歴史ぱびりよん

第19章 スミルナの埠頭にて

 

サカリア川の戦いの結果を見たイギリス政府は、表ではギリシャに戦争継続を焚きつけておきながら、裏で密かにアンカラ政府と交渉を行うようになっていた。

その当面の目的は、人質交換である。イギリス政府は、彼らがマルタ島に収監しているトルコ人議員たちと、アンカラで虜囚となっているイギリス人鉄道弁務官や将校を交換したいと言い出したのである。もちろん、これは将来の外交のための布石作りでもある。老獪な彼らは、密かにギリシャを見捨て始めたのであった。

ケマルも、人質交換には異存が無かった。

こうして1921年10月、マルタ島に捕まっていたヒュセイン・ラウフ議員やカラ・ヴァースフ議員やミトハト議員、そしてケマルの親友フェトヒ少将らがアンカラに帰って来たのである。

彼らは、ここ2年の間に祖国が大きく変わったことを知った。今や皇帝政府の権威は見る影も無く衰え、アンカラから昇るケマル・パシャは旭日昇天の太陽だった。

「もう、馴れ馴れしい口は利けないな。総司令官どの」牢獄生活でやつれ果てたフェトヒは、寂しげに笑った。

「フェトヒ、俺と君の間にそんな遠慮は無用だよ」

ケマルは、さっそく親友に臨時議席を与え、国会議長に任命したのである。

また、大物ヒュセイン・ラウフを、いよいよ大国民議会政府の首相に任命した。もはや、売国奴のスルタンカリフに気を遣う必要もないからである。

一方、カラ・ヴァースフは、いつのまにかカラコルが消滅し、しかも彼が頼りにしていた亡命三巨頭が永遠に去ったことを知って意気消沈した。そんな彼は、当然ながらケマルから優遇されなかったため、暗い怒りを胸に抱いたのである。

ともあれ、人質交換がうまくいったので、協商国とギリシャは、ケマルに「休戦」を打診して来た。その条件は、「現状維持」だという。

「つまり、ギリシャの侵略軍を、アナトリア西部とトラキアに置きっぱなしにさせてくれと言うことか」ケマルは哄笑し、それから激怒した。「我が国をバカにするのも、いい加減にしろ!『国民誓約』が認められるまで、休戦は絶対に有り得ないぞ!」

休戦提案は、当然ながら、けんもほろろに却下されたのであった。

恐怖したギリシャは、トラキアの軍隊をアナトリア北部に輸送しようと考えた。そのためには、マルマラ海を越えなければならない。しかし、イギリスの態度は奇妙であった。彼らは、占領下の「海峡地域」(ダーダネルスとボスポラス両海峡の周辺一帯)の通過を断固として拒否したのである。このため、トラキア地方のギリシャ軍3万は、同盟者であるはずのイギリス軍の壁に阻まれ、対トルコ戦に参加できないままヨーロッパに取り残される死兵となってしまったのだ。

イギリスとギリシャの仲に、いつしか隙間風が吹き始めていた。

「イギリスは、いったいどういうつもりなのだ」アナトリア方面軍最高司令官ハジアネスティス将軍は、次第に高まる孤立感に神経をさいなまれていた。「いや、イギリスよりも本国だ。どうして援兵どころか補給物資も届かないのだ!」

彼は、ギリシャ本国が深刻な政争の嵐にさらされ、軍首脳部のクビが毎日のように挿げ替えられている現状と、それに伴って腐敗しきった将校たちが、軍需物資を外国に横流しして汚職に走っている状況を認めたくなかったのである。

しかし、現実は非情である。前線の兵士たちには、武器弾薬も食料も届かなかった。給料だって、しばしば何週間も未払いになるのだった。これでは、士気を維持せよと言うほうが無理である。

1922年の初夏、もともと情緒不安定だったハジアネスティス将軍は、ついに精神病に冒された。「わしはもう死んでいる、ここにいるのは死体じゃわ」とか「わしは薄い薄いガラス細工なのじゃ。触れたら壊れるぞよー」などと会議の席で言い出す司令官は、もはや有害無益である。

8月初旬、彼はトロクピス将軍に交替させられた。

しかし、現地事情をまったく知らなかった新任司令官は、味方の物資の乏しさと士気の低さを前に、ただ困惑するのみである。

ギリシャ軍の戦線は、エスキシェヒルからアフヨンに至る南北200キロに伸び切っていた。この長大な戦線を、わずか5万人が守るのである。あちこちに前哨戦と陣地を設けてはいるが、個々の拠点に貼り付ける兵力はどうしても手薄にならざるを得ない。

「なあに大丈夫さ」トロクピスは、自分に言い聞かせた。「貧乏なトルコには、大規模な反撃に出られる力なんて無いはずだ」

しかし、彼の考えは完全に間違っていた。

1922年8月26日午前零時、トルコ軍の総攻撃が開始されたのである。

 

 

トルコ軍10万の突貫は、完全な奇襲となった。

200キロの戦線に散らばる5万人のギリシャ人は、各地で紙のように突き破られた。ドムルプナル高地の防衛で見せた最後の意地も、イスメット軍の突撃に一蹴された。

後は、敗走するのみである。

総司令官ケマルは叫んだ。

「前進!目標、地中海!」

トルコ軍は、この戦いでいわゆる「浸透戦術」を用いた。これは、先の大戦末期にドイツ軍が発明した戦術である。敵陣を突破したら、快速部隊をその隙間からどんどん送り出し、敵の背後を切り取ってしまうのだ。20年後にナチスドイツ軍が得意とした「電撃戦」は、いわばこの「浸透戦術」の発展改良版である。

敵陣の隙間から西方に躍り出たトルコの騎兵部隊は、駆けに駆けた。敵の戦車を起動前に破壊し、敵の飛行機は駐機中に爆破した。

疾駆するトルコの騎兵に追い抜かれて退路を絶たれたギリシャの敗残軍は、たちまち戦意を喪失して降伏した。総司令官トロクピス将軍もディオニス参謀長も、あえなく捕虜となってしまったのである。

ギリシャ本国は異常事態に愕然とし、そしてトロクピスの後任を選ぼうとしたのだが、めぼしい将星がすべて捕虜となったことを知り、打つ手を無くして匙を投げた。

包囲網を逃れたギリシャ軍は、わずか1万名。彼らは、もはや部隊ごとに纏まってはいなかった。生存本能の赴くままに西へ西へと走るだけ。そして、トルコ軍の追撃を少しでも遅らせようとして、退路に位置するすべてを破壊した。

追走するトルコ軍は見た。農地が焼かれ井戸が破壊され家畜の骸が山となる郷土の姿を。村々は惨殺死体で埋め尽くされていた。男は絞首された後に柱に吊るされ、女は強姦され軒に磔にされていた。子供たちは、生きたまま戸口に釘で手足を打ち付けられていた。

「ちくしょう!」「皆殺しにしてやる!」「一人も生かして帰さんぞ!」

同胞の無残な姿を見たトルコ軍の怒りは、すさまじいばかりに燃え上がった。騎兵隊を先頭にした彼らは、敵に追いつくとこれを容赦なく殺戮した。ある砲兵部隊は、廃村に立てこもったギリシャ人が一人残らずミンチ肉になるまで砲撃を止めなかった。

9月5日、スミルナのギリシャ人たちは、アナトリアから戻ってくるはずの味方部隊を待って東の空を望んでいた。しかし、市民は驚愕と恐怖に見舞われた。彼らの前に最初に姿を現した軍隊は、ヌルディン将軍旗下のトルコ騎兵隊だったのだ。それを見たギリシャのスミルナ防衛隊は、恐れをなしてチャシメ港に走り、そこから船に乗って命からがら本国に逃げ出す始末。

取り残されたギリシャ市民は、呆然とした。

彼らは、母国の軍隊から見捨てられたのだった。

いや、母国だけではない。彼らは、すでにイギリスからも見捨てられていた。スミルナの沖に浮かぶイギリス海軍の軍艦は、その砲門に蓋をしたまま動かなかったのである。

トルコの騎兵隊は、スミルナの入り口に陣地を築き、遅れて市街にやってきたギリシャの敗残兵を待ち伏せして容赦なく射殺したため、街の入り口は死体の山で埋め尽くされた。

やがて9月9日、トルコの主力部隊が到着し、スミルナ市街を完全に制圧したのである。

これまで恐怖に脅えていたトルコ系市民たちは、感動の涙を流しながら解放軍を出迎えた。彼らは友軍兵士の足元にしがみつき、「ありがとう」を連呼しながらしきりに泥まみれの軍靴に口付けをするのだった。兵士たちも、感動のあまり落涙し、市民たちと抱き合った。

民衆だけでなく、彼らを解放したトルコ軍にとっても、まったく信じられないような奇跡が起きたのである。

アナトリア西部のギリシャ軍は、わずか2週間の戦いで全滅したのだった。

 

 

後知恵ではあるが、筆者はギリシャのために本当に残念に思うのだ。

なぜ、ギリシャ軍はエスキシェヒルに陣を敷いたのだろうか。なぜ、200キロもの長大な戦線を維持しようと考えたのだろうか。

補給物資が乏しく兵員が足りないのなら、1年前のケマルの作戦を見習って、スミルナ前面まで全軍を退去させ、そこに防御陣地を築くべきだった。なぜなら、彼らが本当に守るべきなのは、ギリシャ系市民が多く住むスミルナだったからだ。そして、彼らがここまで退けば、本国からの補給も容易だし、ギリシャ系市民からの物心両面の支援も得られたはず。そして、彼らが軍民心を合わせて防衛に注力したならば、さすがのケマルも攻め倦んだだろう。その結果、持久戦になれば西欧列強が介入し、ギリシャにとって比較的有利な条件で和平が成立したかもしれないのだ。少なくとも、これから述べられる悲劇だけは免れただろう。

どうしてギリシャは、1年前のケマルのように出来なかったのだろうか。

それは、民衆を思う心の欠如である。

彼らは、ヘレニズムの再興とかビザンチン帝国の復興という「夢想」に取り憑かれ、本当に大切なものを見失ってしまったのだ。軍隊の本当の役目が、か弱い国民の保護であることを忘れてしまったのだ。だからこそ、ギリシャ人が住まない不毛の荒野に無意味な薄い陣を敷き、補給切れになったところを一気に突き崩されてしまった。その結果、本当に守るべき大切な民衆の命を、復讐に燃える敵の前に進呈してしまったのだ。

しかし、我々日本人には、ギリシャの惨めさを笑うことは出来ない。太平洋戦争末期の日本軍の有り方は、このときのギリシャ軍にそっくりだったからだ。

軍隊にとって、いや、政治家にとって本当に大切なのは、民衆を守ることである。この理念を忘れた組織には、決して明るい未来はないのである。そして「夢想」は、しばしばこうした常識を忘れさせてしまう。「夢想」は、ある意味で「麻薬」なのである。

ケマル・パシャの本当の偉大さは、彼の優れた才能によるものではない。彼は、いかなる時でも、民衆の幸せを忘れたことがない人物だった。すなわち、彼は民衆のためにあらゆる「夢想」を否定した。ケマルが、21世紀の今日でも偉人と呼ばれ称えられている理由は、まさにその点にあるのだと筆者は思う。

 

 

話を元に戻そう。

スミルナのギリシャ系市民は、ひとまず胸を撫で下ろした。征服者であるトルコ軍は、略奪や暴行を行わず、規律正しく振舞ったからである。それは、裕福な貿易商人の屋敷に総司令部を置いたケマル・パシャの厳命によるものだった。

しかし、今までギリシャ人に侮られ、蔑視され、略奪や虐殺の恐怖にあえいでいたトルコ系市民の怒りは、それとは別だった。

9月7日、スミルナ大司教クリソストモスは、市井を覆う不穏な空気を感じ、母国のヴェニゼロスに手紙を書いた。彼は3年前、ギリシャ系住民の宗教的情熱を煽り、トルコ人に対する虐殺を奨励した人物である。

「小アジアのギリシャ文化、ギリシャ国家、そしてギリシャ国民は、いまこの世の地獄に落ちようとしています。いかなる力も、この地獄から彼らを救い上げることは出来ないでしょう。閣下がこの手紙に目を通されるとき、私たちがまだ生きているか殉教しているかは分かりません。しかし、この大惨事からお救いくださるよう、最後のお願いを申し上げます」

しかし、彼の願いは虚しかった。母国のヴェニゼロスには打つべき手立てがなく、そしてスミルナのトルコ人たちは、今や憎しみに燃える暴徒と化していた。

9月9日、トルコ軍指揮官によって数百人の暴徒の前に突き出された大司教クリソストモスは、床屋に引き立てられ、そこで手足をバラバラに切断されて殺されたのである。

大司教の殉教は、皮切りにしか過ぎなかった。

9月13日、スミルナのギリシャ人地区とヨーロッパ人地区は紅蓮の炎に包まれた。亡き大司教の予言どおり、阿鼻叫喚の地獄が現出したのである。この火災で、市街の50%から70%が焼失し、数十万人にも上るギリシャ人、アルメニア人、イギリス人、フランス人、イタリア人、アメリカ人が悲鳴をあげて逃げ惑った。

彼らは、唯一被害を受けていないトルコ人地区に逃げ込もうとは思わなかった。この火災がトルコ人による放火だということは、文字通り火を見るよりも明らかだったからである。そこで、避難民は海岸線に殺到した。

イタリアの艦船は、船まで辿り着いた者はすべて救助した。フランスの艦船は、フランス語で「オ・スクール(助けて)」と言った者をすべて救助した。イギリスとアメリカの艦船は、当初は自国民しか救助しなかったのだが、ついにはすべての人を甲板に上げるようになった。救助が間に合わなかった者は、泣き叫びながら海に飛び込み、そして手近なボートに大勢でしがみつき、そのまま転覆して溺れ死んだ。

街を覆う炎の下では、大虐殺が展開されていた。武装したトルコ市民が、復讐心を抑えきれないトルコ軍将兵とともに、逃げ遅れたギリシャ人とアルメニア人に襲い掛かったのである。このとき、無抵抗のまま殺されたキリスト教徒の数は、ゆうに3万人を超えたと言われる。

ケマルは、海岸線の丘陵地帯に立てられた豪奢な邸宅の中からこの悲劇を眺めていた。彼の眼下には、果てることのない炎と憎しみと恐怖の渦がどこまでも続く。

窓辺で後ろ手を組むケマルは、人の気配を感じて振り返った。現れたのは、屋敷の若き女主人ラティフェだった。

「パシャ、申し上げにくいのですが」ラティフェは、美貌の中に潤む目を英雄に向けた。「どうして、止めようとなさらないの?」

「残酷なようだが、この復讐は当然です」ケマルは瞳を銀色に光らせた。「奴らは、数百年にわたって我がトルコ民族を軽蔑して来た。だからこそ、セーブル条約のような非道なものを我が国に押し付けたのです。だが、その考えが誤りであることを、奴らに心底から思い知らさなければならない。トルコ民族が意気地なしの劣等民族ではないことを理解させなければならない。あの炎は、我が民族の将来の幸せのため、そして世界から『帝国主義思想』を無くしてしまうための必要悪なのです」

「あの暴動、まさか、パシャがやらせたのですか?」女主人は、背筋をぞくりとさせた。

ケマルは、優しくラティフェを見つめた。

「いくら私でも、歴史の中で降り積もった民衆感情を操ることは出来ません。部下たちに命じて、煽りはしました。でも、まさかこれほどの規模になるとは思わなかった」

そして、再び窓辺に向き直った。

「国家の中で、本当に強いのは民衆です。国家の本当の役割は、民衆のための良い器となることだ。私はそう考えます」

「あたしも、パシャの考えには賛成ですわ」ラティフェはうなずいた。「あたしが学んだフランスの啓蒙思想家たちは、みなパシャの考えに賛成してくれるでしょう」

「あなたは、ルソーやヴォルテールを読んだことがお有りですか?」ケマルは、意外そうに振り返った。トルコ人女性で、西欧思想に詳しい人は稀だから。

「あたしは、貿易商を営む両親の影響で、ずっとパリに留学していましたの」24歳の女主人は、恥ずかしそうに微笑んだ。

「なるほど、そうですか」ケマルは満面の笑みを浮かべ、この出会いに運命を感じた。

その運命の眼下では、数万の罪の無い人々が炎に巻かれて命を落としているのだった。

当時、「スター誌」の従軍記者をしていたアーネスト・ヘミングウェイは、この惨事を目撃して「スミルナの埠頭にて」という短編小説を書き上げた。彼は、この悲惨な情景が、いつまでも目に焼きついて離れないと独白している。

しかしこの大惨事は、ケマルの目論見どおり、政治的に大きな意味を持っていた。西欧列強が、トルコの底力に恐れをなしたからである。

 

 

イギリス首相ロイド=ジョージは、スミルナの悲劇を前にして、いつものように責任転嫁を始めた。

「悪いのは、狂人(ハジアネスティスのこと)や無能者(トロクピスのこと)を最高司令官に任じたコンスタンディノス国王だ!イギリスのせいではない!」

さらには、アメリカの政策を攻撃した。

「中東情勢からあっさり手を引いたアメリカの無責任さが、すべての元凶だ!」

アメリカのヒューズ国務長官は、これに激怒して反論した。

「ギリシャを唆して悲劇を招いた件については、我が国はまったく関係ない!」

白人列強が詰まらないいがみ合いをしている間、トルコの大軍は北進を開始した。その目的は、トラキア地方に座すトルコ領内最後のギリシャ軍の撃破である。しかし、海軍を持たないトルコ軍がアナトリアからトラキアに渡るためには、ダーダネルスかボスポラスのどちらかの海峡を越えなければならない。そして、いわゆる「海峡地域」は、セーブル条約で国際管理区域とされ、英仏伊の軍隊が駐留しているのだった。

しかし、トルコ軍の接近を聞いたフランスとイタリアは、直ちに全軍を母国へと撤退させてしまった。その結果、海峡地域に残されたのは、8000名のイギリス軍のみとなる。

9月23日、トルコ軍5000は、鉄条網を挟んでイギリス軍と睨み合った。かつてシュリーマンが発掘調査を行ったトロイ遺跡を背景に、二つの文明が対峙したのである。

薄汚れてボロボロの軍服を着たトルコ兵は、戦意横溢の眼差しを前に向けたまま、銃を後ろに向けて担いでいた。これは、「先に発砲しない」という意思表示である。

ケマルは、イギリス正規軍と直接の戦火を交えることに躊躇いを持っていた。より正確に言えば、彼には外交と恫喝で勝利を掴む自信があったのだ。

アンカラの議会では、主戦派と和平派が二つに分かれて議論に明け暮れていた。「一気にイギリスを叩くべき」か、それとも「頭を下げて和を請うべき」かの議論だという。しかし独裁官ケマルは、どちらの言い分も聞かなかった。こちらからは和を請わず、軍を目の前に置くことで、イギリス側の動きを待つ作戦に出たのである。ケマルは、フランスやイタリアから適時に外交情報を得ていたので、イギリス政府の意外な脆弱さを良く知っていたのだ。

海峡地域を守るイギリス兵は、良く手入れされた清潔な軍服を纏っていたが、その眼差しは虚ろであった。そんな彼らも、上官から発砲を禁止されていた。最高司令官ティム・ハリントン将軍は、なんとか交渉で片を付けたいと願っていたのである。

英語が話せるトルコ人将校は、しばしば鉄条網に向かって呼びかけた。

「君たちは、いったい何のために、いつまで他人の国に居座っているのだ」

イギリスの将校は、答えを返すことが出来なかった。トルコ人の問いかけこそ、まさにイギリス軍の全員が、日夜自問していることだったからである。

しかし、ロイド=ジョージは、地中海と黒海を結ぶ一大ターミナルの掌握こそがイギリスの国益だと固く信じていたので、なんとしてでも海峡地域を死守せんと思い定めていた。ダーダネルス海峡に固執するチャーチルも、この期に及んで首相の味方についた。

「生意気な異教徒どもに、我が大英帝国の威力を思い知らせるのだ!」

9月22日、首相とチャーチルは兵力増強を試みた。しかし、イギリス本国では経済難と厭戦気分の蔓延によって、これ以上の徴兵は無理だった。そこで、いわゆる連邦諸国(自治領)に派兵を依頼したのだが、この依頼はことごとく拒否された。カナダも南アフリカもオーストラリアも、これ以上、無意味な戦いのために若者を死なすわけにはいかないと判断したのだ。特にオーストラリアは、すでに7年前のガリポリ半島の戦いで甚大な犠牲を払っている。彼らは、トルコ人相手にこれ以上の殺し合いを演ずるのは絶対に嫌だったのだ。

「これは、いったいどうしたことだろう」

ロイド=ジョージは愕然とした。チャーチルも低く呻いて考え込んだ。イギリス本国政府の派兵依頼が自治領に拒絶されたのは、歴史上初めてのことであった。何かが大きく変わりつつあった。彼らの意思と能力は、いつのまにか空回りを始めている。

その間、海峡地域では、イギリス軍とトルコ軍が、互いの銃を後ろに向けたまま対峙を続けていた。

この「海峡危機」を解決するのは、今やイスタンブールの高等弁務官ホレイショ・ランボールド卿の見識いかんであった。

 

 

イスタンブールのオスマン帝国政府は、ほとんどその機能を停止していた。

皇帝メフメット6世は、2年前の「カリフ擁護軍団」の消滅を見て以来、すべての自信を失い、ハレムで荒淫にふける毎日を送っていたのである。

高等弁務官ランボールド卿が9月の終わりに参内したとき、老いた皇帝は口の端からヨダレを垂らしながら、玉座の上で呆けていた。

真面目な弁務官は、ロイド=ジョージからのケマル宛て最後通牒を独断で握り潰したこと、そして独自にアンカラ政府との和平交渉を開始することを報告した。

「ロイド=ジョージ首相の考えは、良く分かりません。冷静に考えれば、もはやイギリスはケマルの軍勢に勝てないのです。ここは、なるべく有利な条件でケマル派と和睦を結ぶしかありません」

皇帝は、うつろな目で高等弁務官を見た。そして、それっきり何も言わなかった。彼の脳裏にあるのは、最近になって妻に迎えた19歳のネブザド妃の若鮎のような肢体だった。彼は、早くハレムに帰りたかった。ケマルのことなど、もはやどうでも良かった。

ランボールド卿は、小さなため息をついて退出した。

本国では、ロイド=ジョージがますます閣内で孤立し発言力を失っている。賢明なランボールドは、和平の季節の到来を的確に感得していた。また、フランス外相ブイヨンも、和平実現のために奔走してくれていた。

10月6日、彼はマルマラ海南岸の町ムダンヤで、仏伊の司令官とともに、ケマル軍の代表イスメットとの間に休戦交渉を開始したのである。

 

 

ちょうどその頃、ギリシャではヴェニゼロス派の軍部によるクーデターが勃発していた。

コンスタンディノスは王座から引き摺り下ろされ、息子のゲオルギオスに無理やり譲位させられた。そして、グーナリウス政権は倒壊した。

そして、プラスティラス大佐率いる革命軍は、前政権の要人と軍部の首脳陣をすべて「戦犯」と呼んで軍事法廷にかけたのである。

グーナリウス首相は、発疹チフスに冒されていたので処刑を免れた。ハジアネスティス将軍は、刑場に向かう途中で、またしても発狂したので罪を許された。その他の6人は、家畜のように刑場に引き出され、目隠しをされて銃殺されたのである。

凄惨な殺戮劇の後、再びヴェニゼロスが首相に返り咲いた。しかし、彼に出来ることは何もなかった。「希土戦争」は、今やギリシャの完敗で幕を閉じようとしている。

アメリカ政府のヒューズ国務長官は、ボストンでの演説で「希土戦争」を次のように総括した。

「スミルナの街で、ギリシャ人やアルメニア人が大量虐殺されたことについて、トルコの行為にはいささかの弁解も酌量の余地もありません。しかし、状況を正しく評価するためには、ギリシャ軍のアナトリア侵略がこの悲劇の引き金となったこと、悲劇は戦争の最中に起きたこと、そして、撤退するギリシャ軍がトルコ人の町や村をいくつも焼き討ちし、市民に残虐行為を働いたことも考慮に入れなければなりません。否定すべきなのは、個々の残虐行為ではありません。戦争なのです。そして、この不毛な戦争に中立を貫いた合衆国の態度は、完全に正しかった。私は、そう信じます」

長かったトルコの戦争は、いよいよ最終局面を迎えた。

10月11日の朝、イギリスとトルコの間に、ついに休戦協定が結ばれたのである。

ムダンヤ休戦協定で決められたのは、「セーブル条約を無効とし、これに代わる新しい国際条約を結びなおすこと」、「ギリシャ軍は、直ちにトラキア地方から撤退すること」「新たな国際条約の締結後、協商国軍は海峡地域から速やかに撤退すること」であった。

これは事実上、イギリス政府が「国民誓約」を受け入れたことを意味する。

「勝った。トルコ民族は、ついに勝ったのだ。独立を勝ち得たのだ」

スミルナに滞在していたケマルは、イスメットから朗報を受けて目を潤ませた。

アリフ、レフェト、カラベキル、キャーズム、フェヴジらも、これまでの絶望的な苦労を思い出し、それぞれの司令部で目を赤くした。

長く困難だった「救国戦争」は、トルコの完全勝利のうちに終結したのである。

有色人種の異教徒は、歴史上初めて、白人列強の帝国主義を完全に否定し、そしてこれを完膚なきまでに打ち負かしたのであった。