵は優秀だったのだが、何しろ数が足りなかった。亡命トルコ人部隊は、全部で200名足らずでしかない。しかも彼らは、味方であるはずのバスマチから、しばしば気まぐれに略奪を受けたり殺傷されたりした。これでは士気も上がらない。

ソ連正規軍の猛攻を前に、エンヴェルの抵抗は瞬く間に瓦解した。彼の軍勢はバイスンから追い払われ、ドウシャンベも奪回された。

オスマン・ホジャエフらブハラ政府の反乱者たちは、尻に帆かけてアフガニスタンに逃げ込んだ。エンヴェルの側近ハジ・サミも、アフガニスタンに援軍を求めに行くという口実で、やはり逃走した。

イブラヒムは必死に逃げ回ったが、ついに赤軍に補足され、2000名の部下の大半を失って身一つで山奥に姿をくらました。

タシュケント戦線のトガンは、山岳地帯でソ連の大軍を大いに苦しめたのだが、武器弾薬が底をついたため部隊を解散させて野に下った。彼はエンヴェルに合流しようと試みたのだが果たせず、やがて学者に転身する。その後、ケマルに招かれてイスタンブール大学の教授になるのだから、人の縁というのは不思議なものである。

その間、総大将エンヴェルは、仲間たちとともに東へ東へと逃げた。

それでも彼は、要所に待ち伏せし、しばしば塹壕戦術でソ連を打ち破ろうと試みた。しかし、兵士の質があまりにも低すぎた。塹壕戦は、忍耐力と団結心が不可欠だ。敵が来るまで、じっと穴の中で緊張感を保たなければならない。しかし、バスマチたちは目的意識も克己心も持ち合わせていなかったから、塹壕の中にいることに飽きてすぐに外に飛び出してしまうのである。この様子を見るたびに、エンヴェルは抗戦を諦め、ひたすら逃走に移るしかなかったのだ。

「アナトリアのトルコ人は、塹壕戦が得意中の得意なのにな」エンヴェルは、寂しげにつぶやいた。

彼の苦難の旅路は、「汎トルコ」の夢が色褪せる過程でもあった。中央アジアのトルコ人は、エンヴェルが知るトルコ人とはまったく異質だったのだ。彼は、馬乳酒を酌み交わし艶笑歌を歌うバスマチたちの文化に最後まで馴染むことが出来なかった。これなら、まだ異教徒であり異人種であるドイツ人やロシア人のほうが分かり合える。

・・・「汎トルコ」という観念そのものが、夢想に過ぎなかったのだろうか。

エンヴェルは、テッサロニカでライバルと交わした議論の日々を懐かしく思い起こした。

かつて、ケマルは主張した。最初にトルコ国家の「固有の領土」を画定した上で、その中に住む民衆を言語宗教人種に関係なく等しく「トルコ人」と認定するべきだと。エンヴェルは、そんなケマルの考えを、官僚的だと嘲り、笑い飛ばしたものだったが。

「人種と民族は、実に曖昧な観念だ。そして、ケマルの言うことは、一片の夢も無い官僚的思想だ。だが、あれは現実的で正しい物の見方だった」

あのケマルなら、きっと祖国に正しい道を歩ませてくれるだろう。逆境のエンヴェルは、そう考えると不思議に満足だった。

彼の前にはピャンジ川(アム川とも)が広がる。ここを南に越えればアフガニスタンだ。しかし、彼は亡命の道を選ばなかった。

「アマヌッラーは、俺を歓迎しないだろうな」エンヴェルはつぶやいた。

あまりにもタジキスタンで勢威を示しすぎたため、猜疑心の強いアフガニスタン国王は、エンヴェルのカリスマ性に警戒心を抱いていたのである。

エンヴェルは、馬首を東北に向けた。最後に、山岳ゲリラ戦でソ連を苦しめようと考えたのだ。

 

 

男の価値は、逆境の中で本当の光を放つ。

エンヴェルの人間的魅力は、ますます輝いた。

敗走中、ある村で砂金採取に勤しむ女子供を見かけたエンヴェルは、暮らし向きなどを優しく尋ね、そしてソ連の役人の搾取の実態を聞いて大いに憤った。また、部下の一人が見よう見まねで砂金を採ろうとすると、「良民の生活の邪魔をするな!」と叱正した。彼は敗残の身となっても、政治家としての自分を見失わなかったのである。

彼は、家族への手紙を丹念に書き続けた。紙が手に入らないときは、新聞やビラの上に小さな文字で重ね書きをした。そして、決して子供たちへの贈り物を忘れなかった。野山で起き伏しするときも、草や花を器用に編んで玩具を作り、これを手紙に同封してベルリンに送った。子煩悩な彼は、6歳の長女マフペイケルをアフガニスタンの王子に嫁がせるという夢に浸ったりもした。

エンヴェルに出会った人は皆、彼の高潔な人柄に胸を打たれたという。彼は、コーランを常に肌身離さず持ち歩き、高貴な教えをいつでも実践しようとした。一日5度の礼拝を決して欠かさず、戒律は全て墨守した。まさに、イスラム教徒の模範と言える人物なのだった。

その英雄は、今や泥まみれになって山野に起居していた。

彼は、弟キャーミルに遺言を書いた。兄にもしものことがあったら、お前がナジエを娶って我が家の祭祀を絶やさぬようにしておくれ。子供たちのことを、どうかよろしく頼む。

そして、今や150名足らずになった部下たちに言った。

「ここからは各自の自由とする。戦いたいものは戦い、逃げたいものは逃げるが良い」

これを聞いて、砲兵大尉ムヒッディンは薄情にもアフガニスタンに逃げた。その他大勢も逃げた。エンヴェルの手元に残った部下は、わずかに30名だった。

「身軽になって良い」自嘲気味に笑った彼は、最後の部下たちとともにアビデルヤ村に立ち寄った。1922年8月3日のことである。ブドウがおいしい季節だった。

ちょうど、クルバン・バイラム(犠牲祭)の日だったので、村人は総出で歓迎してくれた。久しぶりのご馳走に舌鼓を打ち、ブドウの甘さを楽しんだ一行は、軽口を言い合った。

「来年のバイラムは、ブハラで迎えような」

このとき、どういうルートを辿ったのか不明だが、愛妻からの手紙がエンヴェルの元に届けられた。涙にむせんだエンヴェルは、手元に残された小さな紙片に向かって、細かい文字で愛情に溢れる返信を書き連ねた。

ソ連の騎兵2個連隊が急襲を仕掛けたのは、ちょうどそのときであった。

時に、1922年8月4日未明。

 

 

ソ連軍は、奇襲を仕掛けたつもりだったのだが、エンヴェルの反応は素早かった。

無数の軍馬の嘶きを即座に聞きつけた彼は、栗毛の愛馬ダルビッシュに飛び乗ると、サーベルを振りながら敵に突貫した。30名の忠実な部下たちも、負けじとこれに続く。

予期せぬ反撃を前に、ソ連軍の隊列は乱れた。わずか30騎の精鋭は、ソ連の第15騎兵連隊と第16騎兵連隊を大混乱に陥れたのだ。

しかし、ソ連軍は機関銃を持っていた。ようやく設置された機関銃座は、縦横無尽に走り回る騎兵隊に狙いを定める。これに気づいたエンヴェルは、サーベルを振りかざしてこれに飛び掛った。

その次の瞬間。

斉射が空気を切り裂き、5つの銃弾が英雄の体を引き裂いた。もんどり打って落馬した主の隣に、愛馬ダルビッシュも悲しげな嘶きとともに身を横たえた。

白み行く朝空の下、30騎の死体が草原を覆った。

剣呑な戦場から引き上げたソ連軍は、エンヴェルを討ち取ったことになかなか気づかなかった。死体から採り上げた遺留品を後になって点検し、その中にナジエ宛ての手紙があったことから、ようやく真相に気づいたのである。

その間、エンヴェルたちの死体は村人たちによって埋葬されていた。人々は、ともにバイラム祭を祝った偉人の体を清め、近在から集まってきた数千の民衆が見守る中で、村の泉のほとりにある胡桃の木の下に丁重に埋めたのであった。

人々はエンヴェルの名を口々に唱え、そして慟哭した。

やがて、「英雄伝説」が生まれた。エンヴェルの死後、各地で彼の復活の噂が消えることがなかった。

「エンヴェル・パシャが、インドに現れた」

「エンヴェル・パシャが、再びトルキスタンで立ち上がった」

「エンヴェル・パシャが、イスタンブールで演説を行った」

今や、ソ連に完全に占領され、社会主義者たちに頤使されるイスラム教徒の苦衷が、彼らのために勇敢に戦い散ったエンヴェルへの想いとなったのだろうか。

中央アジアの草原を吹く風は、今日でも大義に生き夢に散ったエンヴェルの想い出を奏で続けている。

 

 

エンヴェルの死に先立つ7月21日、グルジアの首都トビリシ市で、ジェマル・パシャがアルメニア人の暗殺者に殺害された。ジェマルは、ケマルと和解して祖国に帰る途中であった。

ここに、「青年トルコ党」の三巨頭は、この世から姿を消し去ったのである。

アンカラのケマルは、二人の政敵の死を複雑な想いで受け止めた。

ケマル・パシャは、過酷な独裁者という印象を持たれがちだが、過酷なのは思想や宗教といった政策面に対してであり、「人間」に対しては温情的な人物であった。そんな彼は、人間としてのエンヴェルやジェマルを決して嫌ってはいなかった。

ジェマル暗殺の報に接したケマルは、当初はこれをソ連の仕業だと考えて厳重に抗議したほどである。彼は、ジェマルの能力には懐疑的だったが、その人間性は嫌いではなかった。だからこそ、彼を新生トルコに迎え入れようとしたのである。

エンヴェルに対する感情は、もう少し複雑であった。

ケマルは、後にイギリスの作家バーナード・ショーにエンヴェルの印象を聞かれたとき、「彼は夢想家だった」と静かに評している。

「俺とエンヴェルは、写真のポジとネガのような関係だった」ケマルは考える。「皮肉なことだが、『青年トルコ党』でのエンヴェルの活躍が俺を日陰に追いやり、そのことが俺をガリポリ戦の英雄にした。敗戦後、彼が亡命したことで俺の声望が高まった。その後、彼が祖国復帰の野心を燃やしたことから、ソ連とトルコの友誼が深まった。彼がトルキスタンで暴れて列強の目を釘付けにしてくれたから、我が軍備増強が容易になったのだ。そして、彼は雄々しく夢のために散った」

ケマルは、ラク酒のグラスを静かに掲げた。

「ありがとう、エンヴェル。祖国は、君のお陰で生き延びることが出来たんだよ」

今や10万に増強されたトルコ軍は、軍需の天才フェヴジ国防相の指導の下、ソ連、フランス、そしてイタリア製の最新兵器を身につけ、高度な訓練を積んだ精鋭に生まれ変わっていたのである。

ところで、ケマルの独裁権は3ヶ月の期限付きだったはずだが、期限経過後もなし崩し的に続いていた。それは、ケマルのガージーとしての声望の高さに加えて、ギリシャ軍が未だにアナトリア西部全域に居座っていたからである。軍事に自信のない議員たちは、ガージーの「非常大権」の継続が必要だと考えたのだ。

そんな議員たちは、ギリシャに対する即時の反攻を独裁官に要求し続けた。

しかし、ケマルは常にこう言って嗜めた。

「中途半端な攻撃は、仕掛けないより、なお悪い」

 慎重なガージーの準備期間は、サカリア川決戦から1年余も続いたのである。